前説:20年後の希代大樹による
私立江戸川特別大学という大学を知っているか。別に江戸川区にあるわけでなく、学長が江戸川姓だからこの名前だ。埼玉にある無駄にでかい敷地を持った、変人共の集まる大学である。世界征服をもくろむ江戸川一族が人体実験を行うために設立したともっぱらの噂だ。いや、だった。今はもう無い。
人体実験、と称されるのには一応理由がある。
目立つところをあげると、まず一日5時間の授業に必ず出席しなければならず、その授業は選択することができない。この5時間は個々人によって異なるが、大学側が教科を決める、という点で一致しているのだ。学生に自由はなく、正当な理由なしにサボると評価が問答無用で1つ下がるという恐ろしいシステムである。一年生の大半がこれを甘く見て単位を落とすという。
その5時間が終わると、昼食の後に健康診断がある。不思議なことに月曜から金曜まで毎日だ。身長体重から視力まで項目は50を数え、だいたい終わるのに1時間程度かかる。ちなみにこれも参加必須で、正当な理由なしにフケると評価が問答無用で1つ下がる。さっきから出てくる「正当な理由」というのは、この学校の認定する医者が発行した診断書の有無か学部長以上の人間の許可だ。それ以外は例え警察にパクられていてもノーベル賞授賞式でも認められない。ノーベル賞授賞式に出たことで留年した例がマジで一件あるのがこの学校の恐ろしさの最たる所である。許可出せよ学長。
さて、この午前5時間(授業1コマにつき1時間30分×3+間の休憩10分×3)と午後1時間を使って得られる学生達のデータをどのようなことに利用しているか、この大学は一切公表していない。あくまで秘密裏に蓄積されており、一説では健康診断のたびに投与されている薬の効果を採取しているだの、また一説では授業時間を制限することでどれだけ効率化を図っているかを調べているだの、はたまた世界を征服するためのなにがしかのうんちゃらをどうこうしているともっぱらの噂だ。確かに普通ではない。しかも本当におかしいのはここからであるが、この健康診断のあと、学生は大別して二つにわかれる。学校生活において学生がカリキュラムに介入できるのはこの一点においてのみで、すなわちここからさらに授業を受けるか、またはサークル活動にいそしむか、を選択する。
授業を受けると選択した学生らは午後三時から七時までさらに二コマの授業を受ける。この授業は週三日で、月火木に行われる。水金はさっさと帰れるわけだ。ちなみに授業はやはり学校側が選択する。
もう一つの選択肢はサークル活動だが、これは入学する前にあらかじめ「サークル活動をする」と申請する必要がある。もちろん授業を受けるくらいならサークルに入った方がマシと考える学生は多く、毎年9:1くらいの割合でサークル参加者がいるという話だ。だがここでまたこの大学の特異な面が姿をあらわすわけだが……そして大半の読者諸兄はうすうす感じていると思うが……この大学において、学生にサークルを選ぶ権利は無いのだ。
入学と同時に大学から所属サークルを言い渡されるのである。この所属は四年間、変わることはない。一度下された所属判定が覆された例も無い。辞めたら退学だ。これがどれほど恐ろしいことかというと、まず自分のさっぱりわからない分野のサークルに放り込まれる可能性がある。またサークル内部でどれだけもめ事が起きようとも所属し続けなければならない。これが恋愛沙汰であればなおさらだが、とにかくサークル活動というものの根本を否定するシステムである。なんでもいいが、好きなモノが被っている連中が少しずつ群れていって、自然発生的に生成されるのがサークルで、新しい参加者を募るのも自発的に行うべきではないかと思う。それこそサークル活動の(略)長くなったので割愛した。
ここで疑問を抱くこともあるだろう。曰く、何故にこの偏屈な大学に溢れんばかりの人が集まり、いわゆるマンモス校と呼ばれるまでになり、偏差値が年々上昇しているのか、と。
答えは簡単で、この大学は授業料施設利用料教科書代寮費食費などなどなど、大学生活を送る上でかかる費用がゼロなのだ。特に寮費無料などは、都市圏に出てきたがる地方の高校生に特にウケがよく、さまざまな都道府県民のごった返す理由となっている。
ようするに極端なわけだ。がちがちに管理するかわりに、四年間の面倒は残さず余さず見てやると、そういう不思議な大学なのである。
私も、その年に入学した田舎者の一人だった。思い出しながら書いてみよう。
希代 大樹
1.凩 憂奈
希代大樹少年は上から読んでも下から読んでもキダイダイキ、ではなくキダイヒロキ少年である。この春に高校を卒業し、どうにかこうにか合格することのできた江戸川大学の入学式を終えたのが今日、4月4日。授業こそ無いが、カリキュラムでは今日中に所属するサークルに顔を出さねばならないとなっている。怠った場合はその場で退学(携帯電話にかかってくるらしい)であるから、万が一にも忘れるわけにはいかない。食事を終え、不気味なほど明るい保健事務員の不気味なほど爽やかな健康診断を終え、彼はサークル棟へと足を運んだ。
サークル棟は大学の裏門近くに、教室棟七つ分ほどの規模で存在する。ここから一部屋を探すのはなかなか難儀で、まずサークル棟二号棟を探すのに時間がかかった。整然と並んでいるわけでなく、形容しがたい形に入り組んでいる。どうやら七棟のサークル棟はそれぞれがお互いに繋がっており、一度中に入ると上から下まで巨大な迷路に早変わりだ。とても迷惑な作りである。目指す会室は265号室で、しかしどうやら6階にあるわけではないようだ。現在立っているのは116号室の前だが、右隣は475室、左は951号である。七棟しかないのに9の数字が出てきた時点で、彼はまともに探すのをやめた。何時間かかってもいいので一つ一つ探す所存だった。
このでかいサークル棟には、もちろん彼の他にも学生がいる。いるにはいるが、どうやら大半は彼と同じくさまよっているようだ。時たま勝手知ったる上級生らしき人間が歩いているが、さっさと自分の部屋を見つけて引っ込んでしまう。声をかけてもあからさまに無視され、察するにこれも授業の一環とかそんな感じなのだろう。
二度目の休憩を取り(ベンチと自動販売機だけは無駄にある。同じ所を何度も通っている気もする)さてまた無限の迷路にはまりこむかと立ち上がったとき、少年は声をかけられた。
「あの、すいません」
女の子だった。
「お部屋を探してるんですが、あの、見つからなくて」
同じ一年で、同じく迷っているようだ。意地を張るのも惨めなだけなので、彼は素直に自分も迷っていることを白状する。
「あ、そうだったんですか……」
少女は長い黒髪を左手でくるくると弄んでいる。ちょっとスケベな心理学では男を誘っている仕草のはずだが、だからといって、すなわちこの日、大樹少年が童貞を卒業してしまうというミラクルが起こるわけではない。もうちょっと健全なミラクルが起こる。
「ちなみに、どちらでしょうか。わたしは265号室なんですが」
番号を聞いて、大樹は手の書類をあらためる。
「……俺も265を探してるんだ。ちょうどよかった」
この広いサークル棟で、同じ部屋を探す人間に巡り会えたことはある種の癒しであった。なにしろ魔窟殿のような雑然とした、小汚く日当たりの悪い迷路である。一人で歩き回るのは精神的に辛すぎる。
ともに目的地を探索するという点について二人は合意し、しかしいったん休憩を取りたいという少女の申し出によって、彼らはベンチに座った。それぞれ一本ずつジュースを買い(もちろん無料であるから、買うというのは少しおかしい)、大樹は先ほどとは違ってコーヒーをすする。
少女はコガラシウイナと名乗った。妙な名前だったが、漢字で書くとさらに妙だった。凩憂奈と書けば、初対面の相手にはユウナと呼ばれるそうだ。大樹とは同じ悩みを持つ仲間であった。
新入生にはおきまりの学部と専攻の話をしている間、少女はルーズリーフに絶えずなにかを書き込んでいた。ボードを下敷きにしており、かつかつと小気味良い音が鳴る。
「なに、それ。絵?」
「サークル棟の見取り図です。一度通った所を二度通らないように」
少年には理解しかねた。この立体迷宮をマッピングする方法など思いつかない。
「……え?」
「図です」
「じゃなくて、歩いてきた道順を描いてるのか?」
少女は頷く。差し出されたルーズリーフを見ると、几帳面な直線が複雑に組み合わされた抽象画のごとき図が現れる。何を書いてるのかさっぱりわからないが、三桁の数字が無数に書き込まれているからやはり部室棟の見取り図だろう。しかし細かい。数字一つが1ミリにも満たない小ささで、下手をすると読み取ることすら難しい。200をくだらない数が散らばっていて、特に下半分は円周率でも書いてるのかと思うような惨状になっていた。
「これ、下の方が階下?」
頷く。
「ここが入り口で、こういう風に通って来て、今ここです」
人差し指でなぞっていくが、通路かどうかすらも怪しい場所を横切ったりするので数秒後には道筋を追えなくなった。しかし116の所でぴたりと止まったのを見る限り、彼女がこの地図を把握しているのは間違いなさそうである。
なんという根性であろうか。
大樹はしばらくルーズリーフを眺めた。ダニのような数字の羅列を丹念に読み取るが、並び順に法則性のようなものは感じられない。
「なんか、やっぱりランダムに並んでるっぽいな」
「ですよね。いろいろ試してみたんですけど、ちょっとわかりませんでした」
それではやはり、根性で探せと言うことなのだろう。大樹はルーズリーフを返すと、缶をゴミ箱に投げて立ち上がる。時間は午後四時を過ぎていた。規定では後2時間ほどでたどり着いていなければならないはずだ。
「じゃあ、えーと、さっきこっちから来たから……こっちか?」
「そっち、一度通ったんですよ」
ルーズリーフを押しつけてくるが、理解できないのでやんわりと断る。
「回り道したら同じ所に出てきて……」
「じゃあ大人しく上に上がった方がいいな。ええと、階段どこ?」
「ちょっと戻ったところですね」
二人で探索を再開する。道中の話題と言えばこの摩訶不思議なサークル棟と目的地であるサークル室でいかなる活動がされているか、ということだった。
「サークル名すらもわからないって、一種のギャンブルみたいなもんじゃないか」
「友達で一人、一緒に入学した子がいるんですけど、彼女は弓道部だったそうです」
大樹は首をかしげる。
「入学前にわかるのか?」
「ここに」憂奈は大樹の持っているサークル要項の、空欄を示しながら言った。「サークル名が書かれてました。私も確認してます」
「ええと、まさか表記抜けしてるってことは……」
「私のも空欄でした」
いよいよわけがわからなくなってきた。少年は書類をしまい込み、とにかくさっさと部屋にたどり着こうと再び決心する。
歩きながらも憂奈は絶えず手と目を動かしており、どうやらリアルタイムでマッピングを継続しているようだ。これで会話もこなしているのだから結構器用である。
結局、目的の部屋が見つかったのは30分ほど歩いてからだった。ちょうどルーズリーフが真っ黒になり、二枚目を重ねたのと同時だ。
燦然と輝く265の三文字を前に、二人は安堵のため息をつく。実に歩き回ること2時間。ほぼサークル棟を踏破したといっても過言ではない。
「……間違ってないな?」
「5が実は6の一部分が削れている、ということがなければ」
憂奈がそういったのは、一度似たようなことで騙されていたからだった。そのときは255室の5に汚れがついていて、265のように見えた。
念のため数字をなぞってみたが、別に削れてはいない。
「……よし、入るぞ」
「はい……あの、そんなに緊張しなくても」
身長にドアノブをつかみ。回す。鍵はかかっていない。かかっていたらそれはそれで困るが、とにかくこの部屋は、二人をすんなり受け入れるようだった。
開かれた部屋を見て、大樹は少し拍子抜けする。ほとんど何もない。大きなテーブルが中央に置かれただけの、そして壁に何脚かのパイプ椅子が置かれているだけの殺風景な部屋だ。申し訳程度に新品のノートPCが置かれているが、今まで使用されていた形跡が全くない。隣の筆立てには……USBメモリか?
後ろからのぞき込んだ憂奈が言った。
「誰もいないんでしょうか」
ガリガリと音がするので、今もなにかを書いているようだ。
憂奈に押されるように足を踏み入れた大樹は、改めて部屋を眺めて硬直した。ちょうどドアの影になって見えなかった部屋の隅、やはり見えなかったロッカーと壁の間に人間が収まっていた。
2.神居 真琴
「……」
目があう。
「……は、初めまして」
「こんにちは」
「誰かいるんですか? ちょっと、すいませんできれば入りたいんですが」
今度は明確に大樹の背中を押しながら、憂奈が部屋になだれ込む。
バランスを崩してテーブルに手をついた大樹の後ろで、憂奈は素っ頓狂な声を上げた。
「あ、カムイさん」
カムイ?
「知り合いか」
どこかで聞いたことがある名前だったが、どこで聞いたかはまったく思い出せない。
そういえばこの喪服のような黒スーツに黒ネクタイ、やはりどこかで見たような気がする。一人で脳みそをこねくり回していると、そいつは言った。
「こんにちは」
「こんにちは。カムイさんもこのサークルだったんですか」
「カムイっていうのか」
「希代さん、入学式出てないんですか? 新入生代表の挨拶をしたカムイさんです」
鞄を漁って、別のルーズリーフを押しつけてくる。その間に大樹少年の脳裏には、だだっ広いホールで壇上に上がった黒ずくめの新入生を思い出していた。しかし2500人が一堂に会するあの広さ、顔の見分けがつくほどはっきりと見えたわけではないし、渡されたルーズリーフを見ても何がなにやらさっぱりだった。ミミズののたくったような字がブロックごとに別れていて、そもそもどこを見ればいいのかわからない。
「それはいいから……ええと、希代大樹です。同じ新入生。よろしく」
「よろしく」
「凩憂奈です」
「よろしく……カムイマコト」
自己紹介の間も、マコトは狭いスペースに収まったままだった。ちょうどパイプ椅子一脚分の幅なようで、妙にしっくり来ている。
「上級生とは会わなかった?」
なんとはなしに嫌な予感を覚えながら、大樹は窓に歩いていった。七階、ちょうどサークル棟の東端に位置するこの部屋は窓も東側にあり、今は少し薄暗い。
「誰も来ていない」
それはおかしい。今日が入学式で、そして新入生がサークルへの顔出しを義務づけられているのだから、上級生は部屋で待機する責任を負っているはずだった……とにかく、彼はマコトにならい、四脚あるパイプ椅子の一つを引っ張り出して座る。憂奈の分もついでに出してやる。
「……うん。やっと落ち着けるな」
「そうですね」
答える憂奈はとても落ち着いているようには見えない。先ほどまでとは比べものにならないほどシャープペンシルを激しく動かし、ルーズリーフを黒く塗りつぶす作業にいそしんでいる。
「なあ、そんなに書き留めることがあるのか」
書き留めてどうするんだ、というのは不躾な気がした。
「たくさんあります。足りないくらいです」
「ビデオカメラとかの方が効率いいんじゃないか。記録するなら」
そういうと、彼女は手を止めて、新種のサルでも見つけたかのような目で大樹を見た。
「なぜ?」
「いや……効率が……なんでもない。今はどんなこと書いてるんだ」
「ええと……その、今の空気というか」
この微妙な雰囲気についてだろうか。初対面の人間と話すのは苦手だが、一発目を失敗すると後に響くのはよくわかっているつもりだ。ちょうど話題もあることだし。
「カムイさん……カム」
「カムイ」
呼びかけた瞬間に割り込まれて、大樹は少しひるむ。
「え?」
「カムイでいい。同学年だし。僕も呼び捨てで呼びたい」
「……そうか、ええと……カ、カムイ」
妙に性別不明な顔立ち、名前、体つき、声だったが、どうやら男のようだった。恐ろしいほどの女顔だ。切れ長の目とつっけんどんな話し方から少し無愛想なイメージを持っていたが、
「なんだい」
と返事を返す彼の微笑は、どこか妖しい人間味をはらませている。壁とロッカーの間に収まっているのは変わらないが。
「カムイは、このサークルの名前、知ってるか」
「いや」
彼は長めの黒い髪を指で弄りながら、窓の外を見る。
「要項になにもなかった」
「なにもなかったっていうのは、つまり」
「空欄ってことだよ……この大学、ランダムにサークルを決めているようで、その実かなり能力に適した活動を割り当てるというのがもっぱらの噂だ。興味があるかないかは別にしてね。僕も期待してたんだけど」
大樹と憂奈を交互に見て、
「どうやら、僕の希望する活動はしないようだ」
特に落胆した様子もなく淡々と述べるカムイマコトに、なんとなく大樹はムカつく。確かに学生代表として挨拶をするということは、この難関大学の呆れるほど難しい入試を最高の成績でパスしたという事実を示す。頭のデキは大樹とは比べものにならないことは明白だ。それでもムカつくのはしかたない。
顔に出ていたのか、マコトは慌てて両手を振る。
「いや、気を悪くしないでくれ。言い方が悪かった。ちょっと特殊な趣味をしてるものでね……じゃあまぁ、確認するけど、君達、生物学には興味ないだろうね?」
「ないよ」
「私も」
「だろうと思ったよ。二人ともインドアには見えない……褒めてるんだ。本当に」
少し困ったように、マコトは目を伏せた。あまり表情が顔に出る方ではないのだろうが、
「いや……まあ、生物学に興味ないのはそうだし」
「人と話すのは苦手でね。小さいころから父の影響で、家の中で研究ばかりやってた。今になって少し後悔してるんだ。もっと外で遊びたかった」
「まあ、思い出話はまた今度にして」
ただでさえ微妙だった空気がさらに冷えるのは避けねばなるまい。話も脱線しているので、大樹は強引に戻すことにした。
「なんか予想とかさ、活動の」
「さっぱりだね……というより」
マコトは部屋全体を見回して、
「ここ、今まで活動なんかやってたのかな」
憂奈の手が止まった。
BGMのように鳴り続けていた、シャーペンと紙の擦れ合う音が消える。
大樹が感じていた嫌な予感、とはこのことだった。
「どうみても空き室というか、このテーブルもロッカーもノートも、全部新しくあつらえたものみたいだ」
憂奈が作業を再開するまでの間、時間が止まっていたように思う。通常の大学であれば新歓期の到来だ。もっとそこかしこからざわめきの声など聞こえるはずが、この部室棟は不気味なほど静かだ。
「カムイもそう思うよな」
一年生の学力トップが同じことを考えていたと知るのは、気の休まることだ。
「予断は禁物だよ。この学校、どんな行動がペナルティになるかわかったもんじゃない」
「いや、まあ、そうだけど。でももうサークル室にはたどり着いてるし……そういえばカムイ、いつごろここについたんだ?」
「一時間くらい前」
「そんなに!?」
いきなり憂奈が声を上げたため、大樹少年は驚くタイミングを逸してしまった。黙って書き続けていれば素直に驚きを表せたのに。
「私、身体検査終わってからすぐに来たのに」
「運がよかったんだ。僕は理工学部だから。ほら、裏手に学部棟があって」
「……ああ、ここ、一番近いのか」
「そう、サークル棟のはじっこ。たまたま上から探したらすぐに見つかった」
マコトは最初の印象に比べて存外話しやすかった。新入生代表と聞けば、少しお高くとまっているような人種だとある種の偏見を持っていたことは否めない。
「一人だったから少し寂しかったんだ」
「わかるよ」
大樹もこの大学では一人だった。進学校だった高校の仲間はいるが、逃げるように飛び出してきた京都の実家にはおいそれと帰るわけにはいかず、また上京してきた知り合いも少ない。今年度の江戸川大学進学実績は実に大樹少年一人だけであり、偏差値の妙に高いこの大学が、いかに気味悪がられているかということがよくわかる。実際、これから四年間過ごす大樹にとっても十分気味が悪い学校である。
「6時まではまだ時間があるけど……あと、誰か来るかな」
「ロッカーが五人分あります」
という憂奈の指摘で、大樹は振り返った。サークル室の狭い壁に、細長いロッカーが五人分、並んでいる。
「ああ、そうだね。個人用かはわからないけど、もしそうなら後二人かな」
「多分、間違いありません」
何をそんなに書くことがあるのやら、ガリガリとルーズリーフを塗りたくりながら、憂奈は顔も上げずに続けた。
「パイプ椅子も五脚。あと、そのフラッシュメモリ。五つ」
「本当だ。よく見てるな」
USBメモリの一つを取り上げながら、大樹は感心する。書き留めることがたくさんある、というのは嘘ではなく、情報は全て把握しておかねば気がすまないタイプだと見える。
それがどうした、とも思うあたりが大樹少年の捻くれたところだ。どうせ人数が揃えばわかることだ。
「あと二人、なるほど。その二人、どんな人だと思う」
江戸川大学にくるような変わり者、というのが前提条件にある。大樹のようなひねくれ者か、マコトのような英才か、もしくは憂奈のような偏った癖をもっているか、どっちにしろ『普通』の人間ではあり得まい。
「ところで、さっき生物学が好きって言ってたけど、生物学の、なにが好きなんだ?」
「難しいね、それ」
「?」
マコトは苦笑しながら続ける。
「勉強が好きで、その中でも理系の分野が好きで、そのなかの生物学。読書好きの、乱歩好きの、二銭銅貨が好き、と同じ感じだよ。二銭銅貨の何ページ目が好きかと聴かれても困るだろ?」
随分理屈っぽい。正直な感想だ。生物学からはさらに範囲を狭めることができると思うが、マコトにとってはそこが細分化の限界点なのだろうか。
首をかしげていると、マコトはようやく壁とロッカーの間から出てきた。ずっとそこにいたせいか、ぽっかりとあいたデッドスペースが気になって仕方がない。
マコトはノートパソコンの上に束ねられた電源コードをほどき始める。
「エクス2の春モデルだ。よくこんなの用意したな」
「つけるのか」
「なにかヒントがあるかもしれないよ」
憂奈は相変わらず書き続けていた。瞬く間に積み上がっていくルーズリーフだが、よくもまあ手が動き続けるものだ、と別の意味で感心する。強靱な右手。
その手がまた、ぴたりと止まった。
マコトが収まっていたスペースと動揺に、もはやあることが自然になっていた筆記音が止まると、やはりなにかしら違和感を覚えるようになっていた。人間はなれる生き物だ。
そして二人とも、彼女が手を止めた理由に思い当たる。
静寂に支配されていたはずのサークル棟に、異音が響いている。
巨人でも歩くかのような地響き。たまにラッパの破裂するような声で叫んでいる何者かが近づいてくる。
「なんだよここ! もう三時間になるぞチクショウ!」
何故こんなにも大声なのか。いらついているのはわかるが、ここまで怒声をあげる必要も無いだろうに。
そして大樹少年の胸に、また嫌な予感。
ズシズシと近づいてくる足音。
そういえばさっきの声、女だったな、と少年が思ったとき。
「あったあああああ!」
ちょうど扉の前で、その声が爆発した。
マジかよ。
3.炎条寺 陽子
ドアが歪んだのではないか。
はたまた、どこかの部品がはじけ飛んだのではないか。
爆発に煽られたかのように開いたドアの向こうにスケ番がいた。
「……」
さすがの三人も呆然と見やるしかない。
スケ番だった。いや、スケ番というよりライオンに近い。
まず目を引くのが立派なタテガミ、もとい、燃えるような赤い、ボリュームのある長い髪の毛だった。光の当たり具合で所々オレンジ色にも見える。90年代である。つり上がった眉毛もまた赤く、獲物をねらうような切れ長の目に輝く金色の瞳。目力にあふれている。どう見ても猫科だ。日に焼けた肌はハンターの雰囲気甚だしく、おまけにセーラー服である。
どこからつっこむべきか。
「おい! ここ265号室だよな!」
うなり声である。下手に答えたら喉笛めがけて飛びかかってきそうだったので、大樹は無言で首を縦に振った。
「ウソつきやがったらタダじゃおかねえからな」
命のかかっている場面でウソをつくほど彼は剛胆でない。
ライオンは大樹少年を睨みつけていた目をギロリと憂奈に向けた。かわいそうなくらいビビりあがった憂奈もまた、首をガシガシ振っている。
「……」
最後にマコトに向かってメンチをきったライオンは、彼も同意のジェスチャーを取ったのを見て、背後を警戒しながらゆっくりとドアを閉めた。ゆっくりといっても、彼女にしては、という意味だが。
また三人にメンチを切ったあと、ようやく彼女から発せられていた攻撃的な威圧感が消えたように感じた。
「……あ、その」
勇気あるマコト。
「新入生?」
「ん? 文句あんのか」
ひい、と縮み上がったマコトであったが、語気は幾分丸みを帯びていた、と大樹は思う。思いこみでないことを祈る。
「こ、ここ、全員新入生なんだ。先輩とかいなくて」
「ああ?」
いちいち怖い。彼女がサークル会員だとすれば(十中八九そうだ)今の一瞬で序列が決まってしまっていてもおかしくない。
「なんだそりゃ。てかナニもないじゃねえかここ」
彼女が首を動かすたびに、盛ってあるのではないかと疑いたくなるほどの量の紙がゆさゆさ揺れる。病的な几帳面の憂奈、なぜかデッドスペースに収まっていた秀才のマコトに比べても異彩を放っていて(なにセーラー服だ)とてもカタギには見えない(大学にセーラー服で来てるし)。
「で、なんだお前ら、全員このサークルなのか」
「そう……だね、ハハ」
「なに笑ってんだ」
マコトとは相性が悪そうだ。
ガチャガチャとパイプ椅子を開いたライオンはどっかりと座り込み……ふと、なにかを思い出したように立ち上がった。
「エンジョージヨーコ」
……どうやらそれが自己紹介だと思い至った時には、彼女の瞳は射抜くように大樹少年をとらえている。
「あ……き、キダイヒロキ」
それから怖々と憂奈が、おそるおそるマコトが、それぞれ自己紹介する。
「ん? カムイ?」
「ひい」
すでにマコトとヨーコには上下関係ができているようだった。後で知ったところによると、マコトは「神居真琴」で、ヨーコは「炎条寺陽子」と書くようだ。
「神居ってお前、代表の神居か」
憂奈が勝ち誇ったようににんまりと笑う。なぜ生徒代表の名前など覚えているのか、大樹には理解しかねた。そんなに珍しい名前でもあるまいに。
「……そいじゃあ、ただのサークルじゃなさそうだな」
「炎条寺さん、なにか知ってるのか?」
ギロリ、と狙われ、思わず割って入ったことを大樹は後悔する……いや、仮にもこれから(おそらく)四年間を過ごす同期に、何故こんなにも怯えねばならないのか。憂奈といえば、自分が捕食者の標的からはずれたのをいいことに、またルーズリーフを山と積む作業に戻っている。おそらく書いているのは陽子の炎条寺女史のことであろうが、どうでもいいから助けてくれ。
「……」
品定めとはこういうことを言うのだろうか。頭のてっぺんから毛穴の奥までねめつけられるような居心地の悪さと恐れを感じる。
「普通じゃねーだろ。名前もかかれてねえんだ」
「ああ……」
陽子も知っているレベルでは大樹たちと同じ、というわけだ。だが、この部屋の特異性を最初に言い表した。
ただのサークルではなさそうだ。
「もしかしてお前ら、俺のこと凶暴だとか思ってないか」
俺女だ! という驚きは心に伏せて、大樹はさらにつっこみを押さえねばならなかった。自明の理をここまであからさまに問われては、そしてそれが爆弾に直結していては、うかつに返事をできない。
「どうなんだよ、そこの、ええと、コガラシだっけ。なに書いてんだ」
難癖のレベルである。がりがりと、できるだけ目を合わせないように情報を書き続けていた(普段通りでもある)憂奈の手が止まった。蛇ににらまれた蛙とはこのことだ。
「え、えっと……その……」
「キッタネぇ字だなオイ。読めんのかそれで」
「よ、読めますっ」
「ふうん」
勇気ある言い返しだ。引けない一線なのだろう、たぶん。陽子は全く意に介さず、
「で、実際のところどうよ」
……実際のところ、大樹はある程度安心している。今の陽子は言葉遣いこそ荒いが、目の輝きは幾分ナリを潜め、髪の毛のざわめきもおとなしい。
(要するに興奮させなきゃなんとかなるんだな)
ヤクザとのつきあい方だ、とは気づいていない。おとなしい、とは思っていても、では彼女の質問になんと返したらいいかはやはりわからない。どういった言葉が逆鱗に触れるかさっぱりなのだ。憂奈も相当困っているようで、ストレスのせいかシャーペンの芯が折れて跳ねた。
「え、炎条寺くん、怖がらせてるぞ」
「ああ?」
勇気ある真琴であった。くじけずに猛獣とコミュニケーションを取ろうとするその姿勢は素晴らしいが真似したくはない。それに、さっきまで収まっていたロッカーと壁の隙間にまた収まっているのが少々意気地なしの様相を呈している。
「怖がらせてるって、俺がか」
「君がだ……失礼を承知でいうが、これから同じサークルでやっていくんだ。もう少し仲良くいこうじゃないか」
「ああ失礼だね。言っとくがな、俺は精一杯でこれなんだ。これ以上は期待するなよ。なんでそんな隅にいるんだよ」
「ストップストップ」
たまりかねて大樹は口を出した。凄みはあるが台詞が情けない。おそらく悪いやつではない、との判断だった。
「そこまでだ。それより、さっきやろうとしてたこと、続けよう。神居、ノート立ち上がったか?」
ラップトップは彼の膝の上にあった。
「ああ、うん。そうだね……なにもない。っていうかOSも入ってないじゃないか。せっかくメーカーの最新モデル使ってるのに、なんのつもりだろう」
「そっちのUSBは?」
「投げてくれないか」
わざわざテーブルから遠いところに行ってそれはワガママではないか。仕方なしに、適当に見繕ってUSBを一本放る。
「OS入ってなくて読めるのか」
「知らない。だからこっちで読もう」
ロッカーを開くと、神居は鞄を引きずり出す。見えないと思ったらすでにロッカーの場所も決めてしまっていたらしい。自分勝手指数がそれなりに高そうである。
彼はタブレットらしきものを取り出すと、USBを差し込んだ。
「カーッ、コンピュータなんかよくやるぜ」
これは言うまでもないが炎条寺陽子の発言だ。
「……いや、ないな。なにも入ってない。使い方は自分たちで考えろってことかな」
収穫なし。
「自分たちで考えろといっても……」
この大学に自由意志はほとんどない。所属するサークルが決められているのに、そのサークル内での活動は自由という中途半端な縛り方をはたして許すものだろうか?
「凩さん」
真琴の声に、憂奈が顔を上げた。手が動き続けているあたり、これはもう癖と言うよりある種の能力である。
「ずっとあたりに気を配っていたと思うけど、なにかヒントになりそうなのあったかい」
手が止まる。シャーペンを唇に持って行って、少し唸ってから、
「誰か来るみたいですよ」
それと同時に、ドアがノックされた。
4.五人目不在の活動説明
「サークル管理員の雨雲レイキンです」
「なんだって?」
思わず問い返すと、まだ若そうな男はハハハと声を上げて笑った。
「名字が雨雲、名前がレイキン。変な名前だろう」
正直に言っていいものか。
「さて、君は希代大樹だね。それに神居真琴、凩憂奈、なに書いてんの? あ、メモは別にオーケーだよ。炎条寺陽子……うん、四人はいるね。後一人はまだかな……ちょっと炎条寺くん、あんま睨まないでね、怖いから」
「ケンカ売ってんのか」
「僕ァドクターストップ食らっててね。あ、今の笑うところね」
陽子の血管が音を立てつつある。よりによって陽子を挑発するこの男を大樹もどうにかしたい。
「それで、まあ時間まだなんだけど、僕ちょっと用があるから先に説明しちゃうね」
レイキンなる男が説明したことを以下に列挙する。
・雨雲レイキンは本名である
・年齢は26歳。大学の事務員。
・柔道三段
・近視
・昼はカツ丼を食べた
・この後の予定とはデートのことである
このあたりで陽子が本気で殴りかかり、ドアが今度こそ歪んだ。
「いやはや、そうはいってもね、このサークル、僕にもよくわかんなくて、ていうか普通サークル活動の説明なんて先輩がやるんだけどここ新設だから」
おおかたの予想通り新設だった。
「それで、僕がもらってる資料、特になにもかかれてないんだよね。毎日の活動時間が20時までって決められてる以外」
「はあ?」
「どういうことです?」
「さあねえ」
レイキンはボリボリと頭を掻きながらヘラヘラと笑う。
「このサークルの創設、学長の一存だからねえ」
「学長の一存?」
「そうそう、神居くんと炎条寺くんが合格したって聞いた学長が突然発狂してね、五分後には企画書っていうか、そんなのができてた」
「学長は活動内容についてなにも言わなかったのか?」
「希代くん、いいとこ突くね。僕も最初はきこうとしたんだけど、この学校、学長室隠されてるから」
もはやつっこむ気すら起きない。
「そういうわけで、このサークル、サークル名と活動内容が白紙。活動時間は20時まで。それより早く帰宅することは許されないからね。まあわかってると思うけど、守られなかったら退学」
あんまり理不尽すぎやしないか。
「で、結局なにすりゃいいんだよ」
「なにって言われても、活動内容が白紙だから……そうだなあ。学長に直接尋ねてみたらどうだい」
「今、隠されてるって言いましたよね」
「だから、探すのさ。たぶん白紙なんだからちょっとくらい自由に活動してもいいと思うよ。罰則事項は帰宅時間だけだからね……あ、そうそう、帰宅の判定は20:00~23:59の間に大学の校門を抜けることね。別に東西南北どこでもいいから。別に外出は制限されてないし自分の部屋に戻ってもいいけど、必ずこの時間帯に一回、門を通ること」
嫌がらせのような制限である。
「ま、そういうわけで。でも君ら、運がいいと思うよ。罰則が時間だけなんて、ほかのサークルに比べて恵まれてる。超がんじがらめなとことか普通にあるから」
「はあ、うれしくありませんが」
真琴も結構正直であった。
「さて、じゃあ僕はそろそろ行こうかな。なにか質問ある? ていっても、特に答えられることないけど」
じゃあいらない、とレイキンを追い出した四人は頭を抱え込んだ。
「今日、入学式だぞ」
言いたいことはわかる。多少不安のあった大学生活がいきなりとどめを刺された感じだ。活動内容一切不明ときたら、自由かどうかすらもわからないではないか。
「あの雨雲さんの言うとおり、学長にきいた方がいいかもしれないな」
「でも学長室、隠されてるんでしょう?」
「意味わかんないな」
正直なところ、今の状態は非常によろしくない。なにが原因で退学になるかわかったものではないのだ。実際、入学式中に五人が退学処分になった(理由は発表されていない)一人くらいは遅刻したヤツもいるだろうから、退学者は今日だけで十人程度でていてもおかしくない。
もしかすると、五人目はすでに退学になっているのではないか? いや、それならばレイキンが言及しそうなものだ。
扉がノックされた。
レイキンだった。
「いやはや、忘れてた忘れてた。君らのサークル名、決めておかないといけないんだった」
「はあ?」
ナニをするかもわかっていないのにこれはない。
「いや、決めるのは明日まででいいよ。また来るから、そのときに教えてね。よく話し合うといいよ。一度決めたら廃部まで変えられないから……そうそう、君たちの前にこの部屋使ってたのは地下天文学同好会ね」
大樹的には興味をくすぐられる名前だったが、もう存在しないのだから好奇心も意味がない。廃部になったということだし。
「サークル名、ねえ。つまりこうだろうか。学長を今日中に見つけ出し、活動内容を問いただして、ふさわしい名前をつけろ、と」
ありそうでイヤだ。
「やっぱり学長は探すのな……それより、五人目を一応待った方がいいんじゃないのか」
「そうだねえ……じゃあまずはこのサークルの第一回決議といこう。学長を捜した方がいいと思うか、探すのと五人目を待つの、どちらを優先するか」
……そして、学長はやはり探した方がいいとなり、五人目も待った方がいいとなった。理由は前述の通り、退学をおそれる心であり、後者については、人手が増えた方がよいだろうという意見による。
そして五人目が現れるまで実に二時間を無駄に過ごし、彼らは酷く後悔することになったのだった。
<続く?>
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特異な大学の特異なサークル。活動内容、サークル名一切不明の新設サークルに放り込まれた大樹少年のよくわからないぐだぐだした日常の予定