TINAMIX REVIEW
TINAMIX
めがねのままのきみがすき〜恋愛少女マンガの思想と構造(3)

・複数人格の総合

このように個々の分子が類型化した状況を、宮台は「一つのマンガにタイプの異なる<彼女>がさまざまに登場して、他者の類型性が強く意識され始めます」と分析し、「主語を単数化した<関係性モデル>が複雑化し増殖する」と述べた。人間のタイプが「ネクラ/ニヒリスト/ミーハー/バンカラ」へと分裂し、各個人はそのうちのどれかにアイデンティファイするというわけだ。だが、70年代からの有機体モデルの洗練化過程を見ると、別の解釈の仕方が見えてくるだろう。有機体論的に解釈すれば、宮台の言う「他者の類型性」の進行は、「カテゴリー」の洗練化と言い換えることができる。「<関係性モデル>が複雑化」するのは、洗練された「カテゴリー」間の調整が複雑化したことを意味する。宮台は各個人がいくつかのタイプに分類できると解釈したが、各個人の内部がいくつかのカテゴリーに分化したとも解釈できるわけだ。

具体的には、たとえば中江兆民の『三酔人経綸問答』の解釈の対立を想起すると解りやすいかもしれない。例えばこの作品の解釈の一つとして、「洋学紳士/豪傑の客/南海先生」は当時の安全保障に対する代表的意見の3類型であり、兆民はその中の「南海先生」にアイデンティファイしているという見方がある。これは、空海が「仏教/道教/儒教」という東洋三大宗教の代表者を討論させることによって仏教の優位を説いた例を念頭に置いたものだろう。しかし別の解釈として、兆民の中に「洋学紳士/豪傑の客/南海先生」のどの要素も混濁して存在しており、兆民はどの立場にも共感していると見る立場がある。たとえば解説の桑原は、「だれが主として著者兆民の思想を代表するかについては、いろいろの説がある。……私たちは、三人がそれぞれ兆民の分身だと考えるのが適当だと思っている。……すなわち、兆民のなかにはこの三人が住んでいたのであり、三人はそれぞれ深い共感をもって描き出されている。」と指摘している。

吉田まゆみ『アイドルを探せ』も、同様に2つの読み方ができる。ひとつは、主要登場人物3人のうちの誰か一人に完全に感情移入する読み方である。宮台はそう読んでいる。もうひとつは、読者が3人のキャラそれぞれに感情移入し、3人のキャラを一体のものとして捉え、そのキャラ間の葛藤を自分の心の中の対立するカテゴリー間の葛藤として読むような読み方である。これが有機体モデルによる解釈である。前者は、「アイデンティティはただ一つ」とする<単数>人格の読み方である。この場合、「ほんとうのわたし」は一つしかないと理解される。よって、異なるタイプの人物が複数登場する物語を読むときは、自分に一番似ているキャラに感情移入すると読解する。一方、後者は複数のアイデンティティが同一人物内に混在することを認める<複数>人格モデルであるり、複数の人格が「総合」されて「ほんとうのわたし」になるという様式である。>>次頁

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『三酔人経綸問答』
中江兆民 明治20(1887)年。本論では岩波文庫版(桑原武夫・島田敬次訳・校注、1965年)をテキストとして使用。

「だれが主として著者兆民の思想を代表するかについては、いろいろの説がある。……私たちは、三人がそれぞれ兆民の分身だと考えるのが適当だと思っている。……すなわち、兆民のなかにはこの三人が住んでいたのであり、三人はそれぞれ深い共感をもって描き出されている。」
『三酔人経綸問答』p.264。

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