TINAMIX REVIEW
TINAMIX
めがねのままのきみがすき〜恋愛少女マンガの思想と構造(3)

・物語の統合機能

この複数人格モデルは、リスクを回収するシステムとして理解できる。人格が固定化すると、融通が利かなくなり、不慮の事態に対応しにくくなる。ひとつの人格が対応できない事態に直面したときには、融通を利かせ、別の適当な人格を登場させればいい。複数回交番ゲームが時間軸でリスクを回収することを目指したとすれば、複数人格は心理的にリスクを回収するモデルとでも言えよう。

人が複数の人格を持つことは、まったく不思議なことではない。むしろ、現代社会では必然といえる。香山リカの「この目まぐるしく変化する現代社会では人間は多くの顔を持って生きることを迫られ、どれが「本当の私」でどれが「ニセモノの私」かなど、自分で区別することもむずかしくなっている」という感慨は、おそらく多くの人が共有しているだろう。そもそも、このような指摘はすでに1933年の段階で「私たちがある社会集団から別の社会集団にうつれば「別の」人格になる、というひろくみとめられた事実……事柄は、人格の分裂といった言葉によってしめされる現象よりも、はるかに一般的で普通のことである」と指摘されているところである。

図22
[図22]『ガールズ』
(c)吉田まゆみ

一般的で普通のことであるはずの複数人格が問題になってしまうのは、それらを「総合」する超越した審級が機能しない場合である。これを精神分析では多重人格と言うらしい。個々の分裂した人格を統合するのは「自我」とか「自己」などと呼ばれている概念である。有機体モデルのマンガの場合、個々の分裂した人格を総合する審級は「物語」(そしてそれを操る超越的存在である作者)となる。だから「物語」が機能していない有機体モデルマンガは、焦点を失って自己が機能していない人格の如く、支離滅裂な印象を与える。これは、吉田まゆみ『ガールズ』[図22]が最後まで物語の支えを見いだせず、主人公のなしくずし的な交替など迷走を続けたことを見れば明白だろう。キャラクターバランスを失したギャルゲーがつまらないのも、同じ理由による。

有機体モデルのマンガに登場する眼鏡っ娘が眼鏡を外そうと努力しないことも、これまでの説明から理解できる。眼鏡っ娘が一人だけ主人公で登場するようなマンガでは、眼鏡を外すか外さないかという選択の葛藤を経ることで「ほんとうのわたし」を獲得した。有機体モデルでは、眼鏡っ娘は複数ある人格のうちの一人にすぎない。そして他の人格との葛藤を経て、「物語」として統一された「ほんとうのわたし」へと総合される。<単数>モデルでは、「眼鏡のわたし」と「眼鏡じゃないわたし」は時間軸での変化によって表現され、時間軸での葛藤が描かれる。一方、<複数>の有機体モデルでは、「眼鏡のわたし」と「眼鏡じゃないわたし」は時間的には同時に存在し、空間的な差異として表現される。眼鏡のキャラと非-眼鏡のキャラの対立と葛藤が、<単数>モデルにおける「眼鏡を外そうかどうしようか」という葛藤にあたるわけだ。

さて、ここまで有機体モデルについての概念をある程度明確にしてきた。次いで、西谷祥子作品の分析をすることで西谷と吉田まゆみに対する宮台真司の理解の問題点を整理し、眼鏡論的な解釈を提示することにしよう。◆

次回予告

眼鏡と密接な関係にある「ほんとうのわたし」概念は、近代的なアイデンティティ様式を産み出した。しかし有機体モデルは、それがプレ-モダンにしろポスト-モダンにしろ、別の人格モデルのあり方を示している。次回は、「個人と共同体」という古典的な問題を眼鏡論的に組織し直し、近現代社会における眼鏡っ娘の意味と価値を浮き彫りにする。刮目して待て!

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「この目まぐるしく変化する現代社会では人間は多くの顔を持って生きることを迫られ、どれが「本当の私」でどれが「ニセモノの私」かなど、自分で区別することもむずかしくなっている」
『24人のビリー・ミリガン(下)』「解説」早川文庫版、p.500。なお、香山リカは『コンプティーク』1999年3月号のメガネっ娘特集で「委員長メガネをとったらカワイ子ちゃん」などという川柳を詠んでいた。これが誤りであることはこれまでの論述から明らかだろう。正しくは「委員長メガネとったらただのひと」だ。ただ、香山リカ本人は眼鏡っ娘なので、許す。

「私たちがある社会集団から別の社会集団にうつれば「別の」人格になる、というひろくみとめられた事実……事柄は、人格の分裂といった言葉によってしめされる現象よりも、はるかに一般的で普通のことである」
G.H.ミード『西洋近代思想史 上』1994<1933、講談社現代文庫、p.55。

『ガールズ』
(c)吉田まゆみ
『mimi』1989年no.14〜90年no.13。この扉絵に見られるとおり、当初は女の子3人の共同生活を軸にした、典型的な有機体的若者集団マンガだった。ところが脇役で登場した看護婦が次第に3人を圧倒し、2巻の途中から完全に主役となり、3人組はまったく顧みられなくなった。3人組に言及されるのは、最終回の最後の2ページに至ってからである。

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