3-2.『下級生』
『同級生3』の企画自体は複数のパソコンゲーム誌を通じて、実に二年以上も前にその概要が告知されている。そこではアニメーションの使用や前作のヒロイン鳴沢唯の登場を示唆するといったファンサービス的な目配せを見せつつ、重要な情報が二つばかり語られていた。ひとつはシステムの大幅な変更だ。これは単純に『同級生2』の達成/限界を乗りこえようとする率直な態度表明に受け取れる。私たちは『同級生2』の限界を指摘した。しかし制作者がそれに鈍感だと考える方がむしろ無理があるだろう。実際、彼らはきわめて敏感だったように思えるのだ。
96年にリリースされた『下級生』は、私たちの考えでは前年PS版が大ブレイクした『ときめきメモリアル』と同級生シリーズ自身の限界が形成する困難さの双方へむけた誠実な応答だと思われる。例えばよく指摘されるように『下級生』のゲーム期間が1 年間に設定されているのは、3年間の学園生活それ自体を舞台にした『ときメモ』を意識すると同時に、イベント特化型シナリオの限界(ネタ切れ)を逆説的に補ったものとして理解することができる。あるいは『ときメモ』がプラットフォームの制約上避けざるを得なかった性描写を『ときメモ』的な純愛路線を保ちながら両立させること。それを可能にするための態度変更と『同級生』の限界を越える試みを併置すること。原画担当に竹井正樹ではなく、門井亜矢が選ばれた理由と主人公(蛭田キャラ)に見られる成長の跡を、私たちは単純なタイトルの変更に回収することなく、これらの線上で読み解かなくてはならない。
具体的に確認しよう。しばしば言及されるように、門井亜矢は『下級生』の原画を担当する前はセーラームーン系の同人作家として知られていた。その彼女が描く絵には、残念ながらアニメーター出身の竹井が持っていた緻密さや抜群のデッサン力はあまり見られない。だがそうした比較はおもしろくない。彼女の絵柄は端的にかわいらしい。門井の採用はおそらくそれを求めた結果だと解釈されてよい。少なくとも門井原画の評価は女性らしい繊細さ、かわいらしさへとむけられている。私たちはこうした門井評価を根拠に、『下級生』は原画の変更(美麗さ、緻密さ→繊細さ、かわいらしさ)によって、純愛色を強めることにおおむね成功したと評価することができる。
次に主人公(蛭田キャラ)の成長はどうか。結論から言うと、私たちは原画の変更によるグラフィックレヴェルでの成果ほど評価することはできない。と言うのも主人公を巡る試みそれ自体は、一般にほとんど理解されなかったからだ。『下級生』においても蛭田シナリオのお約束通り、またしても『同級生』主人公の安易な転用に思われた。この見方はほぼ正しい。しかしここで私たちは、蛭田キャラの微妙な成長をこそ慎重に見極めなくてはならないと考える。なぜならシナリオライター/ディレクターは変更されていないからだ。では微妙な成長とはいったい何か。私たちは女の子との会話に配置された巧妙な選択肢に注目する。前作では攻略を左右する分岐的意味合いしか持たなかった選択肢だが、『下級生』では好感度上げに関わるのと同時に、三択の取捨が「もうほとぼりは覚めた、俺は純愛がしたい」と語る主人公の成長度と性格設定の振幅を直接反映している。したがってそこでは、蛭田キャラ/脱蛭田キャラの選択はプレイヤー自身の意志にかかっていると言ってよい。そして一年というゲーム期間(『ときメモ』への応答)は、女の子との濃密な交流=コミュニケーションを通じて女の子と主人公の双方を深く掘り下げる結果に繋がった(『同級生2』への応答)。『下級生』を評価する声の最良の部分は、まさしくここに帰結している。
以上の整理から、ある種の態度変更は『下級生』で既に積極的に試みられていた、と解釈することができるだろう。それゆえ『下級生』こそ『同級生3』のことではないかと考える意見も当然のことながら出る。しかし私たちはそうした短絡に抵抗しなければならない。問題は『同級生3』がつくられない理由、その制作を阻んでいる条件を探り出すことにある。実際私たちの知る限りでは、『同級生3』のリリース予定は『下級生』発売後にもアナウンスされている(『電撃王』96年12月号)。この時点で、少なくとも彼らには『同級生3』を作る意志があった。だが97年以降のエルフから、サターン版およびWindows版への移植ラッシュしか事実上行われなかったことを否定的に傍観していた私たちには、96年当時に感じられた『同級生3』制作のモチベーションはそれから急速に低下したように見える。無論、こうした考えは単に憶測の域を出ない。しかしながら、そう思わせてしまう時点で企業戦略的にまずい。ユーザーはいまやエルフの名を着実に忘れつつある。だが私たちはそうした否定的な見方を裏返して読むこともできる。つまり95年に勃発したキャルゲーバブルの混乱状況を静観しつつ、その穏やかな終息をじっと待機する余裕の姿勢として捉えることもできるわけだ。例えば前述した『同級生3』の企画発表記事の中で告知されていたという、もうひとつの重要な情報とはまさしく当時の恋愛ゲームブーム(ギャルゲーバブル)が終わった後の発売を示唆するものだった。システムの大幅変更(『下級生』が残した課題への対応)とギャルゲーバブルの静観(状況論的な課題への対応)、それこそが96年末において『同級生3』が掲げた戦略の企図だと考えられる。そしてこの整理は一見、きわめて妥当なものに思える。しかしその考えは、96年当時にリアルタイムで同記事を読んだ場合に限られる。私たちはそれから三年余のあいだに起こるはずの未来の出来事をあまりにもよく知りすぎている(例えばリーフの台頭)。『同級生3』の企画自体は、自らを未来形で語ることしかできない。しかし私たちはそれらを過去形で、しかも雄弁に語ることができる。例えば『同級生3』がつくられなかった事実を。そして私たちには、その事実が、『下級生』発売後に企図された戦略線上の出来事、つまり彼らの思惑どおりの展開にはどうあっても思えないのだ。いったい何が彼らの戦略をつまづかせているのか。
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