10.フェチの商品性
編集部:そうすると、砂さんがどうしてカットジーンズなのか?という問題にも繋がっていきそうですね。
砂:オタクが抽象的な世界で生きている、コンセプチュアルな文化だというのはまさにそうだと思う。オタクたちも欲望に形を与えている。美少女絵であってもフィギュアであっても、それらはすでにより高度に感覚を満たしてくれるようにデザインされたものだし、され続けてゆくものですよ。たとえばボーメさんが造型する脚線を見ると本当にすごい。自分とは脚線の理想が違うんだけど、迫力に打たれる。あれは、肉感性とか、そうしたフィジカルな欲望からは決して出てこない造型でしょう。むしろ粘性のある液体がすっと垂れた時、それが脚線に似た一瞬に固まったかのような物としての迫力がある。それがボーメさんの脚の美、そのコンセプトということですよね。それは村上さんが惚れるはずだなと思いもするわけです。また、メガネっ娘の話でいうと、めがねがねのアブストラクトぶりとかすさまじい。メガネと女の子の結合の持つ可能性と意味について、だれに頼まれもせずに精査しまくってジェンダースタディーズってますよ。
で、私のカットジーンズですが、知っている人もいるかもしれませんけど、自分は同人誌のころから現在の商業誌活動に至るまで、わずかな例外を除いてほぼ一貫してカットジーンズもしくはホットパンツをメインコスチュームにしてマンガを描いてきてます。それは初めは当然個人的なフェティシズムから来ているわけですが、自分が同人活動を始める時に、これは前面に押し出すべきだ、武器にすべきだって思ったんですよね。というのも、オタク作家にとってフェチというのはすごく売りになるものなんですよ。自己をアピールするものとして。たとえば、コミケでは、ボンテージファッションを描くことに卓越した人がボンテージの人としてリスペクトされてたりするわけです。いわゆる鉄人みたいなもので、同様に、巨乳表現の鉄人、ブルマの鉄人、スクール水着……といった具合に結構沢山いて、それぞれの人がそうしたコスチュームでどういう話が出来るか、とかひたすら試している。特に自分が始めた91年当時は、そういう人達がかなりはっきり存在していたんです。で、カットジーンズの人ってのは当時いなかったんですよ。当然ですか? 今も私以外には……いや一人いる! とまあ、とにかく珍しいフェチだったんですよね。自分しかいなかった。そこで、これは俺がカットジーンズの人になろう、と決意して、同人誌活動の前面に押し出したわけです。
やはりボンテージファッションとかは、美しいもの、カッコイイものとしてすでに価値づけられてもいるから、フェチの作家も何人もいて、競合状態になったりしていた。そこに参入しても、自己アピールは難しいわけですよね。一方当時はカットジーンズというのは美学的には何も存在してないも同然でしたよ。普段着でしょ、という。自分はしかしカットジーンズフェチだから、それはもう最高のものですよ。どうにかして、この価値を伝えたいと思ったんですよね。で、髪の長い可愛くておとなしい女の子にはかせてマンガを描きまくった。カットジーンズ=活動的=がさつ……といった通俗的なイメージを反転しつつ、というわけです。はじめは恥ずかしくもあったんですが、とにかくひたすら描いた。そのおかげかコミケでリスペクトしてくれる人達もじょじょに増えて、で、どうも見事にカットジーンズの人になってしまったようです。今だ僕のホームページへのリンクの紹介には「カットジーンズの」とか書かれますし。
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