……失敗した。まずい、これはちょっとどうしようもないのかも知れない。
ああ、どうしてこうなる可能性を考えなかったのか。
今更悔やんでも仕方がない、大事にならないことを祈るしかないか。
私が部活の朝練に行く際、廊下で奇妙な光景を見た。
廊下の壁に、男がめり込んでいるのだ。
正確には、壁から男が生えているといった方がわかりやすいのかも知れない。壁から顔と両腕、両足が出ている。まるで、セメントで固められてしまったような恰好だった。
こちらの気配に気がついたのか、男と目が合ってしまった。まずい、関わり合いたくない。
「おーい、そこの君。ちょっと助けてくれないかな?」
遠くで男が爽やかな笑みを浮かべ、こちらを手招きしている。あまりにも怪しすぎる。そもそも人気のない朝の校舎に、見知らぬ男がいるという時点でおかしいのだ。なにより、壁の中に人がいるということ事態が。
しかし、男の笑みを見る限り、悪意は感じなかった。最近はこういう一見無害そうな人に限って……などと、私は自分に疑問を持ちながらも、男に歩み寄った。
目の前まで来ると、見間違いではなく、本当に壁に入り込んでいるのが分かった。髪と耳はおそらく壁の中なのだろうか、お面のように顔だけが壁から出ている。よく見れば、割と顔はいい方なのかも知れない。
両腕は大体肘のあたり、両足は膝のあたりまで出ている。固まって動かせないのか、ピーンと垂直に伸びきっている。両手両足を伸ばして座っているといった格好なのか。
「……あなた、こんなところで何をしているの?」
「いやー、それがね。ちょっとした事故でこんなことに」
「事故?」
「あー、うん。あんまり人に言えない話なんだけどね、場合が場合だから仕方ないか」
男が急に真剣な顔つきになる。その状態で、その顔はやめてほしい。壁の中にいる絵面がよりシュールになる。
「俺、実は超能力者なんだ」
「はい?」
超能力者だって? 何をふざけているんだ、そんな人間いるはずがない。馬鹿にするのもいい加減にしろ、今すぐ警察に通報してやる。
そう思って携帯を取り出すと、男がものすごい勢いでバタバタと慌て始めた。
「ちょ、ちょっと待って! ごめん、ふざけてるように思われても仕方ない状況何だけど、嘘はついてないんだ」
その状態で暴れられるとかなり気持ち悪い。
「……仮に超能力者だとしたら、そんなふざけた格好してないで、さっさと壁から脱出すればいいじゃない」
「いや、超能力にも色々幅があってね。この状況を打破することは出来ないんだよ」
男の言い分を聞いて、飽きれつつも一つの疑問が出てきた。そもそも、こいつは本当に壁にはまっているのだろうか。私は興味本位で男の腕を引っ張った。
「い、痛い痛い!」
なるほど、完全に壁の中に入ってしまっているようだ。
「やめてやめて、もげるもげる」
男が喚くので、私は引っ張るのを止めた。
「本当にはまっているようね。……で、あなたはこのまま壁と共に生きるしかないのかしら?」
「いやいや、お願いですから助けてくださいよ~」
男が懇願するので、私は嘆息しながら男の話を聞いた。
「えっとですね、この状況を打破するにはもともとここにあった壁と、私を入れ替えなくてはいけないのです。ああ、言い忘れてましたが私の超能力はテレポートなんですよ。それが失敗してこの様に」
「ちょっと待ちなさい、テレポートって一体何を考えていたわけ?」
「いやその、実は会いたい人がいましてね……。いや、違うんです、ストーカーとかそんな話ではないんですよ。校門前に出るつもりでしたが、失敗してしまいまして」
校門前で待ち伏せってのも大分怪しいのだが、きっと悪意はないのだろう。テレポーターというのも、嘘をついているとは思えなかった。目の前の現状が現状なので。
「それでですね。君にはここにあるはずだった石膏を持ってきてほしいのですよ。おそらく、私のはまっている体の部分の形をしているのでわかりやすいと思います」
「それがあれば出てこられるのね?」
「はい、本来あるべきものがあれば、私自身と対象を入れ替えることが出来ます。それで万事解決です」
本当にそんなことで状況を打破出来るのだろうか。私は疑問に思いながらも男に尋ねた。
「ところで、本来そこにあるはずだった石膏? ってどこにあるのかしら?」
「多分校門付近に落ちてると思います。座標ミスで体と石膏が入れ替わってしまったので」
「なるほどね。……わかったわ、このまま騒ぎになるのはごめんだから、ちゃっちゃっと持ってきてあげるわ」
「すいませんね、君が優しい人で助かったよ」
そう言って、男はにっこりと笑った。その発言と表情で、何故だかこっぱずかしくなった私は、足早に廊下を駆けた。何で私がこんなに恥ずかしくならなければいけないのだ。
校門近くで石膏らしきものは簡単に見つかった。それは男の体の部分と思われる形をしており、無造作に横たわっていた。
ブツはこれかしらね。そう思って、私は石膏を持ち上げる。質量がある分、それだけずっしりと重かった。こんな変な所を誰かに見られるのは避けたい。そう思い、肩に担ぐようにして、足早に男の元へと向かった。戻る際中、男の体の形と思われるそれは、妙に筋肉質に思えた。男の優男のイメージとは違い、体はごつごつとしていて男らしく感じた。何を考えているんだ一体、先ほどの男の笑顔を見てから何かが変だ。顔が熱くなっているような気がする。
男の元に戻ると、にこやかに私を出迎えてくれた。壁の中のままだが。
「持ってきたわよ」
どうしてだろう。何故だか、顔を直視するのに抵抗がある。
「ああ、ありがとうございます。いやー、助かりましたよ」
そう言って、先ほどのような爽やかな笑顔を浮かべる。
「と、とりあえず持ってきたんだから、さっさと出てきなさいよ」
何でだろう、少しばかり怒っているような態度を取ってしまう。
「それもそうですね、では石膏を僕の右手に触れさせてください」
言われたままに、石膏を男の右手に添える。
最初は呪文の詠唱でもする物だと思っていたが、一瞬で男は壁から脱出した。本当に一瞬だった、今まで壁にはまっていたの事が嘘のように、壁は元通りになり、男が飛び出てきた。ああ、これがテレポートか、と納得出来た。
ほんのちょっとだけ空中にいた男が着地した。自分の体を確かめるように、手でペタペタと触っている。自分の無事を確かめると、男は私の手を取った。
「いやー、助かりましたよ。本当にあなたがお優しい方でよかった」
ぶんぶんと腕を振られ、突然の事に少しだけ惚けてしまう。
「い、いや当然のことをしたまでであって……」
男に手を握られていると思うと、何だか恥ずかしくなってしまう。別に経験がないとか、そういうことではないと思う。こうして目の前に男が立っていると、顔を見上げていると、壁の中にいた時とは違った感情が浮かんでくる。
「でも助かったよ本当に、これで問題なく人を探せるよ」
私の感情が一気に冷めるのを感じた。そうだ、この人は誰かに会いに来たのだ。きっと、彼女か何かなのだろう。私は一体、何を期待していたというのか。
「そうだ、せっかく助けてもらったんだ。よかったら、君の名前を教えてくれない?」
そういえば、さきほどからずっと手を握られたままだが、悪い気はしないので気にしないでおこう。
「いや、名乗るほどの者じゃないので」
少しさびしいような、そんな苦笑だったと思う。邪魔をしちゃ、いけないかなと思って。
「そうですか、残念です。では、高崎葵さんって方知りませんか?」
私は耳を疑った。呼ばれた名前は私の名前と同じだったのだ。
「あの、高崎葵って私なんですけど……」
私がそう言うと、男は目を丸くした。
「……君が高崎葵?」
「え、ええまあ」
数秒間沈黙が流れた後、突然男が私に抱き着いてきた。
「そうか、君が葵だったのか! いやー、優しい所といい、気の強い所といい、そうかそうか」
「ちょ、ちょっといきなり何するんですか」
男に抱きしめられるなんて初めてだったが、突然の事に私は暴れた。でも、男がきつく抱きしめるので、身動きが取れなかった。男の腕の中にいると、不思議なあたたかさに包まれているように感じた。
「そうかそうか。僕が探していたのは君だったのか、何という偶然」
「何で私を探してたんですか? 私、あなたと面識ないですよ」
男の腕の中から何とか顔を出す。予想以上に男の顔が近くにあり、反射的に目を逸らす。
「それはそうだけどね、僕は君の事をよく知っているよ」
そう言って、男は私を開放する。
「どうして?」
「うーん、それは言うと色々問題が起きちゃうんでナイショ」
いたずらっぽく言ったつもりなのだろうが、何故か爽やかに写る。ずるい。
「でも大丈夫、またどこかで必ず僕と会う事になるよ」
「それってどういう―」
私がそう言いかけた時、彼はまたね、と言い残してどこかに消えてしまった。多分テレポートしたのだろう。
しかし、ずるい。このもやもやした気持ちをどうしてくれるのだ。会って大して時間が経っていないが、どうやら私は彼に恋をしてしまったようだ。顔の火照り具合が、それを実感させた。
その後、我に返った私は少し遅れて朝練に参加した。おとがめらしいものはもらわなかったのが不幸中の幸いだろうか。いや、それ以前に人助けをして、彼に恋してしまったことが不幸なことなのか、幸いなのか、答えはすでに顔に出ているように思えた。
「ねえ、葵? 何だか今日は嬉しそうだけど、何かいいことあったの?」
教室に戻り、席に着くと、隣の友人が私に尋ねてきた。ああ、やっぱり顔がゆるんでいるのか。
「今朝、恋をしたって言ったら笑う?」
それを聞いた友人は後ろに座るもう一人の友人と顔を合わせた。
「あ、葵がこんな冗談言うなんて、明日は雪が降る」
「明美、葵が恋をしたのよ。雪でも何でも降るわよ。で、どんな経験したの?」
なんだよ、わかりきったような口聞いて~と明美が拗ねる。それを見て、思わず笑ってしまう。ああ、何気ない日常も輝いて見える。恋ってすごいな、たった数分間のやり取りが私をここまで変えてしまうなんて。
「あのね、実は……」
私は事の顛末を嘘偽りなく告げる。
「……へえ、それは素敵な出会いね」
「いやいや、つくしさん。これを真に受けるのか?」
「だって、今日の葵は輝いているじゃない? だったら嘘じゃないと思うけど」
そう言って、つくしは本へと視線を戻す。相変わらず読書の好きな子だ。
「私も嘘は言ってないんだけどね、やっぱり信じられないよね」
苦笑しながらも、脳裏には彼が思い浮かんでいた。
またどこかで必ず会える。根拠も何もないけれど、その言葉が私を幸せな気持ちにしてくれる。
「うわー、デレデレしちゃってー。キャラがぶれてますよ」
明美の皮肉も何だか可愛く聞こえる。
「うふふ」
出来るだけ平静を装いながら、微笑む。恋をして、何かが変わった私とは裏腹に、夏の一日は今日も過ぎていく。
「ふー」
無事に帰ってこられたと思うと思わず安堵のため息が出る。
「あら、おかえりなさい」
「ただいま」
よかった、妻にはトラブルがあったことはばれていないようだ。しかし、トラブルがあったからこそ出来た体験はすばらしいものだった。これほど大きく過去に干渉しても、バタフライ効果が起きなくなるというのは素晴らしい。もっとも、それを開発したのは僕自身なのだが。ただ、粗も多い。現に座標ミスで壁に埋まってしまったわけだ。これは前に実証したさいに、解決法を導き出しておいて正解だった。結局、失態を晒したことに変わりはないのだが、ここは目をつぶっておこう。
僕はタイムマシンから降りて、後ろから妻を抱きしめる。
「ちょ、ちょっと。急に何よ」
「いや、何だか無性に君を抱きしめたくなってね」
「もう」
彼女を抱きしめて、少し経つと彼女がこう聞いてきた。
「どうだった? 私の女子高校生姿は?」
「ああ、今の君と変わらない、優しくて気の強い、素敵な女の子だったよ」
「あら? 遠目から見ただけなのに、そんなことまで分かったのかしら?」
まずい、また失敗した。どうも彼女の前ではトラブルが多発してしまうようだ。
「ま、まあずっと君を見てきたからそれぐらいは当然……かな?」
「またそうやってうまいこと言って、どうせ何かあったんでしょ?」
ばれていたのか。
「私だって、ずっとあなたの事見てきたんだから、それくらいわかりますよ」
そう言って、照れたようにはにかむ。ああ、昔と変わらない僕の大好きな表情だ。
「ただいま、葵」
「それさっきも言ったじゃないの。そろそろご飯にするから、いい加減に離してね」
そう言って、妻は僕の腕を振りほどく。あの時ほどきつく抱きしめはしなかったものの、あの時は振りほどけなかったのに、随分力を付けたものだ。
「ああ、僕も何か手伝うよ」
「そう、ありがとね。それじゃあゆっくり調理しながら、向こうのお話でも聞かせてもらいましょうか」
ちょっと余計なこと言っちゃったかな。まあ、仮に怒ったとしても、その顔もまた魅力的だからいいか。これはきっと口に出すと、照れ隠しに殴られるので心の中にしまっておこう。
結局、僕も彼女もお互いにべた惚れ何だなあと実感した。繋いだ手のぬくもりを確かめながら、僕はこんなことを思っていた。
次は小学生の時の葵にも会ってみるか、もちろん本人にはナイショで。その時はまた、かべのなかにいたとしても、悪くないんじゃないかな。
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*かべのなかにいる* 意図せずして甘々な出来になったけど、これが自然体だから仕方ない、後悔もない(苦笑)