真恋姫無双 幻夢伝 第六章 9話 『赤き長江 上』
気温が一等高くなった夏の昼過ぎ、じりじりと太陽に肌が焼かれる。兵士たちは今日だけ吹く北風の心地よさを感じる間も無く、銅鑼の音が響き渡り戦闘が始まった。
動きの速い呉の船団が、魏の大型船の集団に襲いかかる。
「突っ込め!」
先陣を任された思春の号令と共に、呉の艨衝や先登が波の上を走っていく。そしてのろのろと進む魏の船の横腹に突撃した。強い衝撃と共に船を傾けさせる。その接触点から呉の兵士が次々と魏の船に入り込む。
ここまでは先日の戦闘と同じ状況であるが、今日は勝手が違った。敵の船が沈まない。
「甘寧様!押されています!」
「ちっ」
軽く舌打ちした思春の視線の先には、幾重にも繋がれた太い鎖があった。魏の船同士を繋ぐその鎖は、強い衝撃を食らった船の姿勢を建て直して波にのまれることを防ぎ、そして呉の兵士が船に侵入してくると、鎖の上に掛けられた梯子を伝って他の船の兵士が応援に駆け付けた。安定した船上において魏の兵士は陸地と同様の働きを見せ、その数の多さを頼って逆に呉の船に押し寄せる始末であった。
小さな呉の船が次々と燃えていく。思春は苦々しい表情を浮かべ、引き鐘を鳴らした。
「魏の船から離れろ!遠巻きに攻撃するのだ!」
風は北から強く吹いている。
空が赤くなり始めた時、ようやく呉の船団は味方の残骸を残して逃げ去った。
「時間がかかりましたね」
「さすがね。ここまで粘られるとは思わなかったわ」
「足が速いのは厄介でした。風が逆向きだったらどうなっていたか」
桂花と華琳が感想を言い合う。しかし平然とした表情からは余裕が見受けられた。
速い呉の船は度々魏軍の後方へ回り込もうとしたが、風向きが悪く、重厚な魏軍を通り抜ける隙間も見つからずに、右往左往するばかりであった。結局、正面から戦う羽目になった彼らは無数の矢の雨に飲み込まれていった。
終わってみると魏と汝南軍の損害は軽微で、生き残った呉の船は半数にも満たない。呉の水軍相手に完勝である。
季衣と流琉が甲板の上を駆けてきた。
「華琳さま!味方の船からの連絡です!」
「呉は港に引き上げるようです!」
「逃げる気でしょうか?」
「当然ね。もう海戦では勝ち目が無いもの。柴桑まで逃げ帰るかもしれない」
そう言うと華琳は立ち上がり、彼女の武器である鎌を前方に大きく振りかざした。その顔に笑みがこぼれている。
「全軍、上陸を開始しなさい。一気に柴桑まで突き進んで、孫権と周瑜を捕えるのよ!」
勢い良く鐘の音が響き渡り、魏の船団が進んで行く。まるで大津波のように押し寄せる彼らの下で、波間に浮かんでいた呉の旗が、藻屑となって沈んでいった。
そして華琳たちの目にも長江の対岸の敵陣の全容が見える場所まで来たのは、陽が地平線に半分沈んだ頃だった。ボロボロの呉の船が死んだように停泊しているのが見える。しかしそれらが港に溢れるばかりに密集しており、彼らの行く手を遮っていた。
前線で指揮を執っていた秋蘭が華琳たちの船に乗り込んで、停滞している現状を説明した。
「華琳さま、水中に杭が刺さっているようです。その撤去をしております」
「小舟を使って上陸は出来ないの?他の地点から上陸することは?」
「蔡瑁たちによると、大型船で直接乗り込む方が安全であるとのことです。それに出来れば、これらの船を回収したいとのことです。もう少し、お待ちください」
「分かったわ。その作業は彼らに任せて、あなたもここに居なさい」
「はっ」
「それと、春蘭にはお留守番の代わりに柴桑一番乗りを約束してあげたから、安心しなさい」
「なるほど、それで大人しかったわけですか。姉者のことですから、無理やりにでも乗り込んでくるかと思ったのですが」
「そういうことよ。だから、ちらちら後ろを気にしないで集中しなさい。ちょっと疲れたから、采配を任せるわ」
一礼した秋蘭が下がった後、華琳は船のへりに手をかけて敵陣を眺めた。
―もうすぐ終わる―
その一方で、アキラと凪も自分たちの船の上で、同じように敵陣を眺めていた。
「心配だな」
「そうですね。喧嘩なされていないといいのですけど」
アキラは後ろにいた凪の方を振り返る。
「何の話?」
「えっ、華雄さまと夏候惇さまのことではないのですか?2人ともそりが合わなそうでしたけど」
「留守役には詠もいるから大丈夫だろ。それより、あっちを見とけ」
彼が指差したのは、先ほどまで眺めていた呉の陣である。
「何か不審な点でも?」
「静かすぎる」
もうすぐ日が暮れるというのに、一点の明かりもない。
「伏兵…ですか?しかしこの大軍相手に奇襲も通用するとは思えません。私は逃げたと考えます」
「だと良いが」
華琳も同じ懸念はしていた。しかし陸に上がってしまえば難なく蹴散らすことが出来ると計算した彼女は、杭の除去作業が終わったことを告げられると、秋蘭に頷く。秋蘭は彼女の代わりに号令を下し、鐘を鳴らした。
「進め!呉の船を渡って、敵陣になだれ込むのだ!」
再び動き出した魏の船団は、静寂を保つ呉の船に突入していった。そしてその横腹に舳先を打ち付けると、すぐに梯子を渡して固定させ、雪崩れ込み始めた。
あっけなく上陸し始めた味方の姿に、華琳はホッと息をついた。それと同時に、昼間からずっと指揮していた疲れが込み上げてきたようだ。重くなった彼女の瞼を見て、桂花が気を使う。
「後は秋蘭にでも任せて、お休みください」
「そうね」
欠伸を一つ出した彼女は、桂花に見送られて船内へ入って行こうとした。
ドンッ。ドンッ。ドンッ。
ハッと息を飲む。華琳と桂花はその大きな炸裂音がした方角に顔を向ける。進撃している方とは真逆、船団の後方だ。
「どうしたの?!」
「調べてきます!」
桂花は連絡兵に指示を出して情報を集めた。すぐに状況を把握した。
「華琳さま!後方から呉の水軍が襲来!火薬を積んだ船に突撃されて炎上している模様です!」
「なんですって?!!」
その呉軍の指揮を執っていたのは、前線から外れたはずの黄蓋であった。
彼女は空にうっすらと残った明るさをかき消すほどの炎を見つめ、その肩をゆっくりと回していた。そして隣にいる明命に愚痴をこぼす。
「やれやれ、うちの大都督殿は人使いが荒いのう。儂にもう一芝居うてとは」
「でも祭さま、ノリノリだったじゃないですか」
「ほう、そうかのう。儂もまだ若い」
と、祭ははっはっはっと高々と笑い声を上げる。
彼女は川上を警備していた船に火薬などを詰め直し、魏軍が来襲するこの日を待っていた。そして港に乗り込んでいる最中の魏軍の後ろから逃げ道を塞ぐように放火した。思春たちが粘って夕刻まで耐えたのは、視界が暗くなるこの時刻を狙って彼らの後方に近づきやすくするためだった。
そして彼女たちにはもう一つの任務がある。その役目を果たさねばならない。
「さて、狩りでもしようかい」
「やりましょう!」
祭と明命は自分たちの武器を携えて、混乱する魏軍に船を進めた。
陣の後方から赤い火柱が上がる中、アキラたちもようやく情報を得ることが出来た。すぐに彼は判断する。
「凪!すぐに前線の霞と連絡を取れ。撤退命令だ。船の鎖を外して出港するんだ!」
「し、しかし、陸に上がってしまえば、こちらの勝利は目前ですが?!」
「バカ!冥琳のことだ。これだけでは済まないはず」
その時、ドンッという音が再び聞こえてきた。ところが、今度は前線からの音だった。
「ほれ見ろ。早く行動しろ!」
「友軍はどうしましょうか?!こちらの軍は端に位置していますからすぐに脱出できますが、魏軍は港の中央に固まっています」
「くっそ!そうだったな!」
悪態をついた彼は、唐突に剣を持って走り出した。そして器用に鎖の上を渡っていき、隣の船に着いた所で凪の方に振り返る。
「華琳を助けに行く。俺のことは気にするな。早く逃げろ!」
「隊長!!」
アキラは剣を振り上げると、自分が渡ってきた太い鎖を断ち切った。そして凪の呼びかけに答えることなく、陽が落ちたばかりの闇の中へ消えていった。
その頃、前線では霞が汝南軍を指揮していた。
「はよ梯子を持ってき!こんなとこでつっかえてたらかなわんで」
すぐに兵士が梯子を持ってきて密集する呉の船を繋ぐ。その上を渡って次の船へと渡る。まだ敵の姿を見ていない彼女は、この一連の動作にいら立ちを覚えていた。
まだ彼女たちは後方の異変に気が付いていない。
その時、前方から巨大な火の手が上がった。
「なんや?!」
その火は破裂音と共に見る見るうちに燃え広がり、彼女の視界いっぱいに広がっていく。まだ遠いが、見ているだけで熱そうだ。
(この勢いは火薬やな。魏軍がやったんか?でも見たところ、陸の陣地からえらい遠いところで燃えとるし)
彼女はこれが呉軍の仕業であると思えなかった。彼らは風下なのである。この炎の被害を食らうのは彼らのはずである。
ふと、彼女は船の上に掲げられた旗を見た。「あっ!」という声と共に、彼女は気が付いた。そして愕然とした。
「か、風が、もどっとる……」
上空にたなびく呉の旗は、南風にあおられて北に向かって流れている。
「あかん!退却!退却や!」
しかし次々と梯子を渡ってくる兵士たちは、既に恐慌を起こしていた。彼女の命令を聞くことなく、ある者たちは鎧を脱いで水の中に飛び込み、ある者たちは争って船の中にあった小舟を取り合っていた。
北と南。恐怖におびえる彼らの両側から、炎の壁が押し寄せてきている。
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赤壁の戦い最終局面です。次の話がこの章ラストとなります。