さて、僕がシーザー氏に聞いてみたいことは、もう一つあった。さまざまな文化ジャンルが「壁」によって寸断され、自閉しているのだとするなら、その「壁」を成立させているのはなんなのか、ということだった。この作品の初演当時に「壁」と言えば、冷戦もあったし東西ベルリンの壁もあった。この作品に登場するサルトルの「壁」やカフカの「流刑地にて」にしても、こうした政治的な「壁」を含意している。ではいま、2000年の壁とは、文化の自閉状況を作り出している「壁」の正体とは一体なんなのだろうか? 世界全体を包み込んだグローバル資本主義とポストモダニズムの徹底か、小林秀雄名付けるところの「自意識の球体」か。それを僕は、シーザー氏に聞いてみたかったのである。
――初演当時には政治的な壁っていうのが大きかったと思うんですが、いま、2000年の今の「壁」ってどんなものとお考えですか。
政治的な壁っていうのは確かにあるのだけれど、寺山さんはそれをポルノグラフィ的にそれを解釈しようとしてる(笑)。壁といっても、特に政治的なものだけを考える必要はないわけですね。みんな壁っていうのを、すぐに政治的な壁とか、逆に内面的な壁とかっていうふうに解釈するけど、むしろ今回の公演で「壁」にこめたテーマはもう少し恒久的なもの、つまり「言葉」に対しての疑問なんですよ。
――「言葉の壁」っていうのは何なのか、もう少し具体的に教えていただけますか。
結局、寺山さんも言うように、言葉を使うことによって、むしろその意味が閉ざされていくという側面があると思うんですよ。今現存している言葉というのは、人間同士が仮に理解し合おうとするための便宜的な言葉であって、それをどう組み替えようとも、本質的な意味を捉えることはできない。意味っていうのはもっと体験的なもの、視覚的・聴覚的なものだったはずです。
――いわゆる記号論で言う「言分け」以前にあったはずの意味を取り戻す、ということですね。
そうです。もともと言葉っていうのも絵文字から来ていたり、あるいは何かモノとの直接的な出会いというようなもの、そうした直接的な経験が、原初的な言葉の形態としてあるわけでしょ? ところが人間は便利になるために、言葉をどんどん増長させていった。だから言葉そのものが壁だ、っていう考え方をしてるんですよね。もともと寺山さんも、「台本は無い」っていう考え方をずっとしてきた方なんです。
――ほとんど台詞とか決まってなくて、俳優さん同士がディスカッションしながら戯曲を作っていったそうですね。逆に寺山さんは、俳優が議論しながら作ったものを、後から台本としてまとめていった……。
そうです。いわば、俳優の肉体を通じて台本を書いていった。この作品のタイトルにしても、『レミング』以前に『パンドラの凾』とか『失楽園』とか、五十ぐらいの仮タイトルを寺山さんが出して、僕らはその五十の言葉をイメージしながらワークショップに入っていったわけです。そうしてできあがったものを、総合的に寺山さんは『レミング』と喩えたわけですね。
補足しておこう。実は、西洋の演劇史の中では、戯曲だけが特権的な分析の対象であり、それ以外の要素は付随的なものとして捉えられてきた。俳優の演技や舞台装置が演劇を語る上で重要なものだという認識は、20世紀に入るまで存在しなかったのだ。こうした伝統的な演劇論の枠組みの中では、俳優どうしの演技が生み出す相互的な関係は、どうしても副次的なものになる。まして俳優と観客の生み出す予想外のドラマなど、全く論じるに値しないものとみなされていた。演劇は完全に作家の「言葉」によって隅々まで決定されるものであり、「言葉」は劇場の中の人間を分断してそびえ立つ「壁」となっていたのである。
寺山は、この「作家が書いた台本を戯曲を俳優が演じる」という構造そのものを転倒し、「俳優が作った戯曲を作家が書き留める」という戦術を採った。戯曲を書くという特権を半ば放棄し、決定不能性を最大限に導入するこのスタイルは、「壁の隙間」を極限にまで押し広げる行為だったと言える。再びシーザー氏の言葉に戻ろう。
壁は必然的に出てくるけど、隠してしまったらダメになっちゃうだろうっていう気がするんですよね。こういう芝居をやって壊したところで、またどんどん次の壁が立ち上がろうとする。それをまた壊していくんだけどまた立ち上がる。そのうち立ち上がる以前に壊して、半分くらい隣が見えてくる状況での壁の存在っていうのも、今後は考えていかなきゃいけないだろうと思います。
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リハーサル風景: 塚原勝美氏と大浦みずき嬢
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寺山/シーザーの演劇は、俳優や観客、舞台装置、さらには小屋の持つ空気などによって、渾然一体となって作られるものだ。最初の方で書いた、黒装束の万有団員と上品なご婦人の演じて見せたドラマなど、その典型と言っていいだろう。そこでは観客が「びっくりしたわぁ」と叫ぶ可能性もあれば、「こんな小細工しおって」と薄笑いを浮かべる可能性もある。ここでは、作家の言葉の壁によっては囲い込むことのできない「壁の隙間」が、最大限に押し拡げられているのである。
また今回の公演では、舞台奥に巨大な壁が設置されていたが、この壁にはちょっとした細工が施されていた。壁を作る板と板の間に文字通り隙間が空いており、壁の背後からライトが当たると、そこから光が漏れてくるのである。ライトが当たったその瞬間、観客は舞台という表層でなく、その裏側をシルエットのかたちでかいま見ることになる。
以上は本公演における「壁」の乗り越えの戦略だが、これは僕らを取り巻く現代の状況を考える際にも、さまざまなヒントを提供してくれるはずだ。いま、文化の自閉状況に再び目を移したとき、こうした「言葉の壁」が何に相当し、「壁の隙間」が何に相当するのか。そして「壁の隙間」を最大限に押し広げるには、「壁の背後」をかいま見るにはどんな方法があるのか。読者もぜひ一度、考えてみて欲しい。>>次頁
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サルトルの「壁」
『レミング』では消失した壁の代わりとして、サルトルの「壁」の文庫本を持ってくる不可解な区役所員が描かれている。「壁」はフランスの作家・哲学者、J・P・サルトル(1905〜1980年)の手になる短編小説。スペイン人民戦争を背景に、ファシスト政権によって処刑を待つ人民戦線派の死刑囚を描く。ここでタイトルとなっている「壁」とは、死刑囚が処刑される直前に立たされる壁のことであり、生と死の間の壁の隠喩である。新潮文庫版『水いらず』(ISBN4-10-212001-7)に収録されているものが入手が容易である。
カフカの「流刑地にて」
『レミング』ではサルトルの「壁」は実際の壁としては役に立たず、カフカの「流刑地にて」の巨大なハードカバーが壁として持ち込まれる(下の写真参照)。F・カフカ(1883〜1924年)はチェコの労働者災害保険協会のサラリーマンであり、死後に作品が出版され、作家としての認知を受けたという人物。「流刑地にて」はその代表作で、地上のどこにあるか判らない不可解な流刑地を舞台に、裁判官兼死刑執行人と旅人との対話を描く。この流刑地では奇妙な処刑機械による死刑執行が行われているが、裁判官兼死刑執行人は自らこの機械にかかって自殺を遂げ、処刑機械も突如変調を来して自ら分解してしまう。冷酷無比な社会のメカニズムが、自滅をとげていくさまを隠喩しているとみることができよう。「流刑地にて」は岩波文庫版、『カフカ短篇集』(ISBN4-00-324383-8)での入手が容易。
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ポルノグラフィ的
『レミング』において壁の向こうに住んでいるのは、政治的に対立する人々ではなくて、単にミス・トルコだったり、しきりに性器を弄っている学生だったりする。
「言分け」
言語学者・丸山圭三郎がその著書『文化のフェティシズム』(1984年、勁草書房)で唱えた言葉。人間は言語や所作のほか、音楽や絵画などのシンボル活動=言分けによって、生物学的には不必要な過去・未来といった過剰な現象を獲得すると同時に、「今ここ」のナマの現実から遠ざかってしまった、とする。
その裏側
下の写真のように、背景から光が当たることで、壁の背景にあるものがシルエットになって浮かび上がる。正面から光が当たっているときは、これはほとんど見えない。
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