六章
一年をコミケで考えている人間でなくとも、今年の秋は短かった。溶けるような夏の暑さが長らく尾を引いたかと思えば、コミティアが終わる頃には一気に季節は冬へと変っていた。
ただ、雄介の周りには、まだ秋が終わったと思っていない人間も何人かいた。スポーツの秋。食欲の秋。芸術の秋。読書の秋。マンガの秋。アニメの秋。最後に秋とつければなんでも許される季節というのは、確かに魅力的ではあるのだが……
「ん~、おいしい」
日曜日の開店前。店のバックルームには雄介、北斗、七海、星野の四人がいた。今日はこの四人で前半を、後半は店長が加わる予定だ。
「でしょでしょ、僕も一度食べてみたかったんだよねぇ」
北斗は箱からチョコを摘み上げると、ひょいっと口に投げ入れる。
チョコは北斗が買ってきたものだった。彼は最近よく食べ物を店に持ってくる。まるで七海を餌付けでもするように。
「こっちも食べてみてください。今日のも結構自信作なんですよ」
言いながら、星野はバックから銀色の缶ケースを取り出す。大きさは大体A5サイズくらいだろうか。蓋を開けると中にはクッキーが綺麗に並べられていた。
それを見て七海はキラキラと目を輝かせる。
「こ、これは――」
以前に食べたものがよほどおいしかったようだ。七海の半開きの口から一瞬でよだれが垂れかかる。
「家にまだまだ沢山残ってるんで、遠慮せず全部食べちゃってください」
「はーい、いただきまーす」
七海はクッキーを一枚、顔の前まで持ってくる。
不意に彼女の表情が真面目なものに変る。そして数秒間、じっとクッキーを見つめたあと、食べる。
「おいしい~」
幸せそうな笑みを浮かべ七海が体をくねらせる。
(あのタメはなんだったんだ?)
雄介は少しだけ気になったが、あえて口に出して聞くほどでもないとスルーした。
「さあさあ守屋さんも長月さんも、早く食べないと七海ちゃんに全部食べられちゃいますよ」
妙なタメがあったのは最初の一枚目だけで、七海はかなりのハイペースでクッキーを消費していく。星野の言うように、早く食べないと全部食い切られてしまいそうだ。
クッキーを手に取り顔に近づけると、上品な甘い香りをより一層感じることができる。舌の上にのせれば、口の中に極上の幸福が広がっていく。
「おいしいですか?」
「うん、すごくおいしい」
雄介の一点の偽りもない感想を受け、星野は七海以上に嬉しそうな笑みを浮かべる。
しっかりと味わってから、雄介は二枚目に手を伸ばす。七海ほどではなかったが、彼も星野が作ってくれるクッキーは好きだった。
だというのに――
「よく食べるな」
雄介は七海を軽く睨み付け、言う。北斗ですらまだ三枚目だというのに、彼女はもう八枚目に手を伸ばそうとしていた。
「だって食欲の秋ですからねぇ。それに食べ物に罪はありませんから」
ニコニコと笑いながら七海は八枚目のクッキーを丸ごと口の中に放り込む。睨み付けられていることなど気にする様子もない。
最低でも四枚は食べたい。雄介はそう考えていた。しかしこのままでは理性を失い暴走した七海に食べ尽くされてしまう。
ふと、雄介の頭に一つの言葉が浮かぶ。彼女を止める、必殺の一撃が。
「何キロだ?」
効果は抜群だった。まるでエターナルフォースブリザードでも喰らったかのように、七海はピタリと体を凍らせる。
最近、彼女が少し太ったことを雄介は知っていた。この反応から察するに、やはり相当気にしていたようだ。
「な、なんのことですか?」
七海が言う。あくまでシラを切るつもりらしい。
「スカートのホックが取れかかってるぞ」
「えっ」
先にホックの部分を手で隠してから、七海は慌てて確認する。
「ちょっ、変な嘘つかないでくださいよ。しっかりとまってるじゃないですか」
「ああ、嘘だぜ。だがマヌケな肥満は見つかったようだな」
雄介はニヤリと笑う。
実際には騒ぎ立てるほど見た目に変化はなかった。健康のことを考えれば、ゲームメーカーが適当に決めた体重より、むしろ今くらいのほうがいいとすら思っている。
しかしこのままで問題ないと言えば、きっと七海は調子に乗る。そして一ヵ月後には本当にスカートのホックが弾け飛ぶことだろう。だから彼女が末永く健康でいられるために、雄介はあえて肥満という言葉を使った――というのが誰に言うわけでもない建前で、クッキーを一人で食いまくった七海を少しいじめてやろうというのが本音だった。
「……五三キロってところか」
「五一キロです!」
またもやあっさりと誘導尋問に引っかかり、七海は大きな声で自分の体重を発表する。彼女はすぐに手で口を塞ぐが、もう遅い。
七海の手がパタリと止まる。雄介はゆっくりと三枚目を楽しみながら、彼女に聞く。
「どうした、もう食べないのか?」
「……食べません」
さっきまでの笑顔は消え失せ、七海は歯を食いしばってなんとか欲望を押さえ込んでいた。
そんな彼女に天使がささやく。
「カロリーは控えめで作ってるから、そんなに我慢しなくても大丈夫だよ」
「……なら、あと一枚だけ」
七海の手がゆっくりとクッキーに伸びていく。
だが彼女の手がクッキーに触れる直前、雄介が言う。
「どうしてあと一枚だけなんだ? もしかしてあと一枚食べたらダイエットでも始めるつもりなのか?」
「ええ、そのつもりですけど」
「なら俺が一つ、ダイエットの秘訣を教えてやろう」
その言葉になぜか星野がピクリと反応する。どう見ても彼女はダイエットを必要とするほど太ってはいないように思えるのだが……
「別に難しいことじゃない。たった一つ、誰にでもできることだ」
七海と星野、二人が同時に唾を飲む。
「今日から頑張れ」
※ ※ ※
彼が言うには『明日から頑張る』という言葉がダイエットを失敗させる一番の原因らしい。
結局、七海は最後の一枚にするつもりだった九枚目を食べなかった。残ったクッキーを七海以外の三人で食べ尽くしてから、四人は仕事を開始する。
今日は若干忙しかった。といっても三時までには予定通り、全員が三○分のお昼休憩を取ることができた。
最後に休憩に入った星野が戻ってくる頃、やっと客足が落ち着いてくる。
「はあ……」
レジを担当していた七海は客が途切れた瞬間、腹に手を当てて小さくため息をつく。
と、それを2レジから見ていた北斗が言う。
「お腹、痛いの?」
「あ、これはそういうわけじゃないですから。ご心配なく」
軽く笑うと手を振って否定する。
「なら、お腹すいた?」
「いえ、そっちも大丈夫です」
弁当を食べてまだ四○分くらいだ。まだ腹は減っていない。ただ、仕事が終わって帰る頃にはいつも以上に減っていることだろう。なにしろさっき入った休憩で、七海は弁当を半分しか食べなかったのだから。お腹に手を当てたのはいつもの満腹感が得られず少し寂しかったからだった。
「そっか……。だけど雄介すごいよねぇ、七海ちゃんが太ったことに気付くなんて」
北斗はお腹に手を当てた理由を深くは追求せず、話題を変えてくる。
「僕、雄介が突然『何キロだ?』って言い出したとき、最初なんのことか分かんなかったよ。だって七海ちゃん、全然太ってるようには見えないもん」
「ありがとうございます」
「本当だよ。別にお世辞じゃないからね」
「はい、分かってます」
逃げることのできない脱衣所の鏡。きつくなるスカート。着実に増えていくデジタル数字。自分が太ってきていると自覚してから、七海は何度も何度も自分の制服姿を鏡でチェックしている。そして制服を着てさえいれば、まだギリギリごまかせると思っていた。
体型の分かりにくい服を買うことも考えた。しかし急に装備を変えれば絶対に怪しまれると思い、やめた。細心の注意を払い、不意に言い訳のできないありのままの姿を見られるようなことは全力で避けた。
なのに、気付かれた。これだけは、気付いて欲しくなかったのに。
せめて秋が終わるまで気付かずにいてほしかった。だがバレてしまっては仕方ない。七海もいつかはダイエットを始めなければいけないと考えていた。考えていたが、これまでは最初の一歩をなかなか踏み出せずにいた。
理由は単純だ。最近北斗と星野が店においしいものを持ってくるから。そしてなにより彼が毎日おいしい料理を作るせいで、必殺技『明日から頑張る』を何度も何度も使ってしまったのだった。
――そう、自分が太った最大の原因は彼だ。それなのにカマをかけるようなことを、しかもあのタイミングでしなくてもいいじゃないか。ネットで調べたら五一キロは『普通』だった。確かに美容体型ではないけれど、肥満は言いすぎだ。
(雄介さんのいじわる……)
お腹一杯食べられなかった不満の矛先が彼に向かう。
「ダイエット、始めるんだよね」
「そのつもりですけど」
「チョコ、どうする? 店に置いておくつもりだったけど、あまり視界に入れたくないのなら持って帰るけど」
星野が作ってくれるクッキーは最高だが、北斗の買ってきたチョコもまるで悪魔の果実かと思うほどおいしかった。思い出すだけで口の中に唾液が溢れてくる。さっきの休憩でも自分を抑えるのに苦労した。もう一度見かけたら一○○パーセント食べる自信がある。持って帰ってくれるならとても助かる。
「お願いします」
「りょーかい」
もしかしたら非常識な部分さえ直れば、北斗はとても素敵な人になれるのではないか。いや、非常識なのも味があるというか、完全に常識人になってしまうのも面白くない気がするが……。
七海がそんなことを考えていると、眉間にシワを寄せた彼がやってくる。
「またサボリか」
「ちょっと雑談してただけだよ。もう終わった。てか、少しくらい雑談したっていいじゃん」
「お前の場合は毎回少しくらいしか仕事をしてないだろうが。まあいい、時間だ。商品整理にまわってくれ。2レジはしばらく星野に任せる」
「へいへい、分かったよ」
北斗はレジから出ると棚の影に消えていく。
「お前もだ、ニセ七海。1レジは俺が――」
「に、ニセってなんですか!」
「俺の知ってる望月七海は身長一五六センチ体重四八キロ。スリーサイズ八四、五六、八二の美少女だ。お前じゃない」
「そんな、美少女だなんて。――って、私がそのかわいくて綺麗な望月七海です!」
美少女と言われ、一瞬偽者と侮辱されたことを忘れかけてしまった。
「本音が出たな……。まあ、自分が本物だと主張するなら、ダイエットを頑張ることだな」
朝に肥満と罵ったときのように彼が笑う。それを見て、七海は自身の胸にメラメラと決意の炎が燃え上がるのを確かに感じた。
(絶対に、痩せてやるんだから!)
※ ※ ※
(そういうことか)
今日は後半、七海にあまり元気がなかった。帰宅後、雄介は彼女の弁当箱の蓋を開け、理由を知る。
七海は部屋で寝転がり、普段は見ないニュース番組をぼんやりと眺めていた。少しでも空腹をまぎらわせたいのだろう。かといって、ゲームをするほどの元気はないようだ。
「私、夕食はいりません」
自分がたきつけたとはいえ、ダイエットをするにしても少しは夕食を食べるべきだ。雄介はそう思ったが、ここではあえて「分かった」とだけ言う。
どうせ人が食べている姿を見れば、我慢できなくなって食べると言い出すに決まっている。だから雄介は最初から一・五人前くらいを作っておくことにした。一つの皿に盛りじっくりと味わいながら食べていれば、七海は絶対に『少しください』と言ってくるはずだ。
先に弁当箱を洗ってから、冷蔵庫を開けて食材を確認。メニューはすぐに決まった。
まずはジャガイモの皮を剥き、八等分に切ったあと、レンジで少しやわらかくする。待っている間にピーマンを切ってフライパンで炒める。次にジャガイモをくわえて炒めたら、少し火を弱めて醤油、みりん、塩コショウ。これにキムチもくわえて炒めたら、レンジでご飯の解凍が終わるのと同時に火を止め、最後に余熱でバターを溶かす。
所要時間、約一○分。ジャガイモとピーマンのキムチバター炒めの完成だ。今日はこれに朝作ったもやしとちくわのシーチキンサラダを夕食とする。
それらをちゃぶ台に並べると、まるで血の匂いを嗅ぎつけたライオンのように七海はムクリと体を起こす。
じっと皿を見つめてくる彼女を一旦無視して、雄介は先に箸ではなくリモコンを手に取る。夕食は録画したアニメを再生させてから、ゆっくりと食べ始める。
ちょうどオープニングの歌が終わると同時、七海が少しトゲのある声で話しかけてくる。
「今日はいっぱい食べるんですね」
「まあ、食欲の秋だしな。ただ、ちょっと作りすぎたな。……少し食べるか?」
瞬間、七海の表情がパッと明るくなる。
「食べま――――せん」
両手をグッと握り締め、七海は今にも泣き出しそうな表情で歯を食いしばる。一発で落ちると予想していたのだが、彼女にも少しは意地があるようだ。
「そうか」
ここは一度様子を見ることにする。追い討ちをかけずとも、崩れるのは時間の問題に思えた。
断るのに相当な気合が必要だったのだろう。七海は俯いて肩で息をしている。やがて呼吸が安定すると、彼女はテレビに視線を向ける。しかし体はテレビに向けつつも、彼女の目は頻繁にこちらの箸先を追っていた。
Aパートが終わる頃、雄介は再び聞く。
「やはり多いな。食べないか?」
最初、無視されたのかと思ったが、そうではなかった。七海はCMが終わるまでじっと皿を見つめ続けると、小さな声で答える。
「結構です」
またもや彼女は誘惑を振り切った。そのことに雄介は軽く驚く。
Bパートが始まっても、あいかわらず七海はチラチラとこちらを見てくる。むしろこちらを見る合間にアニメを見ているといった感じだった。
「米はいるか?」
次で間違いなく落ちるだろう。そう決め込んで、雄介は七海の箸を持ってこようと腰を浮かせる。
直後、茶碗が跳ねる。
「さっきからいらないって言ってるじゃないですか。何度も同じこと言わせないでください。お腹いっぱいなんです!」
平手でちゃぶ台を叩くと、軽く切れ気味に七海が言ってきた。
その態度に雄介はカチンとくる。
(こいつ……)
元々、食べないで痩せようという考えが好きではなかった。確かに朝、間接的にクッキーを食べるなと言ったかもしれない。だがそれは食いすぎるなという意味で、まったく食べるなという意味ではない。意思が固いのは悪くないが、これは頑張る方向を間違っている。
胃になにも入れなければ、まあ痩せるだろう。ただしリバウンドか体調不良、そのどちらか、あるいは両方とセットで。そんなもの、ダイエットではない。運動して、カロリーを消費して痩せるのが本当のダイエットだ。
今度こそガツンと言ってやる。そのために雄介が大きく息を吸い込んだところで――
ぎゅるぅぅぅ。
「…………」
七海の腹から聞こえてくる奇妙な音のせいで、またもや気が抜けてしまう。
雄介は吸い込んだ息をゆっくり吐き出してから、腰を下ろして彼女を見る。
「本当に、いらないんだな」
最後にもう一度だけ聞く。
七海は先ほどの勢いを完全になくし、恥ずかしそうに視線をそらす。
「……いりません」
「なら、もう聞かない」
すでに無理やり食べさせようという気はなくなっていた。人間、なにごとも一度失敗しないと分からない生き物だ。ここでわざわざ説教せずとも、いずれ自分で気付くときがくる。稀に何度も同じ過ちを繰り返す馬鹿がいるが、七海はそんな愚か者とは違うと信じたい。
そう、彼女は馬鹿ではない。そして心を持った、人間だ。
「お前も、そろそろ分かってきたろ」
「……なにをですか?」
「この世界に永遠はないってことをさ。人間は日々変っていく。体も、心も、毎日少しづつ。もう三次元化して二ヶ月は経ったんだ。少しは実感できたんじゃないか?」
「…………」
しばらく七海を眺めていたが、彼女は黙ったままだった。事実として体は変わってしまったのだから、反論できるわけがないのだが。
(心だって、きっと変わっている)
アニメはいつの間にかエンディングまで進んでいた。
残った夕食を胃に押し込み、空になった食器を持ってキッチンへと向かう。
このアニメには次回予告がない。食器を洗い部屋に戻ってきた雄介は次のアニメを見ようとリモコンに手を伸ばす。
「待ってください」
七海を見る。彼女は真剣な表情でこちらを見つめていた。
「確かに、現実世界に永遠はないかもしれません。私が三次元化した直後とは、色々と状況も変わりました。体重も、少し増えちゃったし……。でも、雄介さんを好きな心だけは、今でも同じままです」
最後は力強く、はっきりと彼女は言い切った。
もう七海に平面の束縛はない。自分に愛されなくても、彼女は生きていける。だというのに、どうしてここまで心の変化を認めたがらないのだろう。
(まさか、本当に心が変わってないとでもいうのか?)
ありえない。でも、もしかしたら――
そんな果てしなく都合のいい妄想を肯定するかのように、七海が言う。
「もしダイエットして私が前より綺麗になったら。私のこと……好きになってくれますか?」
「…………」
七海の質問に、今度は雄介が沈黙する。
もし本当に心が変わっていないのであれば、七海は最終的に自分と恋人になることを望んでいる。
しかし心が変わっていないのはこちらも同じだ。いや、自分では気付かないだけで、少しは変わったのかもしれない。だが今のところ、七海と積極的に恋人になりたいとは思っていない。そこは今でも同じままだった。
ならば、ここでは迷うことなくノーと言えるはずだ。七海に無駄な希望を持たせないためにも、はっきりと。
それなのに――
「……分からない」
言えなかった。
永遠はないと知りつつも、雄介は願ってしまう。今の友達以上恋人未満の関係が、このままずっと続いて欲しいと。
「私、お風呂入ってきますね」
そう言って立ち上がる七海は、少しだけ笑っていた。
※ ※ ※
起きていれば、それだけでお腹が減る。だからお風呂に入ったあと、七海はすぐに寝た。
翌日のシフトは後半からだった。時間までニコニコを見て気を紛らわせると、七海は一人、駅へと向かう。
(お腹すいたなぁ……)
さすがに絶食を続けるのは無理だった。なので朝も昼も、一応食べた。しかし朝は半分だけ、昼は残りの半分を食べただけであり、いつもより一食分足りてない。
ふと近くのコンビニの自動ドアが開く。
瞬間、敏感になった七海の鼻がおいしそうな中華まんの匂いを捕らえる。たった一食分足りないだけで、彼女の五感は減量中のボクサーのように研ぎ澄まされていた。
(た、食べたい)
けれど今食べてしまったら、ここ数時間の我慢がすべて水の泡だ。
食べたい。でも絶対に食べられない。食べたい。でも絶対に食べられない。食べたい。でも絶対に……
「にゃー!」
奇声を上げ、七海は頭を抱える。このままここにいたら、頭がおかしくなってしまう。
「……さよなら!」
ギリギリのところで中華まんの誘惑を振り切り、逃げるようにその場から立ち去る。
その後はこれといった誘惑に惑わされることもなく、駅に到着する頃には七海もだいぶ落ち着いた。
改札を抜け、ホームへ。
電光掲示板に目を向けると、次の電車が来るまで五分ほど時間があった。
七海は電車を待つ間、もうおいしい匂いに惑わされないよう、彼の言葉を思い出す。
痩せたら好きになってくれるかという質問に、彼は「分からない」と答えた。
もし三次元化した直後に同じ質問をしていたら、彼は迷うことなく「ありえない」と答えただろう。
しかし今回は迷い、そして保留を選んだ。
当然イエスと答えてくれたほうが嬉しいに決まっている。だが迷ったということはチャンスがあるということだ。
ダイエットを頑張るのに、それ以上の理由は必要ない。
ちょうど攻め手が思い浮かばず困っていたところだ。このタイミングでダイエットを始めることになったのは、むしろ良かったとさえ思える。なぜなら愛の大きさが、はっきりとした数字で現れてくれるのだから。
ダイエットが成功し「俺のためにこんなに頑張って、愛してる!」となってくれれば最高だ。もしそうならなかったら――あえて特別なことはせず、ギリギリまでいつも通りの日常を繰り返してみるつもりだった。
きっと星野はこれから彼と何度もデートをするだろう。ならばこちらはいつも通りを続け、絶対に変わらないことで対抗してみようと思う。
電車は、今日も時間通りに到着する。
腹が減っていたからって仕事を適当にやるわけにはいかない。それに頑張ったほうがきっと早く痩せる。
店に到着した七海は自分自身を励ますため、雄介と北斗に元気よく挨拶し、バックルームに入っていった。
「あ」
バックルームには店長と星野、そして鈴木がいた。
「七海ちゃん、久しぶり」
まだ時間に余裕はあった。七海は鈴木と対面の椅子に腰を下ろす。
「お久しぶりです。今日は仕事休みなんですか?」
鈴木は一瞬だけ困ったように笑う。
「仕事、辞めちゃった」
「……そう、ですか」
ふと、七海は鈴木の姿に違和感を覚える。
(……痩せた?)
間違いない。コミティアの打ち上げのときと比べて、確実に腕が細くなっている。
しかし鈴木が痩せたことに気付いても、七海はうらやましいとは思わなかった。元々彼女は痩せているほうだったため、綺麗になったというよりは、むしろやつれたなと思ってしまう。
どうやってそんなに痩せたのか。なぜ仕事を辞めたのか。店長や星野には分からなくても、七海にはなんとなく想像できた。おそらく食事に誘ってきた職場の人と上手く行かず、悩み、苦しみ、最終的に辞めることにしたのだろう。
星野が言う。
「店に復帰は具体的にいつからにするの?」
「恵理子さん、戻ってくるんですか?」
七海の疑問に店長が答える。
「その予定だよ。やっぱり六人ってのはギリギリだからな。誰かが風邪を引いたとして、週末なら昔働いてた宮元や桂木なんかをイベントのチケットを餌にして呼び出せる。ただ平日だとそうもいかないしね。つーわけで、ちょうど鈴木も暇しているって言うし、戻ってきてもらうことにしたんだ」
七海は考える。もしかして、鈴木は彼のことをまだ諦めていないのだろうか?
(……ライバルには、ならないかな)
別に鈴木と彼を取り合う状況になっても絶対に勝てるという自信があるわけじゃない。ただ、目を見れば、彼女が彼との恋愛を望んでいないことが分かっただけだ。彼女の目は二ヶ月前の彼と――恋愛を拒む彼と同じ目をしていた。
三次元化して二ヶ月経った今ならそれが分かる。以前の彼女の目には迷いがあった。最近の彼が頻繁に見せる、迷いが。
「私は明日からでも平気だけど、もうシフトも決まっちゃってるし来週からかな」
「なら今週の金曜日、代わりに出て欲しいんだけど。店長、かまいませんか?」
「鈴木がいいなら別に大丈夫だが――」
店長は壁に貼ってあるシフト表を眺め、ニヤリと笑う。
「もしかして、守屋とデートでもするつもりか?」
シフト表には金曜日に彼の名前はなかった。ちなみに七海はその日、後半から入る予定だ。
「はい、そのつもりです。守屋さんの予定が合えば、ですけど」
星野はごまかす素振りも見せず、はっきりと答える。その反応は予想外だったのか、店長の湯飲みを持ち上げる手がピタリと止まる。
「……まあ、いいんじゃないか」
そう言うと店長はお茶を飲み、湯飲み越しに七海と鈴木を見る。
「金曜日、お願いできる?」
星野が再び尋ねる。
「……いいよ」
「ありがとう。そうだ、代わってくれたお礼ってわけじゃないんだけど――」
星野はトートバッグから銀色の缶ケースを取り出す。
「お、もしかしてクッキーか」
「昨日いっぱい作ったんです、おいしいうちに全部食べちゃってください。私、そろそろ休憩上がりますけど、私の分は残さなくていいですよ。家で充分食べましたから」
促されるまま店長と鈴木はクッキーに手を伸ばす。
「七海ちゃんも食べてよ。カロリーも控えめに作ってるし、我慢するだけのダイエットは続かないよ?」
ニコニコと笑いながら星野がクッキーを勧めてくる。昨日は天使の微笑みに見えたが、今日は悪魔の笑顔に見える。
「結構です。ダイエット中ですから」
「ゆっくり痩せればいいじゃん。ストレス溜めたら痩せにくくなっちゃうよ?」
「私は雄介さんが好きです」
七海の言葉に店長はゴホゴホとむせる。鈴木も口を押さえる。こちらは舌を噛んでしまったようだ。
そんな二人にかまうことなく七海は続ける。
「だから痩せるまで、絶対に間食はしません。詩織さんが私と同じ立場だったら、クッキー、食べますか?」
今週の金曜日、星野は彼とデートする。
いよいよ彼女は本格的に攻めてきた。なのにクッキーごときの誘惑に負けてなどいられない。
「絶対に食べない。私も守屋さんのことが好きだから」
星野はまっすぐに七海を見つめ返してくる。
そのまましばし見つめ合ってから、彼女は立ち上がる。そして椅子にかけておいたエプロンを掴み、静かにバックルームから出て行った。
※ ※ ※
方法は確実に間違っていたが、七海は驚異的な頑張りを見せた。彼女は病的な速度で体重を減らしていき――
「うーん、気持ち悪い……」
雄介が最初に予想した通り、風邪を引いた。
「これ、全部食べなきゃ駄目ですか?」
七海はおかゆをひと口食べるとスプーンから手を離し、言う。
「当たり前だろ。あとで吐いてもいいからしっかり食べろ」
もう充分に痩せた彼女が食事を残そうとしたことに雄介は少し驚いた。市販の風邪薬を飲ませて一晩ぐっすり寝かせたら熱はだいぶ下がった。が、もしかしたら思った以上に深刻だったのかもしれない。
「お前が休めば、本来休みだった奴が代わりに仕事をすることになるんだ。最悪でも明日――明後日までには治しておけ」
「……ふふふ」
「なにが面白い」
「やっぱり雄介さんは優しいなって思って。明日はまだ風邪のままでもいいんですよね?」
「…………」
なぜか無性に言い返したかったが、ここでなにを言ってもツンデレにしか聞こえない。雄介はグッと耐える。
七海は小悪魔のように笑い、再びスプーンを手に取る。
たまに苦しそうな表情を見せながらも、七海はなんとかおかゆを食べ切った。次に水で薬を二錠飲み、ベッドに向かう。
雄介は腕時計で時間を確認する。
(あと一時間は暇だな)
おかゆを食べさせ、風邪薬も飲ませた。鍋には一食分残ってるし、食器の片付けなど一分で終わってしまう。
七海の代わりは昨日のうちに電話で北斗に頼んである。シャワーを浴びてヒゲも剃り、天気予報もさっき見たとなると、時間まですることがない。
いや――一つだけ不安なことが残っていた。が、これの対処は不可能に近いので気にしないことにする。
(なにを言ったところで、あいつが聞くわけないしな)
とりあえず片付けを済ませてから、雄介は本棚から既に読んだことのある小説を取り出し、読み始めた。
「雄介さん」
三ページも読まないうちに七海が話しかけてくる。
「なんだ」
見れば、彼女は体を横にしてじっとこちらを見つめていた。
「BFBC2、やりたいです」
「駄目だ」
「いいじゃないですか。布団に入ったままやりますから、コントローラーとってくださいよ」
ふと、雄介は七海が少しずうずうしくなったように思えた。そんな意識はなかったが、風邪を引いているからと甘やかしすぎたかもしれない。
今からでもベッドを使わせないようにすべきだろうか?
いや、そこまではしなくてもいいだろう。しかしこれ以上調子に乗られても困るので、このあたりでしっかりとした態度を取っておくことにする。
「遊んでる余裕があったら寝ろ」
「眠れないんです」
「知らん。気合で寝ろ」
「なら久々に雄介さんがプレイしてくださいよ。銃声と爆発音を聞くと心が落ち着くんです」
「……病気だな」
「ええ、風邪引いてますけど?」
七海は雄介の言葉の意味をまるで理解していないようだった。
北斗が女だったら、七海のような感じなのかもしれない。唐突にそんな考えが浮かんでくるが、雄介はすぐに否定する。ベクトルは同じでも北斗と七海ではレベルが違いすぎる。
(まあ、俺がやるくらいならいいか)
最近は七海がプレイするのを眺めて満足していたが、久々に自分でプレイしてみるのも悪くない。
「いいだろう」
雄介はテレビをつけ、コントローラーの真ん中にある椎茸のようなボタンを押す。
プレイするモードはもちろんオンライン対戦だ。一試合が一五分から二○分くらいで終わる。
久々に触ったにしては雄介の腕は衰えてはいなかった。むしろ一試合目、二試合目とスコアのトップ3に入る健闘を見せる。
三試合目が終わると雄介は時間を確認する。
(あと一試合はできそうにないな)
XBOX360の電源を切り、コントローラーをしまう。
「もう行くんですか」
不意に七海が話しかけてくる。ゲーム中は一言も喋らなかったし、途中から目も閉じていたので眠ったものだと思っていた。
「ああ。六時には帰るからお前はそのまま寝てろ。間違ってもゲームをしようなんて思うなよ」
そう言うと、雄介は立ち上がる。そしてポケットに手を入れ、財布と携帯が入っていることをあらためて確認する。
「今日って、詩織さんとデートするんですよね」
「……そうだ」
若干答えにためらいつつも、雄介はごまかすことなく肯定する。
今日は金曜日。星野とのデートがあった。
「俺は……行っていいのか」
ここまできて、聞いてしまう。雄介自身、いまさらなにを言っているのかと思いながら。
しかし今回はこれまでと違う。今日は間違いなく『デート』なのだ。なぜならいつも二人で会おうとしか言わなかった星野が、初めてデートという単語を使ってきたのだから。
確実に、なにかが変わる。デートの誘いを断らなかった時点ですでに変化は起こっており、今日はそれを確認するだけなのかもしれない。雄介は誰よりもそう感じていた。
「恋人でもない私に、デートするなと言う権利があるんですか?」
「……ないな」
「なら、今日は楽しんできてください。私は、ここで待ってますから」
※ ※ ※
彼はコツ、コツと冷たい音を立て、外の階段を下りていく。
(行っちゃった)
やっぱり家に残る。今日のデートは中止だ。本当はそう答えて欲しかった。
なんだか心が落ち着かない。一人でこの部屋にいるのはもう慣れたはずなのに。このベッドだって二度寝するときにナイショで何度か使ったことがある。
風邪で弱った心に静かな部屋。それは七海の胸にじわじわと不安の雪を積もらせていく。
(私、間違っちゃったかな)
同じ方法で競っても星野には勝てないことは分かっている。だから自分は待つことにした。しかし、いまさらその待つということの難しさと苦しさを、七海は実感していた。
こんなにも苦しくなるんだったら、待つのなんてやめて星野より先に彼をデートに誘うべきだった。どうして太り始めたとき、すぐにダイエットしなかったのだろう。一ヶ月――せめて二週間前からロードしてやりなおしたい。
(……寝よう)
今起きていても、不安と後悔しか頭に浮かんでこない気がした。
七海は頭まで布団を持ち上げる。
彼の匂いに囲まれた至福の空間。
だがいつもは楽しい妄想を上映してくれる映画館も、今日は不安な映像しか映し出してくれない。
バッと布団を蹴り飛ばし、七海は映画館から飛び出す。
「はあ……はあ……はあ……」
掛け時計を見る。
(まだ雄介さんがいなくなってから一○分しか経ってない……)
時間の進みが遅すぎる。
もう耐えられない。
七海の心が高層ビルの屋上からアスファルトの地面へと落ちていく。
その音が聞こえてきたのは、彼女の心が地面に激突する直前だった。
ピンポーン。
一瞬彼が帰ってきたのかと思った。が、それならばチャイムを鳴らす必要はない。
しかしなんにせよ、助かった。闇の中に突如異物が入り込んでくれたおかげで、心は壊れずに済んだ。
(雄介さんの宅配便かな?)
今までチャイムが鳴って宅配便以外だったことがまだなかった。だからきっと今回もそうだと決め付けて、七海はヨロヨロと玄関に向かう。
ドアを開ける。
「やっほ、お見舞いに来たよ」
「北斗さん」
そこにはバナナを片手に微笑む北斗がいた。
「上がっていい?」
「え、ええ。別にいいですけど。あ、でも、風邪うつっちゃいますよ?」
「それなら大丈夫、僕は馬鹿だから」
「……ふふふ」
七海は笑う。
(風邪って不思議だな)
普段なら全然面白くないことでも面白く思えてしまう。逆にちょっとのことでもすごく不安になってしまうが、面白いことが続くなら風邪も悪くない。
「なら、どうぞ」
「んじゃ、お邪魔します」
二人はちゃぶ台を挟み向かい合うように座る。
「七海ちゃん、痩せたね。今度は僕にも分かるよ」
「そりゃ五キロも体重を落としましたから。もう限界です」
「だと思うよ。でも苦労した分、綺麗になったね」
「――っ」
七海は拳を握り締め、小さくガッツポーズを取る。
北斗の最後の言葉がとても嬉しかった。昨日の時点ですでに店長や佐久間から痩せたねとは言われていたが、まだ綺麗になったとは誰からも言われていなかったのだ。
「うん、綺麗になった。ただ、僕はちょっと太った七海ちゃんだって、すごくかわいかったと思うよ。だけど、やっぱり健康で笑ってる七海ちゃんが一番かな。もう今回みたいな食べないダイエットはしちゃ駄目だよ?」
「はい、そうします」
もうダイエットなんてこりごりだ。
「うむ、分かればよろしい。それで、昨日雄介から聞いた話だと咳がちょっとに熱が38度の後半だったみたいだけど、今はどうなの?」
「咳はもう大丈夫です。熱は、まだ37度5分くらい残ってます」
さっき綺麗になったと言われて興奮したせいだろうか。朝に計ったときより少し上がった気がする。
「熱が残ってるならベッドで横になってないとダメだね。で、もし眠くないならさ、ノーパソちゃぶ台に置いてyoutubeでコントでも見ようよ」
「コントですか?」
「うん。病気を治すには笑うのが一番だから。コント以外には携帯でVIP見るのもオススメだけど――って、七海ちゃんはVIPって知らないか」
「そうですね知らないです」
七海は素早く嘘をつく。調子に乗って美少女として画像を上げたことは、もう自分が消えてなくなるまで秘密にしておくつもりだった。
「コントいいですね、見ましょうか」
「OK。セッティングは僕がするから、七海ちゃんは先にベッドで待ってて」
お言葉に甘え、七海は蹴り飛ばした布団を回収しつつ、横になって準備が整うのを待つことにする。
ふと、ノートパソコンを持ち上げようとした姿勢で北斗が止まる。
「……あ」
見れば、北斗の視線は机の端に置かれた薄さ0.02ミリと書かれた小さな箱に向けられていた。
「そ、それは――最初にパジャマとか色々買い揃えたときにいるかなーと思って私が買ったんです。見ての通りまだ開封もしてないんですけど。雄介さん、なんか新品を捨てるのに抵抗があるみたいでそこにずっと置いたままなんです。そのうち使う予定なんで捨てられたら困るんですけど。って、もうそんなこといいから早くコント見ましょうよぉ」
最後は真っ赤に染まった顔を布団で隠しながら、七海は言う。なんだか丸裸の心を見られたような気がして、とても恥ずかしかった。
そのまま顔を布団で隠して、しばし待つ。
「準備できたよ」
ゆっくりと顔を上げる。いつの間にかパソコンは見えやすい位置に置かれ、北斗はベッドにもたれかかるように座っていた。
「再生するよ」
北斗がマウスで再生ボタンをクリックする。
コントはとても面白く、七海は初めてお腹の底から笑った。そして最初の動画が終わる頃には、さっきまであった不安や恥ずかしさはどこかに消え去っていた。
※ ※ ※
長野で雪が降り、一二月には予定通りスキー場が営業をするだろうというニュースが流れる中、ここ数日は秋が戻ってきたかのような寒さの和らぐ日々が続いていた。
今日の待ち合わせ場所は駅の近くにあるカフェ、エンジェルモートだ。雄介は外に出て少し歩くと、黒い上着を脱いでメッセンジャーバッグにしまう。
約束の時間一○分前、雄介はエンジェルモートの前に到着する。おそらくはもう、星野は中で待っていることだろう。
持ち手を握り、扉を引く。なんでもない木製の扉が、今日はいつもより重く感じた。
中に入るとすぐにウエイトレスが寄ってくる。
一名様ですかと聞いてくるウエイトレスに待ち合わせですと答え、店内を見渡す。平日の昼間だというのに、テーブルはほとんど埋まっていた。
そんな混雑した店の中でも、星野を見つけるのは簡単だった。シンプルな無地の黄色いワンピースを着て、本に目を落とす彼女の姿は、怖いほど絵になる。
(あれは、ラノベか?)
星野は窓際の、入り口から少し遠めの席に座っていた。近づくと、彼女は自分が昔書いた本を上下逆さまに持っていることが分かった。
「おはよう」
声に反応し、星野がピクッと肩を動かす。
「おはようございます」
雄介は対面の席に座り、エスプレッソを注文する。
「私もカフェラテをもう一杯お願いします」
空のカップを回収し、ウエイトレスが店の奥に消える。
コーヒーを待つ間、二人は準備運動でもするようにいつも通りアニメやマンガの話をした。カップが運ばれてきてからも、それはしばらく続く。
二人のカップの底が完全に乾いた頃、星野が言う。
「そろそろ出ますか」
「そうだね」
立ち上がり、レジへと向かう。
と――
(……ん?)
三歩進んだところで雄介は立ち止まり、今座っていた席を確認する。
「忘れ物ですか?」
「いや、俺は大丈夫なんだけど……」
星野の手には白いハンドバッグしかなかった。いくら今日が寒さの厳しい日でないとしても、上着の一枚くらいは持ってきているものだと雄介は思っていた。
「やっぱり、この格好はちょっと変ですかね」
自分でも今日の服装が春か夏の格好だということが分かっているらしい。星野は不安そうに目をそらす。
「いや、別に変ってことはないよ。すごくかわいいと思うし」
おいしいコーヒーを飲んでリラックスしていたせいか、つい本音が出てしまう。そして口に出してから、気付く。彼女にかわいいと言ったのはこれが初めてだった。
不意に出た本音に星野も驚いたのか、目を見開いて顔を赤くしていく。
雄介は恥ずかしさをごまかすように慌てて続ける。
「ただ、なんていうか、その、ちょっと寒いんじゃない?」
「室内なら、そんなには。外に出たら、確かに寒いです。けど、雄介さんにかわいいと思ってもらうほうが大切ですから」
「……ありがとう」
そう答えると、二人はレジへと向かう。
ウエイトレスの生暖かい視線に見送られ、店を出る。
外はやはり寒い。暖房が効いていた店から出ると、余計にそう感じる。
「上着、貸そうか? 黒で、似合わないかもしれないけど」
「……お願いします」
雄介はメッセンジャーバッグから上着を取り出し、星野に渡す。
「これ着ても、まだちょっと寒いですね」
「つらかったら、別に予定変えてもいいよ」
今日は一応、電車で三○分ほどの距離にある屋外テーマパークに行く予定だった。知ってか知らずか、そこは雄介が前の恋人と初めてデートした場所でもある。
「大丈夫です。私から行きましょうって誘ったのに、薄着で寒いなんて自業自得ですし、少しくらい我慢します。それに――」
星野が左腕に抱きついてくる。
「ちょっ!」
突然の大胆な行動に雄介は思わず声が出てしまう。
「こうすれば、暖かいですから」
言いながら、星野は抱きつく力を強くする。そうすることでより明確になる、柔らかく刺激的な二つの感触。
肩から先が一ミリも動かせなくなる。
呆然と立っていると星野が言う。
「駅、行きましょう」
「あ、ああ」
促されるまま、雄介は駅までの短い道をゆっくりと歩く。
駅に着くと星野はあっさりと腕を手放した。しかし改札を通ると、すぐさま腕を絡めてくる。まるで雄介の腕は自分のモノだとでも主張するように。
「はっきりとダメって言われないかぎり、今日は放しませんから」
周りの目がとても痛い。できればもう放して欲しかった。しかしデートを断ることができなかった雄介に、ダメと言えるわけもない。
これといった会話もないまま、二人は電車を待った。
数分後、到着した電車はなぜか平日だというのに混んでいた。三駅ほど進むと混雑はさらに酷くなる。
「このままだと潰しちゃうから、ドア側に立ってもらってもいい?」
星野は手を離し、要求通りドア側に立ってこちらを向く。雄介は手を突っ張ってスペースを作り、混雑から彼女をガードする。
「なんか、すごく混んできたね」
依然距離は近いものの、腕を開放されたことでようやく会話する程度の余裕が生まれる。
「そうですね」
「なにかイベントでもあるのか?」
「確か今日は結構有名なメタルバンドのライブがあるって、佐久間君が言ってましたよ」
「へぇ、そうなんだ。そういえば――」
雄介はなるべく会話が途切れないように努めた。無言になると、どうしてもこの体の近さ、そして追い詰めるようなこの体勢を意識してしまうから。
しかし会話を続けようと焦るほど、逆に話題が浮かばなくなる。そして次第に見つめ合い、沈黙する時間が長くなっていく。
ふと、じっとこちらを見つめていた星野が目を閉じる。
なにも言わず、ただ目を閉じるだけ。シチュエーションさえ整っていれば、それだけで一つのメッセージとなる。
(大丈夫、気のせいだ)
雄介はそう自分に言い聞かせる。実際、星野は三○秒ほどで目を開けた。次に彼女は雄介の肩に手を乗せると、軽く背伸びをして――
唇に触れる、柔らかな感触。
瞬間、音が消える。
それは時間にして一秒にも満たないキスだった。
唇と唇が触れ合うだけの、だが決して事故ではない、故意のキス。
一○分後、電車は目的の駅に到着する。
※ ※ ※
一時にお昼を食べたあと、二人はyoutubeからニコニコ動画に移動し、ボーカロイドのタグを巡っていた。
ミクの歌を聴きながら、まったりとした時間を過ごす。
会話は少なかったが、気まずくもなかった。むしろ口数の少ない北斗のことを、七海は度々雄介と錯覚してしまう。
「この曲が終わったら、行くね」
七海は掛け時計に視線を向ける。まだ一時半くらいだと思っていたのに、いつの間にか時計の長針は予想の二周先を進んでいた。
彼はまだデートから帰ってこない。ここで北斗がいなくなったら、また独りぼっちになってしまう。それを考えると、七海の胸に今まで忘れていた不安がジワジワと蘇ってくる。
彼が帰ると言っていた六時まで、まだ二時間半もある。
眠ってしまえば二時間半なんてあっという間だ。しかし簡単に眠れるとは思えない。
シークバーが進み、曲の終わりが近づいてくる。
「今日、やっぱり私が働きます」
「ダメだよ。まだ寝てなきゃ」
「大丈夫です、もう治りましたから」
七海は体を起こそうとして――
「はうっ」
北斗に肩を掴まれベッドに押し戻された。そしてその体勢のまま、言われる。
「まだ全然力が戻ってないじゃん。今はゆっくり休んで、早く元気になることが七海ちゃんの仕事だよ」
「いや、そもそも私そんなに力ありませんから。元気でも男の北斗さんに押されて勝てるわけないじゃないですか」
「……僕のこと、一応男として見てくれてるんだね」
七海の肩から手を離し、北斗はベッドに座る。そしてホッとため息とついてから、照れくさそうに笑った。
「もしかして、女の子だったんですか?」
「いや、男だよ。ちゃんとちんこついてるし。けど七海ちゃん、僕のことあんまり男と思ってないみたいだったから、ちょっと心配だったというか……」
「はあ」
なぜ北斗がそんなことを考えていたのか、七海にはよく分からなかった。
「友達としてなら好きだけど、男としては好きじゃない。むしろ嫌いってのが今まで多かったから」
「あー……」
続く北斗の言葉で、なんとなく分かる。
「男としては好きじゃないですよ」
「え?」
口を半開きにして北斗が固まる。それを見て、七海はうっかり本音を口にしてしまったことを後悔する。
「やっぱり、七海ちゃんも僕のこと、友達にしか思えない?」
「…………」
友達。
それは三次元化してから初めて経験した関係だった。
佐久間や鈴木とは友達だ。店長とも、友達。星野とは、たぶん友達と書いてライバルと読む。
(なら、北斗さんはなんだろう)
友達に分類するにはどうしても違和感があった。北斗と一番似ているのは雄介な気がするのだが……
(そもそも雄介さんってなんだろう)
彼とはまだ恋人ではない。分類するなら、たぶん恋人候補。
ならば北斗も恋人候補でいいのだろうか。いや、たぶん違う。かといって友達、恋人、家族、その他モブキャラ、どれにも当てはまらない。
「分かりません」
今一度考えてみても、答えは出てこなかった。
「分からない……か。でもそれって、チャンスはあるってことでいいんだよね」
「……はい」
七海が否定できるわけがなかった。なぜなら彼女は今、彼に対して北斗と同じことを考え、頑張っているのだから。
「オッケ。それだけ分かればいいや。曲も終わっちゃったし、もう行くね」
「いや、だから私が行きますから」
「だーめ。どうしても働きたい理由があるなら別だけどさ。まさか一人で留守番するの、怖いのぉ?」
おちょくるように北斗が言う。それに少しムッとしたが、事実なのだからしょうがない。
「はい、怖いんです。いつもは平気なんですけど、今日は、ちょっと……」
情けないと思う。でもどうにもできないほどに怖いのだ。できることならデート現場に乗り込んで行きたい。それが無理ならば、せめて働いて、この不安と恐怖を少しでも忘れたかった。
「分かったよ」
「ありがとうごわっ」
体を起こそうとして再び北斗に押し戻される。
「七海ちゃんが眠れるまで、僕がここにいる。それでいいよね」
「ダメですよ。遅刻しちゃいます」
「一瞬で寝てくれれば大丈夫。それにいまさら僕が遅刻したって誰も気にしないよ」
ふざけたことを言っているが、一歩も譲る気はないことは北斗の目を見れば分かった。
「……寝ます」
胸まで布団を上げ、七海は目を閉じる。
すぐには眠れなかった。たとえ北斗がいてくれても、モヤモヤとした正体不明の小さな恐怖が心にしがみ付き、離れてくれない。
(もしかして私、北斗さんのこと怖がってる?)
七海はいまさら怖くなった。もし北斗が本気になれば、自分はどうすることもできないことをやっと理解する。
(あっ)
北斗が手を軽く握ってくる。
最初は怖かった。だが次第に自分の考えが杞憂だったと分かると、北斗の手のぬくもりが逆に心地よく思えてくる。
意識が朦朧としてきた。
やがてゆっくりと、七海は不思議な空間へと落ちていき――
(もうなにも怖くない)
魔法少女として魔女と戦う。そんな夢を彼女は見た。
※ ※ ※
まるで元カノとの思い出を自分との思い出で塗りつぶすように、星野は雄介を連れまわした。それがあらかた終わると、二人はテーマパーク内にある喫茶店のような場所に入る。
注文を終え、星野がトイレに行く。その隙に雄介は店長に電話し、予想通りの答えを聞く。
おそらく遠くから見て、七海に電話したとでも思ったのだろう。星野は戻ってくると雄介の隣に座り、言う。
「七海ちゃんのこと、心配ですか?」
「いや、別にそこまでは。ただの風邪だし。むしろ心配なのは北斗がおかしなことをしないかだな」
店にはまだ北斗は来ていない。それが店長からの回答だった。
「おかしなことしても、いいんじゃないですか」
「え?」
「七海ちゃん、北斗さんのこと別に嫌いじゃないと思うし」
ウエイトレスが注文したホットコーヒーを持ってくる。彼女は生暖かい視線を残して去っていったが、今日一日でさんざん見慣れてしまったため、もうなにも感じない。
「恋人は互いに足りない部分を補い合うべきって言うじゃないですか」
「そうだね」
「でも私、思うんです。似たもの同士のほうが、きっと上手くいくんじゃないかって」
自分と星野が似ているとはあまり思わなかった。ただ、七海と北斗は似ている。そして自分よりも北斗のほうが七海と相性はよさそうだと、少し前から雄介も考えていた。
「次のイベントで出す話って、もう書いちゃってますか?」
「いや、まだ書いてない」
雄介はカップを手に取り、ひと口飲む。味はエンジェルモートと比べるのもおこがましいが、値段を考えれば妥当なところだった。
「私、読みたい話があるんです」
「どんな話?」
「恋愛モノが読みたいんです。キャラはとらドラみたいな男二人女二人の基本形で、始まりも男の子のところに女の子が突然やってくるベタベタでかまいません。ただし結末だけはお約束に背いて、男の子は最初からいる幼馴染キャラとくっつく。そんなエルフェンリートみたいなお話が、私は読みたい」
言い終わると、星野はこちらに寄りかかり腕を絡めてくる。
雄介は驚かない。もう、途中から慣れてしまった。むしろ今は腕から伝わってくる柔らかさや暖かさが心地よいとさえ思う。驚くことがあるとすれば、それは自分自身にだった。
(失敗しても学習しない愚か者は、俺なのかもしれないな)
無駄に熱さだけはあるコーヒーを受け皿に戻しつつ、雄介は答える。
「考えておくよ」
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この作品はコミックマーケット81で配布したものからR18要素を抜いたものになります。