3-3.ギャルゲーを巡る状況論的な混乱
しかしながら事態がいささか厄介なのは、システムの変更(ゲーム性の問題)とギャルゲーバブル(状況論問題)がきわめて捻れた相関性をなし、ギャルゲーを巡る言説はある種の混乱状況を呈していることだ(例えば「翼右ムーゲ」――これは文法間違いではない――の標榜)。無論、ウェブ上に存在するこうした動きは、それ自体ほとんど取るに足らない。とはいえ、彼らの態度そのものを問うことには意味がある。なぜなら、ゲーム右翼(ひとまずこう呼ぶことにしよう)は「ゲーム性の問題」と「状況論問題」の奇妙な捻れ、つまり爆発的な成長を遂げたギャルゲーが従来のゲーム文化に植えつけた外傷の、その裂け目から生まれて来ているように思われるからだ。不思議なことに彼らはギャルゲーと、それに連なるユーザー層を嫌悪する一方で、ギャルゲーの存在すべてを否定するわけではない。その二重性は、端的に彼らの『ときめきメモリアル』評価としてあらわれる。
乱暴に要約するとこうだ。彼らは一方で『ときめきメモリアル』の自由度(ゲーム性)の高さをきわめて特権的なものと評価しながら、他方で『センチメンタルグラフティ』の美少女性(キャラ萌え)を排撃し、『To Heart』のノベル要素(物語性)をゲーム性の欠如だと否定的に断ずる。ここで描かれた構図からは、『同級生2』/『ときメモ』以後のギャルゲーバブルがもたらした、混乱状況を見て取れる。私たちはここから、「ゲーム性」と「キャラ萌え」そして「物語性」の三要素を巡ったヘゲモニー争いが行われていると、解釈することができるだろう。そのうちゲーム右翼とは、ギャルゲーが導入した「キャラ萌え」と「物語性」に対して抵抗しながら、元来ゲームとはそうであった望ましき姿「ゲーム性」の特権性を擁護するイデオローグだ。彼らは必然的に保守化している。
しかし私たちの考えでは、彼らの強固なイデオロギー性が逆に問題を見えにくくさせているように思われるのだ。例えば彼らに『同級生3』の困難は見えていない。なぜ『同級生3』は作られないか。その問いはもはや言うまでもなく、システムの変更(ゲーム性の問題)とギャルゲーバブル(状況論問題)の両方にまたがっていたはずだ。しかし、ゲーム右翼には状況論問題しか見えていない。彼らはゲーム性の優位をあまりにも楽観視しすぎる。それゆえ『同級生3』が直面している困難、システムの変更が迫られながら、そこで限界を越えるアイディアを示せないでいる現実を見ようとしない(あるいは無意識的に)。このような態度を貫いている限り、ゲームをめぐる議論は必ずや不毛なやり取りに帰着する。そして実際にウェブ上のギャルゲー論議/批評は、広くそうした不毛さにとらわれていたのではないだろうか。それならば、『同級生3』のシステム変更(ゲーム性の問題)はいったいなぜ行われないのか――そう問うことで、私たちは状況論問題に拘ってしまう陥穽から逃れなくてはならないだろう。とはいえこの問いは一見、ひどく難しい。しかしそれは、達成/限界の向こう側にある、何か今までにない、新しいゲームシステムを具体的に想像することから始めてしまうことから来る難しさだ。ここではギャルゲーにおける具体的な新システムのイメージではなく、そうした新システムが生まれないこと、斬新なゲームデザインが示されないことの条件そのものが問われている。それゆえ私たちは、その問いをいささかラディカルに組み直さなくてはなるまい。一般にゲーム性と言われるが、そもそも恋愛ゲームにおけるゲーム性とは根源的に何だったのか。
冒頭で整理したように、『同級生』の先駆性は「ナンパ攻略ゲーム」に「純愛的要素」を導入したことで特徴づけられていた。したがって、ここでのゲーム性とは紛れもなく「ナンパ攻略」のことを指し示していると解釈してよい。だが私たちはある違和感を表明せずにはいられない。どういうことか。前述の整理で、私たちはこの違和感をあえて無視した。だが「ナンパ攻略」に「純愛的要素」を付加して、それらが齟齬を起こすことなく成立するゲームとは、よく考えてみるとずいぶん奇妙なものに思われるはずだ。しかし私たちの考えでは、その種の違和感は何も『同級生』というゲームの欠陥を意味しない。というよりおそらく私たちはゲームプレイに没頭している最中に、そのような違和感を感じないはずだ。なぜなら原則的に、ゲーム性とは「攻略」という概念と不可分の関係にあるからだ。それは「ナンパ攻略」でも変ることはない。ゲームプレイにのめりこんだ時点で、私たちは「ナンパ攻略」の意味する、非純愛的ないかがわしさをすっかり忘れ、それは一律にゲーム性として理解される。しかし女の子と恋愛することすら「攻略」として組み込まれるその暴力性は、「蛭田キャラ」の男根主義といったいなにが違うのだろうか。ギャルゲーにおけるゲーム性が、つねにこうした「攻略」概念に陥るのならば、ギャルゲーにゲーム性など必要ないし、なによりそうしたゲーム性は、いまやユーザーの側からあまり歓迎されていない。
3-4.80年代的恋愛観の限界
そろそろひとつの結論を提示せねばなるまい。蛭田キャラに対して私たちはさきほど「時代遅れ」という形容を使った。だがこの単語は、なにも偶然選ばれた言葉ではない。蛭田キャラの男根主義的な価値観を指し示すと同時に、この言葉は分身である蛭田昌人本人をも形容する。つまり、蛭田は二重に「時代遅れ」だとして。具体的に言おう。前述のように蛭田は『同級生』に「純愛的要素」を導入した。とはいえ、ここで「純愛的要素」とはデートやイベントをこなしていく過程で好感度を向上させるという一般的な恋愛コードからいささかも逸れることのないスタイル、バブル経済下で極度にマニュアル化した80年代的な恋愛作法の洗礼を受けたであろうゲーム制作者自身の恋愛イメージを極めて忠実に反映している。それゆえこうしたマニュアル的な恋愛イメージは、たんに蛭田個人の問題だと考えることこそ、むしろ無理があるだろう。これらの言葉は蛭田個人の揶揄を意味しない。それどころか、実はもう少し普遍的な問題――そもそも中堅的なゲームクリエイターはおおむね80年代に「青春」を生きていたのだから――をはらんでいるように思われるのだ。おそらく80年代的なクリエイターは恋愛の感性が端的に古い。『同級生3』の制作不能性は蛭田の単純な能力不足を意味しない。それはむしろ、システム変更(ゲーム性)に執着せざるをえず、ギャルゲーバブル(状況論)が遺したイデオロギー論争に足元をすくわれがちな、世代論的な感性の決定的な古さとして理解されるだろう。
……リーフビジュアルノベル三部作がもらたしたのは、以上のような限界を乗り越える術だ。それはゲームを物語表現に特化し、攻略に関わるゲーム性をほぼ放棄した。これはゲームにおける一つの純化した果てにも思え、未だに次を指し示すような作品が現れないことに不満を抱くのは、あまり正しい態度とは私には思えない。なお附記しておくと、99年にエルフも『Refrain Blue』というノベルゲームを発表。こうした動きはパラダイムの変化を如実に裏づけるものと言える。
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