TINAMIX REVIEW
TINAMIX
めがねのままのきみがすき〜恋愛少女マンガの思想と構造(3)

・一回交番ゲームから反復交番ゲームへ

1980年あたりの少女マンガの変化は、「一世一代の大勝負」から「トータル勝負」型へのポーカーの戦術の変化になぞれるだろう。眼鏡という負の刻印を背負った少女は、最初から大幅に借金を背負っている状態といえる。勝つためにはストレート・フラッシュをあがらなければならないという状況に追い込まれている。しかし、少女の手札には邪魔ものの眼鏡があり、このせいで手札はバラバラ。とても勝てる見込みはない。しかしいざ手をあけてみると、少女の手元にあったのがロイヤル・ストレート・フラッシュだったことが明らかになる。実は眼鏡はバラバラに見えた手札を一挙にまとめあげる「ジョーカー」だったわけだ。こうして少女は一世一代の大勝負に勝利し、初期の大借金を帳消しにする。

この一世一代の大勝負タイプの賭事は、1982年頃には衰退する。変わりに目立つのが、ゲームを何回か繰り返してトータルでプラスを目指すゲームである。この場合、一回ロイヤル・ストレート・フラッシュを完成させても、あとの勝負で負け続けたら意味がない。だから、一回一回の手役はそれほど重要ではない。それよりも、相手の手役づくりにどのような傾向があるかを確認し、捨て札から相手の隠された手役を推測することのほうが大事になってくる。最初は負け続けても、相手の傾向さえつかんでしまえば勝つのは容易だ。しかもロイヤル・ストレート・フラッシュを作る必要もない。相手がブタのときにワンペアで勝負を仕掛ければいいわけだから。1982年以降、少女マンガはこちらのトータル勝負の形式を整える。同じ頃に恋愛少女マンガが短編読み切りから長編連載へ主力が移行するが、これもゲームの長期化という観点から理解できる。

このゲーム形式の変化は、「告白」という儀式が重要ではなくなったことに起因する。「告白」は、一回の勝負で決定的な結果が生じるゲーム形式である。しかも、告白をするほうが早出しを要求される。勝負の主導権は後出しのほうが握っている。早出しを要求されるほうは決定的に不利であり、「罠」にはまっていると言える。藤本の「恋愛の罠」という危惧には正当性がある。しかし、それがオセロのような反復交番ゲームなら、一番最初に手を見せた方も、それに対する相手の手を見て次の自分の手を考えることができる。たった一回の勝負に負けることなどたいした問題ではない。問題だとすれば、その失敗から何も学ばずに負け続けることだろう。その点、少女マンガの主流は1982年頃に反復交番ゲームへと切り替わっている。

藤本は「男の子が『自分を肯定してくれる他人』から『理解すべき他人』になりはじめた」と言っている。あたりまえの話で、<恋愛>において「告白」という宗教的な儀式が中心だったときには男は全能の神であるかのような位置にいた。その場合、「告白」が成功することは自分が神に承認されることを意味した。しかし、「告白」という宗教的な主題が重要性を喪失すれば、男性は神の座からひきずりおろされる。あとは、ゲームの相手としての男が残されるばかりだ。その場合の男は、藤本の言う「理解すべき他人」というより、「手札を読むべきゲームの相手」とでも呼んだ方が正確だ。橋本治が1985年に「恋愛論」と題した講演を行っているが、そこでは恋愛に関するテーゼが次のように示されている。「他人に自分を愛させたら勝ち」「他人を愛してしまったら負け」「他人に愛されてしまったら身の不運」、そして「恋愛っていうのはいわゆる"愛"っていうのとは違う。もっとエゴイスチックで駆け引き−つまり戦いみたいなもんなんですね」。この橋本の指摘は、少女マンガの1980年代初頭の恋愛観の展開と対応している。

そして、少女たちがゲームの手腕を磨いたのに対し、男どもが恋愛テクノロジーの発達から取り残されたことは宮台真司が指摘している。宮台は、ゲームの腕に欠ける「もてない男」は自然淘汰の中で絶滅するのみだと観察している。上野千鶴子も同様の観測をしている。これに対して果敢に反抗の狼煙を上げ、「もてない男」の擁護を叫んでいるのが小谷野敦だ。「もてない女」を代弁しているのは中島梓である。宮台や上野がゲームの規制緩和と自由化を唱えているのに対し、小谷野は規制による弱者救済を訴え、中島は勝てる見込みのないゲームからは降りるべきだと提唱している。藤本由香里は、各個人がゲームの勝者の成功物語を鵜呑みにせず、ルールをしっかり認識すべきことを訴えている。ちなみに橋本治は自慢ばかりしている。まあ、いずれにせよ、素朴な恋愛観から遠く離れてしまったことは間違いない。

図13
[図13]『アイドルを探せ』
(c)吉田まゆみ

このような恋愛のゲーム化の頂点に位置付くのが、吉田まゆみ『アイドルを探せ』[図13]とされている。『少女マンガに片想い』が「恋人探しは、金魚すくいのごとく」と紹介しているように、たしかにゲームのような恋愛だった。しかし、『アイドルを探せ』の評価には注意を要する。これが、これまで述べてきたような眼鏡っ娘マンガとは異質の構成原理で成り立っているマンガだからだ。

ここで<恋愛>に関する検討は一旦脇に置いて、これまで視野に入ってこなかったタイプのマンガの構造に関する検討に移る。ここで「共同体」という視点を導入し、最後に<恋愛>論と合流させ、眼鏡論を締めくくることにする。まずは、『アイドルを探せ』の読解から始めよう。>>次頁

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1982年以降、少女マンガはこちらのトータル勝負の形式を整える
最近、「センター試験」を複数回化してリスクを分散させようという動きがある。

「告白」という儀式が重要ではなくなったことに起因する
『ねるとん紅鯨団』放映開始が1985年。これは「告白」を最高潮に戯画化したものだった。「お願いします」とか「ごめんなさい」という「告白の儀式」に苦笑した人も多いのではないだろうか。これはもう「自らを真理として認証する儀式」とは程遠い。

反復交番ゲーム
「交番」はpoliceではない。「かわりばんこ」という意味。

「告白」が成功することは自分が神に承認されることを意味した
「告白」が失敗しても、「告白」という儀式自体がカタルシスとなり、自己肯定を引き出すような物語もある。前々回のフーコーの『性の歴史』からの引用箇所を参照。

「恋愛っていうのはいわゆる"愛"っていうのとは違う。もっとエゴイスチックで駆け引き-つまり戦いみたいなもんなんですね」
橋本治『恋愛論』講談社、1986、p.86。

少女たちがゲームの手腕を磨いたのに対し、男どもが恋愛テクノロジーの発達から取り残された
宮台前掲「いまどきの恋文」など。

小谷野は規制による弱者救済を訴え、中島は勝てる見込みのないゲームからは降りるべきだと提唱している
ゲームから降りてしまった女を笑っているのが、横森理香『恋愛は少女マンガで教わった』クレスト社、1996。ところで、男たちの恋愛テクノロジーはギャルゲーによって進歩するだろうか?

『アイドルを探せ』
(c)吉田まゆみ
『mimi』1984年no.4〜1987年no.21。

「恋人探しは、金魚すくいのごとく」
『少女マンガに片想い』フットワーク出版社、1994、p.68。

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