真恋姫無双 幻夢伝 第五章 11話 『仮面の下』
「ふん♪ふふん♪ふん♪ふん♪」
陽気な鼻歌が聞こえる。長江から砂岸に寄せては返す波の音や馬の歩く音が、そのテンポを取っているように合わさる。そして時折吹く川風に、その歌を遠くへと流していた。
川の上流の方からは、地平線に半分体を沈めた太陽が最後の輝きを見せている。巨大な川が赤く染まる。鼻歌を歌う馬上の女性、雪蓮も赤く照らされ、その影を大きく伸ばしていた。
風に髪が乱れる。それを手ぐしで戻しながら、彼女は川面に顔を向けた。
赤い長江は止まることのない波の変化に合わせてキラキラと輝き、彼女は目を細める。その眩しさの中に何隻かの船が浮いているのが見えた。漁船だろう。
「今日も平和ね」
そう独り言を呟いて、また鼻歌を始める。
この時、雪蓮は柴桑の町に戻る途中であった。あの日、アキラと過ごした小さな家に行った帰りである。彼が帰ってから一週間、彼女は暇さえあればそこに赴いていた。
別段、誰かと行くわけでは無い。何か用があるわけではないし、そこで酒を飲むわけでもない。彼女はいつも軒先に寝転び、ぼんやりと過ごす。そして町の門が閉まる時間が近づくと、いそいそと帰るだけであった。
自分でも不思議に思う。冥琳には何度もそこに行く理由を問われたが、誤魔化すことしかできない。言葉では明確に表現できないが、そこにはあの日の“余韻”が残っているように感じて、そこにいるだけで不思議と心地良かった。
それを一言で表現するなら、こういうことなのかもしれない。彼女は呟く。
「私も女なのね」
その顔は恥ずかしそうにも、嬉しそうにも見える。赤く染まる表情の理由を、彼女は夕陽のせいにした。
柴桑の町に近い、川の隣に広がる林にさしかかった。木々が密集したこの場所からから採れる薪は、町の人々の良い燃料源となっている。その中から、動物の鳴き声が小さく聞こえた
もう太陽がほとんど向こうに隠れてしまい、空は黒色に染まり始めている。左側の川から吹いてくる風が段々と冷たくなってきた。雪蓮は少し急ごうと、手綱をしっかり握った。
彼女の右側に広がる林、その中から空気を裂く音が聞こえた。
「ヒヒーン!!!」
「えっ?なに?!」
馬が突然悲鳴を上げ、その前足を大きく上げる。それを抑えきれない雪蓮は振り落とされた。
「ぐっ!」
体が背中から地面に打ち付けられる。次の瞬間には大きな音と共に、隣に馬が倒れ込んだ。
彼女は急いで立ち上がると、その馬の元に駆け寄る。その腹部には一本の矢が深々と刺さっていた。足をバタバタと動かしているが、未だに起き上がることが出来ない。その矢を勢い良く抜くと、その矢じりに黒く澱んだ液体が付いている。暗くてよく分からない。しかしこれは血ではない、と勘が働いた。
(毒?!)
雪蓮は剣を抜いて林の方を向いて怒鳴った。
「誰!!」
暗い林の陰に白いものがちらりと見えたかと思うと、すぐにわらわらと出てきた。一枚の白い衣に全身をつつみ、さらに白い仮面で顔を覆っている。小さく開いた裂け目から、彼らの瞳を確認することは出来ない。
彼らは退こうとする雪蓮の退路をサッと防ぐと、あっという間に彼女を囲んでしまった。百人はいるかと思われるその集団に、彼女はなす術無く、逃げる機会を失った。
(こいつら!一体、どこから?!)
その集団は衣の中から腕を出した。手ぶらではない。長い剣をその手に持っていた。
そして音も無く動きだし、彼女に襲い掛かってきた。
「はっ!」
応戦した彼女の愛刀、南海覇王が奴らの一人を切り裂いた。その途端、驚いたのは彼女の方だった。
(感触が、無い!?)
肉を切る時の重たさも、骨を砕く時の反発による痛みも、まったく感じない。血も流さない白い人は、そのままスッと消えていくだけであった。
(人ではないの?!)
その問いに答えは無く、応じてきたのは無数の剣戟であった。彼女は考えることを止め、また一人、その胴体を剣で薙ぎ払った。
―――それから、何人斬ったであろうか。
雪蓮の息遣いは荒々しく、全身から汗が噴き出している。足は土で汚れ、目に落ちてくる汗を何度も拭っている。
それでも、奴らの攻撃を俊敏にかわすと、その首と思われる付近を斬る。斬られた者は何も言わずに消えていった。彼女の闘志はまだまだ十分に残っている。
彼女は何度もこの包囲網を突破しようとした。ところが斬っても斬っても、その後ろから新たな白い影が現れ、彼女の勢いを削いでいく。結局のところ、彼女は倒れている馬の元から移動できないでいた。
「ああ!もどかしいわね!」
まるで地面から湧き上がってくるように数が減らない敵に、彼女はいら立ちを見せる。一方で、まだこういう感想が出ることは、彼女の余裕の表れであった。
もう日はすっかり落ちた。
また一人と斬った雪蓮は、急に違和感を持った。先ほどまで聞こえていた奴らの足音が消えている。
(動きが、止まった)
彼女が周りを見渡してその様子をじっくり観察していると、その包囲網の向こうに誰かがいることに気が付いた。目を凝らす。信じられないことに、裸当然の格好をした筋骨隆々の男がそこにいた。
その男はニヤリと笑みを浮かべる。その口から発した言葉は、雪蓮の耳にも届いた。
「その剣は厄介ねぇ。これならどうかしら?」
パチンとその男は指を鳴らす。すると、その白い人々が付けていた仮面が一斉に外れ、カランカランと地面に落ちた。
その顔を見た彼女の顔色が変わった。
「あっ」
雪蓮が見たのは老若男女の顔であった。彼らは一様に蒼白な顔色をしており、そして全員が真っ赤な瞳から、真っ赤な涙を流していた。白い頬に赤い筋が二つ付いている。
雪蓮の脳裏であの時のことがフラッシュバックする。彼らは汝南で彼女たちが殺した人々であった。
「なんで……」
おののく彼女に向かって、その中の一人が声を挙げる。
「なんで殺したんだ」
他の人々も“叫び”始めた。
「お前は何で殺した」
「私たちは何で殺された」
「お前は何で笑っていられる」
「お前はどうして……」
「やめてっ!!」
その言霊に全身が震える。剣を支えにしてやっとのことで立っていられる彼女は、吐き気さえ込み上げてきてしまう。あの時の人を斬った感触。人々の悲鳴。胸の奥に閉じ込めてきた記憶が彼女を八つ裂きにしていく。
その彼女の前に、小さな影が近寄ってくる。10歳ばかりの男の子だ。構えないと、と頭がそう命じるが、彼女の身体は動かない。
その少年はその赤い目から涙をこぼしながら、長い剣を両手でつかむ。その姿を見つめる彼女に、彼は言うのだった。
「お母さんを、返してよ」
少年が駆け出してくる。その剣先は雪蓮の胸を狙っている。
体から力が抜ける。彼女の剣は、動かない。雪蓮は静かに目を閉じた。
「……さま……ねえ…さま……姉様!!」
妹の声に、雪蓮の意識が戻った。
彼女は目を開けて、キョロキョロト目玉を動かし、辺りを見回す。寝ている彼女の周囲には、涙を目に溜めて彼女の身体にすがる蓮華と、立ちながら心配そうに眉間を歪ませる冥琳、そして以前に会ったことのある医者の華佗がいた。皆、目の開いた彼女の顔を見つめている。
蓮華がパッと喜色に顔を変えて、再び彼女を呼んだ。
「姉様!蓮華です!分かりますか?ああ、目が覚めて良かった!良かったわ!」
彼女はギュッと雪蓮の手を握る。そこから伝わる温もりを、彼女は熱いとさえ感じた。
雪蓮は無言のまま、冥琳の顔を見つめる。微笑む冥琳は、彼女の意を理解して頷く。
「安心してくれ。ここは柴桑の城の中だ。お前は襲われてから2日ほど寝ていたのだ。帰りが遅いと思って探したらこれだ。まったく、驚かさないでくれ」
「姉様、一体誰に襲われたのですか?」
言葉を発しようとする雪蓮。ところが舌を動かすことも億劫だった。体全体がしびれているようだ。どの筋肉も満足に動かせない。
目を丸くするばかりの雪蓮を、蓮華はまた心配そうに見つめた。
「姉様?」
「疲れているのでしょう。無理に話させることはない。ゆっくり回復してからでも」
と、言った冥琳の袖を、華佗が引いた。その表情は暗く、真剣みを帯びている。
「ちょっと、こっちへ」
「………?」
冥琳は首を傾げる。秘密にしたい話らしい。冥琳は人払いのつもりで蓮華にこう頼んだ。
「蓮華様。雪蓮が意識を取り戻したことを他の者にも伝えなければなりません。城内にいる者をまずは安心させましょう」
「そうね。じゃあ、誰か呼びましょうか」
「いえ、口伝えでは間違いが起こるかもしれません。直接伝えませぬと」
「分かったわ。私たちが直接伝えに行きましょう」
華佗も含めて三人が部屋を出た。そして分かれ道で蓮華と別れると、冥琳と華佗はその場に止まった。
彼は誰もいないことを慎重に確認する。
「いったい何を?」
「周瑜さん」
彼は小さい声で話し始めた。
「孫策さんは血を流し過ぎている。俺の力は、人間に元々ある回復力を最大限活用させることしかできない。その人間の身体自体が回復力を失っているとなると、話は別だ」
「それは、どういう意味だ?」
「単刀直入に言うとだ、周瑜さん」
彼は冷静に診断を下した。
「彼女はもうすぐ死ぬ」
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ストーリーが急変します。
(注)この物語のみの設定が関係します。この話のご拝読の前に、??話と第三章8話をお読みください。