―赤壁決戦直後―
「劉備よ、孔明の調子が思わしくないらしいようだが?」
どこで聞いたのか、周喩は探るような眼差しでそんなことを言った。
確かに朱里は今、陣奥で寝込んでいる。
それも酷い高熱を出して……。
だが、これは我が軍でも限られたごく一部の者しか知らない極秘事項だ。
下手に漏れれば、全軍の士気にも関わる。
それをどうして呉の人間である周喩が?
……やれやれ、協力して曹魏を退けても、蜀呉の同盟は完全ではない、か。
今は乱世。昨日の味方は今日の敵かもしれない。
そう思いたくはないけどな……。
俺は、ただ疲れが出て休んでいるだけさ、とさも何でもないことのように周喩に返事をしてみせる。
あまり間をおくと、桃香が正直に言ってしまいそうだったしな。
というか、今の桃香の表情を見ればだいたい察しが付いただろうけど。
だから周喩は。
「そうか……。まぁよい」
それだけ言うと話題を変え、話は曹魏追撃戦へと移した。
-蜀軍本陣-
雛里に聞けば、今回の赤壁での決戦前から朱里は体調が優れなかったらしい。
にもかかわらず、雛里に口止めをしてまでの今回の出陣。
まして相手はあの曹操だ。
普段から机にかじりつくように激務をこなしていた朱里に、さらなる負担をかけてしまった。
俺がもっとしっかりしていれば、いや、せめて朱里の体調の変化に気づいてやることができていれば……。
そんな情けない思いを抱えながら、朱里が寝ている天幕へと入る。
「……朱里」
寝台に横たわる朱里は、ひどく汗をかいている。
この小さな身体で、こんなにもなるまで……。
そう思うと、俺は朱里を抱きしめずにはいられなくなっていた。
「……朱里。早く元気になってくれ……」
俺は朱里の身体にしがみつくようにそう願った。
「草枯れ馬は肥ゆれども、蜀軍の旗光無く、鼓角の音も今しづか。……主よ、あまり関心いたしませぬな」
いつの間にか入ってきた星は、苦々しげにそう呟く。
星の言いたいこともわかる。
今は曹魏との決戦の総仕上げとも言える時期だ。
俺がふさぎ込んでいていいはずもない。
しかし……。
「……やれやれ」
星は肩をすくめ。
「そんな調子の主が戦場に出られては、はっきり言って邪魔にしかなりませぬ。主と桃香様は本陣にて待機していてくだされ。追撃戦の指揮は、私と愛紗で執りまする」
そう言って、背を向け天幕を後にする。
「ありがとう、星」
俺はその優しさに、少しだけ甘えることにした。
-華容道-
「というわけで、主と桃香様は置いてきた」
「そうか……」
愛紗は少しだけ目を伏せる。
「なんだお主、妬いておるのか?」
「ば、馬鹿者! 妬いてなど……おらぬわ」
そんな愛紗の反応を見て、星は「そうかそうか」と愉しむような口ぶりをしたかと思うと、急に態度を一変させ。
「我らはこの先にて曹操を待ち構える。お主はここ、華容道を頼んだぞ。私はその先に兵を伏せる。それから……くれぐれも嫉妬に刃を曇らせ、曹操を討ち損ったなんてことがないようにな」
「星~~~~!」
-数刻後・華容道-
数十万を数えた大軍も、今や霧散してしまった。
天下まであと一歩。
そこまで来てのこの大敗。
だが、鎧こそ土埃と返り血に汚れてしまったが、曹孟徳の、覇王の誇りはまだ地に塗れてはいない。
今はなんとしてもこの場から退却し、巻き返しを図らねば。
曹操は数少なくなった護衛の兵士を引き連れ、華容道へと差し掛かった。
「……曹操殿……」
前方より聞こえた凛とした声に、曹操は顔を上げる。
「……関羽、か。久しいわね」
ここに来るまで、何百という敵兵を殺してきた。
本当なら、余裕などあるはずもないのに、曹操は悠然と構えて見せる。
だが、愛紗が動ずることはない。
「……夏侯惇や夏侯淵はどうした?」
「さぁ? 今頃は、あなた達のお仲間を斬っているころじゃないかしら?」
「……減らず口を」
「減らず口かどうか、確かめてみることね」
そう言うが早いか、曹操は「絶」を握る手に力を込め、愛紗に斬りかかって行った。
「はぁっ!」
しかし、さすがは四海に勇名を轟かす関羽と言うべきか。
いとも簡単にその一撃を受け止める。
「さすがは関雲長ね。どう? 私に仕える気はない?」
「この期に及んでまだ言うかっ!」
愛紗の方が一瞬早かった。
曹操はその一撃を受け損ない、手にした「絶」をはじき飛ばされてしまう。
「くっ!」
そして、眼前に青竜刀が突きつけられる。
「曹操殿、降られよ。そうすれば貴殿に危害を加えることはないと、この青竜刀に誓って約束する」
しかし曹操は黙ったままそれを拒否する。
そして。
「……残念ね。あなたのような勇将や、諸葛亮のような知謀の士が、この私ではなく劉備のような甘ちゃんに仕えているなんて」
「曹操、貴様!」
だが、曹操は落ち着いていた。
「そうそう。その諸葛亮だけれど、体調が悪いみたいじゃない?」
愛紗はわずかに眉を曇らせる。
「あら? この私がそんなことも知らないとでも思っていたのかしら?」
そう言うと、懐から小さな包みを取り出し愛紗の手元に放り投げた。
「……なんだ、これは?」
「薬よ。華佗に作らせたの。本当ならこの決戦に勝って、あなた達を配下に組み込むつもりだったから、諸葛亮の病気のことも細作を使って逐一報告させていたのよ。いざ組み込むとなった時に、死なれてたりしたら困るでしょ? だって死体には用がないもの」
「……なんのつもりだ?」
「なんのつもりもないわ。ただ、諸葛亮のような人材を失うのは天にとっての損失。たとえそれが私の配下でなくとも、ね」
そう言うと曹操は静かに首を出した。
「さぁ関羽! 覇王の首を以て末代までの武功とするがよい!」
「……曹操。最期に一つだけ聞きたい……。なぜ初めからこの薬を出さなかった? もし出していれば、私はお主を何も言わず見逃したかもしれぬぞ……?」
「……関羽の評価を改めなければいけないかしら。私は曹孟徳、乱世を統べる覇王よ。命惜しさに薬を差しだしたとあれば、それこそ後世までの恥だわ!」
「……そうか……。ならば今すぐこの場から立ち去れ!」
「あら? 恩を返したつもり?」
「つもりではなく、恩を返したのだ。それに言ったはずだ。最期に聞きたい、と。次に会ったときは容赦はせぬぞ」
「……そう。ならば受け取っておきましょう、関羽」
曹操は立ち上がり、悠然と関羽の横を通り抜ける。
「そうそう。この先、道が3つに分かれている。右の道を進むのがよかろう」
曹操は愛紗の背を見つめ。
「ずいぶんと多いお返しね」
「……今のは私の独り言だ。これ以上ご主人様や桃香様に不義を為すことはできぬからな」
そう言うと愛紗は、背を向けたまま曹操を見送った。
-蜀軍本陣-
「劉備。あなた達との同盟、考え直す必要がありそうね……」
それだけ言うと、孫策は陣を出て行ってしまった。
「申し訳ありません。私が曹操を取り逃がしたばかりに……」
愛紗はこう頭を下げたが、俺には怒る理由が一つもなかった。
それはみんなも同じだったようで、誰も何も言わなかった。
ただ一人を除いては……。
「しかし曹操を逃がしたのは大盤振る舞いが過ぎたのではないか?」
星である。
本心ではそんなこと思ってないくせに、余計なことを言う奴だ……。
おかげで愛紗は、ただでさえ縮こまっていたのに、さらに縮こまってしまう。
だから俺は。
「そんなことはないよ」
と、愛紗を優しく抱きしめた。
「ご、ご主人様っ!?」
顔を赤らめる愛紗に。
「よかったな、愛紗よ。主の寵愛を一身に受けられて」
星がちゃちゃを入れる。
「愛紗はお顔が真っ赤なのだ!」
鈴々もそれに便乗するようにして、場が一瞬にして明るくなった。
それに朱里の病状も回復の兆しを見せているし、今回の赤壁での戦いはこれで一応の決着がついた。
もっとも、一抹の不安は残したが……。
しかし今は、このみんなの笑顔を大切にしたいという思いが胸を占めていた。【続】
【あとがき】
趙雲にスポットライトが当たる場面を長坂での単騎駆けとするなら、関羽にスポットライトが当たる場面は、(もちろん異論もあるでしょうが)やはり華容道なのだと私は思います!
私の場合、『三国志演義』に興味を持ったきっかけというのが、中学生のころ母に連れられ見に行った京劇からでした。
特に「華容道」で、関羽が曹操を逃がすシーン。
義将・関羽の面目躍如!
かつて曹操に仕えていた時の恩に報い、あえて見逃す姿は、今でも私の脳裏に焼き付いています。
だから今回は、どうしてもこの場面が書きたかったのです!
しかし!
『恋姫』の関羽、愛紗さんは華琳様の部下にならない!
でも、どうしてもこのシーンが書きたい。
ええい、こうなったら五丈原の孔明死亡フラグもまとめて回収してしまえ!
ということで、このような話になりました。
ところで星さん。
どうして土井晩翠の「星落秋風五丈原」(「草枯れ馬は肥ゆれども、蜀軍の旗光無く、鼓角の音も今しづか」の箇所)を知っていたのですか……?
三国志の時代から、1700年近くも後の日本の詩ですよ?
おっと、これ以上は「何と無粋な……」と怒られそうなので、このあたりで追求は止めることにします。
というかしてください。
最後にはなってしまいましたが、ここまで読んでくださったすべての皆様。
本当にありがとうございました!
よろしければ、次回もお付き合いいただければ望外の幸せです。
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蜀ルートにて、赤壁後も鼎立が続いたらという設定で書いております。
また、続き物の第一部となっておりますので、続編もあわせてお読みいただければ幸いです。
最後のページに「あとがき」を付けさせていただいております。
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