No.332848

レインボーガール (4/8)

MEGUさん

この作品はコミックマーケット81で配布したものからR18要素を抜いたものになります。

2011-11-11 13:18:14 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:578   閲覧ユーザー数:578

  四章

 

「なにやってんだ、俺は……」

 肉じゃがの盛られた二つの食器を眺め、雄介はつぶやく。

 キッチンからちゃぶ台が置かれた部屋に視線を向ける。腹を空かせたひな鳥のように雄介の料理が出来上がるのを待つ七海は、もういない。

 七海の言葉に雄介が「そうか」と答えてからは、あっという間だった。

 なにか荷物を入れる物を貸して欲しいと北斗が言うので、雄介は少し大きいリュックサックを渡した。バスタオル、寝巻き、歯ブラシ――七海は次々と自分の荷物を詰めていく。そしてマットレス以外の荷物を収め終わると、彼女はリュックサックを担いで北斗と一緒に部屋から出ていった。

「……はぁ」

 二つに分けてしまった肉じゃがの片方にラップをかけつつ、雄介は小さなため息を吐く。

 肉じゃがをしまうついでに冷蔵庫から漬物を取り出す。ご飯を一膳だけ盛り、録画してあるアニメを再生しながら夕食にする。

 どうして七海は北斗のマンションで暮らすなどと言い出したのだろうか。もう見慣れて新鮮味のなくなったアニメのオープニングを眺めながら雄介は考える。

 北斗はイケメンでカネもある。が、それでも七海が北斗に口説き落とされたとはどうしても思えなかった。発信機を仕込むなど好奇心が強いなどというレベルではない。普通に考えれば千年の恋も醒めるような行為だ。

 それなのに、七海は北斗についていった。あっさりと、まるで存在自体が常識外れの彼女にとってはこの程度の非常識など気にならないとでも言うように。

 いや、気にならなかったとしても積極的に向こうへ行く理由にはならない。

 ……北斗は口説いていたのではなく脅迫していたのだとしたらどうだろうか。

 七海には知らないことがまだまだたくさんある。もし警察に身元が不明なことをバラしたら窓のない病院で一生暮らすことになるだろう。そう言えば、彼女なら信じるような気がする。

 ただ、北斗がそのようなことを言うともまた考えにくい。確かに彼は非常識のバカだが悪人ではない。

 ならば北斗はドアの向こうでなにを話した? 七海はなにを聞いて、どうしてここから出て行くことを決めた?

 答えの出ない問いが頭の中で何度も繰り返される。

「…………」

 雄介はわずかに残った肉じゃがを一気に流し込む。考えながらでも箸は止まっていなかったが、いつの間にかアニメはAパートが終わろうとしていた。

 

 朝。アパートの階段を途中まで降りたところで雄介は足を止めた。

「ちっ」

 ドアまで戻り、鍵を閉める。最近は七海に鍵を任せていたせいで危うく忘れてしまうところだった。

 鍵をポケットにしまい、あらためて店に向かう。

 今日のシフトは雄介、北斗、七海の三人が前半からラストまで通しで入っていた。後半は店長が加わるだけで、先に帰る者はいない。

 店に到着した雄介が一人で開店準備を始めていると、しばらくして北斗と七海が並んで店に入ってくる。

 二人の距離は袖が触れ合いそうなほどに近かった。さすがに手を握り合っているようなことはなかったが。

 北斗は片手を上げるといつも通りの明るい声で言う。

「やっほ」

 続けて七海も言う。昨日店で見たものとなにも変わらない、いつも通りの微笑を浮かべて。

「おはようございます、守屋先輩」

(――どうなってるんだ?)

 どんな反応を期待していたというわけでもない。特にこれといって予想もしていなかった。が、それでも変化ナシ――これまでとまったく同じ微笑を浮かべる七海に雄介は困惑する。

 北斗がいつも通りなのは不思議なことでもない。理解できなくても「北斗に常識を求めても仕方ない」と受け入れることができる。しかし自分の知っている七海は違う。彼女は今でこそ常識外れな存在だが、ゲーム中は普通の――むしろゲームのキャラクターらしくない生きた心を持った、普通の少女だった。だからこそ、雄介は彼女に惹かれたのだ。

 なのに、彼女は今、昨日と同じ微笑を浮かべている。店には秘密を知る者しかいない、この状況で。

 雄介は思う。怒り、悲しみ、喜び、焦り、ためらい、後悔、軽蔑……、心の動きはなんでもいい。なにかあるだろう。そしてそれは行動や言動の変化として現れてもいいのではないかと。

「……おはよう」

 雄介は動揺しつつもなんとか二人に挨拶を返す。

 バックルームへと向かう七海を目で追っていると、彼女が振り返って聞いてくる。

「どうかしましたか?」

 彼女の表情はとても自然で、それを見た雄介は急に胸が苦しくなった。まるで誰かに心臓を握り締められているかのようだ。

 この感覚は何度か味わったことがある。前回味わったのは約一年前、ゲームをインストールして彼女に初めて出会ったときだった。

 しかし胸の苦しみを感じたのも一瞬だけだ。前回のように鼓動が高鳴っていくことはない。ここ一ヶ月の日々など最初からなかったかのような彼女の反応に、心はゆっくりと冷めていく。

(すぐに部屋を出て行くと決めて、北斗と一緒に暮らすことになって、なにも感じないのか?)

 自分がなにを疑問に思っているかは、言葉にできるほどに分かっていた。が――

「なんでもない」

 雄介はそう答えると七海から視線をそらし、開店準備を再開した。

 

 変化は七海が部屋からいなくなって四日後に起きた。

「あまり眠れてないのか?」

 昼。レジでPOP作りをしていた七海に雄介は聞いた。

「え?」

 彼女はPOP作りの手を止め、こちらを向く。

「クマができてるぞ」

 七海の顔には、うっすらとではあるが確かにクマができていた。ファンデーションで簡単に消せそうなほどの、薄いクマが。

 なにかしらの変化を見つけようと躍起になっていたつもりはない。ただ、雄介はその小さな変化を見逃さなかった。

「あー、ちょっとBFBC2をやりすぎちゃいまして」

 少し恥ずかしそうに七海は答える。

 BFBC2とは雄介も持っているXBOX360のゲームだ。パソコンで小説を書いているとき、彼女はよく背後で一人このゲームをプレイしていた。北斗のマンションにある大画面のプラズマテレビでやればより一層楽しいことだろう。夜更かししてまでプレイしたい気持ちは理解できなくはない。

「……そうか。まあ、大きくて解像度も高いモニターでプレイすれば楽しいだろうが、あまり夜更かしはするなよ」

「はーい」

 そう言うと七海はPOP作りを再開する。

 お節介に腹が立ったのか、彼女はわずかに表情を硬くする。そして八つ当たりするように最後の文字を書きなぐった。

 

          ※ ※ ※

 

 七海は視線を手元に落としPOP作りを再開する。

 北斗の読み通りに彼が動いたのがとてもおかしく思えてしまう。

(た、耐えないと)

 まだすぐそこに彼がいる。届いた商品を陳列しながら、こちらの様子をうかがっている。今笑うわけにはいかない。七海は奥歯を噛み締め、ニヤついてしまうのをなんとか堪える。

 心の中でガッツポーズをしながら最後の一文字を書く。勢い余って少し台紙からはみ出してしまった。

 ――焦らせる。

 押してダメなら引いてみろ。雄介はツンデレだから押してるだけじゃ攻略はできない。一度引いてみることが必要じゃないかな。大丈夫、僕に任せてよ。きっと向こうから仕掛けてくるから。僕、こう見えても恋愛は得意だから。ゲームのだけど。

 ドアの外で北斗と二人になったとき、七海はそんなことを聞かされていた。

 そして今日、彼は本当に北斗の読み通りに動いてくれた。

 目の下にクマができていることは気付いていた。これくらいのクマなら前にも何度かできたことがある。だが心配するようなことを言ってくれたのは今日が初めてだった。

 完成したPOPを設置しながら七海は雄介を眺める。

 すべてを注ぎ込むように小説を書いている彼の姿はとてもカッコいいと思う。真面目に一生懸命仕事をしている姿などもすごく素敵だと思う。ただ、まるで散歩に連れて行ってもらえず拗ねる大型犬のような彼の背中も七海はかわいいと思った。

 これが『萌え』という感情なのだろうか。

 あまり見つめていると目が合ってしまう。ほんの少しだけ頬を緩めると、七海は彼から視線をそらし、仕事に戻った。

 

 夜。マンションに戻った七海は北斗に今日のことを話した。

「ね、僕の言った通りでしょ」

 北斗は当然の結果だとでも言いたげな表情を浮かべながらマウスをクリックする。

 今日の夕飯はハンバーガーを食べた。今はパソコンとXBOX360を使い、北斗はエッチなゲーム、七海はBFBC2と、それぞれ別のゲームをプレイしていた。

「分かってるとは思うけど、心配されても嬉しそうな顔なんてしちゃダメだよ。雄介に恥ずかしい台詞を言わせるためには、まだまだ追い詰める必要があるからね」

「はい」

 そう、これからだった。

 心配されるのは嬉しいが、それだけでは足りない。

 失って初めて気付けた。やっぱり自分は七海が好きだ。彼にそう言わせるのが最終的な目標であり、少なくとも彼が戻って来いと言い出すまで帰ってはダメ。そう北斗に言われていた。

「あ」

 少し目を離した隙に自分の操るキャラクターが殺されてしまった。七海は視線をモニターに戻し、一○秒ほどの待機時間のあと、プレイを再開する。

 しばらくして部屋に短いメロディが流れ、その後『お風呂が沸きました』というアナウンスが流れる。

「今日も僕はあとでいいから、七海ちゃんが先に入っちゃってよ」

「それじゃ、お先に失礼します」

 ちょうどゲームが一区切りついたところだった。七海は着替えを持って風呂場に向かう。

 足を伸ばし、暖かいお風呂に肩までつかる。

「――はあ」

 やはりお風呂は気持ちいい。全身を包み込む温もりが、すべての不安を消し去ってくれる。

 初日ほどではないが、まだまだ不安でぐっすりと眠れない日々が続いていた。

 七海はぎゅっと目を閉じると手でよく揉み解す。ゲームをプレイするのは不安を紛らわせる意味が大きかった。少し目が疲れたくらいではやめられない。

 引越しの翌日など、七海は早めに起きて出勤前に一人でゲームをプレイしていた。おかげで彼に会ったとき、上手く平気なフリができた。が、それに一番驚いたのは彼ではなく、むしろ彼女自身だった。

(これからどうなるだろう)

 髪を洗いながら七海は考える。

 最初に話を聞かされたときは、あまり上手くいくとは思わなかった。ただ、あのときは北斗の自信と熱意に負け、七海は雄介の部屋から一旦出て行くことを決めてしまった。

 その決断を後悔はしていない。今日、やっと作戦が動き出したことで不安は大幅に減った。(まだ、頑張れる)

 寝るとき近くに彼がいないのはとても寂しいことだった。しかし変化を――彼と恋人になることを望むなら、今は耐えるしかない。

 

 パジャマに着替え、部屋へと戻る。

「おかえりー」

 北斗はパソコンの前からコタツに移動し、カップ麺をすすっていた。

「なんか小腹がすいちゃって。七海ちゃんはどう?」

「んー」

 七海はお腹に手を当て、考える。そんなに減っているとは思わなかったが、食べられなくもない。

「それじゃ、いただきます」

「おっけー。それじゃ、棚から好きなの選んでお湯入れちゃってよ」

 無数にカップ麺が備蓄されている棚の中から一つ取り出し、お湯を入れる。味はシーフードにした。

 電気ポットの蓋を開け、お湯の残量を確認する。半分くらいまで減っていたが、まだ補充の必要はなさそうだ。北斗の家にある電気ポットは雄介の家にある物より大きく、5リットルも入るタイプだった。

 右手にカップ麺、左手に缶ジュースを持ってコタツへと向かう。ジュースはコーラだ。色々と種類が揃っているカップ麺と違って冷蔵庫にはこれしかない。缶ビールのCMのように隙間なく詰め込まれている。

 カップ麺の蓋に割り箸を置き、北斗と二人、アニメを観る。

 ゲームもそうだが、よく冷えたコーラを飲みながら大画面プラズマテレビで見るアニメも最高に良かった。今見ているのはここに来る以前から見ていたものだ。が、彼の部屋で見ていたときとはまるで違うアニメのように感じる。これは北斗の部屋に来て良かったと思えることの一つだった。

 三分後、完成したカップ麺を食べようとする七海に北斗が待ったをかける。そしていきなり七海のカップ麺にマヨネーズをぶっかけた。

「絶対に美味しいから」

「はあ」

 こんもりとマヨネーズが盛られたカップ麺を見て、七海は少し気持ち悪いと思った。

 恐る恐る一口食べる。と――

「美味しい」

 まったりとしていて、それでいてしつこくない。見た目はちょっとアレだが、すごく好みの味かもしれない。

「でしょ」

 とても嬉しく、そして楽しそうに北斗が笑う。

「ふふっ」

 ――きっとうまくいく。

 北斗の笑顔を見ていると、根拠もなくそう思えてくる。七海はニッコリと笑うと、二口目をすすった。

 

          ※ ※ ※

 

 ――落ち着かない。

「なぜだ」

 雄介は小さくつぶやくと背中をそらして天井を見上げる。

 静かな部屋に椅子の軋む冷たい音が響く。

 睡眠時間は充分足りている。夕飯の量もいつも通り、味もまずまずだった。

 食器の片付けは済ませてある。明日の弁当に使うおかずの仕込みも忘れていない。

 ベランダに干しっぱなしの洗濯物はない。洗濯機には洗剤を入れてタイマーをセット済みだ。

 印刷所の締め切りは二週間後。本編はもう完成して校正も終わっている。残りはあとがきと挿絵を入れるだけで、余裕で間に合うだろう。

 眠くもなければ空腹でもない。これといって心配事もない。それなのに、なぜか雄介は落ち着かなかった。

 完璧すぎるのがいけないのだろうか?

 いや、完璧なのはいいことだ。それは間違いない。

(なら、どうして俺は集中できない?)

 雄介はキーボードから一旦手を離すと腕を組んで考えてみる。

 もしかしたら忘れていることがあるのかもしれない。使い切れず傷み始めているような食材はなかったか。家賃や光熱費が引き落とされる口座には充分な金額が入っていたか。パソコンのデータのバックアップを最後にしたのはいつだ。

 冷蔵庫の中身を眺め、通帳を開き、ディスクのレーベル面にマジックで書かれた日付を確認する。

 問題は見つからなかった。

「…………」

 カチッ、カチッ、カチッ……

 ふと、掛け時計の秒針の音が聞こえてくる。

 カチッ、カチッ、カチッ……

 一度気になり始めるともうダメだ。一秒ごとに鳴るその小さな音に意識が集中してしまう。

 いくら心配事がなくても、こんな無駄な時間を過ごしている暇はない。なんでもいいから音を流そう。そう思った雄介はパソコンからニコニコ動画にアクセスする。

 ログイン後、アニメ・ゲームのタブを開く。

 と、そこで一つの動画が目に止まる。

 BFBC2のプレイ動画が新着コメント動画の欄に上がっていた。

 ゆっくりとマウスを動かし、クリック。数秒後、動画の再生が開始される。

 スピーカーから流れる激しい銃撃戦の音。

「……くそっ」

 一週間前までは毎日のように後ろから聞こえていた音を、今は正面から聞いている。それがなぜだか気に入らなかった。

 雄介はパソコンをシャットダウンさせるとベッドに倒れこんだ。そしてなにをするわけでもなく、眠くなるまで時計の針の音を聞きながら天井を見つめ続けた。

 

 新たな変化は、目の下のクマを見つけた日から三日後に起きた。

「望月」

 レジの客が途切れたときを見計らい、雄介は七海に声をかける。

「なんですか?」

「笑え」

「……は?」

「俺を客だと思って笑ってみろ」

「えーと、はい」

 突然のことに七海は若干の戸惑いを見せたが、すぐに要求通りニッコリと笑った。

「…………」

 じっくりと、今一度彼女の笑顔を観察する。

 ほんのわずかではあったが、いつもより笑顔に元気がないように思えた。なんだか笑うことをためらっているような感じだ。

 よく見ると、肌が少し荒れている。

「あの……」

「口内炎でもできてるのか」

「えっ」

 どうやら当たったらしい。七海はまるで偶然立ち寄った店で「あなたで来客一万人目です」と告げられた客のように驚いた。

「よく分かりましたね」

「そんなもん、見れば分かる」

 これも二次元だったときの影響だろうか、七海の営業スマイルは完璧すぎた。ゆえに少しの変化でも目立ち、気付くことができた。

「ちゃんとメシは食ってるのか」

「もちろん、お腹いっぱいになるまで」

「どうせ牛丼やハンバーガーばかり食ってるんだろ」

「そうかもしれませんけど、でもハンバーガーだって美味しいですよ」

 口を尖らせ、別にいいじゃないかという感じで七海が反論してくる。その態度に軽くイラッとしてしまった雄介は少しきつい声で言う。

「健康を度外視して旨いもんだけぶち込んでるんだから当然だ。腹が膨れてカロリーが取れているだけじゃダメなんだよ。栄養のバランスを考えた食事をしろ。肌荒れや口内炎はビタミンB2が不足してるからなるんだ。ちゃんと補給できてるのか」

「……さあ」

「納豆、卵、魚肉ソーセージを食え」

 ほかにもビタミンB2を補充できる食品はあるが、安いものといったらこんなところだろう。健康に良くても高いものは継続して食べるのが難しい。カネのある北斗と一緒に暮らしているのだからそんな心配はいらないかもしれないが。

「はーい」

 七海はそこで話を打ち切るように背中を向ける。

(人が心配してアドバイスしてやってるのに、その態度はなんなんだ)

 もう一度こちらを向かせようと彼女の肩に手を伸ばす。が――

 ピポピポーン。

「いらっしゃいませー」

 その手が彼女に触れるより先に客が店に入ってくる。

「…………」

 雄介は虚空を掴むと伸ばした腕をゆっくりと戻した。

(まあいいさ)

 アドバイスはした。それを無視するか聞き入れるかは彼女の自由だ。たとえ口内炎が痛くて泣き喚こうが、知ったことではなかった。

(まったく……なに熱くなってるんだ、俺は)

 しばし彼女の背中を見つめたあと、雄介は自分の仕事に戻った。

 

          ※ ※ ※

 

「本当に、うまくいってるんでしょうか?」

 雄介にズバリ口内炎を見抜かれた日の夜。七海はアドバイス通り魚肉ソーセージを食べつつ北斗に聞いた。

 彼は視線をパソコンのモニターに向けたまま、答える。

「どうかなー」

「ちょっ、えぇー……」

「うそうそ、大丈夫だって」

 椅子を回し、北斗が体をこちらに向ける。

「予想より時間はかかってるけど、それでも雄介が七海ちゃんのことすっごく気になってるのは間違いないから。口内炎ができてるのなんて普通は気づかないよ」

「…………ですよねー」

 確かに食事の場面を見られたならともかく、顔を見ただけで口内炎に気付くなんて、よほど注意して見ていなければ無理だ。

「あの……」

「ん? なに?」

「まだ、続けるんですよね?」

「その予定だけど。あれ、もしかして七海ちゃん、雄介のこと嫌いになったとか?」

 北斗は椅子から背中を浮かせ、どこか楽しそうだった。

「いえ、違います。そうじゃないんです」

「あ、違うんだ」

 七海がすぐに否定すると、北斗は背中を再び椅子に預ける。

「なら、どうして?」

「その、なんていうか、最初は『普通』な反応ができたのに、最近はその『普通』が難しくて。心配されたりするとすごく、すごく嬉しいんです。でも喜びを悟られないようにするためには、どうしても冷たい態度を取るしかなくて。それが……苦しいんです」

 胸に手を当てると、七海は指先に軽く力を込める。

「……そうなんだ。確かに七海ちゃんはツインテールでも釣り目でのないし、ツンデレキャラじゃないもんねぇ」

 少しだけ真面目な表情になると、北斗は腕を組んで一人うなずく。

「あと、そんな状態で楽しそうに笑っている詩織さんを見たりすると、これまで以上にきついというか」

「じゃあ、やめてどうする?」

「…………」

 そうやって聞かれると答えに困ってしまう。

「大丈夫だって、七海ちゃんは心配しすぎなんだよ。雄介と詩織ちゃんの仲が進展する可能性は低いから」

 ニッコリと笑い、北斗が言う。

「知ってる? かわいい女の子は笑顔でいるだけでなんでも願いが叶うんだぜ? 七海ちゃんはかわいい。だからはい、ご一緒に」

 北斗は自分の頬を人差し指で押し上げ、「ニィ」と笑う。

「……ふふっ」

 本当に面白い人だ。一緒にいて、退屈しない。

「現時点で雄介と詩織ちゃんが仲良しなのは否定しないよ。何度か二人だけで遊びに行ったりもしてるみたいだし。でもさ、だからこそ急には進展しない。二人は友達以上恋人未満の関係に満足しちゃってる。そう思うんだよね」

 それは七海も少し感じていたことだった。ただ近くにいるだけでは友達以上になれても恋人にはなれない。なにかしらの変化のきっかけが必要だ。そう思ったからこそ七海は北斗の家に少しだけ居候することにしたのだ。

(……って、やばくない?)

 ふと、思う。

「私がこっちに来たことがきっかけになって、詩織さんとの関係が前進することは考えられませんか?」

「大丈夫、心配ないって。まあ絶対にないとは言わないけどさ、確率は低いんじゃないかな。それにもしそうなっても――」

 北斗にしては珍しく、若干ためらうように言葉をとめる。

「考えは……あるから」

 それはなんなのかと尋ねても、北斗は恥ずかしそうに「その時になったら教えるよ」の一点張りで、絶対に教えてはくれなかった。

 

 翌日。

 アドバイス通りに魚肉ソーセージを食べたおかげか、口内炎は一晩で治ってくれた。しかしそれと引き換えに今度は風邪を引いてしまった。

 もちろん風邪なんて今回が初体験だ。目覚めた直後は自分の身体になにが起こっているのか分からなかった。が、風邪薬のCMを見て七海は理解した。

 風邪と言っても症状は軽い頭痛とめまいがあるくらいで、咳や鼻水などはなく、声も顔色もいつも通り。引いている本人にしか分からない程度の軽いものだ。

 なのに――

「風邪でも引いてるのか?」

 朝、店で会った瞬間、彼はまたもや当然のように見抜いてきた。

「あの……はい」

「うつすなよ」

「はい…………えっ?」

 気付いたなら当然心配してくれると思った。

(それ……だけ?)

 彼は呆然と立ち尽くす七海を気にすることなく開店作業を進めていく。

(やばい)

 どうしてそうなったのか分からないが、間違いなく昨日までとはなにかが決定的に変わってしまった。

 ふらりと体が揺れ、倒れそうになったところで近くにいた店長に支えてもらう。

「っと、大丈夫か?」

「すいません、ちょっとクラッとしちゃって。もう大丈夫です」

 店長にはそう答えたものの、その日はなにをしたのか、どうやって家に帰ったのか、七海はよく覚えていなかった。

 

          ※ ※ ※

 

 朝。目覚めた雄介は、シンクの隅に置かれた新品のエスプレッソマシーンを見て頭を抱えた。

「はあ……」

 昨日休みだった雄介は、新しい冬服と家に置くタイプの虫除けを買うためデパートに行っていた。

 黒のジャケット(占いなど知ったことか)を購入後、エスカレーターで虫除けが売っている階へと向かう。

 と、そこで心地よい香りが鼻先を通り過ぎていく。

 小説もほぼ完成し、時間に余裕があった。雄介は香りに誘われるままに足を動かし、そしてこれに出会った。

 デロンギ社製BCO261N-B。税込み34800円。

(一個でよかったのにな……)

 雄介はつい二個買ってしまったカップを眺め、思う。

 今まで好きだからこそしっかりとした店でしか飲まなかった。だから家にはコーヒーセットがなにもなかった。なので豆やカップも一緒に購入した。

 初めて家で飲んだエスプレッソは旨かった。旨かったのだが……

「はあ……」

 まず値段が高い。すぐにもやし生活に突入するほどではないにしろ、34800円は雄介にとって安くはない。

 そしてなにげにデカイ。今はとりあえずシンクの端に置いてあるが、邪魔で仕方ない。どうにか収納スペースを確保しなくては。

 頭の中で部屋の模様替えをしつつ、同時に雄介は初めて恋人と別れた直後のことを思い出す。あのときはワゴンで投売りしてあったゲームを大量に買って、次の日同じように後悔した。

 が――おかげで望月七海と出会うことができた。

 いつも元気で明るくて、そうかと思えば繊細なところもあり、落ち込みだすと一気に奈落の底まで落ちていく。ただし一握りの希望さえあれば何度でも立ち上がる。そんな強くてか弱い女の子に雄介は恋をした。

 そして――

「くそっ」

 悔しいが、認めるしかなかった。

 自分は再び恋人を失ったのだと。

 どうにか収納場所を確保すると、雄介は心を落ち着かせるためカフェラテを一杯飲んでから仕事に向かった。

 

 今日のシフトは前半が雄介、佐久間、七海の三人。後半からは星野も入って、七海と店長が入れ替わり四人の予定だった。

 店で開店準備をしているとまず佐久間が来る。次にマスク姿の七海がよろよろと店に入ってくる。北斗がやったのだろう――マスクにはマジックで口みたいな栗が書かれていた。

 目に力がない。顔色も良くない。一昨日より確実に悪化している。今日の七海はもう完全に病人だった。

(なにやってんだ、あいつは)

 雄介は作業を中断し彼女の側まで歩いていく。

「あ、おはようご――」

「帰れ」

 なにがムカつくのか自分でもよく分からなかった。が、七海を見ていると、なぜだか無性にイライラしてくる。今日はなるべく彼女の姿を見たくなかった。

「……え?」

「聞こえなかったか、俺は帰れと言ったんだ」

「そんな、私なら大丈――」

「お前がいなくたって今日なら代わりに店長が出れば店はまわる。風邪のときに頑張られても迷惑なんだ」

「…………」

 二人はしばし無言で見つめ合う。

「……帰ります」

 視線をそらし、彼女は今にも消えてしまいそうな声で言う。そしてゆらゆらと、店の入り口に向かって歩いていく。

(なに考えてるんだ、俺は)

 その後姿を眺めていると、雄介は今すぐ駆け寄って彼女を力いっぱい抱きしめたいと思ってしまった。

 しかし――いまさらそんなことはできない。できるわけがなかった。

 手の平で額を叩き、頭から馬鹿な妄想を吹き飛ばす。そしてなにかを忘れるように、雄介は開店準備を再開した。

 

          ※ ※ ※

 

 ドアを開け、部屋に入る。

 リビングまで進むと、寝巻き姿の北斗がカップ麺を啜りながら録画したアニメを見ていた。

「あれ? どうしたの」

 七海は無表情で北斗の横を通り過ぎ、バッグを机に置く。

 椅子に座り、マスクを外すと、それをUFOキャッチャーのようにゴミ箱の上まで移動させ、落とす。

「……ふふふ」

「だ、大丈夫?」

 北斗もさすがにアニメなど見ている場合ではないことを理解したらしい。テレビを消すと、恐る恐る声をかけてくる。

 七海は北斗に視線を向け、小さくため息をつく。

「私、嫌われちゃったみたいです」

「……え? な、なにがあったの?」

 北斗にしてみれば唐突だっただろう。彼とは一昨日からシフトが被っておらず、家でも雄介のことについて話はしていなかった。

 一昨日と今日あったことを、七海は淡々と説明した。

「なんだ、そういうことだったんだ。大丈夫だよ、まだまだチャンスはあるから」

 いつものように根拠のない笑顔を浮かべ、北斗が言う。しかし、もうそれを見て元気が出ることはない。

「無理ですよ。バッドエンドです」

「いやいや、だから、えっと――そう、現実はいつまでも続くんだ。エンディングなんてない。今が幸福でも油断せず、不幸でも決して希望を捨てるな――って、雄介も小説に書いてたし。ヤケクソになっちゃだめだよ」

 終わりがない。プログラムに従ってヒロインを演じるだけだったときには憧れていたことのはずなのに、今はとてもつらいことに思える。

三次元(現実)って、こんなに厳しい世界だったんですね」

「は?」

「だってそうじゃないですか。重要な選択肢を間違えたことに気付いても、ロードがないから選びなおせない。二次元(ゲーム)ならバッドエンドが確定したらすぐ終わるのに……」

「いや、だから確定は……」

 気休めを言い切ることなく、北斗はゆっくりと口を閉じる。次に彼はゴクリと唾を飲み込むと、逆に聞いてくる。

「もし、雄介に嫌われたとしたら、どうするの」

(……どうしよう)

 星野ルートを選択するなら邪魔をしないと言ったこともあったが、具体的にどうするかなど考えてはないなかった。

(こんなことなら、彼と同じ世界で一緒に生きたいなんて願うんじゃなかった)

 いまさら後悔しても遅いのは分かっていても、どうしても考えてしまう。

(またゲームの一ヒロインに戻れば、愛してくれるだろうか)

 残念ながらどうやって戻ればいいのか分からないのだが。

 しかしこのまま現実世界で無意味な日常を繰り返すのも悲しすぎる。

(なら、いっそのこと――)

 七海はベランダに視線を向ける。

「死んじゃおうかなぁ」

 ここは一五階だ。飛び降りれば確実にすべてが終わる。苦しむ暇もなく、一瞬で。

 突然北斗に両肩を痛いくらいに掴まれる。

「死ぬなんて言うな!」

 初めて聞く彼の大声に七海は心臓が止まるかと思うくらい驚いた。

「雄介一人に嫌われるくらい、別にいいじゃないか。七海ちゃんが好きで、店の入り口に張られたシフト表を見て、七海ちゃんに会うため店に来てくれてるお客さんだっているんだよ? 僕だって、七海ちゃんのこと、その……」

 大きかったのは最初だけで、北斗の声は徐々に小さくなっていった。それと共に七海の心臓も落ち着きを取り戻して――いなかった。

 変わらない。いや、むしろ今のほうが突然の大声に驚いたときよりドキドキしていた。

 北斗の肩を掴む力が強くなる。痛みはあまり気にならない。

「だから、なんていうか……」

(――ああ、そういうことか)

 七海は今がどんなシーンなのか理解した。

「僕……」

(って――ど、ど、どうしよう)

 状況は理解したが、それにどう対応していいかがまったく分からない。そして考える時間もおそらくない。

「七海ちゃんのことが……」

 次に北斗が口を開いたとき、きっとなにかが変わってしまうだろう。

 しかし終わりと始まりを告げる最後の一言は、誰かの訪問を告げるチャイムの音によって邪魔される。

 ピンポーン。

「…………」

 北斗は珍しく眉間にしわを寄せ一瞬インターフォンに視線を向けたあと、七海を見つめ直す。そしてあらためて口を開くが――

 ピンポーン。

 まるで計ったようなタイミングで再びチャイムが鳴らされる。

「…………」

 チャイムは二回では終わらなかった。次第に間隔が短くなり、最終的には連打と言っていいレベルで鳴らされた。中に誰か居ることを確信しているのかもしれない。このまま無視を続けても諦めるのはだいぶ先のような気がした。

「あの……」

「ちょっと待っててね」

 七海の肩から手を放すと、北斗は「誰だよこんなときに」と文句を言いつつインターフォンへと向かう。

 その背中を眺め、七海はホッと胸をなでおろす。

(危なかった)

 チャイムのおかげで今は少し冷静になれた。だが、もしもあのまま北斗に告白されていたら、きっと勢いに飲まれて彼を受け入れてしまったことだろう。

「どちら様ですか」

 心底嫌そうな声で北斗は言う。

「開けろ」

 返ってきたのは女の人の声だった。たった一言聞いただけで、北斗に負けないくらい彼女も不機嫌なのが分かる。

 その声を聞いた瞬間、北斗はたじろぐように一歩後退する。

「あ、姉貴……どうして。もう帰ってこないって言ったじゃんか」

「うるせえな、いいからさっさと開けろ」

「え、ちょ、もしかしてまたケンカ?」

「そうだよ、悪いか」

「いや、その……姉貴が悪いなんてことはありえないけどさ」

 言いながら、北斗はちらりと七海を見る。さっきまでの彼の眼差しはちょっとカッコいいと思えたが、今は可哀想なくらいに情けなかった。お姉さんのことが相当怖いらしい。

「てか、鍵はどうしたんだよ」

「あいつの所に忘れてきた」

「なら取りに戻るついでによく話し合ってみなよ」

「ふざけんな。誰が話し合いなんかするか。今回だけはあいつから泣いて謝ってくるまで絶対に許さねぇ」

「……今回だけって、姉貴から謝ったことなんてないじゃないか」

 インターフォンから顔を背けると北斗は小さくつぶやく。

「とにかく、早く開けろ」

「えっと、それは――」

 それからしばらく押し問答が続いた。

(……帰ろう)

 とりあえず一旦帰って、もう一度彼の気持ちを確かめてみよう。そろそろ北斗の敗北で決着がつきそうな問答を眺めながら、七海は思う。

 もう死ぬ気はなかった。冷静になってしまうと自殺なんて怖すぎる。とてもできそうにない。

 七海は椅子から立ち上がると北斗の横まで移動する。

 インターフォンのマイクの穴を指で押さえる。

「な、七海ちゃん?」

「私、帰りますね。まだ、鍵は持ってますから」

「帰るって……まあ雄介は一度約束したことは絶対に覆さない奴だし、宣言通り今年いっぱいなら家に居させてくれるとは思うけど」

 そうしてくれると北斗も助かるのだろう。彼は悔しそうな表情を浮かべつつも、一人荷物をまとめ始める七海を本気で引き止めようとはしなかった。

 

          ※ ※ ※

 

 店の中を一周し、あらためて客が残っていないことを確認する。

 電気を消し、自動ドアの鍵を閉める。

 狭い階段を下りて外に出ると星野と佐久間が談笑しつつ雄介を待っていた。

 アニメの話などをしながら、三人は駅までの道をゆっくりと歩く。

「それじゃ、お疲れ様です」

 佐久間の家は雄介たちとは別方向だ。逆に星野とは路線が同じだった。

 ホームに下りて電車を待っていると、雄介の横に立っていた星野が言う。

「今度のコミティアで出す新刊って、もう書けたんですか?」

「はい、もう校正も終わってます」

「そう……ですか」

 星野はわずかに声を小さくする。いつもなら完成したことを話すと間違いなく喜んでくれていたのだが……

「今回は、挿絵って使わないんですか?」

「……あ」

 一旦は落ち着いていたものの、最近は色々とあったせいで挿絵のことをすっかり忘れていた。もしも星野に聞かれなければ、小説を印刷所に出すのさえ忘れていたかもしれない。

「すいません、最近なんか考えることが多くて忘れてました。えっと、今回もお願いできますか?」

「はい、喜んで」

 とても嬉しそうに星野が笑う。もしかすると、さっき声が小さくなったのはいつも頼まれる挿絵を今回はまだ頼まれていないことが寂しかったのかもしれない。そう考えると、雄介は急に彼女のことがかわいく思えてしまう。

 いや、星野は元々かわいい。それでいて綺麗で、完璧で、今日だって風邪気味だった七海を心配してレモネード入り魔法瓶を持ってくるような優しい子だ。

 そんな彼女が自分の小説に挿絵を描く描かないで一喜一憂してくれる。それが雄介には恥ずかしくて、嬉しかった。

 ――だからだろうか。

「今日とか、どうですか。私、道具持ってますし。今日なら終電まで描けますけど」

「それじゃ、お願いします」

「はい。場所はいつもの喫茶店でいいですよね」

「たまには俺のアパートにでも来ませんか」

 つい、こんなことを言ってしまった。

「……え?」

 これまで一度も見たことがない顔で星野が驚く。当然だろう。たまにはと言ったが、今まで彼女を家に招いたことなど一度もない。ましてやこんな時間になど。

(な、なに言ってるんだ……俺は)

 星野はきょろきょろと視線を泳がせると、体を路線のほうに向けてうつむいてしまう。これも彼女らしくない反応だった。

「昨日っ、エスプレッソマシーンを買ったんです。だから、わざわざ喫茶店まで行かなくてもいいというか」

「…………」

「いや、別にいつもの場所で描いてもらっても全然かまわないんですけど……」

 星野は黙ったまま、なにも言わない。

(どうする<double>!?</double>)

 必死に考える。が、なにも思いつかない。

 もうすぐ電車が到着しそうになった頃、ようやく星野が口を開く。

 彼女はこちらを見ないまま言う。

「いいんですか?」

「え?」

 もう一度、今度は上目遣いで雄介を見つめながら。

「私が守屋さんの部屋に入っても、いいんですか?」

 恥ずかしそうに聞いてくる彼女の頬は、まるで桃のように綺麗なピンク色に染まっていた。

 今、星野を家に招けば、確実になにかが変わってしまう。

 そんな予感を抱えつつも、雄介がいまさら彼女を拒む言葉など、言えるわけがなかった。

 

 少し前までは七海と歩いていた道を、今日は星野と二人で歩く。

 ほとんど会話らしい会話もなく、ひたすら歩く。相当緊張しているのだろう。一応話しかければ無視せず答えてくれるが、逆に彼女からなにか話しかけてくることはなかった。

 沈黙は気になるが、必死に次の話題を考えたりはしない。今の星野から緊張を消し去る役目は淹れたてのカフェラテに任せた。あったかくて美味しい飲み物には、人の心を落ち着かせる効果がある。

(確かあのときも、こんな感じだったな)

 雄介は昔、恋人を初めて家に招いたときのことを思い出す。今の空気が、そのときの雰囲気とよく似ていた。

 十七歳の冬。高校生で実家暮らしだった雄介は、両親が不在の日に彼女を初めて家に招いた。道中ガチガチに緊張していた彼女だったが、部屋で淹れたてのコーヒーを一杯飲み終わる頃には随分と落ち着いてくれたのをよく覚えている。

 そのとき彼女に入れてあげたのは安物のインスタントコーヒーだった。34800円もしたエスプレッソマシーンで豆も高級な専用のものを使ったカフェラテなら、きっと星野の緊張も消し飛んでくれるだろう。

 ただ、問題はそのあとだ。

 もしもそのまま昔と同じように状況が進行してしまったら――きっと星野は終電で帰れなくなってしまうだろう。

 雄介も男だ。高校生のときはそれをするためにわざわざ両親の不在の日を狙って彼女を家に招いた。

 だが今日は違う。

 美味しいカフェラテを飲んでもらって、新刊の挿絵を描いてもらうのが目的だ。決して二人で熱い運動を楽しむのが目的じゃない。

 星野も二一歳の大人だ。一人で男の家に、しかもこんな時間に行くことがどういうことなのか分かっている。分かっているからこそ緊張しているのだ。

 むりろ、少しは期待してくれているのかもしれない。星野とはただの同僚だと七海には説明したが、本当は友達以上恋人未満の関係と言うのが一番正確だと雄介は思っている。

 今日、星野に手を出せば、その関係も終わる。終わってしまう。

 これからも今まで通りの関係でいたいのなら、星野には終電前に帰ってもらう必要がある。たとえ彼女がそれを望んでいなかったとしても。

(大丈夫だ。俺さえ落ち着いていれば、問題ない)

 星野から告白してくるなんてありえないと言ったのは本心だった。彼女は絶対に自分からは動かない。もし彼女が自分から動けるような人間だったなら、もっと早くにこの関係は終焉を迎えていたことだろう。

「ここです」

 駅からアパートまでの、そう長くない道のりが終わる。

 雄介は階段を上がりながら、聞く。

「そんなに難しい道じゃないと思うんですけど、覚えられました?」

「えっと、たぶん……」

「まあ、今日は送って行きますから」

 玄関の鍵を開け、まず星野から部屋に入ってもらう。

「どうぞ」

「……お邪魔します」

「先に奥で待っててください。すぐにカフェラテを淹れますから」

「……はい」

 自分の靴を下駄箱にしまう。そのときには、なぜか気付けなかった。もし気付けたとしても、いまさらどうすることもできなかったのだが。

「守屋さん」

「はい?」

 下駄箱の扉を閉め、振り向く。

 星野はこちらに背を向けて、引き戸のレールの上に立っていた。

(なんだ?)

 まさかゴキブリでも見つけてしまったのだろうか?

 いや、昨日新しい虫除けを買ってきたばかりだ。それはありえない。

 なら、どうして彼女はあんなところで止まっているのだろう。雄介は彼女が見つめるものを確認しようと近くまで歩いていき――

「…………」

 そんなところに立ち尽くしている理由を一瞬で理解する。

 どこかに感情を忘れてきたかのような顔でじっとベッドを見つめたまま、彼女が言った。

「なんで、七海ちゃんが寝てるんですか」

 そんなこと、雄介に分かるわけがない。

 もし分かることがあるとすれば、一つだけ。

 今から七海を起こし、みんなでカフェラテを飲みながら説明を聞こうとするならば――一人は使い古されたマグカップで飲むことになる。

 雄介に分かるのは、今のところそれだけだった。


 
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