「植木が歌うんです」
と竹田さんは言いました。
「誰も信じちゃくれませんが、確かに歌っているのは植木なんです」
椅子に座ってうつむく竹田さんに、アキは首を振って見せました。しっとりとした黒い髪に、優しい黒い瞳。アキは読書好きの大人しい大学生に見える、もの静かな青年です。
近所のファミレスでばったりと竹田さんと出くわして、なんとなく同じテーブルでお茶を飲んでいたのでした。
「誰も、なんてことはありませんよ」
とアキは言いました。
「現に、竹田さんは毎朝その歌を聞いていて、気味が悪くて仕方がないんでしょう?」
そうなんですと頷いて、竹田さんは少し禿げ上がった額を手の平でなで上げます。
「捨ててしまおうとも思ったんですが、死んだ妻が大切にしていた物なんですよ。思い出のあるものだけに、どうしても残しておきたいんです」
「誰かに相談したんですか?」
「近所の庭を手入れしてた植木屋のおじいさんに言ったら、笑われてしまったんです。はぁ……」
竹田さんはため息をついてから立ち上がりました。
「変な話につき合わせて、悪かったですね。学校のレポートを書くのに忙しいんでしょう?」
竹田さんの目線の先に気が付いて、アキは自分の手元を見ました。そこには、レポート用紙と数冊の本。
「まあ、そんな所です」
アキは小さく笑いました。
夕方。アキは1DKの自分のアパートに帰ります。そして、電話をかけます。
「もしもし。あ、お師匠様?」
相手は、アキが魔法学院でお世話になっている先生です。
そう、実はアキは、魔法学院で魔法の修行をしている魔道士だったのです。
「実習レポートはまだ書けていません。でね、お師匠様。魔法使用許可チケットがほしいんです。ええ、初級と中級が数枚あれば……」
アキは申請用紙に必要事項を記入して、ファックスします。
「じゃ、お師匠様。ボクがいないからって飲み過ぎないでくださいよ」
電話を切って五分後。ファックスで、初級魔法チケットが二枚と、中級魔法チケットが一枚、送られてきました。アキはそれを持ってアパートを出ます。
竹田さんの家は、アキのアパートから歩いて七分。駅へいく道の途中に必ず通るので、お互いなんとなく顔見知りになったのでした。
竹田さんは、小さな一軒家に一人暮らしです。夕食の準備をしているのか、小さな家に一つだけ、灯りが灯っていました。
アキは、玄関のチャイムを無視してそっと門をくぐります。
コンクリートブロックの塀の中。殺風景な小さな庭に一本だけ、ちっちゃな植木がたっていました。
「こんにちは」
アキは極々小さな声で、優しく言います。
「君が、歌を歌う植木だね?」
ジーパンのポケットから初級チケットを出して、アキはそれをそっと千切ります。
「君の声をボクに聞かせておくれ」
アキの言葉に合わせるように、チケットは小さな光の粒になって消えました。
「歌っているのはあたしじゃないの」
植木は可愛らしい声で応えてくれます。
「あたしも歌いたいけど、歌は苦手なの」
「なら、歌っているのは誰だろう?」
植木の葉っぱが、囁くように揺れました。それでアキは、葉っぱの下を覗きます。するとそこに、ちっちゃなさなぎがちょこんとくっついていました。
アキはまた、初級チケットを切りました。
「ねえ、君。どうして歌っているんだい?」
さなぎはちょっとくぐもった声で、恥ずかしそうに応えます。
「気が付いて欲しかったんですもん」
「何を?」
「あたしがここにいるってこと。あたしがもうすぐチョウチョになって、遠いお空へ行くってこと」
さなぎはくすんと音を立てます。
「あたしもママも、そのまたママも、ずっとずっとこのお庭でチョウチョになったの。このお庭には優しい人間さんがいて、ママたちがチョウチョになるところをじっと見守ってくれてたのよ。なのにあたしは、ダレもにも気が付いてもらえないの」
「そうなのよ」
と植木は言います。
「ここのママはいつも、葉っぱの影からさなぎちゃんを見つけては、喜んだの。ママの喜ぶ顔が見れるから、あたしはちょっと葉っぱをかじられるの、我慢したもんだわ。そうしたらだんだんチョウチョさんに会うのが楽しみになってきたのよ。ママ、今年はここにさなぎちゃんがいるわ。一緒にチョウチョさんに会いましょうって……。なのに、ママはいなくなっちゃって。パパはホースであたしに水をかけるだけ。時折、家の中からあたしを見て、寂しそうに目をこする」
「さみしいわ。とってもさみしい」
さなぎは言います。
「一人ぼっちが寂しくて、あたしの羽は乾かないわ。優しい人に見守られてキレイなチョウチョになるって、ずっと夢みてきたんですもん」
アキはさなぎを眺めます。そして、首を傾げました。
「君って不思議なさなぎだね。人間と話ができないのに、歌が歌えるなんて」
「ママよ、ママ!」
植木が体をゆすります。
「ママが助けてくれてるの。だって、さなぎちゃんの歌はママが歌ってくれてた歌だもの」
なるほどと、アキは頷きました。
「ママも、パパがさなぎに気づきますようにって思ってるんだね。だけど、パパはすっかり気味悪がってしまっているよ」
「ちょっとでいいのに。ちょっとあたしの葉っぱの影を覗いてみてくれればいいの。あたし、パパと一緒にさなぎちゃんを見守りたいわ。チョウチョさんに会いたいわ。……ママとしていたように」
アキはにっこり笑いました。
早朝。竹田さんは仕事をやめてからの日課のお散歩へ行く為に、目を覚まします。
一人で布団を押入れにいれ、誰もいない洗面所で顔を洗います。
そういえば、洗面所のタオルを取り替えるのを忘れていたと、ちょっとタメ息をつきます。家の中のことを全部全部、一人ぽっちでしなきゃいけないのです。
薄くて柔らかな朝の光の入る窓から、庭に目を向けます。
「そうだ、植木に水をやらなくては」
独り言を言ってから、気が付きます。今朝はなぜだか、歌声が聞こえません。
あんなに気味が悪いと思っていたのに。聞こえないとなると少し寂しく思えてきて。竹田さんは目を細めました。
「ああ、そうだ」
と、竹田さんはまた独り言を言います。
「彼女がいた頃は……彼女が植木に水をやりながら歌う声を聞いて、顔を洗っていたっけ……」
ふわり
竹田さんの目の前を、何かが通ってガラス戸をすり抜けました。
おや? と、竹田さんは目をこすります。
ふわり ふわり
虹色の蝶が、まだ薄暗い朝焼けの中を舞っています。
竹田さんは庭に出ました。
虹色の蝶は、植木の葉っぱに止まると静かに羽を閉じます。
なんてキレイなんだろう……と、竹田さんは蝶を覗き込みました。すると……蝶がすうっと消えて、葉っぱの影から小さな歌声が聞こえてきます。
それは……いつもの、あの歌声。
その時、竹田さんはあることに気が付きました。その歌声はあまりに微かだったので、いつもはよく聞き取れなかったけれど。静かな気持ちになって間近で耳を澄ませてみると、とても聞き覚えがあったのです。
「彼女の歌っていた歌だ……」
ぽろりと、竹田さんの目から涙が零れ落ちました。
「植物だって優しく語り掛ければ応えるんだと言って、彼女が歌っていた歌だ」
さわりと、風が葉っぱを揺らします。すると、歌が少し大きくなって、ちっちゃなさなぎがちょこんと姿を見せました。
「こんな所にさなぎが」
竹田さんはもう一粒、涙をこぼしました。
「去年の今頃、彼女がここにじっと座り込んでいたっけ。こっちに来て見てと言われたけれど、忙しいからと断って……」
さわりと枝が揺れます。そして……ぽちっと、さなぎの背中が割れました。
「おはようございます」
ブロック壁越しに、アキは竹田さんに挨拶をしました。竹田さんは植木のちょっと黒くなった葉っぱをむしる手を休め、顔を上げます。
「やあ、今日も勉強ですか?」
「そんなところです」
答えてから、アキは植木に目をやりました。
「それが、歌う植木ですか?」
竹田さんは首を振ります。
「歌っていたのは、ここに間借りをしていた小さなお客さんだったんです。丁度さっき、歌いながら飛んでいってしまったところです」
竹田さんは優しく目を細めて、植木を見やります。
「次の年もここにお客さんが来てくれればいいなと、思っているんです。その為にも、きちんと世話をしなくては」
もう二言三言、言葉を交わして。それから、アキは竹田さんに別れを言って、駅に向かいます。
背中に、竹田さんのちょっと下手くそな歌声を聞いて……アキはにっこりと笑ったのでした。
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ちょっと魔法の出てくるお話。