―――姿見に映る双眸が此方を睨んでいた。
十代後半と思しき男である。
いくらか幼少期特有のあどけなさを残してはいるものの、ワイヤーで締めあげる様に鍛えた体躯や日ごとに精悍さを増して大人へと近づいていく顔つきが、彼を実年齢より大人びて見せる。
成程、端麗か否かで問われれば恐らく前者で答える者が十人に七、八人はいるだろう顔つきと言えなくもないかもしれない。だが整っているだけでよいのならいっそ彫刻でも造った方が気が効いていると―――
皮肉を込めて口元を吊り上げると、姿見の男も蔑む様な笑みを浮かべている事に気づき、一刀は表情を消して頭を掻き毟った。
一時期離れていたとはいえ、長い間過ごしただけあって勝手は重々承知している自室、その一角に新調したばかりの全身を映す大きさの姿見の前で、じっと立ち尽くす。
「…………似合わないなぁ」
襟元のネクタイを弄りながら、誰に聞かせる訳でもなく呟いた。
蝋燭の灯りが煌々と部屋を照らし、部屋を物憂げに彩る。何事も起こらなければ、再び姿見を見つめ始めた一刀は朝一番の鶏が鳴くまで見続けていたかもしれない。
そうはならなかった。
嘲笑する様な女の声が、一刀の背に響く。
「年中発情男の分際で何物思いに耽っている訳?今度は自分の姿に欲情でもしたの?」
部屋の入口に仁王立ちする少女の声音に、付き合いの長い一刀は振り向かずその顔が呆れに染まっているだろう事を察した。
「こんな時間まで起きていたのか、桂花」
「アンタがどっかにフラフラ行っている間に溜まっていた警邏の雑務がまだ残っていたのよ。あの河馬みたいな男、いい加減仕事を覚えるって事を覚えさせた方がいいんじゃないかしら」
暗に監督責任を問う様な桂花の声に、一刀は苦笑を洩らした。
「ふん」と鼻を一つ鳴らして桂花は手近な所にあった椅子に腰かける。
「精液男の私物なんて、触っただけでも妊娠させられる!」と騒いでいた頃が若干懐かしく思えた一刀は、懐かしむ程に時間が過ぎているのだという事実を漠然と認識していた自分に驚いた。
「で?明日の主賓がこんな夜更けまで何をやっているの?」
「…………ちょっと、な」
濁す様な一刀の様子に、怪訝そうな桂花の双眸が痛いくらいに鋭く突き立つ。
智に長け、人の表情を読み取って弁論を展開する事を得手とする曹魏随一の名軍師の眼光にそうそう耐え切れる訳も無く、やがて観念したかの様にため息を洩らすと一刀はフッと桂花の方を向いた。
「……なぁ、桂花」
「何よ。私はこう見えてもまだ政務が残っているのよ。その合間の休憩を潰してまで忠告しに来て上げたのに、これ以上引きとめないでくれる?」
言って、しかし席を立とうとしない桂花は自身をジッと見つめる一刀を睨む様に見た。だがその余りにも凛然とした瞳に、彼女らしくもなく僅かな動揺を瞳に浮かべてついと視線を外す。
構わず、一刀は口を開いた。
「桂花」
「何よ」
先程より、やや怒調を含んだ声音。
外した視線を中空に彷徨わせる桂花に、一刀は問うた。
「―――俺は、幸せになっていいんだろうか?」
「…………は?」
言葉の意味を咀嚼するには十分な時間をおいて、桂花は愚問を咎める様な声音で疑問符を浮かべた。
「……俺さ、きっと怖いんだ」
「何がよ」
「ここに来るまで……辿りつくまで、色んな人に助けられた。その人たちの事を考えたら、俺一人だけ幸せになっていいんだろうか……って」
自嘲する様な笑みが姿見に映る。
「背中を押されて、それに応えなくちゃいけない。それは分かっているんだ……けど」
脳裏を過る。
いつも厳しく、しかし真に情愛を以て接してくれた祖父。
どんな時でも無条件で味方でいてくれて、自分を受け入れてくれた母。
隣にいて、自分の知らない所でずっと支えてくれた親友。
多くの人の姿が浮かんでは消え、やがて沼底の様にどす黒い世界に一人、一刀は浮かんでいる様な感覚を覚えた。
ずぶずぶと足元から底なしの泉に沈み、やがて自分の全てを呑みほしてしまうのではないか。
自分一人が幸せを掴んでいいのだろうか。
自分一人が望みを叶えていいのだろうか。
自分だけ、自分だけが――――――
「常々馬鹿だとは思っていたけど」
暗く沈んだ世界の中に、一条の光が差し込む。
光の主はつぅっと姿見をなぞる様に指を奔らせ、やがてそこに映る男の頬に手を当てて―――渾身の力を込めて、一刀の頬を引っ叩いた。
「これ程の大馬鹿者だとは思わなかったわよ」
全てを射抜く様な鋭い視線が、抉り込む様な声音と共に一刀の意識を現実へと舞い戻させる。
乖離していた五感は頬の鈍痛を訴え、やがて顔全体にじわりと広がる。
「……あんた、姿見を見ていたわね」
「…………ああ」
「もう一度、見てみなさい」
言われ、一刀は姿見を見た。
自分と、隣に立つ少女の像が見える。鏡越しに視線が交わり、微妙にすれ違った。
近く見えて、一刀には自分と彼女の僅かな間が酷く離れている様に見えた。隣に居るのに、視えない何かに隔てられた……世界が異なってしまったかの様な、僅かな隙間。
「あんたは誰?」
鏡越しに自分を見つめる桂花が問うた。
「天の御遣い?大陸の英雄?覇王の盟友?
―――違う、あんたはそんなんじゃない」
繊細な、たおやかな指が姿見をなぞる。
彼女の歪んだ口元が見えた。冷笑の隙間に垣間見える感情は、共感か、或いは憐憫か。
泣き笑いの様に見えたその口が、やがて言の葉を紡いだ。
「あんたは自分が何者なのか知っている。理解もしているし、それに相応しい働きも充分にこなしている。でも―――」
怒りを押し殺した様な口調が、続いた。
「あんたはただ、自分の事が許せないだけなの」
「―――そっ、か」
言われて、一刀は姿見を―――そこに映る男を見た。睨んだ。
最愛の少女を傷つけ、友の期待を裏切ろうとした愚か者を射殺さんばかりに睨みつけた。
許してはならない。
この男だけは、絶対に許してはならないのだ。
『こいつ』は死ななければならない。許されてはならない。
鏡に映るその男は、居てはならない存在なのだ。
理由の必要はない。ただ理解した。
男が哂う。傲慢な冷笑を湛え、嘲笑う。
―――消えてしまえ、今更何のつもりだ。
全てを知った様な顔が気に入らない。
何事も理解した様な瞳が気に入らない。
ずきりと脳髄の奥底が悲鳴を上げた。軋む様な音を立てて、知りもしない光景が脳裡を過る。
鏡に光が満ちている。希望など欠片もない、ただ絶望しか与えない光。
傷つき、倒れていく乙女。ある者は地に臥し、またある者は壁にその身を埋め―――血飛沫が、鮮血がただ酷く鮮やかに、艶やかに世界を彩る。
光景が遠のいていく。
地獄へと引き摺り込む様に無数の真っ黒な腕が全身を覆っていく。
誰かが手を伸ばす。声を張り上げる。
届かない、届く筈がない。
それでも尚、手を伸ばす。足掻く様に、無様に、醜くも、必死に―――
「―――と、一刀!」
焦燥を押し殺した声と、間近に迫った瞳が現実へと意識を戻らせた。
険しい表情の桂花が、彼女らしくもなく表層に焦りを露わにしている。頬に添えられた両の手の温もりが、妙に心地よい安心感を与える。
其処に至って、一刀は漸く自分が冷や汗を垂らしている事に気づいた。背筋が冷たい汗で濡れ、どっと押し寄せた疲労感に一刀は軽い眩暈を覚えた。
「『あんた』は違う。『あんた』は生きていていいの。許されていいの。消える事なんてない。そんな必要ない」
滅多に見られたものではない桂花の表情を、意識せず一刀はまじまじと見つめた。
頬を撫でる様に指が奔る。こめかみに、首筋に、額に―――まるで童子をあやし付ける母の様に優しく、穏やかに。
そうして―――情愛の表情を浮かべていた桂花が不意に眉を顰めた。
「……で?いつまで私の腕を掴んでいるつもりよ」
指摘の通り、一刀の両手は桂花の華奢な腕をあらん限りの力を込めて掴んでいた。
慌てて離し、たたらを踏む様にして二、三歩後ろに飛び退くと、桂花はもう不服気に鼻を鳴らした。
「ああ痛い。この荀文若様の両腕を掴むなんてあんた何様のつもりよ?これで腕が痛くなって動かなくなって政務が滞ったら、あんたどう責任とるつもりなの?」
「……悪い」
「ふん。ま、主賓がそんな辛気臭い顔していたら折角の宴が台無しでしょ。それでこれまでの私の時間が全て無駄にされるなんて堪ったもんじゃないからね」
言って、寝台に腰かけた一刀の方を向いて、
「―――もう大丈夫みたいね。そうやって間の抜けた顔の方がよっぽどあんたらしいわよ」
「ああ…………ありがとな、桂花」
「……ふん」
三度、桂花は鼻を鳴らした。
「ほら、分かったんだったらさっさと寝なさい。宴の席で転寝なんてしていたら、今度こそ永遠に眠らせてやるわよ」
「ああ…………あ、そういえば桂花」
「何よ?いい加減戻りたいんだけど」
用は済んだとばかりにそっぽを向く桂花の横顔に―――一刀は特大級の爆弾を投下した。
「さっきさ、俺の事『一刀』って呼んでなかった?」
「―――なっ!?」
一瞬で怒調に顔を染め上げた桂花が、擬音が聞こえそうなくらいに勢いよく一刀を睨みつけた。心なしかフードのネコ耳がぴーんっ!と立った様な幻覚が見える。
「き、気のせいよ気のせい!!だだ大体あんたが血走った目で姿見睨みつけていいい一体何だったのよぉ!!ま、まさか頭の中であたしに対してへへ変な事を考えていたんじゃないでしょうねぇっ!?」
「してねぇって……つか、何でそんな慌てるの?」
「あ、あわっ!?こ、この荀文若様がいい一体いつどこで慌てたっていうのよ!?証拠は!?証拠出してみなさいよ証拠証拠しょうこーっ!!」
「いや、だからちょっと落ち着きましょうって桂花さん……時間も時間だし」
「うう、うっさいっ!!この変態!!さっさと寝ろ馬鹿!!」
バタン!と轟音を立てて閉まる扉。
その向こうに消えた少女の遠のく足音を聞きながら、有難い忠告に従って一刀は漸く寝台に横になった。
―――眠る間際、ちらりと視界に映った姿見には、酷く安心感に充ち溢れた『間の抜けた』表情でゆるやかな笑みを湛えた青年が映っていた。
―――姿見に映る双眸が此方を眺めていた。
十代後半と思しき男である。
いくらか幼少期特有のあどけなさを残してはいるものの、細やかな織り込みと縫い込みの為された服装や沙和によって整えられた髪が妙に似合う顔つきが、彼を実年齢より大人びて見せる。
襟元に指を入れ、心持整えると、鏡に映る男がふと笑んでいる事に気づいた。
「おぅ!?随分と男前やな、一刀」
「霞か」
「何やその残念そうな感じ、花嫁やのうて悪かったなぁ」
言いながら、大して気分を害した様子のない霞が姿見越しに一刀の視界に飛び込んだ。
何故かは知らないが女性用のドレスではなく男性用のタキシードを着ているのだが、紺地のそれがむしろ男の自分より余程似合っている。
からからと笑いながら肩を組むと、柑橘に似た香りが一刀の鼻孔を擽った。
「見違えたでぇ?百点で言うたら八十点はやってもええ」
「……その調子だと、どうやっても満点には届きそうにないんだけど」
「そうか?閨ん中やったらもう百点加えてもええんやけど」
霞の言葉に思わず顔を見合わせ、どちらともなく笑いあった。
「―――霞」
「なんや?急に改まって」
「俺、幸せになるよ」
その言葉に、霞の表情が僅かに歪んだ。
構わず、一刀は続ける。
「色んな人を傷つけて、これからもきっと誰かを傷つけて…………それでも、俺は幸せになる。ならなくちゃいけないんじゃなくて、俺が『そうなりたい』って思ったんだ」
「…………さよか」
「我儘だって事も、自分勝手だって事も分かってる。けど……」
「―――そこまで!」
ビッ、と霞の人差し指が一刀の唇に触れた。
今にも壊れてしまいそうな程に儚く、しかし力強く笑んだ霞は、ただ一言だけを告げた。
「……おめでとう、や」
「…………ありがとう、霞」
そうして、二人はまたどちらともなく笑いあう。
泣いて過去を振り返るのではなく、笑って未来へと進む為に。
―――幸せは、きっと一人で掴めるものじゃないんだ。
誰かを傷つけて、泣かせて。
自分も傷ついて、泣いて。
そうやって、何度も何度も遠回りを繰り返して。
「―――新婦、曹操孟徳」
「はい」
「汝は富める時も貧しき時も、健やかなる時も病める時も、命の灯火消え尽きるその時まで、夫北郷一刀を愛する事を誓いますか?」
そうして手に入れたささやかな幸せは、二人の手を繋いだままでは得られない。
得る為には、一度その手を離さなくちゃいけない。
「誓います」
「……宜しい。では、新郎、ほんご「俺は」―――」
けど、
「俺は……何時如何なる時であろうと、どんなに苦しくて大変な事があったとしても―――例え、世界が俺と華琳を別とうとしても」
その幸せを分かち合う事を、二人が誓えたのなら、
「―――俺は、北郷一刀は全てを懸けて華琳と共に歩み続ける事を、誓います」
きっと、二人は一緒に歩み出す事が出来る。
「北郷一刀は、生涯の全てを懸けて彼女を愛し続ける事を、誓います」
【後書きの名を借りた感謝というか懺悔というか謝罪】
まず何よりも最初に、和兎様にお礼を申し上げたいと思います。
真に素晴らしい名作を私如きがインスパイアする事をお許し頂き、本当に有難う御座います。
作家以前に一恋姫ファンとして、これ以上ない程に素晴らしい魏√ENDを想像させて下さった事、本当に嬉しく思います。
魏√END AFTER短編シリーズは、これにて一応完結となります。
一部の長編化を望まれる方から多数の応援を頂いたのですが、正直な所主人公も話の展開も全く定まらない尻切れトンボがぽつぽつ出てくる程度にしかならないと思われるので、短編ならばともかく長編となる事はまず「ない」という事を御報告致します。
最後になりましたが、第2回同人恋姫祭りは8月17日~同23日の開催です。
皆様方も是非是非ふるって参加し、TINAMIを盛り上げていきましょうっ!
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第2回同人恋姫祭りが約一ヶ月後に開催されます。
それに向けて作品を制作していたのですが、どーにも我慢が足りなかった様で…………
フライング投稿を敢行します。
内容的には以前投稿した『七夕の夜に』と『星に願いを』の間ぐらいをイメージした、結婚前夜的なお話です。
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