網状言論Fレポート
網状言論Fとは?
「とにかくウェブで出来ないことをやってみよう」――こうした単純な気持ちから本誌が企画したトークライブ・イベント「網状言論F」がアミューズメントメディア総合学院ならびに株式会社ブロッコリーの協賛を得て、9月16日に開催されました。昨年、東浩紀氏のウェブサイトで行われた討議を下敷きに、ポスト・エヴァンゲリオンの時代――つまり95年以降のサブカルチャーとその問題について考えようという試み。当日は、ほぼ満席の会場のなかで行われました。
実は数日前に起きた米国同時テロ事件の影響で、議論の軸となるはずだった斎藤環氏が帰国できなくなる事態が発生するといったアクシデントに見舞われつつも、斎藤氏は国際電話と急遽作成された等身大ポップで無事に参加されました。その意味で「ウェブでできないこと」どころか「未だかつてない」イベントになったことだけは、まぎれもない事実なのかもしれません。と、なかば自賛的にイベントの模様を報告します。
予定時間をいささか破綻ぎみにぶっちぎってしまった三時間近くのプレゼンテーション&ディスカッションの模様をコンパクトにお伝えします。個々のパネリストの発表は当日詳しいレジュメが用意したのでそちらを参照されることをお薦めします。それからブロードバンド時代に対応してストリーミング中継の映像も設置しました。感情移入はお好み次第、以上をうまく組み合わせて「いつでもどこでも網状言論」な気分を堪能してください。
東浩紀 Hiroki, AZUMA
そもそもウェブにおける網状書評は東浩紀−斎藤環の議論の対立を軸に展開されていました。それはひとことで言うと、オタクにとって、セクシュアリティやジェンダーはどれほど大事な問題なのか、ということ。「決定的に大事である」というのが斎藤氏の立場で、「それほど大事でない」というのが東氏の立場です。
なぜ大事でないのか。それは斎藤氏がオタクの消費行動は個人の問題、つまり主体的な決断であるとするのに対し、東氏は集団の動き、つまり統計学的な側面に注目するからだといいます。そこから東氏は一種社会学的に、まず日本の1970年までを「理想の時代」、次に1995年までを「虚構の時代」、それから1995年以降を「動物の時代」と整理します。
最後の「動物の時代」の特徴としてあげられた例は主に四つで、
- 人間を動物のように扱うテクノロジーを発達させたオウム真理教の「ドラッグによる洗脳」「マインドコントロール」
- 単一のイデオロギー(共産主義)の壊滅後に登場し、読みこむごとに多様な世界観を提供する「巨大なデータベースとしてのインターネット」
- 萌え要素データベースの結節点として誕生した「デ・ジ・キャラット」(このとき、萌え要素の組み合わせを説明するために、本物のでじこ様がラブリーに登場!)
- 萌え×泣きの技術集積の結果であり、かつゲームプレイとデータベース消費に乖離した「ノベルゲーム」(『痕』から『AIR』まで)
とりわけノベルゲームのユーザーの二重化した消費行動は、95年以降の動物化した世界で生きていく人間像のひとつの雛形になっていくのではないかと提案されていました。
永山薫 Kaoru, NAGAYAMA
永山薫氏は、男性向けエロマンガとその読者のセクシュアリティについて発表。その詳細な歴史年表はレジュメに譲るとして、永山氏によれば、エロマンガほどジェンダーが定位されにくい場はなく、まして生物学的な性にのみ依拠していると現在のエロマンガを理解することも難しい、ということでした。
まず作家の問題。彼は男性か女性か。近年エロマンガにおいて女性作家が増えているが、男性が女性名で描く例があり、逆もあり、もはやひとの名前ですらないペンネームで描く例もあり、ここまで作者の性が混乱しているジャンルは他にあまり例がない。男性の少女マンガ作家が稀少であるように。(例外:ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの男装作家事件。ブロンテ姉妹の最初のペンネーム)
またそもそもエロマンガの読まれ方はひとつでない。たとえば以下のような読み方が当然のことながら考えられるわけです。
- 他人のセックスをのぞき見する盗撮的視線
- 単純に男性に憑依/逆に女性に憑依
- 過去の性行為を思い出しながら興奮
- 自分好みのシチュエーション、ストーリーを補完しながら鑑賞
さらに最近のエロマンガでは、従来のマンガ文法からは逸脱しているが、それゆえに革新的なスタイルが生まれていると整理されます。
- ユニットコミック
- 完結性とは無縁でエッチなシークエンスだけを描く。世界観などは読者が勝手にデータベースから補完すればよい。
- グラビアコミック
- イラストで描いたグラビア、ピンナップ。フェティッシュが主であり、物語は付け足しにすぎない。おなじことはエロマンガだけでなくアイキャッチ性の高い同人誌の世界でも起きている。
- サンプリングコミック
- 元来パロディが持っていた意味は失われており、アニメ、ゲームのパロディマンガは、サンプリングされているマンガだと考えてよい。
- マルチスクリーンバロック
- ゲーム画面のようなマンガのこと。一応コマとコマの繋がりはあるが、伝統的なコマ割りは破壊されている。見開き単位でマルチスクリーンをみるように視線は一気に全体をとらえる、その衝撃がすべて。乱交を描くときに効果的。
これらを整理するとエロマンガの歴史から読みとれるものは、
- 女性作家の増加
- 創作物の重層性
- 扱われている性のかたちが多様化、細分化
だといえる。以上が意味しているのは、かつての男性的な世界観、男は男らしくあれというあのマチズモが崩れていく過程だったというのが筋となる主張でした。
とはいえ永山氏によると、こうしたエロマンガの歴史は完全に裏返して読むこともでき、たとえばロリコンマンガ以降の少女表象は、マチズモに疲れた男性の女性化願望だけでは捉えきれず、むしろ描かれた少女を自分のバーチュアルな身体としてとらえることでもありました。
なぜならエロマンガが繰り返し描いてきたものは「女の子が気持ちよがっている絵」ばかりであり、そこで絵は性の支配者であるはずの男性よりも女性に奉仕している。童顔巨乳、ふたなり、シーメール、ショタ、と身体表現が発達したのは、気持ちいい身体を追求していった結果である、というわけなのです。
95年頃から盛りあがったショタは、残念ながら21世紀を前にしてほとんど商業誌からは姿を消すが、そこでおそらくゲイフォビアは無視できない。しかし美少年という表象自体が消えることはなく、相手が年上のかっこいいお兄さんから、お姉さん、お母さん、あるいは女教師に変わり、彼女たちに美少年がいじめられ、犯されるのです。
最後に植芝理一『夢使い』を紹介。この作品で描かれる「元は女の子であった男の子ふたり」がペニスを擦りあわせる場面は、永山氏が考えていたオート・エロティックの極地ともいえるすばらしい表現であると評価していました。
斎藤環 Tamaki, SAITO
斎藤環氏の主張は明確で、オタクにおいてセクシュアリティの問題は本質的である、ということです。
最近の作品、たとえば『千と千尋の神隠し』の消費のされかたにおいてもそのことは顕著であり、男性のオタクは当然ながら千尋に萌え、女性はハクに萌える。そこではセクシュアリティの非対称性が如実にあらわれている。それゆえ斎藤氏は、メタレベルでの情報の戯れに享楽を見いだすオタク像よりも、『千と千尋』消費に見られるようなオタク像により確信を持ちつつあるといいます。
「戦闘美少女」など概念の説明はレジュメを参照された方がよいでしょう。これらを踏まえて斎藤氏は、オタク(男性)とやおい(女性)の欲望を対比させ、
- 男性:所有、持ちたい欲望
- 女性:同一化、なりたい欲望
と整理します。また戦闘美少女という表象が海外で展開されていることにも触れ(『バトルチェイサー』『チャーリーズ・エンジェル』『パワーパフガールズ』)日本においてのみ固有の現象ではないことを主張していました。
伊藤剛 Go, ITO
伊藤剛氏は、東−斎藤の対立軸に、表現の問題と主体の問題を分けて考えるべきではないかということ、とりあえず「フェティッシュ」「萌え」「感情移入」の三者を区別するべきではないか、ということの二点を主張されました。
消費速度が特徴ともいえる「萌え」、一回決まると変わらない「フェティッシュ」は明確に区別されるべきだということ。その例として、「デブ専ゲイ萌え図像」があげられました。萌え要素が任意のフェティッシュと結びつきうることを示しています。
それから、90年代前半にあった「マンガがつまらなくなった」という言説の背景には、いわゆる「物語の喪失」と同時にマンガの「読み」の多様化があることを指摘し、たとえば青年誌における「連載の超長期化」が、連載というシステムにおいて物語と時間を共有するというセンスから、キャラクターと時間を共有するセンスへの変化を示しているという見解を述べました。
また伊藤氏は、パロディ同人誌への関心から「キャラの自律化」に注目しているという議論を展開させます。そもそもキャラの自律化は、時間的な連続性がコマの連鎖として成立し、連載というシステムがあることで、はじめて可能になっている、ということ。無数の同人誌を貫くキャラの同一性も、こうした時間的連続性(=物語)を無視して考えることはできない、ということ。
さらに伊藤氏は、興味深い疑問をふたつばかり投げかけていました。
ひとつは時間的連続性を持たない一枚の図像が、感情移入と結びつくことについて。その例として伊藤氏は「はかなげで」「優しく抱きしめてあげたくなる」「ピティ」なキャラいう考えを提示します。具体的な名前でいうと綾波レイ、ホシノルリ、HMX-12マルチなどですが、最近ならばペルソナウェアの偽春菜の場合、オリジナルな物語を語るテキストを欠いたキャラクターを題材にしているにも関わらず、その同人誌が、成人向けや四コマをのぞくと、「泣ける」「切ない」物語を指向する場合が多いのはなぜか? ということ。
もうひとつは近年「泣き」と共に前景化してきた「無垢」という概念に関して。無垢とは子供の価値であり、近代的価値の陰画として発見されたものですが、わたしたちがもっと動物化したときには、大人と子供の区分もおそらく無効になっていくだろう、しかしそのときはたして無垢は残留するだろうか? ということです。
みなさんはどう考えますか?
●当初のレポートに、講演者・伊藤剛氏の意図とは異なる内容が含まれていたため、改訂しました。(2001年10月9日/編集部)
竹熊健太郎 Kentaro, TAKEKUMA
「私は個人的に萌えというのが頭ではわかっても実感できない。図像そのものよりも動きに萌えるタイプで、だからアニメーションが好きなんです」と語る竹熊健太郎氏は、オタクが成立した歴史的な流れをオタク第一世代の立場から解説しました。そのほとんどは非常に詳細なレジュメにまとめられており、そちらはぜひ参照してもらいたいと思います。
95年以降について。ひとつは「自分のセクシュアリティを前面に出すことの抵抗」といかにして折り合いをつけていくかがオタク密教徒(シニカルなオタク)の問題があり、庵野秀明はその意味で勇気、度胸のあるひとであるといえ、エヴァ以降の彼の映画は作品的評価とは別に「庵野さんのドキュメンタリー」として興味深く、僕らの世代が今後創作をするにあたっては、自分のセクシュアリティにまじめにとりくまざるをえないのではないかと考えている、と竹熊氏は「オタク第一世代の現在」をまとめていました。
小谷真理 Mari, KOTANI
オタクというよりは女性文化圏の立場から、という小谷真理氏は「網状書評への感想」と「『戦闘美少女の精神分析』の感想」という「ふたつの宿題」にからめて自説を展開するというかたちになりました。
まず網状書評における「オタクとは何か」という議論について、「オタク」を「おんな」に置き換えてみると非常にわかりやすく、そもそも議論のやり方が女性論とよく似ており、戦闘美少女という表象をめぐる討議があたかも「おんな」を語るように思索されていったという経緯の一種ジェンダーパニック的な印象が、小谷氏に「オタクのジェンダーってなに?」という疑問を呼び起こしたといいます。
つまりここで論点は、もう一度「オタクという共同体」の問題に戻ってしまったようでもあるのですが、ともあれフェミニズム視点で語られるオタク論には一定の説得力がありました。たとえば小谷氏はオタクを大きく以下のように整理します。
- 「おたく」という言葉を使いはじめた人たち(オタク第一世代の人たち)は、家と同一化していた母親の影によって憑依されていた、といえるのではないかと思う。
- 竹熊さんが提示する「顕教」「密教」を隔てるのは、女性嫌悪的な身振りを導入するかしないか、の差でしかない。
そして前者は「戦闘美少女」の分析においても有効に機能するのではないか、というのが小谷氏の主張です。斎藤環氏が定義した戦闘美少女の特性は「トラウマがないというよりは、少女自身がトラウマそのものである」というものですが、ここで示される「トラウマ」はもはや何かの理由として、因果関係の文脈(=物語?)を負っている「トラウマ」ではなく、存在そのもの(=図像?)の「トラウマ」性であるといえるでしょう。具体的なトラウマとの闘争が主題となる「超少女」(レジュメ参照)との差異は明確です。
ではそのトラウマは誰のものか――と問うたときに、小谷氏は、それは戦闘美少女を生みだすに至った男の子たちの性的欲望のトラウマである(しかもその男の子たちには、空虚な母親が憑依している!)と結論づけます。そして、こうした母子一体化した状態が社会的に強くなっていったピークが95年だったのではないかと。
パネルディスカッション
終了時間が迫るなか、司会役の東氏からふたつの質問がなされた。
- 斎藤さんはオタクの基本的な欲望を「持ちたい」、やおいの基本的な欲望を「なりたい」と区別されているが、今日の永山さんの発表は「持ちたい」と「なりたい」の境界がきわめて曖昧であるということだと思う。そうなると斎藤さんの整理は現実的ではないのではないか。
- 小谷さんの(母子一体的な)整理にはやはり過度な一般化がある。日本人の男性が総じてマザコンである、ということはかなりわかっていたことであって、オタクとそれ以外を区別する特徴はそこにはないのではないか。
前者について。斎藤氏の論理ははっきりしている。現実の個人においては男性的要素と女性的要素の複合である前提は当然あるが、男性原理としての「持ちたい=所有」/女性原理としての「なりたい=同一化」という二元論、つまりヘテロの非対称性はゆるがない、ということ。それゆえ様々な萌え要素への横滑り(ロリからショタへ、はたまたメイド萌えへ)も、想像的な領域において多形倒錯的になる、あるいは学習によって色々な変形、形態的な変形が起こってくることはありうるからだ、ということになる。
東氏は、ある図像が好きであることを契機にして、セクシュアリティが変化してしまうこと、斎藤氏が本質的でないというイメージ(想像的なもの)をてこにして、いつのまにか欲望が「持ちたい」から「なりたい」にスライドしてしまうこと、これこそが90年代的な現象ではないか、と反論するが、残念ながら議論はそれ以上続かなかった。
後者について。過度の一般化は、もとより細かく言及し、内容を腑分けする時間がなかったことに起因していた。だからというわけでもないが、小谷氏は、ここで戦闘美少女と一九世紀のファム・ファタールの近似性を指摘する。ヴィクトリア朝後期には家の概念が定まってくること。あるいはウィリアム・モリスが女性の格好をするなど、コスプレをすること。またものを蒐集する傾向があったこと……。おそらくメイドの誕生も一九世紀イギリスであることから大変興味深く思ったのだが、こちらも時間がそれを許さなかった。
おわりに
一番痛感させられたのは時間が足りなかったということ。これについては率直に反省させられました。プレゼンテーション形式が悪かったとは思いませんが、色々見積もりが甘かったのは事実です。充実したディスカッションを取れなかったことは会場にお越しいただいた方には申しわけありませんでした。
この議論の行方がどうなるのか、それは私たちにも正直にいってまったくわかりません。ただ会場でいただいたアンケートでは、多くの方からこうした場を求める意志を感じました。今回のイベントがそうした意志に対して何かしら応えることができたのだろうか――その自答は残りますが、できる限りの挑戦は、これからも続けていきたいと思います。
パネリストの皆様、観客の皆様、関係者の皆様、 そしてこの企画に快く協賛いただいた企業の皆様には百万の感謝を。
今回は本当にありがとうございました。
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