阿部和重 INTERVIEW
TINAMIX
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砂:時間性の問題でまず考えたのが、スポーツを見ている時の感動というか、快楽なんです。たとえばテレビを通してリアルタイムで観戦しているとき、サッカーだったらゴールシーンがあったときに、まずその瞬間の感動、快楽がありますよね。その次に、今度は同じ場面をスローモーションで再現して見る快楽がある。この二度目の快楽というのは、一種の知的な快楽でしょう。こういうふうに行なわれた、というメカニズムを知らせる快楽。

そこで、リアルタイム観戦の決定的な瞬間の快楽にどうフィクションで拮抗するかを考えた時、映画だとやはりスローモーションの手法は抜けないと思うんですよ。しかし同時に、スローというのは本当にスローになることであって、そこでは知的な快感の方がぐっとせり出してくる。つまり、リアルタイム観戦時におけるスロー再生の快楽には対抗できても、はじめの瞬間の快楽に対しては難しい。

それに対してマンガの場合は、スローモーションになっているはずだけれども、それをリアルタイムであるかのように見せることが可能なわけですよ。瞬間の快楽とスロー再現の快楽をいわば同時に伝えることができる。このためにマンガはリアルタイム観戦の諸快楽と拮抗でき、そのためにスポーツがマンガの大きなジャンルになっていると思うんですね。スローモーションというのは、映画の場合、それを導入することによって実際のスポーツ観戦にはないものを描くことが可能になると同時に、それに対する敗北でもあるような手法になってしまうと思うんです。

阿部:そうですね。なぜ野球の試合を再現しただけのものを誰も見ないかというと、試合経過を疑似体験するだけでは人は喜ばなくて、様々な名プレーの解説的な役割を担うスローモーションの場面を必要としている面があるのでしょう。マンガでは、試合経過の疑似体験とともに、プレーのすごさを解説してくれる観客の声が頻繁に挿入されることで、場面の意味をよりよく理解しながら疑似体験できるという強みがありますよね。『頭文字D』のレース場面でもそれが巧みに活用されていて、うまいな、と僕も思ったんですね。ギャラリーが逐一レースのすごさを解説してくれて、そこにドライバーのモノローグも加わって、いろんな角度からレース経過が解説されている。素人目にも展開が明快なんです。

東:司会としてちょっと確認しておきたいのだけど、それはスポーツマンガだけの特性ですか? というのも、今阿部さんが指摘した構造は、『ミスター味っ子』(寺沢大介作、講談社)でも同じだと思うんです。たとえば主人公が鍋を返す場面で、そこで食材がダーッと舞って、そこにギャラリーのナレーションが入る、というような構造は料理対決マンガでもまったく変わらない。「何か」をやっているシーンを止め絵で一枚押さえて、その意味をナレーションで解説する、そういうシークエンスの連続でできているマンガはほかにもありうるのであって、その主題がスポーツかどうかはむしろ関係ないんじゃないか。

『D』にしても、一定の時間をもったダウンヒル・バトルを題材にしているから、たしかに、ドライブの時間に沿ってギャラリーが解説しているかのように見えますよ。けれども実はその解説の時間は、文字どおり一瞬でもいいわけで、となるとスローモーションというよりも、もっと抽象的な時間として捉えるべきだと思う。実際、『キャプテン翼』(高橋陽一作、集英社)でのオーバーヘッドキックに重ねられた解説なんて、もはや試合そのものの時間的な流れとは無関係でしょう。だから、マンガには特殊なスローモーション技法があるからスポーツの描写に適している、というまとめは疑問に感じるのだけど。

阿部:映画とマンガの違いでこの話をしたかったんだけど、タイムスライスってあるじゃない。一つの瞬間を多方向から捉えた複数ショットで連続的に示す技法。『マトリックス』(ラリー&アンディ・ウォシャウスキー監督、1999年)のブレット・タイムと呼ばれている描写なんだけれど、ストップモーションの進化形態といっていいかもしれない。マンガのコマって、スローモーションというよりは、これに近い機能なんじゃないかな。

砂:そうですね、たとえるのであれば。

阿部:一瞬が引き延ばされつつ、物語の展開は円滑に進んでいく。その透明な滑らかさが、映画と大きく異なる画面の効果だと思ったんだ。

東:それは分かるけれど、そうなるとスポーツマンガの特殊性にはならないんじゃないですか。

砂:逆にいうと料理マンガというのは、料理ものをスポーツ化したんじゃないのかな。

東:とすれば、それは逆に、スポーツマンガは実はスポーツを描いていない、とも言えるでしょう。たとえば陸上マンガで僕が最も深い印象を受けたのは、小山ゆうの『スプリンター』(小学館)なんだけど、あの作品では、陸上競技で主人公が一定のタイムを突破すると、周囲がピューと光るんだよね。それで、「神の領域……」とか何とか神秘的なナレーションが入る。そういう場合、あの場面はスポーツの時間を描いていると言えるのだろうか?

砂:しかしそうしたマンガと『D』は違うと思う。まず、あまり言葉がないでしょう。ひたすらモンタージュで車がいかに運動しているのかをがんがん見せていく形でできてますよ。

阿部:さっきの『ミスター味っ子』の話だけど、形式の部分だけを見れば同じだっていうことは可能なんだけど、とはいえやっぱり違うわけじゃん。その違いは……別に『ミスター味っ子』を話題にしなくてもいいんだけど。

東:でもね、その構造だけ純化すると、それこそ『美味しんぼ』(雁屋哲作・花咲アキラ画、小学館)になるわけで、もう時間も関係なくなる。『美味しんぼ』にはもう料理のシーンもほとんどない。「対決」ということ自体が言説で語られているだけで、もはやどこがどう対決なのか分からない。対決マンガというのは、純化すればそういうところまで行ってしまう、すごくミニマルな部分をもっているじゃないですか。

阿部:それはある。

東:それで、ここで『湾岸』の話に近づけると、あの作品には、むしろそういうミニマルな構造ばかりが窺えるように思うんです。特に10巻以降のエピソードには、これはもはやコピーの使い回しなんじゃないか、と思わせるような酷似したショットが何回も出てきて、物語の感動は、「どこまでも踏んでいける」とか何とか、ポエムのようなセリフの反復だけで支えられている。

阿部:不条理マンガに近いよな、これは(笑)

図版2東:たとえばですね……。おや、何か付箋がはってあるぞ(『湾岸』4巻)。

砂:それは感動して不覚にも涙しかけてしまったところで。ハゲの板金屋がおいしすぎるんですよ。<図版1>

東:くー、そうそう! あれはかっこいいんだよね、あの板金屋は。

阿部:そうなんだよ、そうなんだよ……。俺は相沢ってやつの息子の話ではびんびんきちゃったから。


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