七月七日。
世間一般でいう所の『七夕』という節句が元は中国の旧暦に由来する等という事は、事前学習を兼ねた飲み会で教授から手渡された資料を斜め読みしていた自分でも理解出来る様な事なのだから、取り立てて語る程の事でもないだろう。
海を渡り、隣国の大陸へと一歩を踏み出した及川の現地に対する第一印象は「暑い」だった。
「……あかん、これは溶けてまう。バターみたいにドロッドロに溶けてしまうわ」
一人団扇を必死に扇ぎながら、誰彼となく独り言の様にぼやく。
「なぁ、かずピーもそう思わ…………」
言いかけて、つとスルリと生温かい風が吹き抜けたからっぽの右隣りを眺めた。
大学に入った当初に度々かましていた洒落は、もう一年以上経った今では殆ど使う事もなかった。
その筈だった。
「……………………」
周囲の喧騒が遠く、照りつける日差しに滴る汗がやたら冷たい感覚を覚える。
半年前までは馬鹿みたいに右往左往して騒いでいた周囲に一種の罪悪感にも似た何かを覚えていた記憶があるのだがそれも今では随分と音沙汰無く、当事者である筈の彼の親達が泰然と構えていたものを蛇をあぶり出す為に突く様な真似をして騒ぎ立てるマスコミに寧ろ嫌悪感すら覚えたあの頃が懐かしく思える。
それだけの時間が、もう経っているのだ。
事の発端は五月半ばの飲み会だった。
「今年の夏は、曹魏の跡地巡りに行くぞ!!」
ジョッキ一杯を一瞬で空にした教授が声も高らかにそんな事をのたまった。
「去年のひらがな文でも騒ぎになったが、此処に至って俺が現地調査に赴くんだ。そこで、折角だからお前らもその調査に同行させようじゃないかという話になってな?宿泊場所は向こうで用意してくれているみたいだが、往復の交通費は自腹らしいんだ。ま、精々十万もしないから大丈夫だよな?つか、これゼミの夏季課題みたいなものだから全員強制参加ね」
そんなこんなであっという間に月日が巡り、気がつけばもう当日。
「行くぞ!まずは陳留跡地からだ!」
なんやかんやで実はアンタが一番楽しみにしてたんだろというくらいのハイテンションで声を張る教授の背中を見、もう一度及川は空を見上げた。
「……今日は、晴れるとええなぁ」
まだ昨日の雨が残るアスファルトと降水確率40%の空に、祈る様な声音が風と共に掻き消えた。
私は空が嫌いだった。
もっと言えば『天』という存在そのものが嫌いだった。
だから毎年訪れる、この天に感謝する様な祝い事が大嫌いだった。
「姉さまー!新しい賦が思いつきましたー!」
そんな私の気も知らず、傍らで無邪気な笑顔を浮かべて妹が奔り回るのを見ると、思わず『躾』てしまいそうになる。
それを察知してだろう、女が一人恭しく頭を垂れながら妹にそっと耳打ちした。
「子建様、あちらの席で皆さまがお待ちです。お早く……」
「えー?」
「飛琳、行きなさい。私は風と話があります」
「…………はぁい」
声音からも分かるくらいに不機嫌そうに、しかし私の云う事には忠実な妹は何度も此方を振り返り、時に手を振りながら遠ざかって行く。
その姿が見えなくなる頃を見計って私が鼻を鳴らす様に息を吐くと、風はクスクスと笑みを零した。
「何がおかしいの」
「失礼……ご家族の手前、不機嫌さを露わになさらないお優しいお方だなと、感心しておりまして」
「ふん…………」
図星を衝かれ、思わずそっぽを向いた。
私はこの人が苦手だ。桂花先生とは違って何を考えているのかさっぱり分からないその半開きの眼や、頭の上に乗っかっている人形と一人芝居をしているその仕草から何から、理解の外にいるこの人が正直苦手だった。
「おうおう、お袋さんに似て好きなあんちくしょうの前じゃツンデレなのかい」
「これこれ宝慧、一応主君なのですから言葉は選びなさい」
「『一応』とは何ですか『一応』とは。躾ますよ!」
「………………ぐぅ」
「都合が悪くなると寝たふりをするのも止めなさい!」
まただ。またいつもの調子でこの人の空気に流されていく。
だから苦手なんだこの人は。
「それで?如何なさったのですか、こんな所に一人で」
「……………………」
「そんなに睨んでも、お星様は降って落ちてきたりなんてしないのですよ~」
「おっとっと」とか云いながら、昔の口ぶりを治す『振り』をして飄々としているが、それが所詮格好だけである事など当の昔に知っている。
―――分かっている。そんな事は分かっているのだ。
「……別に。一人になりたかっただけよ」
「ツンデレさんですね分かります」
「ッ……だから、私の前でつんでれつんでれ連呼するのを止めなさいッ!!」
「そんな事いってホントは好きなんだろオイオイ?」
「サドでもマゾでもイケる口ですか~。ますます華琳様そっくりですね~」
「ああもうッ!」
本当にこの人と話していると疲れる。
のらりくらりと此方の意図をかわしながら『あの人』の言葉を織り交ぜてくる。
私よりもずっと長い時間を一緒に過ごしてきた証を、これでもかと強調するかのように―――
三国時代の後に訪れたのが魏晋南北朝で、そこから隋だの唐だの各王朝が生まれたという事は、大体世界史を履修している生徒なら誰でも知っている様な事だ。
「だが最近、実はこの王家の血筋というものが一種じゃないのかという話が持ち上がっているんだ」
とは教授の弁である。
「曹操には二十人を超える子供がいて、この内の何人かは重臣クラスの家に後継者として迎え入れられたんだ。それぞれに別姓を名乗ったが一族の結束は強く、他家に跡目が無い時は一族から後継者を出したらしい」
日本の某幕府と一緒だな、と教授は続けた。
「王朝の名前が変わったのは、代替わりした当主の一族の姓を名乗ったからであって、実はDNA鑑定とかしたらこれは同じなんじゃないかという説がある」
じゃあその大本は?と問い掛けるゼミ生に、したり顔で教授は一冊の文献を取り出した。
「記録に残っている限り、曹操が生涯で情を交わした相手はたった一人。その相手というのが―――」
―――それは御伽噺の様に綴られる英雄譚。
―――創作なのか史実なのか、誰にも分からない伝説。
―――正史と伝えられる現存最古の書物にも記された王。
――――――そして、自分だけが知るたった一つの真実。
天の御遣い
「―――凰琳」
私の真名を呼ぶ声が聞こえる。
聞き慣れた、とても慈愛に満ちた優しい声音。
人はあの人をこう呼んだ。
―――曰く、大陸に平穏を齎す天よりの使者
―――曰く、天下を統べるべき王を見出した者
―――曰く、世に大乱起こる時現れる者
―――曰く、天の御遣い
違う。
違う。
あの人はそんな大仰な名前じゃない。
母上の夫で、重臣たちの夫で、曹魏の父の様な人。
だから嫌いだった。
そんな大切な人を奪った空が、天が大嫌いだった。
だから嫌いだった。
私だけじゃなく、母上だけでもなく、誰にでも優しすぎるあの人が。
だけど、本当は全部違った。
天はあの人を奪ったんじゃない。一度だけ故郷に帰したんだ。
そしてあの人はまた戻ってきた。私や妹達をこの世に生み出す為に。母上やみんなを愛する為に。
誰にでも優しいんじゃない。
あの人にとってみんなが『家族』で、だから大切にしていたんだ。今でも時々むっとなる事はあるが、それでもあの人にとっての一番は母上だから……まぁ、許してあげない事も無い。
天の御遣い。
人はあの人をそう呼ぶ。
だけど違う。
あの人の本当の名前。
ちょっと頭が弱くて、大分武芸が拙くて、かなり助平で。
頼り甲斐があって、時々格好良くて、凄く優しくて。
私の大好きな母上と一緒に、その隣をずっと歩いてきたその人の名前は―――
「母上!父上!!」
北郷一刀
【後書きという名を借りた余韻みたいなもの全てを打ち砕く何か】
どうしてこうなった……ど う し て こ う な っ た ! ?
あれか、季節の企画モノは一発で綺麗にまとめとけとかいうお告げを無視した結果か!?その報いかこれは!?
及川がちょっとしか出てないし!一刀も台詞一言だけだし!!華琳様に至っては一っ言も喋ってないし!!!
何かこう、ね……もっと違う書き方とかあったんじゃないのと小一時間(ry
そんなこんなでグダグダ感MAXな完結編、お楽しみ頂けたでしょうか?
予想外に多くの続編希望の声を拝聴し、「やべぇ早く書かないと!」とか急いで出来たのがこの有様です。
前回よりも本格的にブランクを痛感しました。続き書くのがホントキツイです……話が、浮かばないとか。
何だかこれ以上続けていると蛇足的にダラダラと続きそうなので、この辺りで打ち切ります。
次回作についての言及は特に致しませんが、或いは皆様の御目に触れる機会が訪れるかもしれません。
それまでは今回の様に、作者の気が向いたら短編をポツポツ出していく様な、そんな感じの執筆活動を停滞火山の様に続けようかと思っております。
それでは、長々と失礼致しました。
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*この作品は『魏√END AFTER 七夕の夜に』の尻馬に乗っただけの様な続編的な何かです。過度な期待はしないでください。
前回が及川(現代)メインだった反動で、今回は外史メインの話になります。過度な期待はしないでください。
あと、魏√とか言っている割に一刀君とか華琳様は殆ど出てきません。過度な期待はしないでください。
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