TINAMIX REVIEW
TINAMIX
めがねのままのきみがすき〜恋愛少女マンガの思想と構造(3)

・有機体モデルの洗練化

図17
[図17]『魔法騎士レイアース』(c)CLAMP

この有機体モデルが80年代半ばから洗練-図式化される傾向にあることは眼鏡論的に重要なポイントなので、詳しく見ておこう。有機体モデルの洗練−図式化傾向を突き詰めると、1993年から『なかよし』に連載されたCLAMP『魔法戦士レイアース』[図17]に行き着くことになる。『レイアース』にも、<複数>の主人公が登場する。だが、宮台が言うような「<私>をめぐる関係性」のモデルとは読みにくいし(キャラが類型化されすぎており、感情移入が難しい)、「若者としての<我々>をめぐる関係性モデル」とも読めない(世代間ギャップなど描かれない)。宮台の解釈図式では「関係性モデルの短絡化」とか「オタクマンガの上昇」といって分析を放棄するだけに終わるだろう。

しかし『レイアース』に対しては、ある概念(カテゴリー)を擬人的に各キャラクターに配置した様式として読めば、合理的な解釈が可能となる。具体的には、光ちゃんを「元気」という価値が擬人化したキャラ、海ちゃんを「プライド」という価値が擬人化したキャラ、風ちゃんを「知」という美徳が擬人化したキャラとして読解してみる。すると例えば「元気」なキャラと「知」のキャラが喧嘩をするエピソードは、一人の人間の中の「元気」な部分と「知」の部分の葛藤と読み替えることができる。ひとつの事件をめぐる「プライド」と「知」の解釈の対立は、一人の人間の中の「プライド」と「知」の間の相克を表現していることになる。3人が協力して問題を解決するのは、「元気/プライド/知」という各価値が総合されることを意味する。要するに、各キャラを独立した人格として読むのではなく、有機体的に一体化したグループとして理解するわけである。

このように人間の心の中のカテゴリーを擬人化し、物語において総合するという発想は、古くはプラトン『国家』にも見いだせる。『国家』では人間の魂を「知恵/勇気/節制」と3つに分類する。そして、知恵の部分を統治者階級、勇気を戦士階級、節制を生産者階級に擬人的に割り当てた。すると国家において「統治者/戦士/生産者」の3階級が調和を保つことは、人間の魂の「知恵/勇気/節制」の3部分が調和を保つことと同じということになる。『国家』が「政治学」だけでなく「教育学」においても参照されるのは、政治学が「統治者/戦士/生産者」の国家内での調整を主題として読むのと同様、教育学が「知恵/勇気/節制」の心理内での調整を主題として読むからである。

図18
[図18]『星の瞳のシルエット』(c)柊あおい

たとえば少女マンガでは、柊あおいの『星の瞳のシルエット』を洗練された有機体モデルとして読むことができる。この作品では、「道徳的/理性的/感情的」という魂の3部分を各キャラクターに配置し、各キャラクター間の相克と交流を描くことで、人間の魂内部における3部分の葛藤と調整を表現した。物語は、「感情」のために我慢を強いられていた「道徳」が、「理性」に適切なアドバイスを受けながら次第に中心的位置を占めるようになり、最終的に「道徳/感情/理性」の3つの価値が調和に至る過程を描いた[図18]。

図19
[図19]『もうすぐ春ですね』
(c)たておか夏希
図20
[図20]『ABOの天使たち』
(c)愛本みずほ

このような有機体モデルは、明治時代の中江兆民『三酔人経綸問答』などにも見られる。『ガッチャマン』や『コンバトラーV』、『ゴレンジャー』などが、「熱血/クール/チビ/デブ/女」という類型化をしているのも興味深い。『西遊記』は「粗暴/神経質/強欲」という人間の悪徳を擬人化した妖怪を「道徳」という価値が制御するという話だが、これが日本に来ると「道徳/勇気/知恵/力」というカテゴリーになったり、三蔵法師が女になったり(山口貴由『悟空道』)、三蔵以外が女になったり(山本貴嗣『西遊少女隊』)、宇宙に出たりする(『スタージンガー』)。他にも、精神分析の「自我/超自我/エス」というカテゴリーを登場人物に擬人的に割り振るタイプの文芸批評はいくらでも見出すことができるだろう。

ここで眼鏡論的に注目されるのは、有機体モデルの洗練化が進行すると、だいたい一作に一人は眼鏡っ娘が登場することである。『レイアース』では風ちゃん。『星の瞳のシルエット』では沙樹ちゃん。アニメでも、『おじゃ魔女どれみ』でははづきちゃん。これは、どのキャラクターがどの「価値」を担当しているかを明確にするためである。眼鏡は70年代を通じて「勉強ができる」ことのメタファーとしての役割を付与されてきた。それで、そのメタファーを用いて、「知」や「理性」の部分を担当するキャラクターとしての眼鏡っ娘が登場するわけだ。同様に「美」や「感情」を担当するキャラにもそれ相当の解りやすい記号が用いられ、各キャラがどの価値にあたるのかが明確に解るようになっている。これは解りやすければ解りやすいほど効果がある。だから、キャラ造形は定型化する傾向にある。ただ、だからといって作品としてくだらないわけではない。
図21
[図21]『ABOの天使たち』
(c)愛本みずほ
有機体として一体感があれば作品として完成度が高まる。個々の分子が陳腐であること自体は、さして問題ではない。

洗練された有機体モデルとして、たとえば、たておか夏希『もうすぐ春ですね』[図19]、愛本みずほ『ABOの天使たち』[図20]、浜田翔子『好きの100万倍』[図21]などがある。>>次頁

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『魔法戦士レイアース』
(c)CLAMP『なかよし』1993年11月〜1995年2月

有機体的に一体化したグループ
有機体モデルを採用した社会観は、19世紀イギリスのスペンサー、フランスのデュルケーム、19世紀ドイツ国家学などに典型的に見られる。近年のルーマンの社会システム論も「オートポイエシス」という生物学的な概念を導入した理論であり、社会を生物学(有機体)のメタファーで理解する伝統は根強い。宮台真司は社会システム論に依拠したと自称しているが、むしろ生物学的な諸概念を排している点で、個人主義的市民社会論の一バリエーションのように思われる。

各キャラクター間の相克と交流を描くことで、人間の魂内部における3部分の葛藤と調整を表現した
個々の登場人物が発しているセリフを一人の人間の内言として読むと、わかりやすい。

『西遊少女隊』
これは原典通り、悟空、悟浄、八戒を「粗暴/神経質/強欲」という3悪徳に配置している。この作品の場合、三蔵も悪(?)だが。ちなみに、松苗あけみ『純情クレージーフルーツ』は、女の醜い部分「惚れっぽい/ブリっ子/がさつ/デブ眼鏡!」を拡大して擬人化したものである。

『もうすぐ春ですね』
(c)たておか夏希『なかよしデラックス』1986年2〜4月号。出てくる3人は、「おとめちっくな朝子ちゃん、いじっぱりな美緒ちゃん、ちょっぴりすなおじゃないえりかちゃん」。有機体モデルは、「おとめちっく/いじっぱり/すなおじゃない」という3要素が1人の人間の中に混在していると読む。ビジュアルでは、眼鏡のズレ具合に注目。

『ABOの天使たち』
(c)愛本みずほ
『別冊フレンド』1990年10月号〜91年1月号。愛本はしばしば眼鏡っ娘を描くが、眼鏡のズレ方ではトップレベルを誇る。出てくる4人は「真面目な優等生タイプのA型/気まぐれマイペースのB型/クールで知的なAB型/目的志向型で好き嫌いの激しいO型」。血液型で人格が決定する道理はなく、これも有機体的に読むのが適当だろう。ちなみに、60年代には血液型占いも少女マンガ誌に載っていなかった。 医学の父とか医聖などと呼ばれているギリシャ時代のヒポクラテスは、「多血質/胆液質/神経質/粘液質」の四体液の混合の割合で人格が決まるという「四体液説」を唱えていた。これはカントなどに引き継がれ、20世紀初頭まで心理学・生理学・教育学などの分野で常識となっていた。体液で人格が決定するという発想は古くから存在するが、血液型で人格を決めつけることがこんなに流行しているのは、日本くらいのものだろう。

『好きの100万倍』
(c)浜田翔子
『きらら16』1997年8〜10月号。

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