村上隆はそうとう面倒くさいことを行っている。そのことは展示作品『シーブリーズ』に設置された、十六基のナイター照明器が放つ膨大な熱と光をあびてもなお、『タイムボカン』のキノコ雲を模したウォールペインティングが、あの残酷な原子爆弾の爆発に見えてこないことからも読みとることができる。僕たちはアニメというイメージの世界で起きた爆発を、オタクアニメ世界特有のお約束によって読解する仕組みに慣れ切っている。逆にいえば、戦争の悲劇性を啓蒙する文部省推薦アニメなどは、それとは別の読解ルールがあるわけだ。ヒロシマ=日本を壊滅させた原爆は、こうした二重に棲み分けられた読解のなかにおかれている。その棲み分けを撹乱しようと試みる村上は、オタクと美術界、双方から無理解の眼で見られてしまう。あるいはオタクの側は、単に無視を決め込んでいるともいえるだろう。つまりメッセージは受けとるが、企図は拒絶される。なぜならメッセージは、その場かぎりの、センチメンタルな共感で済まされるが、村上の企図が持つ批評性は、作品に直面した自己自身へむけられた、酷薄な問いかけにほかならないからだ。感傷に耽溺しがちな性向の裏で、そのような干渉をオタクは嫌う。
それでも村上はオタク啓蒙をやめない。オタクとアートのあいだに回路をつくり、接点を見出し、橋渡しをする、と説明されるその態度は、彼がオタクの人だからでも、アートの文脈に属した人だからでもなく、彼が村上隆本人であるから、としかいいようのないほどに徹底した、けして孤立を辞さない、悲しみにみちた歪みだ。思えば作家とは、つねにそのような孤立感にさいなまれる、永遠の根無し草だといえるかもしれない。きれいに色分けされた美術史――歴史と名指される戸籍謄本は、つねに遡及的に作成される、少し厚みのある官吏たちのアーカイヴにすぎない。作家は、その頁数をより多く獲得するために困難へむかうわけではなく、歴史への登録を欲望しながら、自身の位置づけに迷い、より先端的であろうとする退屈さから逃走する過程で、いつのまにかきれいな色分けを拒み、気づけばどこにも属していない無情な現在を発見する。しかしその状態からは、作家が開始された時点といまとでと、表向きいささかの違いも見出すことができないのだ。
しかしこのような思弁的な見方はあまりおもしろくない。村上隆の二作品『シーブリーズ』と『タイムボカン』の合作は、端的にビジュアルインパクトの問題として見るべきだ。その衝撃はまず『タイムボカン』が壁一面に描かれた、大面積を持つウォールペイントであることからもたらされている。「1平方センチメートルの緑と1平方メートルの緑は、同じ緑でも別のものだ」と語るマティスの言葉を引用するまでもなく、『タイムボカン』に使われた黄、赤、ピンクの鮮やかさは、この大面積によって、同じ黄、赤、ピンクの鮮やかさとはまったくの別物に感じられるほど凄まじい。そこに十六基のナイター照明器から放たれる膨大な光量が注がれるのだ。照明光を強くすればするほど、目に入ってくる光の量は増えるのだから、僕たちは一瞬の閃光に撃たれるというよりは、むしろ全面的な光の海に溺れるかの錯覚を抱く。そこで立ちつくしながら見る、白で描かれたキノコ雲の孤絶感に、極めて平面的なペインティングにもかかわらず、僕たちはある種の立体感を感じる。抽象表現主義のフラット感とは違った、不思議な奥行きを持つこのフラット感こそが、スーパーフラットだ。この衝撃に、抽象表現主義にたいするアンチテーゼとして機能した、アンディ・ウォーホルやロイ・リキテンシュタインらのポップアート性の極限を見るのは、けして間違っていないだろう。芸術はそこで、まさしく爆発している。原爆はそのためにこそあった。
(編集部/相沢 恵)
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