こんな挑発的な椹木野衣のアジテーションのもと、日本人の作家だけを集めた現代美術展覧会「日本ゼロ年」展は開催された。出品作家は会田誠、飴谷法水、大竹伸朗、岡本太郎、小谷元彦、できやよい、東松照明、成田亨、村上隆、ヤノベケンジ、横尾忠則の11人。いま勢いに乗っている作家、すでに確固とした評価を確立している作家、あるいはオタクやサブカルチャーなど、美術界の外で活躍している作家など、多様な顔ぶれがそろっている。
ゼロに戻すと言うだけあって、キュレーターの椹木野衣は過去の日本現代美術を批判的にふり返っている。彼は98年の大著『日本・現代・美術』で、日本を「悪い場所」とよび、急激な近代化や敗戦後の歴史などがあるために、日本は欧米のような形での現代美術が成立不可能な場所であると語った。
これだけ聞くと、思わずなんだなんだと身構えてしまうような話であるけれど、すこし詳しく言うと、椹木の主張する戦後の現代美術の歪みとは次のようになる。
曰く、日本は敗戦後の55年体制で、西側の世界に組み込まれてから、とにかく先行する欧米に追いつくために、そのものまねを続けてきた。このケナゲな姿勢は、産業や経済などの分野ではプラスの結果を生んだけれども、現代美術でそれをやったのにはムリがあった。そもそもそれ以前の日本には、欧米のように現代美術が成り立っていくような環境が存在しなかったからだ。
それでもムリを引きずったまま、冷戦のイデオロギーに支えられて日本現代美術の枠組みは維持されていった。新左翼運動の解体やオイル・ショック、そしてバブル経済のはじまりにいたる時間の中で、美術は日常の中に呑みこまれ、批評も内向化し、社会的な緊張を失っていったのだ。しかし、このような奇妙な平穏とともに訪れた現代美術の「日常」は、90年前後の冷戦構造の崩壊やベルリンの壁やソ連の消滅などで解体してしまう。昨日まで絶対だったものが、音を立てて崩れていくなかで、日本は「現代美術なき世界」に入っていく。
ではそんな「悪い場所」で、日本人が日本人なりの現代美術をやっていくためにはどうすればいいのか。たとえば欧米では、明確に美術や文学などがハイカルチャーと珍重されているけれど、マンガやアニメ、音楽などのサブカルチャーは、完全に二流の文化とされている。戦後の日本現代美術も無批判にこの態度に習ってきたけれど、しかし日本にとっては逆にそんなサブカルチャーこそがリアルなものなのではないか。そして閉塞した現代美術とそうした文化の境界線上に立つ作家こそが、美術界の内外に普遍的な影響力と緊張感をもたらすことができるのではないか。
椹木のこのような立ち位置は、当然日本ゼロ年展にも反映されている。たとえば、日本ゼロ年展には「日本」というテーマに向き合うことで、緊張感のある作品を生みだしている作家が多く起用されている。『タイムボカン』でアニメの爆煙と原爆のキノコ雲のどうしようもない類似性を表現した村上隆、『戦争画RETURNS』という挑発的なシリーズを発表する会田誠、電話ボックスのピンクチラシやどこにでもあるさびれたパチンコ屋などの風景に日本を感じ取った大竹伸朗らは、以前なら暗黙のうちに避けられてきた日本という主題を、積極的に作品に取り入れている。
同時にゼロ年展には、ジャンルの境界線上に立ち、美術という枠組みにとらわれない活動範囲を持つ作家の姿も多い。そしてウルトラマンシリーズの怪獣デザインを手がけた成田亨と横尾忠則はその典型だろう。前述した三人や岡本太郎にもその傾向は強い。
つまり、「日本ゼロ年」展は過去の日本現代美術に対する、徹底したプロテストであり、あるべき将来の日本現代美術へ向けた、試行錯誤の一歩なのだ。そして日本現代美術の分岐点となるために、日本ゼロ年展は、「現代美術をゼロに戻す」。
すこし話が長くなった。作品をほったらかしにした能書きはこれくらいにしよう。では実際、日本ゼロ年展は現代美術をリセットできたのか、そしてそれ以前にゼロ年展はどうだったのか、その全容を見ていこう。
(石原健太郎)
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