No.353389

レインボーガール (5/8)

MEGUさん

この作品はコミックマーケット81で配布したものからR18要素を抜いたものになります。

2011-12-26 23:10:29 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:533   閲覧ユーザー数:533

  五章

 

 雄介が働く同人ショップ猫の森は年中無休ではない。コミケとコミティア(関東)がある日は基本的に店を閉めている。

 なぜ同人ショップにとっては書き入れ時であるイベントの日が休みなのか。それは店長自身がイベントに参加したいという単純で明快な理由からだった。

 コミティアがある日の朝。目覚めた雄介はベランダに出て今日の天気を確認する。

 空にはまだうっすらと雲が張っていた。ただ、幸い雨は降っていない。昨日から降っていた雨は予報通り明け方にはやんでくれたようだ。

 そのまま朝の空を眺めていると、ひんやりと冷たい風が雄介の体を通り過ぎていく。

(もう秋だな)

 部屋に戻り、幸せそうに眠っている七海の横をゆっくりと歩き、キッチンへと向かう。まだ彼女は起こさない。

 ベッドに座って淹れたてのカフェラテを楽しんでいると、しばらくして雄介の携帯から大音量で「GONG」が流れ始める。普段は時間になれば自然と起きてしまうのでアラームは使わない。ただ今日は絶対に遅刻できないので一応セットしておいた。

 アラームの音に反応して七海がむくりと体を起こす。

「起きたか」

「……うん」

 七海は手の甲で目をこすりながら答える。まだかなり眠そうだ。淹れたての熱いカフェラテを飲ませるのはもう少し目が覚めてからのほうがいいだろう。今手渡すと火傷する危険がある。

「……さて」

 わずかに残っていたカフェラテを一気に飲み干し、雄介は行動を開始する。

 イベントの日だからといって朝やることはいつもと変わらない。会場に持って行く荷物の用意は昨日のうちに済ませてある。変化といえば弁当を作らないでもいいくらいで、その手間がなくなる分、起きる時間もさほど違いはなかった。

 ニュースを見ながら朝食を済ませ、次にシャワーを浴びてヒゲを剃る。今日の朝食は和食にした。体を温めるならやはりパンより米だ。最新の予報では降水確率は10パーセント。午後には日射しも回復するが、気温はそれほど上がらないらしい。

 

「そろそろいくぞ」

「はーい」

 今日のイベントは七海も一緒だ。雄介は財布を開き、今一度サークルチケットが入っているのを確認し、部屋を出る。

「ふんっ」

 気合を入れてカートを持ちあげ、素早く階段を下りる。カートには新刊と既刊がぎっしりと詰まっており、とても重い。

 左手でカートを引っ張りつつ、右手で携帯を取り出し、星野にメールを送る。返事はすぐに返ってきた。彼女も予定通り、問題なく駅へと向かっている最中のようだ。

 駅に近づくにつれ、雄介と同じようにカートを引く人がちらほらと現れる。

「あそこでカート引いてる人とか、もしかしたら、このままビックサイトまで一緒かもしれませんね」

「まあ、カートを引いてる奴とは九割九分一緒だろうな」

「そんなにですか?」

「ああ、そんなにだ。今日はコミティアだからこんなもんだが、コミケのときはもっと多いし、分かりやすいぞ」

 ホームで電車を待っている間も、一人二人とそれらしい人物が階段を下りてくる。

「たぶん、あいつもそうだな」

 雄介はたった今階段を下りてきた男を視線で示す。

「どうしてそう思うんですか」

 七海が不思議そうに聞いてくる。確かにその男はカートを引いているわけでも、見るからにオタクのような服装をしているわけでもない。ぱっと見ただけでは少し目つきが悪いだけの高校生だったが――

「雰囲気で分かる。ジュース一本賭けてもいいぞ」

 そんなくだらない話をしながら電車を待つ。数分後、電車は時間通り到着した。

 二人は先頭車両に乗り込んだ。席が一人分だけ空いていたので七海に座らせる。

 星野とは次の駅で予定通り合流できた。

 まずは彼女が、いつもと変わらぬ微笑を浮かべて言う。

「おはようございます」

 それを受け、雄介と七海もいつも通りの笑顔で挨拶を返す。

 新木場までの約一時間半、三人は普段通りにアニメやマンガの話を楽しんだ。

 今日はいつもより星野がよく喋っていた。周りが同類ばかりなので恥ずかしさが薄れたのか、はたまた話すことでなにかを忘れようとでもしていたのか。

「なんか、もうそれっぽい人ばっかりですね」

 七海が言う。今はホームで国際展示場行きの電車が来るのを待っていた。予想通り、雄介が同類だと判断した少し目つきの悪い高校生もまだ一緒だ。

「ジュース一本、忘れるなよ」

「ちょ、本気だったんですか。てか、私は賭けるなんて言ってないですよ」

「賭けないとも言ってないだろ」

「そんな、キュウべえみたいなこと――」

「なんの話ですか?」

 ニコニコと笑いながら、星野が会話に割り込んでくる。

「二人で賭けてたんですよ。そこにいる黒いジャケットを着た人の目的地がビックサイトか」

「……へぇー、そうだったんですか」

 ずっと微笑を浮かべていた星野が、そのときだけ寂しそうに笑顔を曇らせる。

(七海と二人で賭けをしていたことを嫉妬してる……のか?)

 それほど待たずに電車が来る。国際展示場駅に着くまでの四分間、星野はずっと黙っていた。

 

 改札を抜けて外に出ると、後ろから聞きなれた声が聞こえてくる。

「雄介ー」

 見れば、少し後ろに両手を上げた北斗がいた。彼の後ろには佐久間と鈴木の姿もある。

 北斗が加わったことで一気に賑やかになった。早起きのせいか本調子ではないようだったが、それでも充分にうるさい。

 今日の会場は東の5・6だ。北斗、佐久間、鈴木の三人とは入り口で一旦別れる。サークルとしては今回初参加の鈴木とはジャンルが違った。彼女は少女マンガで、雄介は文芸だ。

 ふ―18a。雄介の配置は今回も島中だった。

 自分たちのスペースに到着すると、右隣のサークルはすでに準備万端で椅子に座っていた。一旦軽く挨拶を済ませてから雄介たちも作業に取り掛かる。

 テーブルに布をかけ、その上に新刊と既刊を綺麗に並べる。次に布の前に垂れ下がった部分に宣伝用の絵を貼り付ける。

 大きな看板や本棚のようなものは使わない。昔はあれこれ試したものだが、準備なんてレイアウトに悩まなければすぐに終わってしまう。

 雄介たちの準備が終わる頃、左隣のサークルも到着する。右が『ろんりーきゃっと』で左が『ビストロ☆ベレッタ』。今日は両脇とも初めて見るサークルだった。

「よし」

 おつりに使う小銭は問題ない。提出する見本誌の用意も終わっている。あとは巡回受付さえ来ればいつ始まっても大丈夫だ。

 いや――

「場所を換わってくれ」

 テーブルの内側から作業をしていた雄介は外側に立つ七海に言う。一応、最後に自分の目で外からの見た目を確認しておきたかった。

 本の位置を少しだけ調整する。やはり見た目は大切だ。どんな名作を書いたとしても、まず手に取ってもらえなければ始まらない。

 そのうち看板やタペストリーなども使ってみたい。ただ、壁――は無理だとしても、せめて島端に配置される程度にサークルが大きくなるまではやらないことにしていた。見た目ばかり気にして配布数を稼ぎ、それで島端を手に入れも意味がない。

 ふと視線を上げる。

 椅子に座り、こちらを見上げる二人の美少女。

 太陽のように力強く、月のように美しく、一人でも充分に人の心を引きつける七海と星野。そんな魔性の輝きが、今日は感じられない。

 彼女たちの微笑みは、どこか寂しげだった。

 今の彼女たちなら、一般参加者をその圧倒的な輝きで逆に遠ざけてしまうこともないだろう。まあ、これはこれで近づき難い雰囲気を感じるのだが。

 だからと言って、二人に元気を出せとは口が裂けても言えない。言えるわけがなかった。

 二人にこんな顔をさせている原因は、九割九分、どう考えても自分なのだから。

 雄介は彼女たちから視線をそらし、壁を眺める。

 今日は店長も当然参加している。もう会場に入っているはずだ。店長は雄介よりもずっと前からイベントに参加しており、今では壁サークルだった。

 ここからでは見えないが、どの辺りにいるかはティアズマガジンで事前に調べておいたので分かっている。

 今までチケットは星野と北斗に渡していた。北斗は開場前からフラフラと歩き回り、雄介と星野はお留守番というのがこれまでの流れだったが――

(店長の様子でも見に行くか)

 もう準備も終わってしまった。どちらか一人をここから遠ざけるような用事もない。ならば自分が一度ここから離れる。今の雄介にはそれくらいしか、二人からこれ以上笑顔を奪わない方法が思い浮かばなかった。

「ちょっと、店長の――」

 様子でも見てきます。そう雄介が言いかけたところで――

「やっほー」

 北斗が完全にいつもと変わらぬ笑顔で近寄ってくる。もう目は覚めたようだ。

 彼はプルタブの空いた缶コーヒーをテーブルに置き、動きを止める。そして指を缶コーヒーから離すことなく、再び持ち上げた。

「どうした?」

「ん、いや、こぼしたら大変だし」

「それは……そうだが」

 いつもの北斗なら言われるまで気付かないようなことだったため、雄介は驚いた。

「準備は終わってるの?」

「ああ。そっちはどうなんだ」

「まあ、大丈夫でしょ。恵理子ちゃん、しっかりしてるし」

「で、お前はまたあてもなくフラフラしてたわけか」

「うん。ただ、ここには一応目的があってきたけどね」

 そう言うと、北斗は七海に視線を向ける。

「七海ちゃん、こういうイベントって初めてでしょ?」

「はい」

「一緒にまわらない?」

 部屋を出て行くと言ったときのように、七海は雄介を見た。ただし、今回は一瞬だけ。

「……いいですよ」

 彼女は立ち上がり、外側に出てくる。

「とりあえず昼頃に帰ってくるから」

「それじゃ、いってきます」

 去っていく二人の背中を眺めながら、雄介は少しほっとしていた。

 

          ※ ※ ※

 

 一緒にまわろうと北斗が言ってくれたことに七海は感謝していた。

 星野と雄介を二人にするのはイヤだったが、自分と星野のことを眺め、困った顔をする彼を見るのはもっとイヤだった。

 北斗は雄介がいる列の端まで進むと、言う。

「七海ちゃんは、どこか見たいところはある?」

「んー、とくには」

 一応事前にカタログを見せてもらったのだが、サークルカットだけではここに行ってみたいという場所は見つけられなかった。

「ま、初参加じゃそうだよね。んー……。なら、とりあえず最初は店長の様子でも見に行ってみようか。あー、ついでにトイレ入っておいたほうがいいかもね。コミケほどじゃないけど、たぶんイベント始まったら混むと思うし」

 色々と見てまわるのはイベントが始まってからでもいいだろう。七海は北斗の提案に従い、まずは店長の様子を見に行くことにする。

「てーんちょ」

「おお、長月か。お前が様子を見に来るなんて珍しいな」

「今日は七海ちゃんがいるんで」

 スペースには店長のほかに一人ずつ、美形の男女がいた。男のほうは一度だけ一緒に働いたことがある。あれは確か、星野と佐久間が休みの日曜日だ。

 もう店長たちの準備も終わっていた。七海たちがそのままスペースの前で雑談していると、しばらくしてイベント開始のアナウンスが流れる。

「始まったな」

 店長たちは楽しそうに笑い、一斉に拍手する。

 一度近くのトイレに寄ってから七海たちも行動を開始する。といっても明確な目的地はないので、とりあえず会場の端から順番に攻めていくことにことにした。

 素敵な絵があれば立ち止まり、近くで見てさらに気に入れば、購入する。そうやって七海と北斗はゆっくりと進んでいく。

 二○分後――

「うっ」

 四分の一も見てまわらないうちに、持ってきたトートバッグがずっしりと重くなる。そして反比例するように、財布はすっかり軽くなってしまう。

「それ、持つよ」

 北斗が言う。彼は七海と違い、まだ全然本を買っていなかった。

「えーと……、お願いします」

 お言葉に甘えて、七海はトートバッグを北斗に預ける。

(……やっぱり、男の子なんだなぁ)

 重そうな素振りも見せずにトートバッグを持ってくれる北斗を眺め、七海は思った。

 しばらく歩くと、七海はまた素敵な本に出会ってしまう。

「…………」

 すごく欲しい。が、もうほとんどお金がない。

「お金、貸そうか?」

 あえて口には出さなかったが、じっと本を見つめすぎたせいで欲しいのが伝わってしまったらしい。

「返すのはいつでもいいよ」

「……ありがとうございます」

 買った本は北斗のバッグに入れ、七海が持つことにした。さすがに無期限でお金を借りて、そのうえトートバッグをこれ以上重くはできない。

 またしばらく歩いていると――

「へぇ、こんなのもあるんですね」

 そこはオリジナルの小物やアクセサリーのスペースになっていた。

 どれもこれも、すごくかわいい。特にハートの模様が編み込まれた携帯ストラップを、七海はとても気に入った。

 ただ――

(一個なら手持ちで足りるけど、二個買おうとすると百円足りない)

 このかわいいストラップを、できることなら彼とおそろいでつけたかった。

(今の雄介さんだったら、きっと受け取ってくれるのに……)

 七海が雄介の部屋に戻ってから、彼は変わった。理由は分からないが、以前よりも少しだけ優しくしてくれるようになったと彼女は感じていた。

「あ」

 横からすっと手を伸ばし、北斗がストラップを手に取る。

「このストラップ、一個ください」

 北斗も変わった。こちらも理由は分からなかったが、彼の場合、最近気が利くようになったと七海は感じていた。

「これ、お金はいらないから」

「え?」

「色々と迷惑かけたし、お詫びってことで」

 七海は考えてみる。しかし北斗に感謝することはあっても、謝られる心当たりなどなかった。

 視線をそらし、北斗が言う。

「七海ちゃんが帰ったあと、結局姉貴に七海ちゃんを泊めてたのバレちゃったんだよね。で、最初は無理やり話を聞き出されてたんだけど、そのうち心配されちゃってさ。『お前はエロ本の読みすぎだ。私が三次元の女心ってやつを教えてやる』って。それからいつもは強引で凶暴な姉貴と初めて真面目に話をして、色々と教えられたんだけど。あの……やっぱり気軽にその日のパンツの色を聞かれたり、バッグに発信機を入れられたりするのって、嫌……だった?」

(なんだ、そんなことか)

 確かに北斗の行動は非常識だったと思う。が――

「別に、私は気にしてませんよ」

 二次元の頃には、もっとハチャメチャなキャラに囲まれた日々を何度も何度も繰り返した。そんな七海にとって、この程度の非常識などたいしたことではなかった。

「ほ、本当に?」

「ええ」

 さらに言えば、ツイスターで鼻息を荒くしたり、何度かお風呂を覗かれかけたことも七海は気付いていた。そして男ならこれくらい性欲を持て余しているのが普通だろうと思っていた。だからこそ、北斗が自分に特別な感情を持っていることを直前まで気付けなかったのだ。

「そ、そっか」

 七海の言葉に、戸惑いながらも北斗はホッとしたようだった。

 その場でストラップを携帯に取り付けてから、七海は歩みを再開する。

 ストラップは一つで満足することにした。『雄介さんとおそろいにしたいから二個欲しい』なんて言えば、北斗がどう思うか。それくらい、七海にも分かっていた。

 

 ちょうどお腹が減り始めた頃、七海たちは小説の列まで戻ってくる。

 ふと、威勢よく客引きをしているサークルが七海の目に止まる。マンガと比べ、あまり小説には興味がなかったのだが、とてもさわやかで明るい客引きに二人は足を止めてしまう。

「さあ見てくださいお嬢さん、どうですかこの挿絵。僕が描いたんですけど遠近感のない酷い絵だと思いませんか。それに比べてこっち、ちゃんと遠近感があってカッコいい挿絵ですよ。お金がない? ならば通常一冊五百円のところを一、二、三巻をセットで六百円でどうだ」

 小説の中身より、もしかしたらこの人たちを眺めているほうが楽しいのではないか。そんなことを考えてしまうほど愉快な客引きだった。

 どうやら今度はおだてる作戦らしい。サークルの人が北斗に言う。

「それにしてもうらやましいねぇ、大将。こんなかわいい彼女さんがいて。今日はコミティアデートですか?」

(……ん?)

 七海にとって北斗は恋人ではない。

 しかし――

(恋人じゃなかったら、なんだろう?)

「いやぁ、七海ちゃんとは、まだ友達なんで」

 ――友達。

 北斗がニヤニヤと笑いながら恋人であることを否定するまでの一瞬。七海には、その言葉がなぜか思いつかなかった。

 

          ※ ※ ※

 

 小説は初動が遅い。

 イベントが始まってからも、しばらくは静かな時間が続いていた。

 スペースの前を通り過ぎる参加者もいなければ、二人の間でこれといった会話もないまま、時間だけが過ぎていく。

 二人ともあまり積極的に喋るほうではない。イベント中、口数が少ないのはいつものことだ。ただ、今回はあまりにも少なすぎた。七海がいなくなってから、二人はまだイベント開始直後の一度しか言葉を交わしていなかった。

 一一時半。イベント開始から三○分が経過し、やっと一般参加者がちらほらとスペースの前を通り過ぎるようになる。

「人、あんまり来ませんね」

 星野が言った。

「えっ……ええ」

 雄介は少し驚いた。あまりにも沈黙が続いたせいで、もう本が売れるまで彼女は話しかけてこないだろうと思っていたのだ。

「…………」

「…………」

 久しぶりの会話があっさりと終わってしまう。

 雄介自身は星野と話をしたくないわけではなかった。やろうと思えば一方的にアニメや小説の話を延々と続けることはできる。ただ、このタイミングで自分からそのような話をするのは、なんというか、すごく場違いな気がした。

 もちろん星野がいつも通りを望んでいるのなら、そうするまでだ。今日だって、会場に着くまではいつも通りを望んでいたと思う。

 しかし会場に到着してから――特に七海がいなくなってから星野の雰囲気が変わったことを雄介は強く感じていた。

 咄嗟にうまい言い訳も思いつかなかった。いや、たとえ何日考えてもあの状況を切り抜ける言い訳など思いつかないだろう。だからあの日、雄介は七海を起こすと、彼女の口から星野にありのままの真実を伝えてもらった。

 すべてを伝えた直後、星野は「分かりました」とだけ言って、その日は帰った。そして今日まで何度か二人で話せるチャンスがあったにもかかわらず、彼女はあの日話せなかった挿絵のこと以外、なにも聞いてこなかった。

 だが一度説明されただけですべてを納得できるわけがない。なにも気にならないわけがない。絶対に、聞きたいこと、言いたいことを胸に秘めているはずなのだ。

 そんな星野が再び口を開いたのは、短い会話が終わって一五分ほど経ってからのことだった。

「あの、お弁当……食べませんか?」

 

 イベントのときは毎回星野が弁当を作ってくれる。北斗は適当にコンビニで済ませてしまうためこれまでは二つだったが、今回は七海の分もあった。

 雄介は弁当箱を受け取り、太股の上で広げる。

「いつもありがとうございます」

「好きでやってることですから、気にしないでください」

 ほんのわずかに星野は頬を緩める。

 いつもは料理のことなどを話しながらの昼食も、今日は静かなものだった。

 雄介が弁当を半分ほど食べ終わった頃、ようやく星野が聞いてくる。

「お弁当、おいしいですか?」

「はい、すごくおいしいですよ」

 自分が作る弁当よりも旨い。雄介は本当にそう思っていた。

「……ありがとうございます」

 そう言って彼女が微笑みを浮かべるまで、なぜか若干の間があった。

「どうかしましたか?」

「いえ……別に……」

 それっきり、弁当を食べ終わるまで星野は黙ってしまう。

 

「ごちそうさまでした。本当に、おいしかったです」

「…………」

 星野は無言で弁当箱を受け取る。

 白い花柄のバッグに弁当箱を戻すと、彼女は小さなため息をついた。

「守屋さんって、私に敬語ですよね」

「……そう、ですね」

「どうしてですか?」

 なにか聞かれたら、真面目に答える覚悟だけはしていた。ただ、こんなことを聞かれるとは思わなかった。

「別に、深い意味はないですよ。まあ、元々星野さんはファン第一号だったから、その名残というか……。そもそも、女性には全員敬語を使ってるじゃないですか」

「じゃあ、どうして七海ちゃんだけには敬語じゃないんですか?」

「…………」

 言われるまで忘れていた。確かに七海には敬語を使っていない。

「私、前々からなにかあるなって思ってたんです。七海ちゃんと守屋さん、仕事の先輩後輩にしてはちょっと仲が良すぎる気がするなって。まさか、あんな事情があったなんて思いませんでしたけど」

 彼女は俯いたまま横目でこちらを見た。

 雄介はふと、恋人に浮気がバレて問い詰められているような気分になった。

「最初、信じられませんでした」

「そりゃ、自分もいきなり部屋にいるのを見たときは幻覚だと思いましたから」

「いや、そっちじゃなくて」

「?」

「守屋さんが、そういうゲームを、それも同じやつを一年以上やり続けてたことが」

「ああ……」

 わざわざ話題にすることでもないから言わなかっただけだったが、それも秘密といえば秘密だった。

「そんなに驚きましたか」

「ええ。だって、守屋さんには――」

 私がいるのに。

「えっ?」

 とても小さな声だったため、はっきりとは聞き取れなかった。しかし雄介には、星野の唇がそう動いたように見えた。

「だから……その……七海ちゃんは、守屋さんが一年以上もやり続けたゲームのヒロインなんですよね」

 雄介はちらりと左右のサークルの様子をうかがった。どちらも一般参加者がスペースの前を通り過ぎるたびにそわそわしている。どうやらこちらの会話を聞く余裕はなさそうだ。

「七海ちゃんには、今年いっぱいで部屋から出て行ってもらう予定だって聞きましたけど」

「……はい。ずっと一緒に暮らす理由はないですから」

 あの日、七海は星野に事情を説明した。それには部屋から出て行った理由も含まれていた。だが理由を知ったあとでも、雄介の考えは変わらなかった。

「私、それがよく分からないんです。守屋さんにとって、七海ちゃんは理想的な女の子だったからこそ、彼女が出てくるゲームを繰り返し遊んだんじゃないんですか?」

「別に、理想的ってわけじゃないですよ。まあ……確かに繰り返しプレイするくらいには気に入ってましたけど……」

 先ほどから星野がなにを考えているのか、雄介にはいまいち分からなかった。悲しんでいるようでもあり、怒っているようでもあり。ずっと静かだと思ったら、いきなりよく話すようになったり――

(まさか、拗ねてるのか?)

 それはとても都合の良い妄想に思えたが、あながち間違ってもいないような気もした。

「なら、どうして守屋さんは七海ちゃんを彼女にしないんですか」

 今まで俯いたまま喋っていた星野がこちらに顔を向ける。彼女は少し不機嫌そうな顔で睨みつけてきた。怒っているのではなく拗ねているのだと考えれば、それはとてもかわいい表情に思えた。

「どうしてって、そりゃ、理想と現実は違いますから。それに……そんな単純で簡単な話でもないですし」

「それだけですか?」

「……?」

「たとえば……」

 星野はためらうように視線をそらすと、頬を綺麗なピンク色に染め上げていく。

「私が、いるからとか」

 すぐには意味が分からなかった。そして意味を理解した瞬間、自分でも信じられないくらいに心臓が跳ね上がった。

 彼女がそらしていた視線を戻す。

(くっ……)

 たったそれだけのことで、再び心臓が跳ね上がる。

 雄介はゴクリと唾を飲み込んだ。

「あ……」

 まるでそれが催眠術を解く合図になったかのように、星野はふっと我に帰ると、再び素早く顔をそらした。

「ごめんなさい。私、なんか焦っちゃって……」

 彼女は知っている。前の恋で雄介がどれほど傷ついたかを。だからこそ、友達以上恋人未満の関係を続けていた。そして、いずれは自分が恋人になると信じていた。しかし七海の正体を知ったことで、安心して信じられなくなった。そういうことなのだろう。

 これで話は一旦終了かと思ったが、予想外にも彼女は間を空けることなく続けてきた。

「ただ……できれば教えて欲しいんです」

 そらされた顔が、ゆっくりと戻ってくる。

「私はまだ、期待しててもいいのかを」

 完全に顔がこちらを向き、雄介はもう一度、今度は上目遣いで見つめなおされる。

「もし期待してもいいというのなら……私に敬語を使うのはやめてくれませんか?」

 弁当を食べ終わってからの星野は、雄介が知っている控えめで清楚な彼女とは全然違った。

 だが、それがいい。普段が完璧なほど、子供のようにどうしてどうしてと尋ねてくる彼女が、とてもかわいく思えてしまう。

 そして、最後にとどめの上目遣い。

「……分かった」

 七海たちが帰ってきたのは、それからしばらくしてのことだった。

 

          ※ ※ ※

 

「んじゃ、僕はコンビニ行ってくるよ」

「いってらっしゃーい」

 北斗を見送ると、七海はあらためて二人――並んでパイプ椅子に座っている星野と雄介に目を向ける。

(なにかいいことでもあったのかな)

 七海は思う。これといった変化の見られない彼と違って、星野の表情は会場に到着した直後より格段に良くなっていた。

(……気になる)

 が、すぐに「なにかあったんですか?」と聞けるほど七海も純粋無垢な鈍感ではない。特に彼がいる前では、あまり聞きたくなかった。

「どうしますか?」

 星野が言う。

「順番、私はどっちでもかまいませんけど」

「……なら、俺が先に」

「はい」

 カートの中からバッグを取り出すと、それに新刊を何冊か入れ、彼が外側に出てくる。

「いってらっしゃい」

 スペースから遠ざかっていく彼を、星野はとても綺麗な微笑を浮かべて見送っていた。

 

「お腹、空いてるよね」

 彼のぬくもりが残る椅子に七海が腰を下ろすと、さっそく星野が話しかけてくる。

「これ、お弁当」

「ありがとうございます」

 弁当箱を受け取り、蓋を開ける。

(うっ……やっぱりすごい)

 七海はまず見た目で圧倒された。別に豪華な食材を使っている重箱弁当というわけでもないのに、中身を見ただけでよだれが垂れてしまいそうになる。

「……いただきます」

 まずはエビフライから手をつける。次にだし巻き卵。ポテトサラダ、そぼろご飯……

「おいしい?」

「はい、とっても……」

 ムカつくほどに、おいしい。もしかしたら彼の作ってくれる料理よりも。

「ありがとう」

 七海の答えに星野は満足げに微笑むと、彼の書いた小説を読み始めた。

 普段ならおいしいものを食べれば幸せな気分になれる。ただ、この最高においしいお弁当は彼女が作り、同じものを彼も食べたと考えると――なんだか悲しくなってくる。

 おいしいかどうか聞かれた以外、食事中に会話らしい会話はなかった。星野はずっと小説を読んでいたし、七海からもあえて彼女に話しかけたりはしなかった。

 

 そろそろお弁当を食べ終わりそうになった頃、携帯が鳴った。浜辺の洞窟を通り抜けていく風のようなイントロ。初音ミクの名曲「メルト」は七海のメール受信音だ。

 ポケットから携帯を取り出し、メールを確認する。送信相手は北斗。内容は「なにか買っていくものとかある?」というものだった。

 飲み物は暖かいお茶を星野が用意してくれている。今のところ欲しいものはない。

 一旦携帯をテーブルに置き、先にお弁当を食べきってから返信する文章を作成していると、

「それ、かわいいね」

 星野が言った。それとはさっきまで着けていなかったこの携帯ストラップのことだろう。

「北斗さんと見てまわってるときにプレゼントしてもらったんです。……お弁当、ありがとうございました。本当においしかったです」

 弁当箱を包みなおし、星野に返す。

 彼女は受け取った弁当箱をバッグにしまうと、小説を手に取り――置いた。

「七海ちゃんって、長月さんと仲がいいよね」

「……そうですね」

 本人にそう呼んで欲しいと頼まれ、最近はずっと北斗さんと呼んでいた。だから長月と聞いても、一瞬誰のことか分からなかった。

「好きなの?」

「え?」

「だって長月さん、なんていうか、その……」

 はっきりとは言わなかったが、彼女がなにを言いたいかは分かる。

「まあ、雄介さんと比べたらえっちだと思いますけど。男の人ならあれくらいが普通なんじゃないかと」

「……そうなのかな。でも、私はああいうの、ちょっと苦手かも。もちろん好きな人からなら、平気だよ。だから七海ちゃんもそうなのかなって思って聞いてみたんだけど……」

「…………」

 すぐには答えられなかった。

 北斗と自分は恋人ではない。なりたいとも考えていない。

 友達――というのが正しいはずなのに、さっきはなぜかその言葉が思いつかなかった。

 いや、確かに彼と北斗に求めるもの、向ける気持ちは違う。しかしあらためて考えてみると、同僚で友達の佐久間とも、北斗は違う存在に思えた。

 友達でもなく、恋人でもない。

(じゃあ、なんなんだろう)

 考えるほどに北斗が分からなくなる。二次元時代なら友達、恋人、彼の三つはほぼ同じものであり、こんなに悩む必要もなかったのに。

「私は、いいと思うよ。七海ちゃんが長月さんのことを好きでも」

「……え?」

「ちょっとえっちだけど、根は楽しくていい人だと思うし。それに七海ちゃんはもうゲームのキャラクターじゃないんでしょ? なら雄介さんと恋人になる義務はない」

「…………」

 七海が黙っていると、星野は再び小説を読み始めた。

 

 しばらくして――

「こんにちは」

 車椅子に乗った一人の男性がスペースの前までやってくる。

「新刊、ありますか?」

「はい、もちろんありますよ」

「一冊ください。あと、これ」

 そういって彼は五百円玉と飴玉の入った小袋をテーブルに置いた。

「いつもありがとうございます」

 星野から新刊を受け取った男は一つ横のサークルに移動すると同じように新刊を買い、飴玉を渡していた。

 隣のサークルは本が売れたことを泣いて喜んでいる。さすがに七海は泣かなかったが、それでも彼が一生懸命書いていた小説が売れれば嬉しい。テンションが少し上がる。

「やっと売れましたね」

「うん」

 星野も嬉しそうに笑う。

「なかなか売れないし、もしかしたらこのまま一冊も売れないのかと思ってましたよ」

「ふふ。さすがに一冊も売れないなんてことはないって。さっきの人みたいに昔からのファンで、毎回買ってくれる人がいるから。そんなに多くはいないけどね。たぶんあと三冊は売れてくれるはずだよ」

 彼女はテーブルに並べられた小説たちを眺める。

「これまで一番売れてるのが、この三冊目かな。七海ちゃんは、どの本が一番好き?」

「あー……私、実はまだ一冊も読み終わってないんです」

 漫画やアニメでは問題ない。しかし小説――紙に文字しか書かれていないものを見ていると、なんだかデジタル的というか、二次元時代を思い出して悲しくなってきてしまうのだ。

「……へぇー、そうなんだ」

 星野の浮かべる笑顔、向けてくる眼差しが変わる。とてもわずかな変化だったが、七海は敏感にその変化を感じ取っていた。

 一旦会話が止まる。彼女は小説を読むことなく、うつむいてなにか次の作戦でも考えているようだった。

「小説は読まなくても、漫画やアニメは見てるよね。七海ちゃんはカッコいいなーって思う男キャラとか、いない?」

「そりゃ、いますけど」

「私もいるよ。ちょっと古くて意外と思うかもしれないけど、オーフェンとかすごく好きかな。知ってる?」

「分からないです」

「原作は小説だけど、アニメ化もされたから今度見てみるといいよ。すごくカッコいいから。ただ……恋人にしたいとは思わないけど」

「…………」

 最後まで言わなくても、彼女の言葉の一つ一つがとても重い攻撃となって七海を苦しめる。

 彼が好きだといいながら北斗にいやらしい目で見られて嬉しいんだろう。あなたなんか北斗ルートに進んでしまえばいい。普通、好きな相手のことなら気になるものなのに、小説を一冊も読んでないなんて、彼を本当に好きなのか? 恋人にふさわしいのは元二次元のあなたじゃない、昔からのファンだった私だ。

 微笑を浮かべながら、彼女も心の中ではきっとこんなことを考えているのだろう。

 しかし考えて当然だ。割り込んだのは自分なのだから。そして彼女は正しいことしか言っていない。正確には自分の想像でしかないが、一つも反論する言葉が思いつかない。それが七海には悔しくて、悲しかった。

 気を抜くと泣いてしまいそうだった。七海はスカートをぎゅっと握り締め、なんとか耐える。

 と――

「ごめんなさい」

 不意に星野が謝ってくる。

「なんか調子に乗ってたよね。守屋さんの正式な恋人ってわけでもないのに、『私が彼女です』みたいなこと言っちゃって」

 彼女は本心から謝罪しているようだった。さっきまでは見え隠れしていたトゲのようなものが嘘みたいに消えている。

「私のほうこそ、ごめんなさい。なんだか気を使わせちゃったみたいで。全然気にしてませんから」

 七海はニッコリと笑い平気なフリをする。

「無理して嘘つかなくてもいいよ。今は守屋さんもいないんだし」

「…………」

「ねえ、今のうちに、一度本音で話し合っておかない?」

 星野は真剣な眼差しでじっと見つめてくる。

「……そう、ですね。はい、嘘です。詩織さんの言うこと、すごく痛かったです」

「やっぱり、そうだよね。……言い訳、してもいい?」

「どうぞ」

「ありがとう」

 彼女は一度頭の中を整理するようにしばし沈黙したあと、ゆっくりと語りだす。

「七海ちゃんが守屋さんのことを好きなのは最初から気付いてた。そのうえで私は自分が守屋さんの恋人になるものだと――むしろもう恋人と呼んでもいい関係だとすら思ってた。けれどそれは大きな勘違いで、恋人に近いのは七海ちゃんのほうだった。

 真実を知って悲しかった。悔しかった。ちょっと腹も立った。だから私、自分からはなにも聞かないで守屋さんから言い訳してくるのを待ってたんだ。

 アドレスは知ってるし、今日まで何度か二人で話すチャンスもあった。それなのに守屋さんからはなにも言い訳してくれなかった。だから私、だんだん不安になってきちゃって。結局、さっき私から聞いちゃったんだ。私にもまだチャンスがあるのか――もしあるなら私に敬語を使うのはやめて欲しいって。守屋さんは『分かった』って答えてくれた」

 まるでバットで背中を殴られたかのような衝撃を七海は感じた。まさか言い訳の中に攻撃が混ざっているとは思わなかった。

「私、嬉しかった。それでつい調子に乗って、いじわるしちゃったっていうか。冷静に考えてみれば、チャンスがあるって分かっただけで、それ以外になにか状況が好転したわけじゃないのにね」

「チャンスだとか、好転だとか、そもそも雄介さんの恋人に近いのは詩織さんのほうじゃないですか」

 なぜなら彼は自分を呼び戻すのではなく、彼女を家に連れ込むことを選んだのだから。

「そんなことはない、不安だよ。だって守屋さん、こんなにかわいい女の子と一つ屋根の下で暮らしてるんだもん。隣の部屋に住んでるっていうなら、まだ話は変わってくるけど」

「別に、かわいくないですよ。詩織さんに比べたら、私なんて……」

「七海ちゃんはかわいいよ。胸だって、ちょっと負けてるし」

 すねるように口を尖らせ、星野に胸をにらみつけられる。こんな彼女の姿、見たことがない。これが飾らない本当の彼女ということなのだろうか。

「でも、それだけです」

 自分にはさっき食べたお弁当みたいにすごいものは作れない。歌も上手くなければ気も利かない。戸籍も、保険証も、ずっと三次元の存在でいられる保障も――

「私には少し胸が大きいこと以外、なにもない。けど、詩織さんにはある。雄介さんと恋人になる権利が」

「七海ちゃんにだって権利はあるよ。それに守屋さんを好きな気持ちは、あるんでしょ?」

「それならあります」

 七海は即答する。悩むまでもない。彼を好きな気持ちなら誰にも負けないつもりだ。

「なら、権利はある。それだけじゃない。人の心も、好きな人に触れられる手も、一緒に歩くことのできる足も、仲良く一緒に暮らし続ける可能性も、いっぱいある。七海ちゃんはもう、現実に生きてご飯も食べる一人の女の子なんだから」

「全部、詩織さんだって持ってるものじゃないですか」

「そうだね。だから私にもチャンスはある。そして七海ちゃんにも」

 星野はこれから真剣勝負を始める棋士のような眼差しを向けてくる。あくまで彼女は七海のことを対等なライバルだと認識しているらしい。

「本当に、詩織さんは私なんかにチャンスがあると思ってるんですか?」

「もちろん。私は守屋さんの言葉を信じてるから」

 七海が眉をひそめると、星野は得意げに笑った。

「『どんなに遠く離れてしまっても、たとえ相手に恋人ができようとも、いずれ二人は再会し、結ばれることだろう。それが二人の運命だと、君が信じ続けるかぎり、絶対に……』。『大切なのは今、二人がお互いをどう思っているのかだ。義理も義務も責任も、今はすべて忘れて。僕らの愛に比べたら、すべては些細な問題だ』。この本に、そう書いてあるから」

 彼女はテーブルに並べられた小説の一つを指で示す。

「雄介さんが、まさか……」

 キーボードで彼がそんな甘い言葉を打ち込んだなんて、どうしてもイメージできない。彼は基本的に優しいが、これは甘すぎる。勝ったほうが正義とか、そういう言葉のほうが似合っている。

「意外に思うのは、きっとこの本を書いたのが二年前――まだ守屋さんに恋人がいた頃だからじゃないかな。私は、この本が一番好き……だった」

「今は、違うんですか?」

「守屋さんに恋人がいた頃は励みになったけど、今は……状況が違うし」

 確かに積み重ねがある人間にとって『今が大切』という言葉は救いにならない。星野が不安になる気持ちも少し分かった。

「私は自分が守屋さんの運命の人だと信じてる。ただ、このまま守屋さんと七海ちゃんが恋人になるのを黙って見ていることはできない。だからこれからはもっと積極的になろうと思う。もう一度フリーになる日を待つなんて無理だし」

 それはそうだろう。もし相手のことを本気で好きならば、待てるのは一度だけ――二度目はない。心が壊れてでもいないかぎり、二度も信じて待つなんて不可能だ。

「でも遠慮はして欲しくない。むしろ七海ちゃんにも諦めて欲しくないと私は思ってる」

「それは、どうして?」

「建前から言えば、七海ちゃんの悲しむ顔は見たくないし、可能性があるのに諦めるのなんてもったいないと思うから」

「……本音を言えば?」

「七海ちゃんが部屋からいなくなったのをきっかけにしたくないの。いくら守屋さんのことが好きでも、保険みたいに扱われるのはイヤだから。七海ちゃんには恋人になるにしろならないにしろ、部屋からいなくなるまえに白黒はっきりとさせて欲しい」

「…………」

 星野はこう言っているのだ。時の流れに任せて緩やかな終焉を迎えるのでは満足できない。もう一度彼にアタックを仕掛け、部屋からだけでなく心の中からも綺麗に消え去って欲しいと。

 まったく、彼女も酷なことを望むものだと思う。

 しかし――

「分かりました。いいですよ」

 積極的になった星野に勝つのは厳しいだろう。ただ、二年前の彼の言葉を信じるなら、自分にもまだチャンスはある。なら今諦めてしまうのはもったいない。

「ありがとう。それじゃ、これからは私たち正式にライバルだね」

「はい」

 二人はニッコリと笑い合う。

 星野はどうだか知らないが、七海の笑顔は作り笑いではなかった。

 彼女も完璧超人じゃない。不安にもなるし、嫌味だって言う。本音で話し合ったおかげで、やっと彼女のことをリアリティのある一人の女の子として見れるようになった。

(でも、やっぱり詩織さんはすごいな)

 どう考えても戦意を喪失させるほうが楽で安全なのに、彼女はそうしなかった。それは自分に自信があり、さらに優しい心を持っていなければできないことだ。

 会話も一段落したところで星野は小説を手に取る。そして一ページも読み終わらないうちに彼女はパンと音を立てて小説を閉じた。

「うん、決めた」

 

          ※ ※ ※

 

 スペースの外に出た雄介は一旦小説たちの前を素通りし、柱まで移動する。

「はあ……」

 コミケでは問題だが、コミティアに柱や壁際で立ち止まってはいけないというルールはない。背中を柱に預けてため息をつくと、雄介はそのまましばらく休憩する。

 なんというか、すごく疲れてしまった。スペースの中にいる間、ずっと緊張していたような気がする。

 五分ほど休んでから雄介は歩き出す。気力が完全に回復したわけではないが、ずっと休んでいても仕方がない。

 雄介は七海たちの前を通らないようにお気に入りの小説サークルへ向かった。

「こんにちは」

「お、どうもお久しぶりです」

 彼――ペンネーム店長ストライパーは手元のPSPから視線を雄介に向け、挨拶を返す。

「新刊は――」

 さっそく聞く。もう売切れてしまったのだろうか、ぱっと見た限り、テーブルには既刊しか並べられていなかった。

「いやー、すいません。今回はちょっと落としちゃいまして」

 とても爽やかな笑顔を浮かべて彼は答える。

(なんなんだ?)

 彼は前にも一度新刊を落としたことがあり、そのときはもっと申し訳なさそうにしていたのだが……

 ふと、彼の横に膝掛けの置かれた椅子があることに雄介は気付く。彼が椅子を追加するなど今までのイベントではなかったことだ。

(女……か)

 おそらく間違いないだろう。

 彼は落とした理由を聞いて欲しそうにこちらを見つめてくる。が、雄介はあえて気付かないフリをした。彼の書く小説に興味はあっても、ノロケに興味はない。

 自分の新刊を渡し、次のお気に入りサークルへと移動する。

「こんにちは」

「……こんにちは」

 彼――ペンネームビッグマウスはなにをするわけでもなく下に向けていた視線を雄介に向け、今にも消えてしまいそうな声で挨拶を返す。

「新刊は――」

 聞く。こちらのサークルもテーブルには既刊しか並んでいなかった。

「…………ごめんなさい。最近、ちょっと書ける気分じゃなくて」

 彼は申し訳ないというより、なにやら疲れきってしまったという感じだった。

 どうやらこちらは別れたことが原因のようだ。見たところ、これまでずっと一緒に参加していた女の子がいない。椅子も一脚しかないことから、買い物に行っているだけというわけでもなさそうだ。

 恋愛が原因で新刊を落とす。そんなサークルに連続で当たっても、雄介は新刊がなくて残念だということ以外、これといって思うことはなかった。いっそ彼らのことを「三次元に恋するなんて馬鹿な奴らだ」と笑えれば楽なのだが、まだそこまでの境地には達していない。

 新刊がないならここにも長居は不要だ。雄介は自分の新刊を渡すと移動する。

 雄介は店長の様子でも見に行くことにした。ほかにもお気に入りの小説サークルはあったが、どれも自分のサークルから近い。残りは戻るときにでも寄ればいいだろう。

 店長のサークルがある壁まで移動すると、タイミングが良かったのかサークル前には一般参加者の姿はなかった。

「こんにちは」

「あ、守屋君」

 宮元は読んでいた本をテーブルに置き、にっこりと笑う。

 彼女――宮元あずさは雄介の二つ年上で、二年前まで一緒に猫の森で働いていた元先輩だ。個人的な交流はそれほどなく、彼女が仕事を辞めてからは年に数回ビッグサイトで会う程度の関係だった。

「店長と桂木さんは?」

「二人ともついさっき買い物に行ったところ」

 桂木は雄介の三つ年上で、こちらも二年前まで一緒に働いていた元先輩だ。状況が変わっていなければ宮元の恋人でもある。

「呼び戻そうか?」

「いいですよ、新刊は宮元さんから渡してもらえば、それで」

 雄介は新刊を二つ取り出し、彼女に手渡す。店長には店で渡せばいい。

「やっぱり表紙は詩織ちゃんなんだ」

「変える理由もないですから」

「まあ、そうだよね」

 彼女はしばらく表紙を眺めてから、本のあらすじでも尋ねるように言った。

「詩織ちゃんとは相変わらず?」

 初めての恋人に振られ、次のイベントから隣に座る人物が星野に変ったこと。しかし雄介は星野を恋人とは認めていないこと。それくらいなら年数回ビッグサイトで会う程度の彼女でも知っていた。

「……そうですね」

 変ってはいないと思う。まだ、ギリギリ。

「そっか」

 声も表情も大きな変化はない。ただ、雄介には彼女を落胆させてしまったような気がした。

 そんな想像とは裏腹に彼女は幸せそうに微笑むと、手の甲を上にして左手をテーブルに置く。

「私は変ったけどね」

 見れば、彼女の左手の薬指にはシンプルなデザインの指輪がはめられていた。

「結婚したんですか?」

「うん。式とかはやらなかったんだけど、二ヶ月前に」

「おめでとうございます」

 祝福の言葉を口にしながら、雄介はなぜかここに来る直前に寄ったサークルを思い出した。恋人ができたほうではなく、別れたほうだ。

 二人が別れるとは思っていない。別れて欲しいとも思わない。ただ、二人が幸せな結婚生活を五年後十年後も続けているとは、やはり雄介には想像できなかった。

 

 自分に特別な感情がないことが確定しているからだろうか。もしかしたら宮元が恋愛系の話を避けてくれたおかげかもしれない。気付けば結構な時間、雄介は話し込んでいた。

 一通り話して話題が尽きたところで雄介は移動する。次はサークルとしては初参加の鈴木の様子を見に行くことにする。

 少女マンガのスペースに足を運ぶのは久しぶりだった。昔はお気に入りのサークルもあったのに、最近は全然読まなくなってしまった。恋愛の真実を知ってしまったからかもしれない。

 列しか覚えていなかったが、鈴木のサークルはすぐに見つかった。

「売れ行きはどうですか?」

 テーブルには同人誌が二十冊ほど並べられている。メールで初めて本を作るなら何冊くらい刷ればいいかを聞かれ、雄介は五十冊と答えていた。もしテーブルに全部並べていたとしたら、もう半分以上売れたことになるのだが――

「まだ、五冊しか……」

 鈴木はうつむいてしまう。悔しいというより、期待を裏切ってしまって申し訳ないといった感じだった。

「まあ初参加ですし、これからですよ。そもそも、五十冊ってのは一回のイベントで売り切ることを考えた量じゃないですから」

「そうですよ、初参加でいきなり五十冊なんて売れるわけないじゃないですか。もっと気楽に行きましょうよ」

 隣に座る佐久間が雄介のフォローにすかさず乗っかる。もしかしたらこの売れ行きのせいで相当気まずい雰囲気だったのかもしれない。

「っと、そうだ。雄介先輩、忙しいですか?」

「いや、別に忙しくはないが」

「鈴木さんと話すなら椅子使っちゃってください。僕、ちょっと買い物行ってきますんで」

 立ち上がり、佐久間が外側に出てくる。あまり長居するつもりはなかったが、せっかくなので使わせてもらうことにする。

 大体一五分くらいだろうか。雄介は鈴木と本を交換し、それからイベントや創作についての話をした。

(そろそろ戻るか)

 雄介は立ち上がろうと椅子から背中を浮かせる。

「あのっ」

 すると、まるで引き止めるように鈴木が言う。

「実は、悩んでることがあって……」

「なんですか?」

 まだ慌てるような時間じゃない。雄介は背中を戻し、鈴木の悩みを聞いてみることにした。

「えっと、その……」

 鈴木は非常にゆっくりとしたペースで悩みを教えてくれた。要約すると、『会社で男の人に今度二人で食事でもと誘われているが、どう答えていいか分からない』らしい。

「…………」

 雄介は考える。

 鈴木が自分に特別な感情を持っていることは気付いていた。とても控えめな性格のせいで、逆に読み取りやすかった。

 自分がモテることを自慢したいわけではないだろう。ならばどうしてこんなことを聞くのか。

 この相談は、深読みすれば告白とも受け取れる。いや、そんなに気合の入ったものではないかもしれない。ただ、彼女の性格を考えれば、こんな分かりにくい告白はいかにもありそうだと思った。失敗しても長く気まずい関係にならないですむ。そんなところも彼女らしい。

 もし食事することに否定的な意見を言えば、OK。肯定的な意見を言えば、アウト。当たり障りのない意見も、おそらくアウトだ。

「食事には――」

 

          ※ ※ ※

 

 スペースに彼が戻ってくる。

「「おかえりなさい」」

 七海と星野と声が偶然重なる。二人は顔を見合わせると、楽しそうに笑った。

「た、ただいま」

 彼はあきらかに戸惑っていた。無理もない。さっきまであまり目を合わせようとしなかった二人が帰ってきた瞬間ニコニコと笑ったのだから。

「それじゃ、今度は七海ちゃんの番だね」

「……順番的に、次は星野が見てまわる番じゃないのか」

「そうですよ。七海ちゃんの番っていうのはこっちの話なので、守屋さんはあまり気にしないでください」

 おそらく彼女は「攻撃する順番」を言ったのだろう。待つだけの段階はさっきの話し合いで終わっていた。

「たぶん、終了時間までまわってると思います。それじゃ」

(……あ)

 星野は彼が椅子に座るのも待たず、行ってしまう。

 結局何度聞いても彼女は「ナイショ♪」と答えるだけで、さっき一人でなにを決めたのか、最後まで教えてはくれなかった。

(ま、いっか)

 いったい彼女はなにを決意したのか、気になるといえば気になる。しかし今はそれよりも、彼をどう攻めるかのほうが重要だ。

 七海はまず席を移動する。これは攻撃というよりは防御だった。細かいことだったが、星野のぬくもりが残る椅子にはあまり座って欲しくない。

 どうでもいいのかそれとも気付いていないのか、彼はなにごともなかったかのように七海が座っていた椅子に腰を下ろす。

(さて……)

 七海はまず適当な話題を振ってみる。会話は好感度を上げる基本だ。

「小説、売れましたよ」

「そうだな。まあ、長く創作を続けていれば六冊くらいは売れて普通だろ」

「いやいや凄いですよ。隣のろんりーきゃっとさんなんてまだ三冊なのに、倍じゃないですか」

「隣は初参加だろ。そうじゃなかったとしても、別に売れた冊数がすべてじゃない」

 軽く睨まれてしまう。別に隣のサークルを貶すつもりはなかったのだが、いきなり選択肢を間違えてしまった。

「ごめんなさい」

 ここで終わるわけにはいかない。七海はすぐに次の話題を探す。

「どんなの買ったか見てもいいですか?」

「別にかまわないが」

 彼からトートバッグを受け取り、中を見る。

「少なっ」

 中には本が三冊しか入ってなかった。持って行った小説は全部配り終わったようだ。

「マンガはよさそうなところを店長が買っておいてくれるしな。小説は自分で買うしかないが……今回は巡り合わせが悪かった」

「これはマンガですよね」

 三冊のうち一冊は店で見慣れたB5サイズだった。小説と思われる二冊は両方とも分厚い。三○○ページは軽く超えていそうだ。

「それは鈴木の書いたマンガだ」

 彼は視線をそらし、眉間に消えかけていたシワを再び刻み込む。よく分からないが、この話題も失敗だったかもしれない。

「……今度、二人で食事にでも行かないか」

「えっ?」

 七海から視線をそらしたまま、彼は続ける。

「鈴木が会社の同僚にそう言われたらしい」

「あの……えっと……」

 話題が突然ガラリと変ったことで七海は少し混乱する。

「さっき鈴木と本を交換したときに相談されたんだよ。どう答えるべきかってな」

「……どうして?」

「どうしてだと思う?」

 七海は考えてみる。わざわざ食事に誘われたことを好きな人に相談する意味を。

(……そっか)

 落ち着いて考えれば、自然と一つの答えが頭に浮かんできた。同時に、心臓の鼓動がほんの少しだけ早くなる。

「雄介さんに『食事の誘いは断れ』って言って欲しかったんじゃないですかね」

 鈴木は彼に告白し、選択を迫った。超絶遠回しではあるが、たぶん間違ってはいないはずだ。

「やっぱり、お前もそう思うか」

 彼は口だけで笑う。

「なんで私にそんな話を?」

「俺の勘違いかどうか確かめただけだ。気にするな」

 それは無理な相談だ。ここまで聞かされたら、最後まで教えてもらわないと困る。

「雄介さんは……なんて答えたんですか」

 指が震える。鈴木の告白は例えるならBFBC2のオンライン対戦で突然スナイパーに撃たれるようなものだった。運が悪ければ、死ぬ。できることは二発目が当たらないことを祈って遮蔽物に向かって走るだけ。

「いたずらにキープするつもりはない。俺もそこまでクズじゃないつもりだ」

 答えは神に祈る暇もないくらいにあっさりと返ってきた。

(よかった……)

 七海はホッと胸をなでおろす。

 彼は鈴木の告白を受け入れなかった。ただ、もしかしたら死んでたかもしれないことを思うと、なかなか指の震えが止まってくれない。

(とりあえずお茶でも飲んで落ち着こう)

 水筒のお茶は好きに飲んでかまわない。そう星野は言ってくれていた。

 七海はカップをテーブルに置き、そこにお茶を注ぐ。次にカップを持ち上げ――

「あ」

 おそらく気が緩んだのだろう。まったく反応もできなかった。

 お茶の入ったカップは七海の指から逃げ出すと、小説の上に落ちて中身をすべてぶちまけた。

 瞬間、七海の心と体が凍りつく。

 彼の対応は早かった。右手で壁を作り、左袖をタオルのようにして零れた水分を吸い取る。服を濡らすことにためらう様子は一切ない。

「すいません、被害はありませんか?」

 袖で一通りテーブルを拭き終わると、彼が言う。

「あ、はい。大丈夫です」

 幸い、彼の迅速な対応とテーブルにかけた布のおかけで隣のサークルまで被害が及ぶことはなかった。

(わ、私も謝らないと)

 ようやく硬直が解け、まず七海が思ったのはそれだった。

「……、…………っ」

 謝りたい。なのに声が出ない。

 早く早くと焦るほど、唇は震え、余計に声が出なくなる。

 怒るわけでも優しく微笑むでもなく、彼は今日の献立でも話すような調子で言う。

「気にするな。ミスは誰にでもある。被害も小さい」

 彼がそう言っても七海の心が落ち着くことはない。どうしたって気にしてしまう。これほど簡単に許してくれるなんて信じられない。

 被害は大きい。新刊既刊合わせて八冊も濡れてしまった。中にどんな物語が書かれているか知らない。が、彼がこれらを完成させるのにどれほど悩み、苦しみ、頑張ったのかなら知っている。

 気付けば、頬が涙で濡れていた。

「泣くな」

 七海は手の甲で涙を拭く。しかし拭いても拭いても次々と涙が溢れ出してくる。

(早く止めないと!)

 泣き続けるほど嫌われる。そう頭では理解しているのに、一度流れ出した涙を止めるのは簡単なことではなかった。

(……え?)

 不意に後頭部を掴まれ、グッと胸に抱き寄せられる。

 驚きで七海の涙が止まる。しかし、それも一瞬だけ。

 彼の胸に抱かれている喜び。どんな表情、気持ちで抱いてくれているのか分からない不安。それ以外にも色々な感情が混ざり合い、涙と共に流れ出していく。

 そして涙が枯れる頃には、頭の中は彼を好きだという気持ちだけが残った。

(やっぱり、雄介さんは優しいな……)

 できればずっとこうしていたいと思う。

「雄介さん」

 七海は顔を彼の胸に埋めたまま、言う。

「私、雄介さんのことが好きです」

 タイミングだとか順番だとか、そんなものはなにも考えていない。ただ、七海はどうしても言いたくなってしまった。だから言った。

「…………」

 しばらく待っても、彼はなにも答えてはくれなかった。

 いや――

 彼の手が頭から離れる。しかし体を引き剥がそうとはしない。

 自分は決めた。星野も決めた。彼はまだ迷っている。右か左か中央か。そもそも進むべきか、このまま留まり続けるべきか。

 本当は悩んでなんか欲しくない。ずっと自分だけを見ていて欲しい。拒絶されるよりはマシだけど、保留されるのだって悲しい。

 でも、我慢する。今日の七海は、彼に今すぐ決断を迫るほどの勇気は持っていなかった。


 
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