彫刻に萌えること――これは、かつて内向的な古代ギリシア人が、かなわぬ恋に身悶えし、天界の女神を想いつつ鑿を握り締めてからというもの、全人類の最重要課題であった。我々がいかにレストラン店員や近隣の中学生に好意を抱いたとしても、想いは通例、満たされぬままに終わる。他人は決して思い通りにはなってくれない。そんな他人を、永遠に「現在」に繋ぎとめ、自分の側に拘束しておくには、その人物に可能な限り近い摸造をこしらえるしかなかったのだ。彫刻は、この代替手段として人類が講じたもっともプリミティヴな方法だった。
しかし近代以後、彫刻はその萌えメディアとしての地位を激しく揺さぶられることになる。1839年仏のダゲールにより発明された写真は、芸術的な技巧がなくとも物体をありのままに複写することを可能にした。これによって、萌えた相手をタバコ屋の角から網膜に焼きつける勢いで凝視し、その記憶が消えぬうちに帰宅して、一心不乱に彫刻を彫る、という涙ぐましい努力から人類は解放され、一瞬の隙を狙った隠し撮りひとつで、萌えた相手の姿を再現することが可能になったのだ。
さらに今世紀末、人々が深くアニメやマンガのキャラに萌えたために、二次元キャラをなんとかして三次元化しようとする、邪教的思想が誕生した。ここから誕生したのがフィギュアというメディアであり、これにより二次元のキャラを様々な角度から眺め回してみたい、あらゆる部分に触れてみたい、隙あらば下から覗き見たいという人類の夢はかなえられた。こうして、気がつけば彫刻という分野を突き動かしていた原初的な欲動=萌えは、カメラやフィギュアなどのメディアに吸収され、彫刻の世界は萌えの袋小路とでも言うべき困難な事態に突入していたのだ。
そんな危機的状況下、今展に木彫を出品した小谷元彦がこの危機意識と無縁なはずがない。小谷といえば、97年の個展「Phantom-Limb」における、五枚の連作写真が思い起こされる。被写体は純白のノースリーヴのワンピースを着て、青白い空間の中に横たわる、山口紗弥加似の美しい少女で、長い黒髪を白い背景に広げ、両腕を腋の下の角度35度の位置で伸ばしている。少女の膝は微妙に折り曲げられていて、短めの白いスカートの下から覗く薄暗い誘惑に吸い寄せられ、鑑賞者は写真の前での屈伸運動を余儀なくされる。さらに少女の両手は潰したラズベリーで赤く染まり、一人か二人殺してきたかのようにも見える。虚脱感を浮かべた表情はしかし、こちら側の欲望を見透かしている風でもある。五枚並べられたうち最左翼の写真では、少女は左を向いて目を閉じており、視線を横に滑らせると中央の写真で一瞬目が会うのだが、右の写真で再び少女の瞳はかたく閉じられてしまうのだった。
この一繋ぎの写真に萌え意識をかいま見せた小谷が、日本ゼロ年展に送り込んできた木彫が「Air"fall"」と「Air"gust"」の二作品。ここで小谷は「写真、フィギュア以後、なぜ彫刻なのか」という根源的な問いかけに答えを出そうとしているように思える。「Air"gust"」は裸婦の立像だが、その両手からは水飛沫のようなものが神々しく流れ出ている。またその裸像には、顔から足のつま先まで、花びらや植物などの模様が、刺青のように彫りつけられている。ここで裸が、萌えの要素から若干離れたものであることは確認されてよい。我々は慎みや恥じらいの欠落した、むき出しのものには萌えない。生々しい身体性の露呈は萌えの回路を閉ざす。しかし一方では、数々の刺青状の模様が異教的な装飾を生み出しており、同様なイメージを持ったオタク文化の美少女像をそれとなく想起させる。たとえばこれらの紋様が突如輝き出す場面に僕たちはアニメやゲームのなかで何度出会って来たことか。全身に彫り込まれた紋様にはむしろ女性像にむけられた人工的な欲望を感じる。
(編集部/石原健太郎+相沢 恵)
山口紗弥加 1980年生まれ。アイドル、女優。代表作に映画「ときめきメモリアル」「モスラ」「モスラ2」など。ドリーム・キャストやサロンパスのCMでもおなじみ。 [→山口紗弥加・オフィシャルページ]
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