実はこれは、テレビだけでなく、「マンガ」など映像文化一般についても当てはまる。文字を知らなくても、絵を見れば情報を摂取できる。ポストマンは、映像文化が発達すればするほど文字文化の権威が相対的に衰退すると考える。そして、多くの<おとな>たちも、そう思った。だから、<おとな>たちはテレビやマンガを取り締まった。彼らがマンガを目の敵にしたのは、<子ども>たちのことを考えたからではない。映像文化を叩き、文字文化を称揚することで、<おとな>である自分たちの権威を守ろうとしただけである。それは1990年頃に猖獗を極めた「有害コミック問題」に象徴的である。<おとな>たちは、性的なマンガを糾弾した。だが不思議なことに、スケベな小説に対しては何も文句を言わなかった。これは、文字を知らない<子ども>たちはエッチな小説を理解することができないと考えているからである。しかし、マンガは<子ども>でも理解できてしまうと彼らは恐れた。だからマンガを糾弾した。ポストマンは言う。「子どもは、知らなければと思っていることを、まだ知らないでいるから知りたがるのだ。大人は、大部分自分が知識の主な源という理由で権威を持つ」(p.134)。映像文化が普及する前は、「性」に関する知識は<おとな>たちが独占していた。映像文化が普及する以前は、「性」に関する知識は文字によって記されていた。<子ども>たちが「性」に関する知識を得ようと思ったら、「性」に関する知識を持っている<おとな>から直接教えてもらうか、文字を読むことによって情報を得なければならなかった。そして<子ども>たちは「性」のことを知らなければならないと思っていたから、それを知っている<おとな>や「文字」というものが権威を持ち得た。しかし映像文化によって、<おとな>を経由せずとも「性」に関する知識を手に入れることができるようになった。<おとな>たちは、知識の独占権が映像文化によって失われることを恐れた。だから、<おとな>たちは性的な小説は糾弾しないくせに、性的なマンガは徹底的に罵倒した。
そして、「有害コミック」問題の解決の仕方も興味深い。というのは、<おとな>向けのマンガに「成年指定」マーク[図27]をつけることで騒動は一件落着したのである。映像文化によって「おとな/子ども」の境界が破壊されたのなら、映像文化自体に「おとな/子ども」の境界線を新たにつけ加えればいいという発想なわけだ。エッチなマンガを<おとな>専用と限定することで、「性」という神秘の知識は<子ども>には開放されず、<おとな>だけが特権的に保持する。これで<おとな>の権威は守られる…と考えたわけである。要するに「成年マーク」とは、境界を破壊する映像文化を「おとな/子ども」関係の秩序に組み入れることで無害化しようとした、<おとな>たちの抵抗の産物である。
眼鏡についても同じことが言える。眼鏡はもともと<おとな>専用だったために権威があった。しかし、テレビやマンガの見すぎでも近眼になれるようになった。眼鏡をかけているからといって、大量の文字を読んでいるとは限らなくなった。映像文化の普及によって<子ども>と<おとな>の境界自体が不明確となるとともに、<おとな>しかかけていなかった眼鏡もマンガのおかげで<子ども>もかけるようになった。連載の第1回で指摘しておいた「おとなの後退」という事態は、マンガというメディア自体が引き起こした大きな社会変化であった。
「おとな/子ども」関係の変化は、「勉強」観も転回させた。60年代の『レモンとサクランボ』では、眼鏡っ娘は大人びて勉強のできる委員長として描かれている。眼鏡は他の人間より<おとな>に近いことの象徴であり、プラスイメージを持っている。しかし、教育社会学者の竹内洋は、1960年代後半に勉強の価値が低下したことをこう指摘している。「勉強をめぐる意味の世界が大きく転換するのは戦後の高度成長以後の社会においてである。努力や勤勉がそれ自体としての意味をもたなくなりはじめた……努力や勤勉は才能のなさや余裕のなさによまれてしまう」。眼鏡にまつわる「ガリベン」という負のイメージは、勉強の価値が低下しはじめた60年代後半以降に広く普及しはじめた。勉強という価値が低下してしまったのは、勉強後に獲得されるはずだった<おとな>イメージが崩壊してしまったからである。60年代までは<おとな>になることが目標であり、だからこそ<子ども>たちはその目標に向かって勉強した。しかし、<おとな>になるという目標が消失してしまうと、何のために勉強しなければならないのか、その理由がサッパリ解らなくなる。だから、学校に行かなくなる<子ども>が70年代以降、急上昇する。今も増え続けている。不登校の増加と眼鏡の価値の低下は、どちらとも<おとな>の失墜がもたらした。
では、<おとな>の権威を復活させればよいのか? そう考えている人たちはたくさん存在する。石原慎太郎などは、その代表格である。「父性の復権」などと言っている連中も多い。しかし、その試みは矛盾を増幅させることしかできないだろう。「おとな/子ども」関係は、印刷術の発明という歴史的な状況の中で産み出された秩序だった。だが、状況が変われば既存の秩序も無効になる。その無効になった秩序にしがみついても、矛盾が増幅するだけだ。状況が変わった場合、その変化に合わせた新たな秩序を構想するほうが建設的である。だから、眼鏡の失墜を嘆いても仕方がない。<おとな>の復権を唱えても始まらない。我々は歴史の歯車を逆行させることを目指すのではなく、新たな価値の発見と創造にこそ着手すべきであろう。>>次頁