「お祖父ちゃんは、お祖母ちゃんの所へ行くけれど。志保は百年くらいしてから、ゆっくり会いにきておくれ」
そう言って、お祖父ちゃんは遠いところに旅立ちました。
志保の手元には、お祖父ちゃんの優しい思い出と一緒に、一枚の写真と小さなオルゴールが、形見分けで残されました。
若いお祖父ちゃんとお祖母ちゃんの写った、白黒の写真。二人は着物を着て、少し離れて座っています。 その写真を見てお父さんは
「お祖父ちゃんとお祖母ちゃん、本当に仲が良かったんだ。天国で、今頃二人して楽しく過ごしているさ」
と呟くのでした。
志保は写真を眺めては、二人はどうして結婚したんだろうと、ロマンチックな夢を見るのが大好きでした。そういう時は必ずオルゴールの蓋を開けるのですが、流れ出すメロディーはいつも、ところどころでプスンプスンと途切れてしまいます。蓋の裏側に付いている鏡に至ってはなんだか白っぽく濁っていて、磨いても一向に曇りが拭えないのでした。
その年。志保は風邪をひきました。学校を休んでベッドに潜り込みます。
家の中は不気味な程静まり返っていました。お母さんは買い物にいってしまい、家にいるのは志保一人。表も、普段と違って人の話し声すらせず、ただ庭の木の葉が風で擦れる音だけがします。志保は、心細くなってきました。
「そうだ、またお祖父ちゃんの写真とオルゴールを出してこよう」
志保はサイドテーブルの写真を立て、オルゴールを開けました。ギギギと音がして、オルゴールがぎこちなく動き出します。やっぱりメロディーは穴だらけですが、志保はなんとなくほっとしました。一人きりでも、寂しくありません。
それにこのオルゴール。音は切れ切れですが、とても愛らしいもので、木の箱に色のついた小花が彫ってあります。その上、お父さんが言うには、これはお祖父ちゃんがお祖母ちゃんにプレゼントしたものだというのです。志保はこのオルゴールが好きでした。
オルゴールの蓋を開けたままサイドテーブルに置き、志保は布団にくるまって目を閉じました。
「お祖父ちゃんとお祖母ちゃんは、どこで会ったのかな。学校かな。桜の下で……」
春の香る、薄紅色の嵐の中で……。志保は、写真をチラと見ます。澄ました、お祖母ちゃんの顔。
「違う、夏よね」
波のざわめきを聞きながら、日傘をさして……。
写真のお祖父ちゃんは、むっつりと座っています。
「じゃ、秋」
枯葉のじゅうたんを踏みながら、凍える手を吹く風からそっと隠して……。
「それとも、冬?」
志保の言葉に、写真の中でお祖母ちゃんの顔が恥ずかしそうに微笑んだように見えました。
満足げに、志保はまた瞳を閉じます。そして今度はそのまま、何かに吸い込まれるように、眠りに落ちていきました。
「寒い」
志保は呟きました。ぬくもりを求めて布団を引き寄せようとしますが、手はなぜか空をかくだけでした。志保は眉をしかめます。
「風邪がひどくなっちゃうじゃないの」
ブツブツ言いながら目をあけます。そしてほとんど同時に、ぱっくりと口も開けます。
「なな……」
口から白い息が立ち上がりました。
志保は、布団の中になんていませんでした。白くて冷たい雪の中を、パジャマに裸足のまま立っていたのです。
「ふふ、ふえっくしょーんん!!!」
志保は大きなくしゃみをしました。何がどうなったのか、全く見当がつきません。
「寒い寒い。うう、このままじゃ凍えて死んじゃうよぉ」
どうして自分がこんな所にいるのかを考える前に、どこか暖かい場所へ逃げ込まなくてはいけません。が、辺りはただ雪があるだけで、木も家も見えません。
「これは夢よ。わたし、あったかい布団にいるはずだもん。で、お母さんがうどんを作ってくれたりして……」
歯をガチガチいわせながら呟いた時。
「もし、おじょうちゃん」
後ろで女の人の声が呼びました。振り返ると、そこには真っ赤な椿の木。そして着物姿のお姉さんが立っていました。お姉さんはふっくらとした色白の顔をしていて、なんとなく志保の知っている誰かに似ていました。
「風邪を引いてしまいますよ」
お姉さんは自分が肩に羽織っていた毛糸のショールで、志保の体を包んでくれました。
「ありがとう、お姉さん」
その人はにっこり笑いました。控えめで、優しい笑顔です。
「さあ、家にお帰りなさい」
「そうしたいけど、どうやって帰ればいいのかわからないの」
お姉さんは困った顔をしました。
「でも、そのままでは寒いでしょう? できれば私の家に呼んであげたいけれど……それはできないの」
「どうして?」
お姉さんは椿の枝についた、真っ赤な花を見上げました。花には、冷たい雪の結晶が張り付いています。
お姉さんは、それを一枝折り取ります。
「私は人を待っているの」
こんな寒い所で一人きり、いったい誰を待っているのでしょう。志保が尋ねると、お姉さんは寂しげに瞬きをしました。
「わからないの。でも、待っているの」
お姉さんの手の中の椿は、いつの間にか白い封筒に変わっています。
「お姉さん、その手紙は?」
封筒に目を落とすと、お姉さんはほんのり頬を染めます。するとそれに合わせて、雪もピンクに染まります。
「あっ……」
ゴォッと物凄い風が吹き、ピンクの雪は幾千枚の花びらとなって、二人の周りを舞います。志保は目を細めて、花の中のお姉さんを見ました。
「ね、その手紙、誰かに渡すんじゃない?」
お姉さんはもう一度封筒を見ました。封筒には、宛名はありません。
「大切な手紙なのに、誰に渡せばいいのかわからないわ」
ほろり。と、お姉さんの瞳から涙が零れると、花びらは水の雫に姿を変え、寄せては返す波になりました。志保の肩を覆っていたショールが白い砂浜に落ちます。ショールは砂に触れた途端、白い日傘になってしまいました。志保は日傘を拾って、お姉さんに差しかけてあげます。強い日差しが、砂の上に二人の影をつくります。いつのまにか、そこは真夏の浜辺になっていました。
「ねえ、泣かないで。ゆっくり思い出してみようよ」
なんだかお姉さんが気の毒で、志保は優しく言いました。
けれどお姉さんは、泣きながらしゃがみこんでしまいました。
「とても永いこと待っていたから、忘れてしまったの。もう、きっと思い出せない……いいえ、それより も、相手の方も私を忘れてしまって、それで来ないのよ」
「まってよ。まだそうと決まったわけじゃないしさ。待ち合わせは本当に、あの椿の木の下?」
お姉さんは白い封筒を見つめます。
「解らないわ。手紙のことも、さっきまで忘れていたの」
「手紙……開けてみたら?」
お姉さんは慌てて、封筒を胸に抱きしめました。
「だ、だめ。なんだか、とても他の人に見せられるような物じゃない気がするわ」
その時。お姉さんのお腹がぐぐぅーっと鳴りました。
「ま、まあ、私ったら」
お姉さんは焦ったように顔を赤くして、お腹を抑えました。その仕草がなんだかおかしくて、志保はクスクスと笑い出しました。お姉さんも、志保につられて笑い出します。二人のクスクス笑いは波のざわめきと重なり合い、波の音は次第にさわさわという微かな風の音になって……風は志保の手から日傘をふわりと誘い出しました。そして白い日傘は、途中で白いハンカチに変わって、空のどこかへ消えてしまいました。
「ねえ、お姉さん。日傘……っていうか、ハンカチが無くなっちゃった」
お姉さんはハンカチの消えた方をじっと見つめます。
「なにか、ぼんやりと思い出してきたわ」
手紙を抱きしめたまま、お姉さんは呟きます。
「焼き芋……」
その呟きに、志保は眉をしかめてお姉さんを見上げました。
「お腹が空いているのは知っているけど?」
お姉さんの右手が、すっと空を指しました。
「空は白みがかった水色」
そんな言葉と共に、空が白みがかった水色に変わります。
「橙色の葉っぱが沢山……」
今度は地面を指差します。すると、地面には落ち葉のじゅうたんが敷かれます。
辺りは、一瞬で秋の風景に染まりました。
お姉さんの胸にあるのは、白い封筒から、いつの間にかホカホカの焼き芋に変わっていました。
お姉さんはそれを、ぱくっとかじります。その時。
「こんな物が降ってきましたよ」
一人のお兄さんが白いハンカチを手に、お姉さんの後ろに立ちました。
「あなたのですか?」
お姉さんは振り返ると、焼き芋を含んだ口を手で押さえ、こくこくと頷きます。顔が、恥ずかしそうに赤くなりました。
お兄さんは言います。
「おいしそうですね」
するとお姉さんは、焼き芋を半分に割って、かじってない方をお兄さんに差し出しました。お兄さんはお礼を言うと、それを食べます。それを見て、お姉さんはにっこり笑って言いました。
「私、間違えてしまったのね。あなたと逢うのはここなのに、ずっと他の所にいたの」
「そうだよ。僕はずっとここにいたのに」
お姉さんは志保を見ました。
「お姉さんの待ち合わせは、ここだったの?」
「そうなの」
「じゃあ、手紙を渡さないといけないんじゃない?」
お姉さんは首を振りました。
「あれは渡せなかったの。彼の姿を見かけたら、勇気が萎えてしまったの。でも、落ち葉のじゅうたんの中で、初めて声をかけてもらったの」
お兄さんとお姉さんは、並んで立って志保に微笑みかけます。
「ありがとう、志保ちゃん。あなたが来てくれなかったら、ずっと椿の下で待っていたわ」
お兄さんが言います。
「これでやっと出発できる」
「どこへ行くの」
ニッコリと、お兄さんは笑いました。
「皆が行くところだよ。志保も、百年くらいしたら、ゆっくりおいで」
風が、落ち葉を吹き上げます。志保は、二人を見つめます。
「あ……ねえ、お兄さんとお姉さん、まさかわたしの……」
落ち葉たちは、二人の周囲を囲み。やがてその姿を覆い隠していきます。
志保は目を細めます。そして……。
「あら、起きたの?」
次に見たのは、お母さんの顔でした。
「食欲あるなら、おうどん作るわよ」
志保が頷くと、お母さんは部屋を出て行きました。
「なんだ、今までのは夢だったのかぁ」
首を傾げて、志保はサイドテーブルを見ます。オルゴールの演奏はもう止まっていました。
白黒の写真の中のお祖父ちゃんとお祖母ちゃんは、確かにさっき夢で見た顔でした。
「でも夢の中の方が、もう少し若かったよね」
志保はオルゴールを覗き込みます。そして気が付きました。
蓋の裏側の、白く濁っていたはずの蓋の裏側の鏡は、すっきりと晴れていました。まるで新品のようにピカピカの鏡の中に、志保の顔がしっかりと映っています。
志保はしばらく鏡を見つめていましたが、やがてオルゴールの小さなネジを、静かに回しました。
ギ……ギギ……
志保は写真の二人の目を移して、言いました。
「焼き芋の恋っていうのも、意外とロマンチックよね」
優しく甘いメロディーが、小さなオルゴールからなめらかに滑り出します。
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お祖父ちゃんの形見のオルゴールを巡る、とりとめのない雰囲気のお話し。