第一章 チョルル港(パート6)
「とりあえず、今日はここまでにしましょう。」
気付けば夕暮れを迎えていた事実に気付いてフランソワは、続けてそう言った。その言葉に詩音も窓枠へと視界を向ける。既に外は夕日に照らされて、空一面燃えるような朱色に染め上げられていた。
「この後は夕食を用意させるわ。ビックス、詩音のことを頼んでいいかしら。」
「無論です、姫さま。」
快活に、ビックスがそう答えた。酒の誘惑には滅法弱いが、このビックスという老兵、どうやら武術だけではなく、面倒見も相当に良いのだろう。
「宜しくお願いします。」
会話の流れを読みながら、詩音はビックスに向かってそう言った。それに対して、ビックスがおう、と応じる。その言葉を受けて、フランソワがしなやかに立ち上がった。それに合わせるように、詩音とビックスも腰を上げる。
「詩音、明日はお父様に会って頂きたいの。」
座りなれていないソファーに長時間腰掛けていたせいか、軽い腰痛を覚えた詩音に向かって、フランソワはそう言った。とん、と腰を拳で一度叩いた詩音は、お父様、という言葉に僅かな緊張を覚えながら、答える。
「お父様というと、公爵様?」
「そうよ。」
貴族と会うのは初めてだな、と詩音は考え、作法などに煩いのだろうか、と考えた。剣道を行っていた関係から和式の礼儀には精通しているつもりだが、異世界であることが確定したこのアリア王国の作法にかなっている保障は一切ない。そう考えた詩音に構わずに、フランソワは更に言葉を続けた。
「夕餉の席でお父様には詩音のことを伝えておくわ。当面、詩音がここで暮らせるように相談してみる。多分、勇者様となれば反対はしないと思うの。」
「俺が勇者だという保障はないぞ。」
これ以上話が大きくなると困る。詩音はそう考えた。確かに、義経は勇者と呼ばれるに相応しい人間だろう。それに対して、自分がそこまでの力を持っているのだろうか。多少剣の腕が立つかも知れないが、自分に与えられた特徴といえば、精々その程度。今のところ、国家の命運を左右できるような人物ではないことは、十分に理解しているつもりだった。
「構わないわ。」
に、とフランソワは再び、柔らかな笑顔を見せた。そのまま、続ける。
「詩音は勇者ではないかも知れない。でも、それはいいの。困っている人を手助けしてあげるのは、人として当然でしょう?」
純真に、そして真摯に投げかけられた言葉に対して、詩音は思わず面食らうような感覚を覚えた。その表情、そしてその口ぶり。成程、一瞬とはいえ真理と間違えたわけだ、と詩音は考えた。正義感が強く、真っ直ぐで、少し強情。だけど、底抜けに優しい。フランソワという貴族の娘は、どことなく真理に近い雰囲気と思考を持っている。そう考えて、詩音もまた、小さく笑った。
「それじゃあ詩音、また明日、準備が出来れば呼びに来るわ。それから、明日は最近のミルドガルド大陸の現状について話しておきたいの。何かの参考になるだろうし。」
「分かった。」
一刻も早く帰還する方策を探りたい、という思いもあるが、見ず知らずの場所で必要なものは何よりも情報である。いつしか独学した戦術論にも情報の重要性がつらつらと述べられていたことを思い出しながら、詩音は素直にそう答えた。
「最後にね、お父様に会う前に、一応私のフルネームを伝えておくね。」
詩音とビックスに見送られて退出しかけたところで、フランソワは一度詩音を振り返るとそう言った。
「少し長いから、覚えるのは大変だろうけれど。フランソワ=ラーヴェル=シャルロイド。普段はフランソワのままでいいわ。それじゃ、ゆっくり休んでね、詩音。」
その言葉を最後に、フランソワはメイドたちによって観音開きにされた扉を優雅という言葉そのままに退出していった。どこで様子を伺っていたのか、完璧なタイミングで扉を開いたメイドの動きに詩音が衝撃に近い感動を覚えていると、ビックスがのんびりとした口調でこう言った。
「では、行きますかな、詩音どの。」
その言葉に詩音は頷く。そのまま、ビックスはフランソワが退出した扉とは向かいの位置にある、片開きの扉に手をかけた。その扉を開けながら、ビックスは詩音に向かってこう言った。
「ところで詩音殿は晩酌など、なされるか?」
「僕は未成年なので・・。」
詩音がそう答えると、ビックスが理解できない、という様子で首を傾げた。考えてみれば、二十歳未満の飲酒禁止は日本の法律であって、全世界共通のものではない。それに気付いた詩音は、ビックスの理解を促すために、言葉を変えてこう言った。
「実はまだ、酒を飲んだことがありません。」
「なんと、それは人生を大いに損しておりますな!」
ビックスは大げさに頭を振りながら、何かを哀れむようにそう言った。本当にこの老人、酒好きにも程がある。
「ならば、お勧めの酒がありますぞ、詩音殿。早速、食堂へと急ごうではないか!」
ビックスはそういうと詩音の手首を掴み、半ば引きずるような勢いで歩き始めた。その行動よりも、詩音は掴まれた右腕にかかった握力に驚き、そしてこう訊ねる。
「相当、お強いのですね。」
師匠に当たる祖父にも負けず劣らずの筋力を感じてそう訊ねた詩音に向かって、ビックスは嬉しそうに笑った。人懐っこい顔に皺が寄って、愛嬌のある、それどころかどこか可愛らしい表情を崩しながら、ビックスは詩音に向かってこう答える。
「老いぼれましたが、これでも昔はカンタブリア騎士団に所属していたこともあるのです。」
「カンタブリア騎士団?」
「おう、アリア王国陸軍の要、いや、海軍に比べると見劣りするが、一応最強部隊と呼ばれる騎士団でありますぞ。」
「そこで鍛えられたのですね。」
人の武勇伝を聞くのは嫌いではない。実践と経験に勝る知識なし、とは言われるが、人が経験した知識を直に伝え聞くことは、自らの経験を促進させる有効手段であると詩音は考えているのである。
「なに、自分のできる範囲で、お国の為に勤めただけ。たいした功績などありませぬ。」
謙遜するように、ビックスはそう言った。あまり自分語りをしたがらない性格らしく、だが詩音の問いかけにいちいち嬉しそうに笑いながら、やがて詩音とビックスは食堂に到達した。恐らく館に勤める従者たちの食堂なのだろう、やや広めの学食のように丸テーブルが合計で二十個程度用意されている。一つ四人がけ、合計八十人程度が一度に食事できる広さであった。食堂は既に、夕食を掻き込む人々で半数程度が埋まっていたが、ビックスは目ざとく二人分の席を発見すると、詩音を伴って腰を下ろす。
「ここでは配膳方式になっておりましてな。」
席に着くと、ビックスがそう言って話を切り出した。
「あちらから、自由に食材を取ってくるのです。」
言われるままに、ビックスが指差した方向へと視線を送ると、成程いわゆるバイキング形式に並べられた様々な料理が盛り付けられていた。
「勿論、食べ放題ですぞ。」
続けて、ビックスがそう答える。食べ盛りの詩音にとってはありがたい処置であった。早速、と詩音は立ち上がり、ビックスと共に配膳を待つ人の列に並んだ。どうやら港とは違い、洋食風の献立が並ぶ中から詩音はパスタと野菜がふんだんに使われたクリームスープを掬い取って、ビックスと共に座席にと戻る。そのまま一口食べて、詩音は感心したように瞳を見開いた。予想していた以上に、旨い。ついつい詩音が食事を掻きこんでいる姿を、ビックスは微笑ましそうに眺めていた。
「詩音殿、一献どうぞ。」
ややあって、ビックスが懐から竹筒のようなものを取り出した。なんだろう、と詩音が眺めていると、ビックスが竹筒の上部に小さく開いた穴に、蓋代わりと押さえていた木片を抜き取って、詩音の目の前に置かれたマグカップにそれを注いだ。途端に香る、かぐわしい匂いをかいで、詩音はもう一度驚きに瞳を見開いた。
芳醇で、豊かな、そして強いアルコールの香り。見た目はまるで清水のような、透き通る液体であった。
「米酒といいましてな。先程、グレイスから分けてもらったのです。」
得意げに、ビックスはそう言った。どうやら、港でグレイスが言っていた良い酒、とはこの酒のことらしい。
「ワインも旨いし、麦酒も、スピリッツも悪くない。だが、儂はやはりこれが一番だと思っております。」
「日本酒かな・・?」
恐る恐る、という様子で詩音はマグカップを手に取った。そのまま、く、と口に含む。雑味のない、直線的な、それでいて柔らかな味が口に広がる。流石の詩音でも、元旦にお神酒程度として日本酒を口にしたことはある。間違いなく、これはその味であった。
「これも、義経が伝えたものなのですか?」
途端にアルコールに喉が熱くなったことを自覚しながら、詩音はビックスに向かってそう訊ねた。その言葉にビックスはおお、と頷き、詩音と同じように持ち上げていたマグカップを一度止めて、そしてこう言った。
「まさしくその通り。これは勇者殿が好んで飲んだと言われている酒でございます。」
まさかビックスが日本酒好きだったとは。詩音はそう考えながら、マグカップを一度床に置いた。どうも、自分にはアルコールが強すぎる。そう考えたのである。
「いや、仕事後の一杯は最高ですな!」
すっかり上機嫌になった様子で、ビックスはそう言った。既にビックスのカップには二杯目の日本酒が注がれている。それを丹念に味わうように、ビックスはちびちびと日本酒を飲んでいた。この食堂での飲酒は大目に見られているらしく、ビックス以外にも麦酒やら、スピリッツやらを飲みながら談笑している男女の姿が見えた。服装は兵士らしいものから、メイド服、執事服と本当に様々であった。父親と母親が時折晩酌をしている姿はこれまでも何度か見たことがあったが、がやがやと騒がしい、居酒屋のように楽しげな空気が流れる、酒の入った空間を見るのは詩音にとってこれが初めてのことであった。詩音は再び、食事を腹に収めながら、成程、大人とはこうやって酒を楽しむものなのか、とぼんやりと考えた。
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第六話です。
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黒髪の勇者 第一話
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