大竹伸朗は80年代と90年代を通じ、主に美術の外部から、文化的な寵児としてもてはやされてきた。こうした傾向は、80年代の大竹を総括する『SO:大竹伸朗の仕事
1955-91』の帯書きに寄せられた固有名――ウィリアム・バロウズ、坂本龍一、筑紫哲也、藤原新也、武満徹――のいずれもが、80年代サブカルチャーの英雄たちであることから読みとることができる。ではなぜ大竹がかくも大きな80年代ポップのイコンになったのか。
椹木野衣が91年に総括したように、80年代は良くも悪くもシュミレーショニズムの時代、つまりすべては等価であり、あらゆる歴史性や固有性は括弧に括られ、いかようにも編集(カットアップ、リミックス、サンプリング)可能であることが高らかに宣言された時代だった。全編がサンプリング音で構成されるYMOの『テクノデリック』も、オタク的記憶からの膨大な引用で作られたGAINAXの『トップをねらえ!』も、サブカル/オタクの分割とは無関係に、ほぼ同一の欲望に突き動かされていた。ガラクタの再構成やコラージュの多用に特徴づけられる大竹の仕事は、これらに通底するすぐれて80年代的な欲望を象徴していたわけなのだ。しかしながら、バブル経済の崩壊や一連のオウム事件、酒鬼薔薇事件が決定的に示したように、僕たちはいま80年代的な価値観がいささか転倒したものだということを強く自覚させられている。すべては等価であるとするテーゼはたしかによい。だが80年代の欲望は、とりわけ現代美術の分野では、欧米を僕たちと等価なものとして弄びながら、実際それは現実の日本を無価値なものとして忘れ去ることで成立していた。日本ゼロ年展はその忘却をリセットし、90年代大竹の制作意図もその文脈上に位置づけることができる。
詳細に展示作品を見てみよう。ゴミやガラクタで出来た全長5.4メートルの鉄塔『零景』は、価値を剥奪されたあらゆる情報とマテリアルが混在しているが、それらはすべて日本の猥雑な風景からサンプリングされたものだ。つまり『零景』には80年代と90年代の大竹自身がリミックスされているといえる。『零景』の回転する上端は、鉄塔の頂上部に取り付けられたSGギターを定期的にかき鳴らし、エフェクターでひずまされながらコードを伝い、繊維強化プラスチック製の三体のワニ『日本型/メタールビノ』の空っぽの体の中で鳴り響く。その咆哮は日本性によって歪まされた80年代ポップの悲痛な叫びとも、猥雑な自己を肯定した90年代ポップの勝鬨の声とも解釈されうる。いずれにせよそれは、大竹伸郎の二重化された声だ。とはいえゼロ年展会場の別室にまで響き渡る大竹の声に僕たちは悲壮感を聞かない。なぜなら、手法の根本的変更や作家生命の断念を強いられることもなく、カットアップ、リミックス、サンプリングの手つきそれ自体は、いよいよ快調であるからだ。それはけして、美術の分野に限ったことではないだろう。完璧なまでの新しさはやはりどこにも存在しない。そこで必要となるのは幾許かの誠実さばかりだ。
(編集部/石原健太郎+相沢 恵)
ウィリアム・バロウズ カットアップの技法を世界的に有名にさせた小説家であるバロウズが、大竹の信奉者だと公言していたという事実は80年代的ポップを考える上で興味ぶかい。カットアップとは小説や雑誌、新聞などの中にあるテキストを、単語や一定の長さの小文ずつに切りきざんで分解したあと、無作為に並べ替えて、一つの文章に再構成する技法のこと。カットアップされたテキストは当然支離滅裂な言葉のつらなりと化すが、たどっていくと一つ一つの言葉が何らかのイメージを喚起することになる。言うまでもなく大竹のコラージュ作品はバロウズのカットアップとよく似ている。
坂本龍一 坂本は大竹の処女小説『ネガな夜』にも同様に言葉を寄せている。
筑紫哲也 84年1月から87年3月まで『朝日ジャーナル』編集長を務め、「新人類の旗手たち」や「若者たちの神々」などの企画で当時のサブカルチャーや文化人を積極的に取り上げた。
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