TINAMIX REVIEW
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相沢恵の 他人事じゃない!

■「戦闘」のビジュアル

・『弟切草』(チュンソフト/1992)

弟切草
図1:『弟切草』(チュンソフト/1992)

いくつにも分岐したシナリオのなかで、ある時プレイヤーはナイフを構えたナオミに追われ、対峙することになるだろう。さしあたってそれは「戦闘」だ。ところがその時視覚化されるのは鈍色にきらめくナイフばかりで、「戦闘」の主体であるはずのナオミはそっくり隠されてしまう。(図1)

ここにはサスペンス的な規範、つまり「見せるもの」と「見せないもの」の統御が認められる。しかもそれは徹底している。その意味で『弟切草』は、ホラーというよりは紛れもないサスペンスというわけだ。とはいえ「見せない」効果はサスペンスばかりでない。僕の考えでは、「見せない」選択によって『弟切草』は様々な貧しさを反転させることに成功している。そこではナイフの切尖が、ナオミの底知れぬ威圧感を表象している。

・『痕』(Leaf/1996)

痕
図2:『痕』(Leaf/1996)

リーフビジュアルノベル第二作である『痕』は、『弟切草』の直接の影響下にあり、たとえばそれは電話機を「もの」として提示する即物性に率直に認められるのだが、とりわけ鬼の末裔であるエルクゥの「戦闘」にあってそのヴィジュアルは、「見せない」ことの効果を最大限利用したものとなっている。まっ黒な陰翳=身体は凶暴さと躍動感以外を表象せず、頭蓋の形状が実は猿を思わせるといった間抜けな事態は慎重に避けられている。(図2)

他方で『痕』が『弟切草』と決定的に異なる点があるとすれば、前者はギャルゲーであり、キャラクターのビジュアルを「見せない」わけにはいかないことである。つまりノベルゲーム=ギャルゲーである限り、「見せない」戦略は放棄といわないまでも後退せざるをえない。また『痕』に限らず一般にノベルゲームがその大半を夜の描写に費やすのは、闇がいろいろなものを否応もなく隠すからである。それゆえ月が特権的対象となり、伝奇が物語られる傾向はあまりにも自然だといえよう。

・『MOON.』(Tactics/1997)

MOON.
図3:『MOON.』(Tactics/1997)

といった傍からタイトルが「月」である。『MOON.』は今をときめくメーカー「key」のスタッフが独立前に制作し、なかでも企画・脚本を担当する麻枝准の処女作として知られており、才気走った語りが一部でカルト的に評価されているが、閉鎖施設や弟切草を想起させる花畑を配置するなどノベルゲーム的な価値にことのほか忠実な作品だ。

とはいえ本作の特徴はむしろ逸脱にあるのではないだろうか。ブラックアウトした背景でテキストを紡ぐという暴力的なまでの表現を大胆に行ったのも僕は彼がはじめてではなかったかと記憶しているし、さらにいうと、見えない精神世界を思い出の回想(MINMESとELPOD)や不鮮明なモノクロ画像(逆さまの世界)で視覚化すること、象徴的な母である「月」とヒロイン郁未が対峙=「戦闘」することには、隠しつつ見せたいというどこか矛盾した感触を覚えるからだ。(図3)

それが『FFⅦ』のような全面的な視覚化に繋がらないのは、ロールプレイングゲームが絶えざるフィールドの提示によって視覚化を強いられるのに対して、ノベルゲームが持ちうる距離、言い換えればある種の「誠実さ」に敏感だからなのかもしれない。僕はそれを語りの隠喩性の問題と考えているが、それについて語ることはまた別の機会に譲りたいと思う。

・『終ノ空』(ケロQ/1999)

終ノ空
図4:『終ノ空』(ケロQ/1999)

ノストラダムスの大予言に合わせて発売された世紀末ゲームの傑作。「終ノ空」と呼ばれる謎の空が到来し、その予兆が人々を蹂躙したあげく、世界を飲み込むまでを四つの視点から描いている。あまりに圧倒的な「空」にもはや「戦闘」は一方的なものとならざるをえず、主人公である行人は「世界をただ見つめる」ことを選びとる。

指摘したいのは「終ノ空」の言語化不能なビジュアルである。(図4)またプレイヤーキャラに付きまとう謎の目玉(フラグ管理?)が始終不気味であり、卓司を強迫する不安たちもポップアートのようで大変斬新なのだが、すでに「戦闘」とは関係なくなりつつある。余談ついでにいうと、一貫して語られる哲学的な問題系(ニーチェ理解?)は言語の彼方に霧散し、ラストに正体を明かす形而上学にうんざりする以外は大変よくできている。>>次頁

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