【東京六大学野球の隆盛】
東京六大学野球の源流は一九○三年に行われた早稲田と慶應義塾の対校戦である。両校は翌年から定期戦を行うことを決定し、その一九○四年には早慶両校が立て続けに当時国内最強と謳われた一高(現・東京大学教養学部等)を破ったことにより、早慶戦は日本最高峰の野球戦として位置づけられることになり、大いに衆目を集めた。ところが一九○六年には余りにも応援合戦が過熱しすぎたことにより中止になり、これ以降早慶戦は行われなくなる。一九一四年には明治が加わりリーグを組んだがそれでも早稲田と慶應は対戦せず、一七年に法政、二一年に立教が参入しても状況は変らなかった。二五年に東京帝国大学が参加して六チームとなった際にようやく早慶戦は復活し、これにより東京六大学野球連盟及びリーグ戦が発足した。
この頃の六大学野球の人気は凄まじく、一九三○年前後には東大卒サラリーマンの初任給が百円程度という時代にも関わらず連盟の年間収入は約四十万円にも及んだ。これは当時の人々がスポーツを楽しむ素養と収入を得ていたからこそ叩き出せた数字であり、プロ野球が成立する社会的経済的条件が存在しながらも学生野球がそれを代替している状態だった。
当然こうなると選手の争奪戦になり特待生待遇での入学や引き抜きが発生し始めた。加えて応援の過熱化によって「八十川ボーク事件」「水原リンゴ事件」といった騒動・乱闘が絶えず、
「学生野球は社会の注目を集めると同時に、様々な問題点や弊害が指摘されるようになっていた」3
。当時は大学まで進学するのは同年齢人口の内二~三パーセントに過ぎず、大学生とは数少ない学歴エリートと認識されていた立場だ。それにも関わらず試験を免除されたり成績に関係なく就職で優遇されるものが存在していた。社会からも学内からも批判の声が挙がるのは無理からぬことだったのである。
【野球害毒論と甲子園】
では次に全国高等学校選手権大会の成立を見てみよう。この時代、現在の高等学校にあたるのは中等教育学校だ。その中で野球の歴史が最も古いのは愛知一中で一八九一年頃より始められていた。その後全国各地の中学に野球は普及していったのだが、野球の大衆人気とは対照的に教育関係者の大部分は野球を白眼視しており、選手にとっては四面楚歌ともいうべき環境であったらしい。日露戦争後には中等学校に対して対外試合や練習時間の規制が文部省によって通達されるほどだった。
こうした時代の中で、一九一一年に東京朝日新聞が展開したのが「野球害毒キャンペーン」である。これは一高・校長の新渡戸稲造をはじめとする各界著名人や教育家が学生野球の弊害について記事を連載していくというものだ。ところが他の新聞各紙は野球好きな購読者を意識して、逆に野球を奨励すべきと主張することが多くなった。このため朝日新聞は次第に劣勢になり、一転「教育としての野球」を主張し、大阪朝日新聞社が主催して一九一五年、全国中等学校優勝野球大会を開催した。大会費用は破格の一万円。これが全国高等学校選手権大会の始まりである(阪神電鉄により甲子園球場が完成するのはこの九年後)。
実はこの頃には各地で新聞社・雑誌社・スポーツ用品メーカー等の企業が主催して中等野球大会が開かれるようになっており、参加しているチームには現金の授与も行われていた。その宣伝力は無視できないものであったことは相違ない。現にこの大会の成功を受けてライバルの大阪毎日新聞社が主催して一九二四年から始まったのが選抜大会こと「春の甲子園」なのだ。しかも第四回から第八回大会の期間、選抜大会優勝チームは大阪毎日新聞の負担で夏にアメリカ旅行をすることができた。表向きの趣旨は「風土の視察」といったものだが、実際は全国トップレベルの選手達が優勝大会に出場することを阻止するため、つまり渡米費用を負担してでも同業他社のイベントの気勢を削ごうという利己的動機が露骨に表れていた。すなわち甲子園とは「教育」を建前にして新聞社の営利目的で開かれた大会だったのである。
3)中村哲也 『学生野球憲章とはなにか』 青弓社 2010年 p28
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