TINAMIX REVIEW
TINAMIX
演劇実験室◎万有引力

三々五々、観客が集まっている。平日昼間の公演ということもあって、大半はヅカファンの人々だ。やがて開演。……と、ロビーに妙な影が出現している。黒ずくめのマントにアーミッシュのような黒い鍔広帽、そして白塗りのメイク。ほとんど身動きせず、時間の流れが周囲とは違うかのように、ゆっくり、じりじりと歩き続けている。いうまでもなく、万有引力の団員である。

「わ! びっくりしたわぁ」。

上品そうなご婦人が、ロビーにまで溢れてきた「演劇」に驚いている。プロセニアム・アーチどころか、劇場のホールからさえもはみ出して、ロビーにあふれ出してくる「演劇」。そんな「演劇」など、おそらくこれまで見たこともなかったのだろう。「壁の消失」を描いた芝居だという予告をあらかじめ受け取っているにも関わらず、演劇と観客の間の「壁」が消失するなどとは、思ってもみなかったのだ。周囲の和やかな雰囲気と鋭い不協和音を奏でる、団員たちの黒いシルエット。「演劇」はホールの中へと緩慢な歩みを続けている。

黒い影をやりすごし、ホールの中に入る。と、既に舞台上には黒ずくめの少女が腰を下ろし、見るともなしに客席を眺めている。客席に置かれた飛び石舞台の上にも、黒いシルエットが座っている。左右の飛び石舞台に一人ずつ、まるで碁石(ごいし)を置くような奇妙な所作をゆっくりと繰り返す、二つの黒い影。観客席の一つひとつが碁盤の目であるかのように、虚空に石を置き続けている。ロビーにはにじりよる影の群れ、舞台上には黒ずくめの少女、そして左右から碁を打ち続ける二つの影。これで観客は、黒ずくめの「演劇」の群れによって、完全に包囲されたわけだ。

よくよく考えてみれば、観客とは碁石のような存在だと言えるかもしれない。特に、近代的な演劇という「制度」に調教された観客は、碁石と同然の存在だ。「予約席」というたかだか1メートル四方の空間に行儀よく囲い込まれ、すぐ隣の人間とのコミュニケーションすら断ち切られているのだから。劇が始まってしまえばその進行からは完全に疎外され、単に「見てるだけ」の人になってしまう観客。要するに観客とは、行為の主体であることを放棄した人間なのである。いわんや私たちは、「演劇」によって包囲されている。囲い込まれて取られるのを待つ、死んだ碁石も同然なのだ。

観劇前の軽い興奮に酔いながら、他愛のないおしゃべりに興じるこれら碁石の群れは、このオープニングに込められた密かな挑発に、どれだけ気がついているのだろうか? 自分自身「死んだ石」となり、周囲の客とのコミュニケーションを断絶されている僕には、それを確かめる術もない。

やがてロビーにあふれていた「演劇」の黒い影が、一人また一人とホールへ侵入し、ゆっくりと物語は始まる。そこからの舞台の詳細については、あえてここでは語るまい。少しだけ印象を記しておくなら、既にビデオ化されている1982年版『レミング』や、高田惠篤演出による七ツ寺共同プロデュース版に比べると、いくぶん叙情的・感傷的な色彩が強まっているように感じられた、ということだ。また、大浦みずき嬢の演技も、これまでアングラ劇を中心に見てきた観客の価値観を大きく揺さぶるものであったことは言うまでもない。今回の公演は既にビデオ化が決定しているから、興味のある読者は自分の目で確かめてみるといいだろう。

リハーサル風景
リハーサル風景:巨大な体温計を持つ蘭妖子嬢

そして2ステージ目終了後、観客席で待っていると、シーザー氏が現れた。ガラにもなく滅茶苦茶に緊張し、しどろもどろの挨拶を済ませると、僕はインタビューを始めた。

――今回の公演は大浦みずきさんとのコラボレーションだったんですけど、この公演が実現するに至った経緯を教えていただけますか。

メジャーリーグの笹部プロデューサーの方から、寺山さんの作品の何かを大浦さんと一緒にやらないか、作品は『レミング』を考えてるんだけど、という打診があったんですよ。それがきっかけですね。

――シーザーさんは、『少女革命ウテナ』でも音楽をやってらっしゃいますね。

幾原監督はもともと天井桟敷のファンだったんですよ。彼の中では何か革命、変革をアニメの中で起こしたいという考えを『セーラームーン』以来ずっと持ってて、それがすごく強く出たのがウテナなんです。突然カンガルーが出てきたりとか、異化効果の面白さみたいなものですね。異化という言葉は結構僕らの中でも使ってきたし、天井桟敷の頃からよく考えてたことだったんで。

――世の中を変えようという部分に共感した?

まぁテレビで僕の音楽を使うこと自体が、もうかなりアブナイというか(笑)、大変なことなんでね。芝居を見た彼が「この曲を使いたい」と言ってきたんで、「それじゃぁ歌詞変えましょうか」って言ったら、イヤもうそのままで行きましょうっていうことだった(笑)。僕もあんまり拘らない方なんで、使いたければまぁいいですよと。

――最近万有さんは「リング」や「Dir En Grey」のビデオなど盛んにコラボレートされてますが、意識的にやってらっしゃるのでしょうか?

こちらから意識してやっているわけではないです。一つは、無理難題がやってきたときに、どうこなすかということですね。思考的、思想的に演劇を作るという側面もあるけれども、逆にわけの判んない台本をボンと投げられて、これを一週間で作ってくれと言われて作れるかどうか。そういうことも僕は演劇の課題だと思うんですよ。だから「芝居やってくれないか」って言われたときは、僕はまず断らないと思う。万有引力という劇団の中でしかできませんというのじゃなくてね。天井桟敷そのものが和モノから洋モノ狭いところ広いところと全部やりこなしてましたしね。寺山が台本書かなくなったらシェイクスピアもやったし、次の条件は外部とのコラボレーションに投げ込まれることだろうと思ってましたから。

――こうしたコラボレーションを続けることで、実際に客層がちょっと変わってきた、とかいったことはありますか。

一時期、教職員、学校の先生なんかすごく増えてたんですけどね。実は僕は、こういう作品を小学生だけに見せてみたいという気持ちがあるんですよ。想像力ってものが希薄化してきてるこの時代にね。今や高校生でも街にも平気で繰り出してきたし、世間を知りすぎてますから、想像力を働かせる余地がない。大人として仕上がっちゃってるじゃないですか、高校生でも。70年代っていうのは、大学生あたりがいちばん想像力を頻繁に使わざるを得ない時代だったんです。それが大人として仕上がる年齢がだんだん低年齢化していって、今ではもはや中学生も、想像力を自由に使える年齢を超えちゃったかなという気がします。

もっとピュアな気持ちで、恐る恐る生きることができるのは、今では小学生くらいかもしれない。まぁ小学生も相当スレて来ちゃってるけどね、最近(笑)。彼らが今一番必要なのは学校教育ではなくって、むしろこういう作品に立ち向かうことのような気がするね。

…というわけで、ここ数年の万有引力のコラボレーションは、万有側から仕掛けられたものではなかった。とはいえ、文化的ジャンルやジェネレーションの異なる人々との出会いを求める意欲が予想以上であったことも、また事実だったのである。>>次頁

page 2/5

1982年版『レミング』
横浜文化センターにて上演されたときのビデオが、(株)ポスターハリスカンパニー(03-5456-9160)より販売されている。税込み4800円。

1982年版『レミング』

高田惠篤
1979年「天井桟敷」入団、その後「万有引力」結成に参加。退団後は目黒アスベスト館で舞踏ワークショップを手掛けるほか、俳優・演出家・ダンサーとして国際的に活躍。メジャーリーグ制作の『マクベス』にも出演し、今回の公演でも主人公の中華料理コック見習いを演じている。

七ツ寺共同プロデュース版
高田氏が演出を手掛けた七ツ寺共同スタジオ版『レミング』については、拙文「出口主義ふたたび」に記述があるので、こちらも参照してほしい。

笹部プロデューサー
演劇プロデューサー・笹部博司氏のこと。メジャーリーグは戯曲などを出版する出版社・劇書房の演劇制作部。興行面・内容面の双方で成功させるため、演出家を含めてキャスティングするという独特な制作手法を採用。メジャー演劇シーンとアングラ演劇シーンを接続する手際の良さには定評がある。代表作は1995年の蜷川幸夫版『身毒丸』、白石加代子主演の一人芝居「百物語」など。

アブナイ
シーザー氏の音楽は、初期ピンクフロイド(特に『原子心母』や『エコーズ』の頃のそれ)を思わせる、土俗的暗黒プログレッシブ・ロックともいうべき特異なサウンド。これがブラウン管から流れている光景というのは、やはり相当にアブナイ(笑)。

和モノから洋モノ
和モノでは日本中世の説教節に題材を求めた『身毒丸』など、洋モノではアラビアン・ナイトを怪奇幻想テイストで脚色した『千一夜物語・新宿版』などがある。

狭いところ広いところ
狭いところでは、観客を迷路によって分断する『阿片戦争』などの密室劇、広いところでは、大衆食堂やアパート、銭湯など至る所に「演劇」を展開した『人力飛行機ソロモン』などの市街劇がある。

==========
ホームに戻る
インデックスに戻る
*
前ページへ
次ページへ