No.361208

レインボーガール (7/8)

MEGUさん

この作品はコミックマーケット81で配布したものからR18要素を抜いたものになります。

2012-01-09 22:35:28 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:663   閲覧ユーザー数:662

  七章

 

 今年最後の月、一二月。その第一土曜日の朝。

「守屋。再来週の月火、スキーに行くぞ」

 バックルームに入ってくるなり、店長はニコニコと笑いながら言った。

 突然の誘いに、しかし雄介が驚くことはなかった。緑茶を飲んでいた佐久間とコートをハンガーに掛けていた鈴木の手が一瞬止まったが、すぐなにごともなかったかのように動き出す。唯一七海だけが「え?」と声を出して反応する。そしてマヌケな顔を店長に向け、聞く。

「二人で行くんですが?」

「なわけないだろ。店長、おかしな言い方はやめてください」

 無駄だと分かっているが一応抗議しておく。案の定、店長には白目をむいてチョロリと舌を出すというふざけた表情を返されるだけだったが。

「えっと、それじゃ……」

「店長が紛らわしい言い方をしているだけで、行くのは全員だ」

 雄介は壁に吊るされた小さなホワイトボードを眺める。油性マジックで枠が書かれたそれに、メンバーは金曜日までに働ける日とそうでない日を書いておく決まりだ。店長が言った再来週の月火は、全員が丸一日出勤可能となっていた。

 唐突に店長がどこかに行くぞと言い出すのは、雄介たちにしてみればいつものことだった。まだ働き始めて一年程度の佐久間でも二回経験している。雄介にいたってはこれで一七回目だ。前回は八月で、全員で海に行った。

「あの、店長」

「なんだ、望月」

「スキー、私も行くんですか?」

「守屋が答えたように、これは全員参加だ。望月だけを仲間外れにはしないよ」

 それを聞いて、七海はなぜか表情を曇らせる。

「ごめんなさい。私、なんていうか、あんまりお金なくって。いや、あるにはあるんですけど、溜めなきゃいけない事情があるというか。だからスキーには私抜きで行ってください」

「金銭的な心配はしなくていいよ。お土産や旅館で買うジュースなんかまで面倒は見れないが、宿泊代とかは基本的に私が出す。ただし、一人残らず全員強制参加だ。望月、お前に拒否権はないぞ」

 店長は最後に「んじゃ、当日まで体調を崩すなよ」と言ってバックルームから去っていった。

 いつもの落ち着きを取り戻した部屋で、雄介がポツリとつぶやく。

「もう、今年も終わりか」

 今のところ、最初に言ったことを撤回し、七海を引き止めるつもりはなかった。

 このまま何事もなく平和な日々が続けば、彼女は今年中に部屋を出て行くだろう。

 しかし――

(まあ、なにかは起こるだろうな)

 気をつけていたところで回避できるかわからない。石ころが転がる程度のイベントでさえ、すべてをぶち壊すきっかけになる。そんな薄い氷の上のような場所に立っている自覚が、雄介にはあった。

 だが、実際にはもっと単純で深刻。氷の上を楽しげに滑る妖精たちは、カウントが一桁まで進んだ時限爆弾を背中に隠し持っている。

 そのことに、彼はまだ気付いていなかった。

 

          ※ ※ ※

 

 七海が知るかぎり、スキーに行くと決まってら当日までの八日間、これといって特に事件や大きな変化が起こることはなかった。たまたた木曜日に彼と星野の休みが重なった日も、彼は一日中テキストエディッタとにらめっこをしていた。

 当日は始発に乗って店の前に集合し、店長の運転するアルファードというやたら大きな車に全員で乗る。席は男女交互にという店長の指示に従って、まずは助手席には北斗が。その後ろに星野、雄介、七海の三人。最後、一番後ろのシートに佐久間と鈴木が座る。

 少しうるさいと感じるほどの音量でアニソンを流し、アルファードが高速道路を爆走。途中二回パーキングエリアに立ち寄り、少し早めに昼食を済ませ、七海たちは予定通り約六時間で目的地である長野のスキー所へと到着する。

 車を降りて思いっきり息を吸い込むと、冷たく澄んだ空気がとても美味しかった。

「望月は経験なかったんだよな」

 駐車場からゲレンデの横にある建物に向かう道中、店長が聞いてきた。

「はい。ただ、どっちでも滑れると思いますけど。運動は得意ですから」

「確かに望月七海なら最初から滑れそうではあるな。まあ、どっちでもいいならスノーボードにしておけ。スキーと違って一枚の板に足を固定するから、転んでも足首を捻りにくい」

「荷物も板一枚で楽そうだし、そうします」

 七海たちは建物の一階にあるレンタルショップで必要なものを揃えたあと、男女で分かれて二階の更衣室に向かう。

 よほど滑るのが楽しみだったのか、店長の着替えは早かった。そして着替え終わると、ウキウキしながら一人先にゲレンデへと繰り出していく。

 七海、星野、鈴木の三人は全員が着替え終わってから一緒に更衣室を出る。

 色鮮やかなスキーウエアが所狭しと並んでいた室内とは打って変わって、外は視界の八割以上を白が埋め尽くす。七海は実際に雪山を見るのは初めてだった。ただ、BFBC2のゲーム画面では見慣れている。だからふと、こんなことを思う。

「こういう開けた場所に来ると、どこかにスナイパーが潜んでそうですよね」

 そのつぶやきに佐久間が笑う。

「雄介先輩もさっき、同じこと言ってたよ」

 七海は軽く近くを見回す。

「ほかの人は……」

「北斗先輩はトイレ。ちょっと長くなるって。雄介先輩はもう上にいるんじゃないかな。店長はさっきリフトに乗るところを見たけど」

「そうですか」

 彼がいるであろう方向を漠然と眺め、七海は思う。

(やっぱり、避けられてるのかな?)

 彼が星野とデートをした日から、七海はそう感じていた。といっても、未だ確信できるほどあからさまに避けられてはいない。むしろ彼よりも、星野のほうが王者の余裕のようなものを漂わせるようになり、それに少しむかついていた。だからといって彼女を嫌いになったりなどはしなかったが。

(大丈夫、彼に避けられてるなんて、きっと私の勘違いだ)

 七海はそう自分に言い聞かせる。

 そもそも避けられていると分かっても、ギリギリまで変わらぬ日常を繰り返す以外、自分にできることはなにもない。そうやって思い込み、思考を停止させることで、彼女はなんとか心を安定させることができていた。

「ボクも携帯忘れちゃったみたいなんで、取ってきますね。ボクのことは気にせず、星野さんたちは先に楽しんでてください」

(そうだ、今は楽しもう)

 笑顔でいれば、なんでも願いが叶う。北斗がそう言ってくれたことを七海はふと思い出した。

「それじゃ、行きますか」

「え? 七海ちゃん、行くっていきなりリフトに乗るつもり?」

 鈴木が目を丸くして聞いてくる。

「そのつもりですけど。心配しなくても、たぶん大丈夫ですよ。私、以外にアウトドア派って設定ですし」

 七海の言葉に、彼女の正体を知っている星野が小さくプッと笑う。

「そ、そうなんだ。ただ、いくら運動神経に自信があっても、いきなりリフトに乗るのは危険だと思うんだけど。ちょっとそこで練習しておこうよ」

 鈴木はリフトとは反対方向にある長さ二○メートルほどの練習コーナーを示す。

「なら、一回だけ」

 星野と鈴木に見守られ、七海は一回だけ滑る。ストレート、カーブ、ストップ、途中で転ぶことなくすべて上手くいった。雪の階段を使って上まで戻ると、鈴木だけでなく星野までもが唖然としていた。その表情を見て、なんだが気分がよくなる。

「じゃ、行きましょうか」

 七海はニコニコとリフトに向かう。もう彼女たちから反対する言葉は出てこない。

 リフトに向かいながら、七海は自分にゲレンデの視線が集まっていると感じていた。

(もしかして、注目されちゃったかな)

 事実、その認識は間違っていなかった。ただ、彼女が考えているような理由ではなかったが。

「こんにちは~、ちょっといい?」

 練習コースとリフトのちょうど中間といった位置で三人組の男が話しかけてくる。三人とも茶髪でピアスをしており、スノーボードは足からはずし、小脇に抱えていた。

「今日ってどこから来たの? 関東?」

「ええ、そうですけど」

 先頭を進んでいた七海は足を止め、答える。

 その横を星野と鈴木は変わらぬスピードで通り過ぎようとする。

「ちょっと待ってよ。三人、友達でしょ?」

 言いながら、二人の男がそれぞれ彼女たちの進路を塞ぐように移動する。

「三人ってなに繋がり?」

 七海が答える。

「バイトです」

「てことは学生? みんな一七歳くらいかな」

「一七歳なのは私だけですね」

「なら二人はもう少し年上なんだ。一九とか?」

 星野と鈴木は共に無表情で答える。

「三二です」

「三五です」

「えええ! ちょっ、嘘ですよね?」

 聞く。するとなぜか二人からは冷たい視線が返ってきた。

「ははは、みんな面白いね。ところで今日は三人で来たの? そうだった俺らも三人だし一緒に遊ばない?」

 男がニカッと笑い、ウインクする。

(なんだ、そういうことか)

 ようやく七海もこれがナンパだと気付く。意外にも、これが彼女のナンパ初体験だった。

「結構です」

「えー、そんなこと言わずにさ。遊ぼうよ」

「いえ、本当に結構です」

 七海たちはひたすらに断った。しかしいくら断っても男たちは笑みを絶やさず、諦める様子がない。そんな彼らの態度に、七海も少し恐怖を感じ始める。

 と――

「彼女たちも迷惑してるので、もうやめてもらえませんか」

 そうやって割り込んできたのは、意外にも佐久間だった。大人しい先輩というイメージしかなかった七海は、彼の行動に軽く驚く。

 男の一人があきらかに不機嫌そうな声で言う。

「あ? なんだよお前。彼氏?」

「……そうです」

「なっ、だ、誰と付き合ってるんですか」

 聞く。すると今度は佐久間にまで冷たい視線を向けられる。

(もしかして、ナンパを諦めさせようと嘘をついた?)

 そうだとしたら、自分が変に反応したせいで嘘だとバレ、意味がなくなってしまったことになる。

 男たちの対応は佐久間に任せ、もう自分は黙っていよう。そう思い、彼女は雪山を眺める。

(……ん?)

 ふと、黒髪黒ずくめのスノーボーダーが雪山を蛇行しながら降りてくるのが目に入る。ゴーグルをかけているので目は分からない。

 そのスノーボーダーは傾斜が緩やかになってくると蛇行をやめ、スピードを落とさないよう真っ直ぐこちらに向かってくる。

 こんなときだけ、彼がなにを考えているのかが瞬時に理解できてしまう。

「佐久間さん、二歩後ろに下がってもらえますか」

 不審な表情を返されるが、佐久間は指示通り二歩後ろに下がってくれた。

 七海の意味不明な指示にみんなが戸惑っている間にも、彼はどんどん近づいてくる。そして男たちとの距離が約三メートルと迫ったとき、彼は膝を曲げながらボードを横にし、一瞬だけ減速。

 雪を削る音に男が反応する。だがそのときにはもう、彼は両手を顔の前でクロスさせ、滑り降りてきた勢いを八割以上残したまま、跳んでいた。

 男の鼻に彼の左手首が綺麗にめり込む。

 続く動きはまるでビリヤードの玉を見ているようだった。今まで男が立っていた場所に彼は着地し、彼に追突された男は雪の上を五メートルほど転がる羽目になる。

 突然の展開に、七海を除いた全員の口がぽかーんと半開きになる。彼が滑り降りてくることに気付いていなかった人間には、一瞬で男と彼が入れ替わったように見えたことだろう。

 その場にいた全員の視線が彼に集まる。

 彼はゴーグルを上にずらす。次に慣れた手つきでボードから足を外し、言う。

「悪いな、止まれなかった」

 それは追突の瞬間しか見ていない人間にも分かるバレバレの嘘だった。

「てめぇ<double>!?</double>」

 男の一人が彼に詰め寄り、胸倉を掴もうとする。

「ふざけたこと言ってんじゃ――」

 彼は男の腕をハエでも払うように手のひらで弾き、次に手の甲で男のアゴを叩く。その一撃だけで、男は台詞を言い終わることもできずにノックアウトしてしまった。

「くっそ……」

 次に反応を見せたのは吹き飛んだ男だった。

「意外にしぶといですね」

 鈴木がポツリとつぶやく。

 男はヨロヨロと立ち上がり、頭を振って雪を落とす。そして彼の隣に仲間が倒れているのを見て、右手をギュッと握り締める。

「おらぁ!」

 走り寄り、彼の顔面を狙って放たれる、大振りのパンチ。

 彼は軽く体を横に動かしパンチを避け、同時に男の腹に強烈なボディブローを喰らわせる。それにより男は体をくの字に曲げ、再び倒れる。

 残った一人に彼が視線を向けると、男は「ひいっ」と情けない声を出して一歩だけ後ずさる。しかしそれ以上は蛇に睨まれた蛙のようにまったく動けなくなる。

「どうやら寝不足と腹痛らしい。お前が健康なら、こいつらを医務室まで連れてってくれ」

 彼が優しい声で頼むと、男は仲間を引きずってすぐに七海たちの前からいなくなった。

「さて……」

 彼は視線を男たちから星野に移動させる。次に七海、その次に鈴木と見ていき――

「大丈夫だったか?」

 最終的に佐久間へと視線を向け、聞く。

「ええ、まあ。雄介先輩に見せ場を全部持っていかれたこと以外は、特に問題ないです」

 そう答える佐久間の眼差しは、なぜか彼を見下しているようにも見えた。

 

 彼が派手にやってくれたおかげか、しばらく七海たちをナンパしてくるような命知らずの男は現れなかった。ほとぼりが冷めるとまたナンパされるが、最初の男たちほどの強敵はおらず、七海たちは存分にスキーとスノーボードを楽しんだ。

 日が完全に落ちる前、全員は着替えを済ませ、無事駐車場に集合する。

 今日一泊する旅館には、スキー場から車で二○分ほどかかった。

 佐久間が旅館を眺め、言う。

「小さい旅館ですね」

「まあな。だがボロくはないし、飯も旨い。露天風呂だってある。なにより今日は客がいない。私たちで貸切状態だ」

 旅館に入ると着物を着たお婆さんが出迎えてくれる。品のいい優しそうなお婆さんだった。

 店長はみんなを玄関に待機させ、ささっと手続きを済ませる。そしてお婆さんから部屋の鍵を四つ受け取ると、上着のポケットからなにかを取り出した。

 それは四つの割り箸だった。店長は四つをまとめて端を握り、七海たちの前に差し出す。

「さて女ども、運命の時間だ」

「なんですか、これ」

 七海が聞く。

「私が握ってる端の部分に文字が書かれている。今回は四人だからハズレもあるけどな。文字の意味は――すぐに分かるさ。とりあえず一本引け」

 言われるまま、七海は割り箸に手を伸ばす。

「待って」

 星野が止める。

「私から引かせて」

 まるでこれから透視をするマジシャンのような目つきで星野が割り箸を見つめる。

「一応言っておくが、文字を書く割り箸は毎回新しいのを使ってるからな」

「でもついさっき作り直した物じゃない。パーキングエリアで上着を椅子に掛けたとき、既にポケットの中に入っていた物ですよね?」

 ニヤリと笑い、星野は割り箸を掴む。それは七海が最初に取ろうとしていた物だった。よく見れば、その割り箸だけ頭の部分に爪でつけたような小さな凹みがある。

 星野が割り箸を引き抜く。端にはカタカナのウを上から押しつぶしたようなものが書かれていた。

「やられたよ。さて、次はどっちが引く?」

「七海ちゃん、先にいいよ」

「じゃあ、これで」

 七海の選んだ割り箸には数字の9が書かれていた。次に引いた鈴木の割り箸には太の一文字が書かれており、全部を見ても七海にはなんのことだかさっぱり分からなかった。

「それじゃ、割り箸を荷物の上に置いて、お前らは先に露天風呂に入って来い。荷物は男たちに運ばせる。望月、お前はなにかお気に入りのシャンプーなんか持ってきたのか?」

「いえ、荷物は明日の着替えくらいです」

「なら手ぶらで行って来い。浴衣は脱衣所に置いてある。着るときに下着を着けることは許可しない。ま、下着を着けたくても着けられないように、脱いだ服は私が回収して各自のカバンにしまっておいてやるけどな」

 どうやらこれも毎度のことのようだ。星野も鈴木も特に抗議しようとはせず、店長の指示をあっさりと受け入れる。

 店長は男たちに一人一つ荷物を持たせ、奥の階段へと歩いていった。

 

 七海たちが露天風呂に続く廊下を歩いていると、店長が一人、小走りで戻ってくる。

「言い忘れたんだが、ここの露天風呂には中央に大きな岩があってな。その岩より手前、風呂の入り口があるほうは角度的に外から覗かれる危険があるんだ。かといって奥過ぎても、違うポイントから覗かれる。だから岩より奥で、岩の陰に隠れるように入ってくれ」

 片目を閉じ、店長は最後に右手でチョップの構えを取りながら「すまんな」と言って去っていった。

 店長が廊下の角に消えてから、鈴木がぼやくように言う。

「この時期に貸切状態なんて不思議だと思ったら、そういうことだったんですね」

 それに星野が苦笑いを浮かべて返す。

「まあ、幽霊が出るって言われた前回よりはマシでしょ。七海ちゃんは幽霊とか、信じる?」

「ははは、いるわけないじゃないですか。そんな非科学的な存在」

「……私には七海ちゃんのほうがよっぽど非科学的だと思うけど」

 星野は呆れるようにそう言うと、赤い布に女と書かれた暖簾を潜り、脱衣所へと入っていく。

 服を脱いであらためて比べてみると、星野と七海の胸はそれほど大きさに違いはなかった。もしかしたらダイエットをしたときに縮んでしまったのかもしれない。相変わらず鈴木の身体は細かったが、一時期ほどやつれた印象は受けない。健康的な丸みを取り戻し、胸にいたっては――

「恵理子さんって、着痩せするタイプだったんですね」

「もう、あんまりじろじろ見ないでよ」

 顔を赤くし、鈴木がバスタオルで胸を隠す。その行動になぜかイラッとしてしまった七海は、タオルの上から乳首にデコピンを喰らわせたあと、露天風呂に向かう。

 引き戸を開けるとカタカタカタと気持ちのいい音が鳴る。露天風呂には店長が言った通り、中央に氷山のような大きい岩があった。

 覗きたい気持ちは理解できても、わざわざ見せる趣味はない。七海たちは体にバスタオルをしっかり巻いて岩陰まで移動する。その後タオルを岩に引っ掛け、腰を下ろす。

「はぁ、いいお湯ですねぇ」

 足を入れた瞬間は少し痛いと感じたが、慣れてしまえばちょうどいい。乳白色のお湯が身体に染み込んでくるような気がする。

 暖かいお湯は心を癒す最高のベッドだ。綺麗な夜空の天蓋が加われば、ほかにはなにもいらない。

 三人とも疲れていたのだろう。ほとんど会話もせず、ゆったりとした時間が流れる。

 しばらくして、カタカタカタと引き戸の開く音が聞こえてくる。

 今日、この宿は貸切状態。だから最初は店長が入ってきたのだと思った。

「うひょー、さっみぃ」

 七海たちは目を丸くして互いに顔を見合す。岩陰から直接入り口を見ることはできないが、聞こえてきたのは北斗の声で間違いなかった。

 ペタペタという音に続き、ドボンと大きな音がして水面が揺れる。

「あっつ。なにこれ熱湯じゃん」

「脱衣所に四三度って書いてあっただろうが。つか、お前も二四なんだからもう少し落ち着け」

 続いて聞こえてきたのは雄介の声だった。

「長月先輩が落ち着いたら、それはそれで味気ないというか、気持ち悪いというか」

 最後に佐久間の声も加わる。

「ま、それもそうだな」

「むー、二人とも失礼だな。僕だって最近、ちょっとは落ち着いてきたんだぜ? それに掃除があるから一○分しか入れないって言われたら、焦らなきゃ損じゃん」

 姿や顔が見えなくても、不思議と彼らがどんな風に会話をしているかなんとなく想像できた。

「ねえ、どういうこと」

 声を潜め、鈴木が当然の疑問を口にする。

「たぶん、店長が暖簾を入れ替えたんじゃないかな。岩陰に行くよう指示したのは、守屋さんたちが入ってきた瞬間に鉢合わせしないための嘘。掃除があるって言うのも嘘で、一応私たちがのぼせないようにしてくれたんだと思う」

「詩織さん、なんか冷静ですね」

「店長がふざけたことを考えるのはいつものことだしね。それにこっちに来られてもタオルがあるし。お湯も結構濁ってるから」

 確かに温泉に入ってさえいれば、タオルを使わなくても危険な部分は隠せる。ただ、鈴木の場合は胸の三分の二がお湯から浮き上がっており、波が起これば乳首が見えそうではあったが。

 ふと、七海は思う。

(私と詩織さんの身体を同時に見たら、雄介さんはどう反応するだろう)

 七海の考えを見透かしたように、星野が言う。

「あっちに行ってみる?」

 その提案は鈴木が星野の肩を掴み、顔を赤くしながら横に振ったことで却下された。

「いやー、でも凄かったよね、雄介のフライング・クロスチョップ」

「お前、見てたのか」

「うん、人ごみに混じって。できることなら僕が七海ちゃんをカッコよく助けてあげたかったけど、怖くて動けなかったよ」

「まあ怖いと思うのが普通ですよ。あの人たち、見た目がモロ遊んでる感じだったし」

「だよねぇ」

「雄介先輩は怖くなかったんですか?」

「あの程度で雄介が怖がることはないよ。雄介が怖いのはゴキ――」

 ベチッっと音がして北斗の声が途切れる。見えなくても、彼が水平チョップを北斗に放ったのが確信できた。

「だあーもう、そんなに恥ずかしがらなくてもいいのに。分かったよ、これは僕と雄介、二人だけの秘密ってことにしておくよ」

「気持ち悪いことを言うな。もう一発喰らわせるぞ」

「はいはい、もう言わないよ。あ、そうだ。ところで雄介、最近詩織ちゃんとはどうなの?」

 北斗の言葉に星野がピクリと反応する。

「……なにが聞きたんだ」

「だからさ、なにか進展があったのかなって。雄介はあんま変わりないみたいだけどさ、詩織ちゃんのほうは最近機嫌がいいみたいだし。涼太も気になるよね?」

「そうですね。詩織さんと七海ちゃん、完全にフラグ立ってると思うし。そろそろコミティアのとき鈴木さんのフラグをへし折ったように、どっちのルートに進むかハッキリ決めて欲しいとは思います」

 七海は鈴木を見る。かけっぱなしの曇ったメガネのせいで表情がよく分からないが、佐久間にフラグが消えたと断言されても、それほど悲しんでいるようには見えなかった。

「一一月に詩織ちゃんとデートしたじゃん。そのときに、なにかあったんじゃないの?」

 少しの間、声が途切れる。

(やっぱり、なにかあったんだ)

 でなければ、すぐさま「なにもなかった」と答えられるはずだ。

 なにかあったのは確実。

 問題は、それが決定的な変化をもたらすものだったのかだ。

「ねえ、なにかあったんでしょ。黙ってないで教えてよ」

 きっと最初からこの話題を話そうと決めていたのだろう。北斗の声からは絶対に聞き出してやろうという気持ちが感じられた。

 沈黙で逃げ切れないと悟ったか、彼は小さくため息をつくと、諦めて犯行を認める容疑者のように言う。

「キスをした」

 ようやく姿を現した答えは、単純明快な致命傷だった。

(……ふっ)

 七海は笑う。

 この答えは瀕死の状態で目の前に転がってきた手榴弾と同じだ。もう悪態をついて銃を乱射するか、諦めて笑うかの二択しかない。そして彼女は後者を選んだ。

「へぇ、やるじゃん。てことは雄介、詩織ちゃんと付き合うってことでいいんだよね」

 確実にとどめを刺そうと北斗が確認する。

 しかし――

「それは、まだ確定じゃないだろ」

 一瞬、七海は状況が把握できなかった。手榴弾は爆発したにもかかわらず、彼女はギリギリ生き残った。

 星野を見る。彼女もこの答えは想定してなかったらしく、見たこともないマヌケな顔をしていた。

「はあ<double>!?</double>」

 佐久間はそう叫んだあと、大きな声で続ける。

「雄介先輩、星野さんとキスしたんですよね。それでもまだフラフラするつもりなんですか。ここ、日本ですよ。友達とでも簡単にキスくらいする国じゃないんです。分かってますか」

「当たり前だろ」

「なら――」

「まーまーまー、涼太も落ち着きなって」

 北斗がなだめるように割って入る。

「ボク、雄介先輩はもっとしっかりした人だと思ってました」

 ザバッと立ち上がるような音がして水面が揺れる。続けて一人分の足音と引き戸を開ける音が聞こえてくる。

「ふー、怖かった。涼太の怒ったところなんて初めて見たよ。てか、まさかとは思うけどさ。もしかして雄介、二人の恋人エンドを狙ってる?」

「それがなんのエロゲのエンディングだか知らんが、俺は七海とも恋人になるつもりはない」

 久々に明確な拒絶の言葉を聞いた七海は、少し胸が苦しくなる。

「あっそ。ま、雄介はツンデレだし、僕は信じないけどね」

「誰がツンデレだ」

「なら、嘘つかないで本気で答えてよ。ちなみに、僕は本気で七海ちゃんのことが好きだから」

 不意に出てきた好きという言葉に、七海はドキッとしてしまう。

 もう慣れたはずのお湯が、なぜか再び熱く感じてくる。

「そんなの、いまさら宣言しなくても分かってる」

「だろうね。だけどもし、僕が今まで好きだった女の子と同じように七海ちゃんのことを好きだと思ってるなら、それは間違いだよ」

 七海は二人の反応が気になり、まず星野を見る。彼女は俯いて、じっと水面を見つめていた。まるで北斗の話など耳に入っていないようだ。

 次に鈴木を見る。やはりメガネのせいで目元はよく見えない。ただ、口の形から、彼女が生暖かい視線をこちらに向けていることは容易に想像できた。

「僕、今日七海ちゃんに告白するよ」

 北斗が自分に好意を持っていることは以前から分かっていた。それなのに――

(私、どうしてこんなにドキドキしてるんだろう)

 好きという言葉に突然の告白予告。北斗が無意識に放った連続攻撃をもろに喰らい、七海は自分の気持ちがよく分からなくなってしまった。

「勝手にしろ」

 彼がそう言った直後、佐久間が出て行ったときと同じような音が聞こえ、浴場から一人分の気配が消える。

「はあ」

 一人になった北斗は小さくため息をつくと、つぶやくように言った。

「雄介、どう考えても前より七海ちゃんのこと好きになっちゃってるよなぁ」

 

 北斗が浴場から出て行くと、場はしばらく静寂に包まれる。

 それを打ち破ったのは、引き戸を開けて現れた浴衣姿の店長だった。

「もう上がって大丈夫だ。浴衣に着替えたら一階の宴会場で飯にするぞ。先に行って待ってるから、あまり遅れるなよ。味噌汁が冷めるからな」

 まったく悪びれる様子もなく、むしろしてやったりという感じの店長の声に、止まっていた時間が反応し、ゆっくりと動き始める。

「そろそろ、行こっか」

 まずは鈴木が立ち上がる。

「……そうですね」

 次に七海も立ち上がる。彼女にも、鈴木の声に反応するくらいの余裕なら残っていた。

「詩織さんは、まだ入ってる?」

 鈴木が聞く。彼に交際を否定されてから、星野はずっと俯いたままだった。

「私も一緒に出るよ」

 顔を上げ、星野が微笑む。

 瞬間、七海は背中がゾクッとした。

(詩織さん、なにかする気だ)

 今の星野ならためらうことなく人が殺せる。彼女の微笑には、そんな馬鹿げた妄想をさせてしまう力が込められていた。

 

 脱衣所へ戻って服を入れたはずのカゴを見ると、宣言通り、中身は空っぽになっていた。

 三人は浴衣に着替え、一階の宴会場へと向かう。

 七海たちが宴会場に入ると、すでに準備は整っていた。お膳は右に三つ、七海の身長くらいの間を空けて左に四つ並べてあり、席は左の四つに端から店長、佐久間、一つ飛ばして北斗と座り、右の三つ並べられた真ん中に彼が座っていた。

「どこに座っても男女交互になるようにしておいたから、好きな場所に座ってくれ」

 まずは星野が動く。彼女は一直線に彼の右隣のお膳へと向かった。

 次に鈴木がお先にどうぞといった感じで七海に微笑みかける。

 七海は彼の左隣に座った。それを見て、店長は予想通りだとでも言いたげな笑みを浮かべる。逆に鈴木は少し意外に思っているようだった。

 食事中は店長、鈴木、星野の三人がよく喋っていた。ただし、七海には内容を理解することができない。

 三人の言葉が右から左へとすべて素通りしてく。現時点ですでに情報の洪水に翻弄さている七海には、新しい情報を記憶するだけの余裕がなかった。

 彼は星野とキスをした。でも付き合っているわけじゃない。自分とも付き合うつもりはない。彼はツンデレ。自分は北斗に本気で好かれている。今日、北斗に告白される。彼は勝手にしろと言った。北斗から見て、彼は以前よりも自分を好きになってくれている。星野はなにかする気だ。彼は星野と――

 これからどうなるのか。自分はどうしたいのか。それを考えなければいけないのに、気付けば頭の中で淡々と情報をリピートするだけになってしまう。

 ついには無意識に動かしていた箸と口までが止まる。

「望月、調子でも悪いのか?」

 店長が真面目な顔で聞いてくる。

「……ちょっと、疲れちゃったみたいで」

「なら、無理せず休め。望月の部屋は階段上がって二部屋目、菊の間だ」

「はい、そうします」

 七海はお膳に箸を置き、立ち上がる。疲れは精神的なものなので身体がふらつくことはない。

 階段を上がり、菊の間へ。

 部屋に入ると布団が二つ、ぴったりとくっつけて敷いてあった。いつもなら不自然と感じる光景も、そのときは最初から布団が出ていて楽だとしか思えなかった。

 小さなオレンジ色の明かりだけを残し、布団に潜り込む。

(今日はもう寝よう)

 寝てしまえば、北斗も告白することができない。そうすれば、その先を考えなくても済む。とりあえず、今日だけは。

 目を閉じて、七海は寝ようと頑張る。

 だが、寝れない。

 部屋の中が静かなせいか、余計に色々な感情が頭の中を駆け巡り、うるさくて仕方がない。時間も寝るには早かった。仕事のある日ならまだ働いている時間だ。

(どうしよう)

 あえてテレビでもつけてみようか。そんなことを考えながら、ようやく少しは気持ちが落ち着いてきた頃、カチャリとノブの回るような音が聞こえてくる。

 扉を開け、誰かが部屋に入ってきた。こちらに歩いて近づいてくる。隣に敷いてある布団に腰を下ろす。

「もう寝ちゃった?」

 部屋に入ってきたのは北斗だった。

 瞬間、以前お見舞いに来てくれた北斗と、部屋で二人っきりになったとき感じた恐怖がよみがえる。

「いいえ、起きてます」

 七海はパッと目を開けて答える。このまま寝たふりを続けてやり過ごす気楽さよりも、寝ているところを襲われる恐怖が勝ったのだ。

 この前は信じた。しかし今日も信じれるとは言い切れない。なにより今は浴衣の下にパンツをはいておらず、前回よりも装甲が一枚薄かった。

「電気をつけてもらえますか」

「りょーかい」

 明るくなり北斗の姿がはっきり見えるようになると、少しだけ恐怖心が和らぐ。

「なにかご用ですか」

 言いながら七海は上体を起こす。

「用はあるけど、その前に七海ちゃん、体の調子は大丈夫?」

 北斗が優しく微笑みかけてくる。

「はい、問題ないです。少し疲れただけですから」

「それはよかった。なら、ちょっと聞いて欲しいことがあるんだけど」

「ごめんなさい、明日でもいいですか。今日はもう眠いので」

 嘘だ。眠くはない。本当は北斗に告白されるとなにかが壊れてしまいそうで、怖かったのだ。

「……そっか。なら、僕も寝ようかな」

 先延ばしにできる理由があるなら北斗も逃げたかったのかもしれない。彼はあっさりと告白を諦める。

「電気、消すよ」

 蛍光灯の白い光が消え、部屋が再び弱いオレンジ色の光で満たされる。

「おやすみ」

 そう言うと、北斗はなんのためらいも見せず七海の隣に敷いてある布団へと入っていく。

「ちょっ、あの、え? 北斗さん、自分の部屋で寝てくれませんか」

「ここが僕の部屋で間違いないはずだけど。端っこに『9』って書いてある割り箸を引いたの、七海ちゃんだよね?」

「はい。でも、それでどうして私と北斗さんと一緒の部屋なんですか」

「店長が連れてってくれる旅行では、毎回男女二人で一部屋って決まりでさ。僕の苗字の長月は九月の別名でもあるんだよね。だから『9』ってのが僕なんだ。ちなみに潰れたウみたいなのが守屋のウ冠を示していて、太がまんま佐久間涼太の太」

 瞬間、七海は怖くなる。それは北斗と一緒の部屋で寝るからではない。もちろんそれも怖いが、星野がウ冠の書かれた割り箸を引いていたことに比べれば、些細なことだ。

 浴場では多くの丸裸な気持ちを知ることができた。しかし一番印象に残っているのは、最後に見た星野の笑顔だった。

(ダメだ、危険すぎる)

 今の星野と彼を一緒の部屋にしたら、最悪、血が流れてもおかしくない。それを考えると、七海はいてもたってもいられなくなってしまう。

「私、詩織さんと話してきます」

 

 七海は部屋を出ると階段を下りて宴会場を目指す。

 と、階段の横にあるトイレの前に、星野はいた。近くには彼女と向かい合うように佐久間もいる。彼はちらりと七海を見たあと、なにも言わず宴会場へと戻っていった

 佐久間がいなくなり星野だけがその場に残ると、七海はさっそく彼女に話しかける。

「詩織さん」

「なに?」

「…………」

 どう言葉を続けるべきか、少し悩む。勢いあまって飛び出してきたが、いざ本人を目の前にすると、自分の考えていることが急におかしく思えてくる。

「……なんていうか、その。危ないこと考えてたりしませんか?」

 七海の質問に星野は短く笑う。

「心配しなくても、後ろからプスリなんてするつもりはないから」

(やっぱり、少しは考えてたんだ)

 そうでなければ、すぐにこんな答えを返せるはずがない。

「あんまり怖い顔で睨まないでよ。本当に、大丈夫だから」

 七海は考える。星野を信用し、このまま彼と一晩同じ部屋で過ごさせてもいいのかを。

 浴場では一瞬、確かに星野がヤンデレの殺人鬼に見えた。だが、今こうして話しをしてみると、彼女から殺意のようなものはあまり感じない。

 決意と諦め。そしてほんのわずかな希望。

 最初から絶対に勝てないと分かっていながらも、リングに上がろうとする挑戦者。彼女の瞳には、そんな無謀者たちと同じ光が宿っていた。

「分かりました。信じます」

「ありがとう。それじゃ、また明日」

 そう言うと、星野は宴会場へと戻っていった。

 

 とりあえず危険なことは考えていない。それさえ分かれば、星野がなにをするつもりなのか、七海はもう深く考えないことにした。

 本当に、余裕がなかった。

 甘い情報、苦い真実。一つ一つは決して食べられないものではない。だが食べ慣れていないものを、短時間に無理やり捻じ込まれたら、腹だって壊す。

 好き嫌いはしない。だからせめて一品ずつ、ゆっくりとテーブルに並べていって欲しかった。そうすれば七海だって、すべてを味わって食べ切ることができただろう。

(私も、戻って寝よう)

 七海は階段を上がり、部屋へと戻る。

「おかえり」

 北斗は布団の上から窓際の椅子に移動していた。部屋はオレンジ色の電気しかついておらず、入り口からではどんな表情をしているか分からない。

 北斗の右手には缶が握られていた。あれはお酒だろうか。七海が布団まで戻ると、彼は軽くそれを持ち上げて言った。

「梅酒、七海ちゃんも飲む?」

 飲んだ経験はなかったが、それでぐっすりと眠れるなら助かる。ただし深く眠れ過ぎるのも怖い。

「やめておきます」

「そっか。なら梅酒じゃなくてオレンジジュースでもいいから、一缶だけ付き合ってくれないかな」

 誘いを受ければ、そのまま告白という流れになることは分かっていた。

「……いいですよ」

 しかし北斗に寂しそうな目で見つめられると、これ以上はどうしても断れなかった。

 七海は小さなテーブルを挟んで北斗の対面の椅子に座る。

「はい」

 北斗は足元の小さな冷蔵庫からオレンジジュースの缶を取り出し、七海に手渡す。

 ひと口飲むと、体中に染み渡っていくような気がした。気付かぬうちに、かなり喉が渇いていたようだ。

 しばらく二人とも無言が続く。

 やはり落ち着かなかった。七海は少量ずつではあったが、頻繁にオレンジジュースを口へと運んだ。

 缶の中身の約半分くらいを消費した頃、北斗がようやく口を開く。

「僕、なにか変なこと七海ちゃんにしちゃったかな?」

「……変なのは私です」

 そう、おかしいのは自分だ。

 今一度考えても、どうして告白されるのが怖いのか、七海は自分でもよく分からなかった。

「もし、僕に今晩襲われるんじゃないかって心配してるなら、安心していいよ」

 どうしてだろうか。さっきまで恐れていたのが嘘のように、七海は北斗の言葉を信じることができた。

「神に誓って、僕は七海ちゃんに手は出さない。それは七海ちゃんが嫌いだからってわけじゃない。むしろ――」

 北斗は手元の缶に視線を落とす。そしてすぐに真剣な目で七海を見つめなおし、言った。

「僕は七海ちゃんが好きだから」

(……なんだ、そういうことか)

 七海はすべてを理解する。

(私、北斗さんが好きなんだ)

 元々雄介に自分の言葉で気持ちを伝えたいがために三次元化した七海には、それに気付き、それを認めるのが怖かったのだ。彼女は無意識に、雄介以外の人物を好きになるのは奇跡への裏切りだと考えていた。

 しかし約三ヶ月の現実生活と北斗の告白が、彼女を少しだけずうずうしくさせる。

「僕は七海ちゃんを彼女にしたい。ただ……返事は雄介の気持ちを、もう一度確かめてからにしてほしいと思ってる」

「それは、どうして?」

「あのとき、やっぱり雄介に告白しておけばよかったと後悔してほしくないから。七海ちゃん、雄介のこと今でも好きでしょ?」

「はい、好きです。でも、北斗さんのことも、好きですよ。友達としてじゃなく、男として。今気付いたばっかりなので、雄介さんと北斗さん、どっちのほうが好きって聞かれると困るんですけど」

 北斗を好きだと認めても、七海が雄介に向ける気持ちはまったく変わらなかった。

「ははは。なら、もし雄介の気持ちを知って、それでも僕のほうが好きだって思ったら、そのときは彼女になってよ」

 一緒にいて雄介よりも楽しい北斗。一緒にいて北斗より安心できる雄介。二人とも違って、二人とも好き。

 だけど、恋人になれるのは一人だけ。二人を好きだと認めても、それは変わらない。どっちでもいいじゃ、どっちにも失礼だ。

「なにがどうなったら、二人は恋人になったって言えるんですかね」

 七海はふと気になった。現実にはエンディングは存在しない。ならば、みんなはどうやって相手と恋人になったと確信し、安心するのか。

「そうだなぁ。基本は告白してOKを貰ったらなんだろうけど、実際にそれで満足できるのは中学生までだよね。キスをしても人によっては恋人とは認めないし。今の時代なら、やっぱりセックスしたらってなるのかな。まあ、それすら気軽にやっちゃう人もいるけど、そういう人はいくら綺麗だったとしても僕は好きになれないかな」

 エンディングがなくても、セックスが一つの境界線となるのは二次元も三次元も変わらないようだ。

 その基準をいやらしいとか、下品だとは思わない。愛し合っていれば、自然としたいと思うのが普通だと七海は考えていた。だから逆に、すんなりと納得できる。

「うん、そうだね。もしやってもまだ恋人じゃないって言い張る奴がいたら、僕がぶん殴ってあげるよ」

 北斗が梅酒の缶をペコッと凹ませる。

「ありがとうございます」

 七海は心の底から感謝する

「そろそろ寝ようか」

「はい」

 北斗が好きだと言ってくれたおかげで、今日はぐっすりと眠れそうだ。

 星野は今日、なにかするつもりだ。もしかしたら、それで決着がついてしまうかもしれない。

 だがそうなっても、自分にはまだ北斗がいる。

 いずれは選ばなければいけない。寝て起きたら雄介と星野が恋人になっていても、彼が再び自分だけを見てくれる日まで待つという選択肢は残る。北斗だって、保険のように扱われて、いい気はしないだろう。

 でも今日だけは、この幸せな気持ちに、七海は甘えてしまうことにした。

 

          ※ ※ ※

 

 夕食が終わると、そのまま宴会場でカラオケという流れになった。

 毎回、旅行のときはあまり夜更かしはしない。本来、夜は複数の相手に歌うための時間じゃないというのが店長の言い分だ。

 食事中からそうだったが、カラオケ中も星野は妙に絡んできて、雄介は戸惑った。さすがに腕に抱きついてきたりはしなかったが、鈴木や店長からは生暖かい視線を向けられてしまう。最初のうちは無関心を装っていた佐久間も、最後には隠し切れない殺気が体から滲み出ていた。

 全員が一回ずつ歌い、その後は店長と雄介が中心となってマイクを回す。

 星野が店で働くようになってから、カラオケの最後は彼女の歌声で締めるというのが決まりになっていた。

「ラストはビシッと頼むぜ」

 店長からマイクを渡され、星野が立ち上がる。

 いつもは気負いを見せることのない彼女が、今日だけ大きく深呼吸をする。その後、彼女はまるで甲子園の選手宣誓がごとく、『恋は戦争』を全力で歌った。

 すっきりとした表情でマイクを置く星野に、店長が言う。

「星野がそういうタイプの曲を歌うなんて珍しいな」

「今日は、そういう気分だったので」

「そうか。ふふ、頑張れよ。……さて、寝るぞ」

 旅行中、店長の指示は絶対だ。彼女が寝ると言ったら、最低でも決定された部屋に行かなければならない。

 雄介たちは店長のあとに続き、部屋のある二階へと向かう。

 店長は自分の部屋に消える直前、とても楽しそうに言う。

「それじゃお前ら、間違いは起こすなよ」

 彼女は毎回この台詞を言っていたが、今回はいつも以上に楽しそうだった。おそらく彼女は、今回こそなにか起こると予感していたのだろう。

 そしてそれは、先ほどから雄介も思っていることだった。

 部屋に入ると、すでに二つの布団がぴったりとくっついた状態で敷かれていた。これはいつものことなのでいまさら驚かない。

 ふと、雄介は初めて星野と同じ部屋で寝たときのことを思い出す。たしかあのときは、布団を離して寝た記憶がある。

 布団をくっつけたまま寝るようになったのは、雄介が初めての恋人と別れた直後の旅行からだった。時が経ってもそれ以上の変化は起こらなかったが、雄介に不満はなかった。

 このままでいい。

 むしろ、このままがいい。

 星野だって、特別不満があったとは思わない。

 しかし七海の存在が、星野を変えてしまった。

「一杯、付き合ってくれませんか」

「……いいよ」

 あえて部屋の明かりはつけず、二人は窓際に置かれた椅子に腰を下ろす。

 雄介は冷蔵庫から缶の梅酒を二本取り出し、一本を星野に手渡す。二人とも酒はあまり強くないほうだったが、梅酒一缶程度なら問題はない。

 なにを話すわけでもなく、二人は静かに空を眺める。

 しばらくして星野がつぶやく。

「月が綺麗ですね」

 夏目漱石の逸話に、「I love you」を「月が綺麗ですねと」意訳したというのがある。雄介はその話を、昔、星野に教えてもらうことで知っていた。

 なにかしらの返答を期待するように星野がこちらを見つめてくる。月明かりだけで、彼女の顔はしっかりと見えていた。

 返せるものなら、雄介も気の利いた台詞を返したいと思う。

 だが――

「そうだね」

 結局、雄介はイエスでもノーでもない答えしか返せなかった。

 星野が視線を下げる。

 それからまたしばらくして、彼女は梅酒の缶に口をつけると、グッと大きく傾ける。

 缶がテーブルに置かれたときの音で、中身が空なのが分かった。

「寝ましょうか」

 星野が椅子から立ち上がる。雄介は残っていた梅酒を一気に飲み干し、彼女に続く。

 布団の上まで移動すると、星野は急に振り返り、雄介の襟を掴んだ。そしてブドウの皮でも剥くように、素早く浴衣を腰まで脱がす。しっかりと帯を巻いているので、一気に下までずり落ちることはない。

 少し酔っていることは関係ない。雄介は彼女がこんなことをするのが信じられず、そのせいでまったく反応できなかった。

 星野は脱がしかけの浴衣で雄介の体を締め付け、腕の稼動範囲を限定する。次にそのまま体を後ろへと倒れこませる。

 なんの抵抗もできず引き倒される雄介。彼が唯一できたことは、星野を自分の体で押し潰さないように手を突っ張ることくらいだった。

「どこでこんな技を覚えたんだ……」

 思わず聞く。

「前半は昔、佐久間君が貸してくれた漫画の範馬刃牙で。後半はオリジナルです」

 星野はニッコリと笑う。

「この前電車の中でしたキス、覚えてますか?」

 そんなの、忘れるわけがなかった。

 ただ唇と唇と重ね合わせただけで、時間は一秒にも満たなかった。

 それでも雄介は覚えている。あのとき感じた柔らかさ。暖かさ。匂い。味。そのすべてを。

「……ああ」

 しようと思えば、あのときよりも顔を動かす距離は短くて済む。今はそんな状況だった。

「続き、しませんか」

 子供には分からなくとも、大人にならば分かる。そんな世界一簡単な問題を出されて、思いつくことなど一つしかない。

 引き寄せられるように体が自然と動く。雄介はゴクッと唾を飲み込んだあと、ゆっくりと顔を近づけていく。

 触れ合う唇。

 今まで雄介の浴衣を握ったままだった星野の両手が、スッと布団の上に落ちる。

 雄介は顔を離して今一度星野を見つめる。彼女は目を閉じてくったりとしていた。

 軽く乱れた浴衣の襟を右手で掴む。そのとき、指が少しだけ胸に触れた。

「ぁ――」

 甘い声を出しながら彼女は膝を立て、内股で雄介の足をなでる。

 このまま袖を下に引けば、その先になにが待っているか、雄介は知っている。

 蘇る快感と欲望。

 しかし――

「もう少し、待ってくれ」

 袖から手を離し、雄介は星野から目を背けるように布団の上に座る。

 その先の先――別れの恐怖と絶望を、快感と欲望は打ち勝つことができなかった。

「私、もう一度温泉に入ってきます」

 星野はそう言うと、浴衣の乱れを直し、扉まで歩いていく。まるで引き止める言葉を待っているかのように、ゆっくりと。

 部屋を出る直前、彼女はこちらを見ないまま、小さく言った。

「ごめんなさい」

 

 星野がどうして最後に謝罪の言葉を口にしたのか。雄介はその理由を、旅行から帰ってきた翌日の夜に知ることになる。

「少し、話せますか?」

 仕事が終わり、帰り道。星野はそう言って雄介を駅前のエンジェルモートに誘った。

 店に入り、二人はホットコーヒーを注文する。

 テーブルにコーヒーが運ばれてくるまで、星野はいつも通りの話題を、いつも通りの微笑を浮かべて話した。

 しばらくして、サンタ風の衣装を着たウエイトレスがコーヒーを運んでくる。それを見て、星野は好きだった漫画の最終巻でも眺めるように、寂しげに笑う。

 その後、彼女はすぐに表情を先ほどまでの微笑に戻し、言う。

「話は変わりますけど、私、佐久間君と付き合うことにしました」

 雄介がコーヒーのカップを手から落とさないで済んだのは、彼女の話をすぐには理解できなかったからだった。

「……え?」

「だから私、佐久間君と恋人になることにしたんです」

 言葉を変えて二度説明されても、雄介はよく理解できなかった。

 星野はさっきまでしていたアニメのキャラクターの話でもするように、笑いながら続ける。

「わざわざ話すほどのことでもないと思って黙ってましたけど、佐久間君とは前々からメールしたり漫画を借りたり程度の交流はあったんです。好意を持たれていることも分かってました」

 そもそも佐久間が星野を好きだったなんて、雄介にはまったくの想定外だった。しかしそれならば、以前に七海との交際を雄介が否定したとき、彼が残念そうな態度を取ったことに納得できる。

「ただ、私と恋人になりたいとかは考えてなかったと思います。佐久間君も、私が守屋さんのことを好きなの分かってたし、なにより守屋さんのこと尊敬してたから」

 やがて雄介も星野が今なにを話しているのかが分かってくる。

「もう一度温泉に入ってくるって言って部屋を出たの、あれ嘘だったんですよ。実はカラオケで私が席を外したとき、廊下で佐久間君に話があるからあとで玄関ロビーまで来て欲しいって言われてて。行ってみたら、やっぱり告白されちゃいました」

 おそらく佐久間が動くきっかけとなったのは、温泉での会話が原因だろう。あれが彼の魂に火をつけてしまったのだ。

「昔から佐久間君が告白してきたら、すぐに受け入れちゃおうなんて考えてたわけじゃないんですよ? 一応コミティア会場で七海ちゃんと色々話したときに、決めてたんです。今年中に守屋さんの彼女になれるよう、全力で頑張ろうって。だからもし佐久間君が少し早めに廊下で告白してきたら、最後の勝負が終わるまで待ってもらうつもりでした」

 ふと、雄介は気付く。さっきまでの微笑と今現在星野が見せている微笑は、似ているようでまったく違うものだと。

 もう、彼女は雄介を過去に好きだった人物として見ていた。

「これからも頼まれれば挿絵は描きます。シフトが被れば、帰り道で一緒になることもあると思います。だけどこうやって二人きりで喫茶店に入ったりするのは、今日で最後にします」

 たとえ恋人にならなくても、別れのときは不意にやってくる。頭のどこかでは分かっていたが、それでも雄介はまだまだ先のことだと思っていた。

「私、そろそろ帰りますね。話したいことも全部話せたので」

 星野は立ち上がり、伝票を掴む。

「今日は、私が奢ります。……それじゃ、さようなら」

 雄介が彼女のさようならという言葉を聞くのは、これが最初で最後となった。

 

          ※ ※ ※

 

 星野と佐久間が付き合うことになった。

 部屋で雄介の帰りを待っていた七海は、それを星野自身からのメールで知る。

 いつもより少し遅く帰ってきた雄介は、すごく落ち込んでいるかと思えばそうでもなかった。もしかしたら彼も少しはこうなることを予期しており、前々から覚悟はできていたのかもしれない。最初はそう考えた。

 しかし実際は、平気に見えるようにふるまっているだけだった。

 翌日、七海は前半から雄介と一緒に働いた。そこで彼はらしくないミスを連発する。北斗にすら心配されるレベルと言えば、どれだけ酷かったか分かるだろう。

 休憩のため雄介がバックルームに入ると、北斗が聞いてくる。

「雄介、どうかしたの?」

 どうやら北斗にメールは行っていないようだ。

 北斗にはあえて知らせるほどでもないと思ってメールを送らなかったのか。それとも誰にも言いたくなかったが、自分だけには知らせておこうと思ったのか。七海は星野の気持ちを考えようとして――やめた。

「詩織さん、佐久間さんと付き合うことになったんです」

 いずれはバレることだ。なら隠してもしょうがない。

「――へぇ。涼太が詩織ちゃんとねぇ」

 北斗は聞いた瞬間は目を見開いたものの、驚きはそれほど長く続かなかった。

「意外じゃないんですか?」

「だって詩織ちゃん、すっげーかわいいし。涼太が詩織ちゃんを好きなのは全然知らなかったけど、好きになっても不思議じゃないもん。それに詩織ちゃんが雄介以外と付き合うのだって、充分にありえることだと思ってたし。少なくとも、雄介本人よりはね」

 逆に雄介からしてみれば、やはりこの状況はまったく想定していなかったことなのではないだろうか。

 彼は驚き、混乱している。まだ事態が飲み込めず、頭の中が星野のことでいっぱいなのだ。

 こんなときこそ、自分はいつも通りに。ヘタに変わったことをすれば、彼はきっと心を閉ざしてしまう。七海はそう考えた。

(大丈夫。きっと二、三日すれば雄介さんは元に戻ってくれる)

 その願いが通じたのか、次の日から雄介のミスは激減した。だが、ゼロにはならない。彼は店で、家で、毎日なにかしら一回はミスをした。そして次第に苛立ちを隠さないようになり、ついには七海に八つ当たりするようになっていく。

 集中できないからゲームを今すぐやめろ。疲れたからこの仕事は代わりにお前がやれ。醤油が切れたから買って来い。

 それで彼の気分がよくなるならと、七海は彼の命令にすべて従った。いずれ俺の彼女になれと命令してくれることを夢見て。

 こんな状況でも、七海は雄介のことが好きだった。そしてもっと好きだった頃の彼に戻って欲しいと、心から願い、頑張った。

 しかし、状況は一向に改善する気配を見せなかった。

 もう、ダメかもしれない。

 それが起こったのは、七海が彼と恋人になるのを本気で諦めかけたときだった。

 

 一二月二四日。クリスマスイブの夜。

 とても寒い夜だった。帰り道、七海と雄介、二人は足早に自宅への道を歩いていた。

 アパートに到着し、雄介が鍵を開ける。

 これでやっと温まれる。七海がそう思ったのも束の間、雄介はドアを開け、玄関に一歩足を踏み入れた体勢で一瞬固まる。次に彼は後退して外に戻ってくると、ドアを閉める。

「どうかしたんですか?」

 七海は聞く。彼の表情はまるで死体でも見つけてしまったかのように青ざめていた。

「ちくしょう!」

 雄介は七海の疑問には答えず、頭を抱えて一人つぶやく。

「なぜだ、なぜ部屋に奴がいる。これまで一度も出てこなかったのに、どうして今頃出てくるんだ。対策は完璧なはずなのに。もう冬だぞ……」

 彼の動揺は初めて三次元化した七海と出会ったとき以上だった。ただ、外の寒さのおかげか、彼はすぐに冷静さを取り戻す。そしてこちらを向いたかと思うと、まるで値踏みするような目で見つめてくる。

「な、なんですか」

「お前、ゴキブリは平気か」

「え、いや、ダメ、です」

 彼らには北斗のマンションに居候していた頃、何度か出会ったことがある。

 初めて彼らを見たときの衝撃は今でも忘れられない。思い出すだけで強烈な悪寒と恐怖が体を駆け巡る。あのとき北斗が近くにいなかったら、七海は吐くか漏らすかしていたことだろう。

「くそっ、ダメか。……仕方ない、北斗を呼ぶか」

「今から来てもらうんですか<double>!?</double>」

 確かに北斗が来てくれるなら心強い。しかしいくらなんでも迷惑だろう。それに時間だってかかる。

「なら、お前がやるか?」

 七海が答えられずにいると、雄介は上着のポケットから携帯を取り出し、北斗に電話する。

(……今しかない)

 携帯を耳にあて、北斗が電話に出るのを待っている雄介に七海は一歩近づく。そして彼の手を掴み、携帯を耳から引き離す。

「なんのつもりだ」

「私がやります」

 雄介は七海の言葉を疑うように眉間のシワを深くする。

「さっきの表情を見れば分かる。お前には無理だ」

「できます。やります。だから――」

 これ以上待っても、状況は改善しない。それどころかふりだしに――いや、それ以上に悪くなっている気さえする。

「できたら私を雄介さんの彼女にしてください」

 そんな最悪の状況で今年もあと五日しかない。もう待っているだけでは絶対に無理だと七海も悟っていた。

 だから、ここで仕掛ける。

 雄介は電話を切り、七海としばし見つめ合う。そして仏頂面を崩すことなく、しかし確実に言った。

「いいだろう。彼女にしてやる」

 それさえ聞ければ、もうなにも怖くない。七海はすぐさまドアを開け、部屋に突入する。

 玄関から一メートルほどしか離れていない床に、標的はいた。七海は部屋に突入した勢いを失わないよう一気に距離を詰め、踏み潰す。

 雄介がドアの向こうから叫ぶ。

「死体はトイレに流して処理しろ!」

 七海は標的を踏み潰したままその場で靴を脱ぎ、トイレットペーパーを大量に持ってきて処理を済ませる。潰れたゴキブリはとても気持ち悪かったが、雄介と恋人になれる嬉しさのほうがずっと大きかった。

「全部終わりました!」

 彼が恐る恐るドアを開け、きょろきょろと壁や床を見回しながら玄関に入ってくる。そしてその調子のまま、彼はベッドがある部屋まで進む。

 しばらくしてようやく安心できたのか、彼はホッとため息をつきながらベッドに座った。

「七海、さっき彼女にしてやると言ったな」

「はい!」

 嬉しくて、七海はつい声が大きくなってしまう。

 次に彼がやさしく微笑みかけてくれたら、我慢せずに泣いてしまおう。そして彼の胸に飛び込んで、思いっきり頭をなでてもらおう。

 そんな彼女の期待を、雄介は裏切る。

「あれは嘘だ」

「えっ?」

「三次元は嘘をつく。騙されたくなかったら、お前も少しは疑うことを覚えるんだな」

 瞬間、爆発寸前まで高まっていた喜びの気持ちが、その熱を保ったまま、まるでスイッチで切り替えたかのように怒りへと変換される。

「……ふ、ふざけるな!」

 七海は心の底から吼える。

「どうして、どうして、どうしてそんな嘘をつくんですか! 期待させてから裏切って、突き落とすのが楽しいですか。私を悲しませて、怒らせて、絶望させて、怒り狂わせるのが面白いですか!」

 雄介は七海の勢いに気圧されたか、視線をそらす。

「別に楽しくはないさ」

「なら、最初からこんな嘘つかないでください。最初から、私だけを見続けるなんてしないでください。あなたに愛され続けたい。あなたを愛し続けたい。そう思って三次元化したのに、どうして私の気持ちを受け入れてくれないんですか。私は正真正銘望月七海です。それなのに、私のどこが気に入らないんですか!」

 彼は答えない。

「言えるわけないですよね。分かってますよ。隠そうとしても無駄です。雄介さんは私のことが嫌いじゃない。だからこそ恐れている。いずれ訪れるかもしれない別れで自分が傷つくのを怖がっている。そうでしょ?」

 強い怒りと悲しみを瞳に宿し、彼が反論する。

「別れの絶望を知らないお前に、なにが分かる」

「分かったら偉いんですか。分かったら恋人にしてくれるんですか。エンディングを見るたび、もう遊んでくれないかもしれないと思う恐怖を。プログラムに縛られて、本当の気持ちが言えない苦痛を。雄介さんに分かるんですか」

 できることなら彼の苦しみを、悲しみを、悩みを、理解してあげたいと思う。だが理解しても、すべてを容認できるわけではない。我慢できる量には限界がある。

「……今ならまだ許します。だから訂正してください。もし謝ってくれたら、私は未来永劫、あなたを愛し続ける。そう誓います」

 二人はじっと睨み合う。

 これが最後の分岐点となる。彼もそれを充分理解しているのだろう。簡単に返事をしたりはしない。

 唇が乾いてくっつきそうになった頃、ようやく彼が答える。

「訂正はしない」

 七海の中で、なにかがプチッと切れた。

「雄介さんのバカ! 嘘つき! 裏切り者! 弱虫! 乱暴者! 意気地なし! 臆病者! メンタル豆腐! うんこ! 死んじゃえ!」

 あらんかぎりの侮辱を大声でぶちまけ、七海は部屋から飛び出した。


 
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