TINAMIX REVIEW
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相沢恵の 他人事じゃない!

■貧しいメディア

唐突だが僕は貧しいメディアについて考えている。それはとりあえず無-根拠からはじまり、かつどこまでいっても真らしさを超えることはない。だが、であればこそ、少なくともこうした真らしさへの漸近を僕たちは積極的に評価せねばならない。たとえば『FFⅦ』以降のデジタル表現によるリアリズムも、貧しいメディアが様々な方法で真らしさ(リアリティ)を目指す、ひとつのあらわれに過ぎないのだ。いまのところ『FF』的なリアリズムが退屈なのは精緻なデジタル表現が方法的に誤っているからではない、単に不徹底だからである。おそらく戦略は――進化と反転。いまはその可能性があるだろうことを指摘するだけにとどめておく。

■「戦闘」を支える何か

まずは貧しいメディアで描かれるアクション=「戦闘」の問題を考えてみよう。だが、アクションは何も「戦闘」においてのみ露呈するのではない。とりわけ映画(批評)はこの事実に敏感であり続けた。しかし、少なくとも在るものを「撮る」映画に対して、貧しいメディアにはつねに逆のアプローチが求められる。それはとりあえず無-根拠からはじまる。従ってカットの積み重ねや突出した細部、あるいは長回しによって、即物的な現実の露呈を捉えうることが困難な貧しいメディアでは、アクションを最も刺激的なかたちで露呈する「戦闘」が好んで選択されるのは、なかば必然的なことだったように思う。

たとえば巨大ロボットアニメにおいていうなら、「戦闘」を立ち現せるためには視覚的なインパクトが何より肝腎であるだろう。それはマニピュレイターにはない類の価値であり、だからこそ「スーパーロボット」などと呼ばれ続けもするのだが、ここで『エヴァンゲリオン』以後の巨大ロボットアニメがあると仮定して、そこで作家がつねに意識し、格闘せざるをえないのは、文学的に解釈された諸々の主題よりもむしろデザイン、つまりあの圧倒的な身体である。

似たようなことはマンガにおいてもいえないか。『寄生獣』や『エイリアン9』が描く「戦闘」が凄惨で、物悲しく、過剰なまでに関心をひかれる根拠は、何よりも両者のデザインにこそあるだろう。当然のことながらマンガ表現(演出)のレヴェルを無視することはできない。だが、僕はそれに先んじて、あの鋭利な物体と運動性を内在させたドリルのデザインを指摘してしまうのだ。そして物体と融合した身体の存在感を。もはやこのような身体を媒介せずに「戦闘」が起こらないのではないかとすら思えてくる存在感――。

またゲームにおける「戦闘」では、一般的にいってそこにはいささか特殊な事情がある。ゲームではそもそも「戦闘」を行うのが、プレイヤーという自分の身体であり、ここにはひとつ決定的な飛躍がある。そして同時にプレイヤーは、アクションゲームというジャンル、戦場というフィールド、あるいは戦闘モードという枠組み、つまり何かしら「戦闘」を支えるフレームが存在することで、それを自明のものとして受けとることができるわけだ。しかし、ただ物語るばかりのノベルゲームには、こういったフレームは基本的に存在しない。では一体何が「戦闘」を支えているのだろうか?

三つ指摘できる(*1)。いうまでもなく第一にそれは「叙述」と「物語」である。だがそれでは小説でも変わらないことだ。小説を超える第二のレヴェルは、上述したような、コントローラー(入力デバイス)とディスプレイ(出力デバイス)を通じた、プレイヤーの機械-身体的な接続にある。そして第三に、ディスプレイに視覚化されるビジュアルのレヴェルがある。「叙述」と「物語」と「プレイヤー」を前提とした場合、問題になるのはこの第三のレヴェルである。具体的な作品を参照していこう。 >>次頁

(*1)本当は音楽を含めた四つである。音楽はそこで語られる内容のテンションやコンテクストを決める力を持っている。
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