真恋姫無双 幻夢伝 第六章 8話 『風吹く』
黒い長江に船が浮かぶ新月の晩。雲の衣に身を隠し、川面に浮かぶ星影は無い。帆を畳んだ今、耳に入るのは風の音のみ。
祭は戦い前のこの空気がたまらなく好きだ。肌がざわめく。体の中の血が沸騰前の水のように小さな泡を立てているようで、手が若干汗ばんでくる。周りの兵士も息遣いが荒いが、怯える者はいない。自分が育てた兵士だ。祭は誇らしく感じた。
その彼女たちの体を夜風が冷やす。船の先頭の方で立っていた祭の元に、亜莎が報告に来た。
「祭さま、もうすぐ偵察艇が戻ります」
「ああ」
こともなげに返事をする。本来ならば奇襲が発覚する恐れがあるため偵察する必要はなかったが、同盟国、特に北郷一刀から強い要望があったためすることになった、いわば手続き的な作業だ。情けない男よ、と祭は苦々しい顔つきで一刀を嘲笑した。
そういえば、と亜莎が思い出す。
「この辺りでしたか、冥琳さまと“演じられた”のは」
「おう、そうじゃったかのう。お主も見事に騙されておったな」
「言わないで下さいよ、もう!本当にびっくりしたのですから!」
顔をしかめる亜莎の姿に、祭は笑みをこぼした。
苦肉の策。人は自分で自分を傷つけることはないという心理を利用した戦略である。ここでは祭が自らを窮地に追い込むことで、冥琳と反目し合っているように見せた。そして彼女の部下がその対立に不満を持って裏切ろうとしていると、曹操軍に信じ込ませる。その結果として彼女たちは今夜、降伏するふりをして火計をしかけるのだ。祭が乗る船の前方には、火薬と枯芝を積んだ船が何隻も準備されている。
亜莎は冥琳の深謀と祭の自己犠牲に感嘆する気持ちで一杯だったが、それでも自分も騙されたことには納得がいかない
「本当に心配しましたよ!」
「はっはっはっ!軍師見習いが何を言っておる。参謀こそ一流の役者にならねばならんぞ!」
むう、と口をとがらせる亜莎を、やれやれという面持ちで祭は眺めた。まだまだ彼女の道程は長そうだ。
その亜莎がふと表情を変えて、祭に尋ねる。
「祭さま、こんな時ですがお尋ねしても良いですか?」
「申してみよ」
亜莎は周りの兵士に気付かれないように小声で質問する。
「祭さまは李靖様が本当に雪蓮様を殺害されたと思われますか?」
「………」
「私はどうにも腑に落ちないのです。あの状況で李靖様が雪蓮様を害される理由などありませんし、彼を誉めていいたはずの民の中からこの噂が広まったというのも、どうにも……」
祭は何も語らない。冷静になった今、彼女もあの噂がおかしいことに気が付いていた。
でも、もう遅い。
「亜莎」
彼女は言う。
「黙っておれ。奴を討ち取ってからにせい」
理由はどうであれ、孫堅も孫策も相対したことのない強大な敵と戦えることを、彼女は長江の神に感謝した。
その時だった。急に慌ただしい足音が鳴り響く。2人の元に兵士が駆け寄ると、息を整えないまま言った。
「た、たいへんです!」
「どうかしたか?」
祭の顔に緊張が走る。亜莎も思わず息を飲んだ。
その兵士は大きく深呼吸をすると、一気に彼女たちに伝えた。
「偵察艇から連絡がありました!天の御遣い様の言われた通りです!く、鎖が、繋がっておりませんでした!」
その翌日、予定なら裏切りが出て動揺している呉軍に総攻撃をしかけている頃だが、魏軍は陣から出ていない。停泊している船に、傾いた日の光が当たり、赤々と染め上げる。
華琳は本陣の中で椅子に座りながら、ため息交じりにアキラに手紙を渡した。
「龐統からの手紙か」
「あなたの言った通りだわ。彼らの投降は偽りだったそうよ。黄蓋自身が計略の実行責任者だったらしいわね」
「やはりそうか……鎖を外しておいて正解だった」
華琳が残念というようにもう一回ため息をつく前で、アキラは釣りの老人との会話を思い出していた。
『枯草を集めている?』
『そうじゃ。呉の兵士が近隣の村から集めておったわ』
『何に使うかは分からないのか』
『分からん。だがのう、若い兵士さんよ。戦争の最中で儂らの考えが及ばない変化があったらな、お偉いさんは何かしでかす証拠じゃて。早よ、用心して逃げなさい』
と、老人は忠告してくれた。
アキラは枯草と聞いて、確かに嫌な予感がした。しかし勿論のこと、彼は逃げることは出来ない。すぐに陣に戻った彼は、不測の事態が生じた時のために、船を繋ぐ鎖を解いて動きやすくするべきだ、と華琳に進言したのだった。それが幸運にも敵の策略を防いだ。
龐統の手紙には、その後の顛末も書かれていた。
「計略に失敗した黄蓋は自ら責任を取って前線から外れたそうよ。川上の海賊警備にまわったらしいわ」
「そうか。ともあれ強敵が消えてくれたことには変わりはない。怪我の功名ってことだな」
「そう考えるべきかしらね」
「良いように捉えよう。それで、総攻撃はいつにする?」
尋ねるアキラに対して、華琳は表情を一変させて不敵に微笑んだ。そしてその手紙の後半部分を読むように言った。
「彼女はやはり優秀ね。面白いことが書いてあったわ」
「面白いこと?」
「風の向きよ。この日だけ、風向きが変わるらしいの。つまり私たちに逆向きに吹いていたのが、追い風になるわけ。要するに…」
「総攻撃には絶好の機会なわけだ」
その日とは、明後日だった。アキラは手紙を丁寧に折りたたむと、華琳と目を合わせる。
「決まりだな」
「ええ」
早速、準備を進めるため、自陣に帰ろうとするアキラに、華琳がいじわるそうな声音でこう言った。
「孫権に手心加えたらダメよ」
「なんだって?」
振り返るアキラが見たのは、その声音とは裏腹に華琳の怖い笑みだった。背筋に冷たいものが走る。
机に肘をついて手を組んだ彼女は、彼に“忠告”した。
「呉にいた頃、彼女と仲が良かったそうじゃないの?可哀そうだからって逃がさないこと。い・い・わ・ね?」
「わ、分かっているよ。しっかりやるさ」
逃げるようにしてアキラは去っていく。絶対に振り返りたくなかった。
(なんで知っているんだ?!)
首を傾げる彼は、まだ華琳と手を組んだ協力者、詠の存在を知らない。
そして、その日が来た。見張り台から冥琳が長江の水平線上に敵を確認する。日は中天を過ぎていた。晴天の下で、その姿ははっきりと識別できる。
「壮大だな」
と、思わず声を漏らす。呉の大都督である彼女でも、巨大な長江を覆うほどの数の船の群れを見たことが無かった。
『呉』の大きな旗が風を受けて流れる。風向きは逆方向。予想通りだ。
(なあ、雪蓮)
彼女は空の向こうの親友に呼びかける。千切れた白い雲が浮かぶその向こうに、親友の姿を見る。
(守ってくれなんて言わないぞ。そこで黙って眺めていろ。私はお前がしたことが無い大戦を、今から見せてやる)
冥琳は雪蓮の悔しがる様子を想像し、瞼を落として微笑んだ。
これまで呉のために尽力してきた。その結果、穀物は豊かに採れるようになった。異民族は遠い山奥に追いやった。後進たちも育ってきた。遺言も、あの子に渡してきた。もう思い残すことはない。
風がまた一段と強く吹き、彼女の長い黒髪が舞う。冥琳は目を見開き、そして血のたぎるままに、いよいよ大きく見えてきた曹操軍に向かって大きく叫んだ。
「どこからでもかかってこい!この周公瑾がいる限り!ここから一歩たりとも呉の地を踏ませはせん!!」
Tweet |
|
|
4
|
0
|
追加するフォルダを選択
いよいよ赤壁の戦いも佳境に入ってきました。史実と同じ展開となるのか、注目です。