六.
その左手首に輝くガントレットを目にしたとき、思わず織斑一夏に掴みかからなかった自分を更識簪は褒めてやりたかった。
だから整備室に誰もいないことを確認した彼女は声をあげて泣いた。後先も考えずただ思うがままに感情を吐き出した。そうしないと心が耐えられそうになかったから。
織斑一夏にとって今日が最高の日だとすれば、更識簪にとって今日は最低の日だった。
平日だというのに倉持技研に呼び出された時点で既に嫌な予感がしていた。ごく普通に生活を送っている彼女は最近、世界唯一の男性操縦者なんて胡散臭い人物が同級生として入学していたことを知っていたからだ。
それでもこんな仕打ちを受けるとは予想していなかった。
「……打鉄弐式の開発が中止だなんて」
初め彼女はその言葉を信じなかった。誰が思う。自国の代表候補生の機体よりもあんな所属だってはっきりしないただ物珍しいだけの少年の専用機の開発が優先されるなんて。
そんな異常事態のシワ寄せをよりにもよって自分が受けるなど想像もしていなかった。政府は自分を切り捨てたのか。誰か説明してほしい。
彼女の手元に残ったのは、七割方外装が出来上がった未完成の専用機「打鉄弐式」と、その場に同席していた政府の役人から受け取った個人が所有するにはあまりに多額な開発援助金だ。よりにもよって操縦者にISコアと資金を丸投げとは――。
もういっそロシアに高飛びでもしてやろうかと思った。
普段はまったく理解できない姉の更識楯無が、早々に見切りをつけて他国に渡った気持ちが今なら彼女にも理解できそうだった。
本当に有り得ない。誰でもいいからあの阿呆どもにアラスカ条約という国際法を教えてやってほしかった。この状況がどれだけ不味いかわからないのか。
しかし、本当に不味いのは自分のこの先の学園生活だろうと彼女は思う。
考えてみてほしい。代表候補生が専用機を使わないのだ。
それが国際常識的にどう捉えられるのか。そんなのは決まっている。
日本は新型機の情報を隠匿していると言われるのだ。
どうして所属も決まっていない織斑一夏の専用機を日本の倉持技研が作っているのだ。それはもう専用機が開発されたからだ。そう考えなければ辻褄が合わない。
今年から代表候補生が入学するというのに、その専用機が未だ支給されていないなんてことは有り得ないからだ。何故なら、代表候補生とは所属国家有数の実力者であり、IS学園とはそのサンプルを回収するための世界で唯一の教育機関なのだから。
そこに所属しておいて、データを回収すべき機体がありません、なんて言葉をいったい誰が信じるというのか。彼女なら信じない。それどころか、こう考えるだろう。
日本は自国で開発に成功した新型ISについて黙秘を行っていると。
それが現在の標準的思考であり、そしてそれは同時にIS運用協定に違反している。
事実がどうであろうと関係ない。まず間違いなく反日思想を持つ国家は非難を始める。そしてその矛先がどこに向くのかといえば、彼女に向くのだ。
何故なら現在、ISと開発資金を所有しているのは彼女だからと、そう説明がついてしまう。ならば受け取らなければ良かったのか。
それもまた回避法としては考えられる。
けれどそうなればおそらく確実に自分は代表候補生としての地位を失うだろう。
結局、何度考えても自分は身代りにされたという結論しか出てこなかった。
この状況を打破するには自力で打鉄弐式を開発するしかない。国立研究所が通常試作し開発する第三世代相当ISをあくまで操縦者の彼女が自力で、だ。
姉も一度同じことをやったらしいが、それは最終的には細部を専門家が調整するという大前提と楯無としての抜群の発想力があったから可能になったのだ。
彼女は大多数の日本人がそうであるように、練習した型通りの動きを再現する方が得意なのである。
そして彼女は運用の専門家であって開発の専門家ではない。つまり畑違いだ。
状況はどれも彼女の味方などしてくれない。最悪、腹をくくって姉に相談することすら情報漏洩扱いされるかもしれないのだ。
つまり現時点で彼女にできることは無理だと知りながらISの開発を自力で行うこと。
あとは完成するはずのないものが完成するまで、ひたすら目立たぬように日々を過ごすことくらい。
当然、すべての公式行事には機体が完成するまでは不参加となる。
クラス代表だというのに、知り合って間もないクラスメイトの期待をこれからひたすら裏切り続ける日々が始まるのだ。
こんな仕打ちはない。
やっと手に入れたはずの安息の地がもう奪われたというのか。
更識簪には性格に似合わぬ趣味がひとつあった。
それは動画鑑賞もとい、より世俗的にいえば、彼女は古今問わずアニメーションと呼ばれるジャンルが好きだった。特にヒーローやロボットなどが戦うものなど最高だ。
互いに矛盾に満ちながら、それでも悪の軍団を主人公達は打ち倒す。そのストーリーのシンプルさもたまらないが、何よりどんな境遇でも自分の意思を枉げることのない彼ら、彼女らの凛々しい姿が、普段忘れそうになる彼女の自尊心を刺激するのだ。
そう、更識簪は特別な存在に憧れていた。誰かを護ることのできる存在に憧れていた。強い者に憧れていた。焦がれて、そう在りたいといつしか望むようになった。
幼稚な英雄願望と知りながらも諦めきれずに追い続けて、ついに代表候補生の地位まで登り詰めたのだ。少なくとも同年代の日本人に彼女より上はいない。
やっと夢への筋道が見え始めた直後の出来事だった。これから精一杯頑張っていこうとそう誓ったはずなのに、組織はあっさりと彼女を捨てた。
残ったのは最早欠片も意味を成さぬ不相応な代表候補生という身分と、これから始まるであろう苦痛に満ちた学園生活。それを考えれば彼女は涙を流さずにはいられない。
なんて無力。結局自分は何一つ変わっていないじゃないか。
そこで本来、彼女の物語は一度終わるはずだった。
散々に泣いて救世主などいないと悟って、けれどそれでも諦めきれずに、彼女は苦痛に満ちた未来を選択するはずだった。
存在しない英雄を求めて、いつか彼女の手を取って導いてくれる日だけをただ夢見て、彼女は日常へと帰還するはずだった。
「本当に、それでいいのかい?」
故に、篠ノ之箒はその一歩を踏み込んだ。
そんな未来を嘲笑うかのごとく、箒は簪の背後に立った。
聞こえた声に彼女は意図せず振り向く。そうして自分が泣いていたことを思い出して、慌てて制服の袖口で涙を拭った。
きっと二年生の整備課の人だろう。泣いているのを見られたのだとしたら恥ずかしい。咄嗟にそう考えて、けれど冷静な思考は箒の胸元のリボンが同じ一年生のものであると、彼女に教えた。ならばいったい誰だろうと、顔を上げて――。
そこに幼馴染みの布仏本音がいてくれることを期待して。
その空間に逆光を背に炎髪をなびかせた篠ノ之箒の存在を確かに認識した時。
更識簪は猛烈な怒りの感情を眼前の少女に抱いた。
「……何をしに来たの」
笑いに来たのか、と震えながらも彼女はそう尋ねた。
次に何かを言われたら、きっと自分は破滅する。知りながらも行動するだろう。
お前に何がわかると、そう叫ぶだろう。
何もできなかった無力な自分を、彼女はただ傷つけたかった。
そうやって被害者に為りきってしまえば、きっと救われるのに。
「強敵が現れたんだ」
その言葉を聞いた瞬間、彼女の思考は止まった。言葉にならない音を唇から零しながら茫然と箒を見つめていた。
それは幼き日に彼女が望んでついぞ聞くことのなかった言葉。
「キミの力が必要なんだ」
箒が言い終えるかの刹那に彼女はその伸ばされた手に縋りついていた。
無理だ、もはや考えるまでもない。自分はこの声からは逃れられない。たとえその先に今以上の破綻が待ち受けると理解していても、放す訳にはいかないのだ。
そうだ、よく考えてみろ。何故、自分はこの少女を恨まなければならない。
織斑一夏の幼馴染みと資料に書いてあったからか。
少女が直接の原因だろう篠ノ之束の実妹だからか。
――そもそも前提として。
優秀な姉を持った妹に自分は怒りをぶつけられるのだろうか。
お前の姉のせいで、と更識簪は篠ノ之箒を罵れるのだろうか。
無理だ。現実的ではない。
「……けれど、必要と言われたって」
今の自分には何の力もないのもまた事実だ。
それなのに箒は笑っている。彼女の人生を揺るがしている問題をなんだそんなことかと笑うのだ。
「ここに必要な情報はすべて揃っている」
言って箒はポケットからデバイスを取り出して彼女に握らせた。
「そして必要な人員にも既に声を掛けてある。
無論、キミの問題を考慮して作業を手伝うのはすべて日本人だ」
明日からでも始めればクラス対抗戦までには必ず間に合う。そう断言する箒が彼女には眩しくて仕方がない。
「だから私を救ってほしい。力を貸してくれないか、ヒーロー」
その言葉に肯かない選択肢など、更識簪の中には存在しなかったのだ。
望み望まれ、示された道に彼女は少しの躊躇もなく、その手を伸ばした。
己が幸福を掴み取るために。
織斑一夏が新たな力を手に入れる一方で、彼女の身に起こった出来事を知るのは未だに当事者以外には誰もいない。
その翌日から、整備科の友人が忙しく活動を始めたのを更識楯無が不思議に思って眺めていたのはまた別の話。
姉がその理由を知るのは再来週のクラス対抗戦になってからだった。
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ISで篠ノ之箒メインの話をやってみたいなと思い立って書いた次第です。
ちなみにpixivとハーメルンでも同名作品を投稿しています。