「……おのれ、あの小童が!」
バシッ!と。
手に持っていたその書簡を、憎憎しげに床に叩きつけ、王允は興奮でその鼻息を荒くする。
それは、一刀から送られてきた、理由の無い罷免には従う謂れが無いとした、勅命に対する拒否文である。
「……少しは落ち着いてはどうだ?司徒よ」
「これが落ち着いてなどおられますか!天の御遣いなどと名乗っているだけでも、十分に不遜だというのに、勅命まで拒否するとは何たる傲慢さか!」
諭すようにして王允に声をかけたその人物に対し、激昂したまま早口で返す王允。
「勅書に罷免の理由を書かなんだお主も、それはそれでどうかと思うがな」
「理由など必要ありますまい?漢の勅は絶対のものなのです!それを断れる者のほうが、どうかしておるのです!」
漢の命を聞かぬものなど、その威にひれ伏さぬ者など、この世に居ること自体ありえないことだと、王允は本気でそう思っている。彼にとっては漢こそが全てであり、諸侯も民草も、漢無くして安寧とした世など過ごせないと。
心底から、信じて疑っていないのである。
「……ならば、その勅に従うものに任せておけば、それで安心ではないですか。……南皮の袁紹に、ね」
「さ、左様でございますな。はっはっは。まったくもって仰せの通りで」
……こやつには、己の考えというものが無いのかと。その人物は呆れたその目を、王允に向ける。
(……そろそろ、漕ぎ手を変える時期かもな)
所詮、ただ言われたままに舟を漕ぐ、漕ぎ手頭程度でしかないその老人に、そろそろ見切りをつける時が来ているなと。その人物は王允を冷ややかな目で見ながら、そんなことを頭の中で考えていた。
当の王允はというと、自身がそんな風に思われているなどとは露知らず、一人高笑いを続けていた。……己の残り短いその、人生という川のすぐ近くに、間もなく深い滝が迫っていることなど、想像だにすら出来ずに。
ここから、その場面を冀州へと移す。
冀州は基本的に、三つの郡に分かれている。すなわち、
一刀の治める鄴郡、
袁紹の元々の統治域である、南皮郡、
そして、その間に挟まれた形になっている、平原郡、である。
-正史とは、そこがまた違う点である。
正史の冀州は、もっと細かく郡が分かれている。例えば、一刀の居る鄴の地。この一帯は、正史では魏郡と呼ばれる地域である。正史での曹操が、後に魏公に就任したのも、この地を抑えて領としたのが、その由来だといわれている(諸説あり)。
そのあたりの違いを知ったとき、本当に別世界なんだな、と。一刀は改めてそう思ったものである。
それはともかく。
今、その鄴と平原の郡境において、一刀と袁紹が、それぞれに軍を率いて対峙していた。
「ご無沙汰ですわね、北郷さん。それにしても、わざわざお引越し前に挨拶にみえるなんて、なかなか礼儀をわきまえていらっしゃいますわね。お~っほっほっほっほっほ」
「……引越し、ですか。一体誰が、どこに引っ越すと?」
一刀達が目の前に来ている理由を、完全に勘違いして高笑いをする袁紹に、一刀はわざとらしくその首をかしげ、そう問い返した。
「そんなもの決まってますでしょう?貴方が、都に、一人で、じゃないですの。……って、あら?その割には随分大所帯ですわね」
「そりゃそうですよ。俺は別に、引っ越したりするわけじゃないですからね」
「じゃ、何のためにここに来ていますの?……あ、もしかして、私に朝廷に許しを請うための協力でも、お申し出になるつもりですの?まあ、お気持ちは良く分かりますわ。”名門”たる私の口添えを欲しがるのは、”庶民”からすれば当然ですもの」
おーっほっほっほ、と。一人で勝手に結論付け、高笑いを周囲に響き渡らせる。その袁紹を見て、はあ~、と。大きくため息をついて呆れる一刀たち。
「……どうやら、本気で分かってないみたいですね。……袁紹さん、俺たちがここに来た理由はね、貴女方に帰ってもらうためですよ」
「~っほっほっほ……って、はい?」
その高笑いを中断し、呆気に取られて首をかしげる袁紹。その後ろに立っていた顔良は、小声でこうつぶやいていた。
「……やっぱり」
「斗詩~。何がやっぱりなんだ?」
「……はあ~。もう一人、現状が分かってないのが居た……」
「??」
本気で首をひねっている文醜を見つつ、大きく肩を落とす顔良であった。
「……北郷さん?今のは一体どういう意味ですの?」
「……まだ分かりませんか?ならはっきりと言わせてもらいます。俺は、俺たちは、勅命を断る旨を、都に対して通達しました。なので、貴女に鄴を、みんなを渡すわけにはいきません」
「え?え?え?」
一刀のその言葉を瞬時には理解できなかったらしく、袁紹はその目を白黒させて、思い切り動揺をその顔に表す。
「……俺たちは、無駄な戦いをしたいとは思っていません。ですから、このまま大人しく、帰ってもらうことは出来ませんか?そして出来うるなら、俺たちと手を取り合って、これからの乱世を」
「……っじゃ、ありません、わ」
「え?」
「冗っ談っっではありませんわ!」
「ッ!!」
ようやく一刀の言葉の意味するところを理解したのか、袁紹は大声を上げて、一刀のその提案を拒否した。……それこそ、夜叉の如き、その形相となって。
「勅命に逆らうですって?!貴方はなんていう不遜な事をなさいますの!?四世に渡り、三公を輩出してきた名門として、漢の臣として、そのようなことは決して認められませんわ!!」
(……本初、おぬし……)
その袁紹の台詞を聞き、度肝を抜かれたというか、以外というか、そんな表情をしている李儒をちらりと見た後、一刀は袁紹にこう問うた。
「……その漢の、威光はすでに、消えかかっているのに、ですか」
「だからこそ!ですわ!私たちが漢の威光を取り戻す、そのお手伝いをすれば良いのですわ!そうすれば、亡き少帝陛下も、喜んでくださいますわ!そして、本初よ良くやったと、私の”罪”を許してくださいますわ!」
(罪……?……元直よ、もしや、あの時の事かの?)
(……多分、そうだと思います。気にはしていたんですね、あれから)
それは、虎牢関での戦いの時のこと。
袁紹は、呂布に対するそのあまりの恐怖から、徐庶を人質にとって、一刀に呂布を討つよう命じるという暴挙に出た。
その事を、戦後に李儒-当時はまだ劉弁と名乗っていた彼女から責められ、意気消沈としたまま南皮へと戻り、”罰”を言い渡されるその日を、戦々恐々として待ち続けていた。
(……私としては、あれだけ脅しておけば十分だと、そう思っていたのだがな。……もっと、はっきりとしておけばよかったやもな)
そして結局、罰が何も言い渡されないまま、劉弁は歴史の表舞台から、その姿を消してしまった。
それを知ったとき、袁紹の心に残ったのは、大きな喪失感と虚無感であった。
そして、彼女はこう思うようになった。
『漢の為に全力を持って働けば、きっと、亡き少帝の怒りも収まる、と』
だからこそ、その後送られてきた”勅命に従い”、当時平原を治めていた劉備を、その首級を挙げるために急襲した。理由などは、関係が無かった。そうして勅命に従って働くことが、漢の威光を取り戻す最善の道だと信じて。
だが結局、劉備を討つ事は叶わなかった。
たまたまその場に居合わせていた、公孫賛の客将という趙子竜という名の武人に阻まれ、劉備を逃がしてしまう羽目になった。
勅命を為すのに失敗した彼女は、何とか汚名を返上したいと思った。その矢先、今度は鄴の地を一刀から接収し、己の領とするようにという勅が届けられた。
彼女は今度こそ、勅命を果たせると思った。都へ一人出頭する一刀に代わり、ただ、自分たちが駐屯するだけでいいのである。
なのに、いざ出てきてみれば、その一刀は勅命を拒否して鄴に居座ると言い、自分たちには帰れといっている。しかもこともあろうに、朝廷に逆らった自分たちに協力しろとまで言っている。
-出来るわけが無い。そして、許せるわけが無い。
そんなことをすれば、いつまで経っても亡き少帝の怒りが解けることなど、ありはしないから。
彼女は、自分の後ろにいた顔良と文醜に、命を下した。
「斗詩さん!猪々子さん!全軍に戦闘の準備をさせなさい!目の前にいる”逆賊”を討ち、今度こそ、勅命を成し遂げますわよ!」
『りょ、了解です!』
「袁紹さん!」
「うるさいですわ!もう話すことなど何もありませんわ!逆賊北郷一刀!その首叩き落して、亡き少帝陛下の墓前に捧げて差し上げますわ!全軍!攻撃用意!」
おおーーーーっ!
一刀の呼びかけにはもはや聞く耳を持たず、袁紹は攻撃準備の命を下し、自身は本陣へと下がっていく。
「くそっ!結局やるしかないのか……!輝里!」
「はい!徐晃隊・軽騎兵団、左翼に鋒矢陣で!「応!」姜維隊・軽歩兵団、右翼に衝範陣!「はいよ!」司馬懿隊・弩弓兵団、中央にて三段陣に!「……はい」」
徐晃、姜維、司馬懿と、それぞれへの指示を、一刀の声に応えた徐庶が矢継ぎ早に出していく。それを受けた三隊が、一刀たちの前面へとすばやく動いて陣形を整えていく。
そして。
『……放てーーーーっっっ!!』
大量の、矢の雨の応酬から、戦端は開かれた。
袁家の兵は、見た目が派手で、数がいるだけ。
そんな風に評したのは、袁紹の友人である曹操である。まあ、曹操本人は、袁紹とは別に腐れ縁なだけで、友人なんかではないとのことではあるが。
それはともかく、その評は適切であった。
戦が開始されてから、わずか半刻ほどしか経っていないのであるが、すでにその勝敗は目に見えて明らかだった。むろん、北郷軍が圧倒的に優勢である。
その理由は三つほどある。
一つには、先の評のように、袁紹軍は質より量であったこと。兵一人一人の練度があまりにも違いすぎた。何しろ、袁紹軍には”一人も”、死者が出ていないのである。皆が皆、怪我こそ負って戦闘不能となっているものの、ただの一人として命に関わる程の重傷者は出ていない。全員、北郷軍の兵たちに、”手加減”されていたのである。
命のやり取りをする戦場にあって、相手を殺さずに倒す。それも、将がではなく、一兵士たちが、である。……練度の差の程は、ご理解していただけると思う。
もう一つの理由は、その兵を率いる将にあった。
現在、この場で戦の指揮を取っているのは、袁紹の腹心ともいえる顔良と文醜の二人である。その内、顔良に関していえば、文醜よりはまだ、兵をよく操ってはいる。だが、あくまでも、文醜よりは、である。相手をしているのは徐晃であるが、その彼女の相手としては、あまりにも不足すぎた。
徐晃は自身の率いる軽騎兵を、縦横無尽に戦場を駆け巡らせ、徹底的に顔良隊をを揺さぶった。絶対に立ち止まることなく、常に移動し続け、相手の兵たちを翻弄。無理に倒そうとすることもなく、相手の戦意を落とすことだけを考えての用兵をとった。
そんなことを続けているうちに、顔良隊の兵たちはいつどこから襲われるかわからない状況で、完全に恐慌状態に陥った。兵の士気が落ち、戦闘の継続が難しくなったと判断した顔良は、部隊に撤退を命じて、本隊へと合流していった。
一方、文醜のほうはもっとあっさりと片がついていた。
姜維の部隊と当たった彼女は、相手とぶつかったその瞬間に、すぐさま姜維に一騎打ちを仕掛けてきたのである。部隊の指揮もへったくれもなしに、である。
そんな彼女に対し、姜維は適当に十合ほど武器を交わした後、さっさと逃げ出したのである。で、当然そうとなれば、文醜は勢いに乗ったままその彼女を追った。……罠の可能性など、まったく考えずに。
気がつけば、周囲を完全に包囲されて、文醜はその逃げ道をふさがれた。味方は、五十人ほどの一般兵のみ。終わったなと。本人もそう覚悟を決めたのであるが、その五十人ほどの一般兵が、後方の手薄な部分に突撃を敢行し、彼女の逃げ道を作ったのである。
文醜は逃げるのを良しとしなかったが、彼女の乗っていた馬の尻を、兵の一人が思い切り引っぱたいたことで、その馬が猛然と駆け出した。……その、開いている逃げ道へと。そうして、文醜はどうにかこうにか、本隊との合流に成功した。
……ちなみに、彼女を逃がした兵たちは、全員が”無事”に捕らえられた。後々、その彼らが大事な役目を果たすことになるのだが、それはまたその時にお話したいと思う。
そして、最後の三つ目の理由であるが。
まあ、いわずもがな、というやつであろう。総大将である袁紹、その人が理由である。
本人としては、自分と同様に、兵たちも勅命をこなすことに必死になってくれると、そう思っていた。いや、思い込んでいた。
だが実際には、兵たちにはそんな義理などまったくなかった。……先の黄巾の乱以降、いや、それよりも前から、世の中は荒れ始めていた。それは何故か?
朝廷には、漢王朝にはもはや、求心力というものが全く無くなっていたから。
それが、大多数の民たちの共通した意識であった。では、自分たちは今後、何を信じ、何を頼れば良いのか?もっとも身近なのは、その土地を治めている太守や領主である。だが、その太守が、自分たちが信じられなくなっている朝廷を信じ、そのために命を懸けろといっている。
太守のことが信じられるのであれば、彼らはそれに従い、その身を賭したかも知れない。だが、袁紹はそこまでの、命を賭けるほどの人物かといわれると、まあ、ほとんどの者が否、と答えるであろう。
袁紹は、人目を引く派手な政策には積極的に投資をし、その資金を惜しみはしないのであるが、人目につきにくい、地味な政策-農業とか福祉とかには、ほとんどその興味を示さない。それでも何とかやってこれたのは、”以前”、袁紹の配下に居た荀諶という人物のおかげである。
その荀諶が、袁紹をあの手この手で何とか説き伏せ、僅かながらもそういった方面への投資を行っていたのであるが、その荀諶がある日、突然隠居するといって南皮を去ったのである。そうなれば当然、投資は完全に停止するか、僅かに、細々とした捨扶持程度が、支給されてくるのみ。
農業は廃り、福祉は質が落ち、その影響で人も減り、流通も滞り始める。それなのに、袁紹は勅命をこなす為といって、軍備をどんどん増強し、兵を徴していく。
-もう、南皮の人々は、彼女についていく気を、完全に無くしつつあった。
そこに、どう見ても、筋は向こうのほうが完全に通っている相手との戦である。しかも、その相手は”天の御遣い”と噂される人。太守としての評判も高く、人望もあり、配下の将にも恵まれていて、兵の練度は段違い。
そんな状況で士気など揚がるはずも無く、兵たちは次々と逃げ出し始めた。
残ったのは、彼らをむなしく鼓舞する、袁紹の声のみ。
戦闘開始から、一刻。その趨勢は決したのであった。
「な~んで、皆さん戦おうとしないんですの!?これは勅命ですわよ!勅命に従わなければ、私たちは」
輿の上で、逃散していく兵たちを見ながら、彼らの行動が全く理解できず、袁紹はそう叫んだ。
「麗羽さま~、もう無理ですよ~。兵隊さんたち、戦う気力なんか、これっぽちも残ってません~」
「み~んな、逃げちまったな~。ま、しゃーないか。姫の下じゃあ、これ以上付き合う義理は無いもんな~」
「ちょっと、猪々子さん?!それ、どういう意味ですの?!」
ぎろ、と。
頭の後ろで腕組みをしながら、そんなことをポツリとつぶやいた文醜を、袁紹がものすごい形相でにらみつける。
「文ちゃんのことはともかく、これからどうするんですか、麗羽さま?もう、ここじゃこれ以上戦えませんよ?」
「うぬぬぬぬ……っ!!し、仕方ありませんわ、この場は退却して、南皮に戻って態勢を立て直しますわ!斗詩さん?平原においてきた沙耶さんと狭霧さんに、私たちが撤退する時間稼ぎをするよう、お伝えなさいな!」
「ええっ!?そ、そんな、無茶ですよ!沙耶さんたちは五百しか兵を連れていないんですよ?!そんなこと、死ねといっているようなものじゃ」
「私のために死ねるんなら、あの二人も本望ですわよ!ええ、そうですとも!そう思ってくれるに決まってますわ!!」
殿(しんがり)というより、ただの壁。
それを、現在平原の街に残って事後処理をしている、張郃と高覧の二人にさせるよう、袁紹は顔良に伝令を出させた。そして、自身は一目散に、本拠である南皮へと撤退していった。
その袁紹軍の様子を見た、一刀たち北郷軍の陣では。
「……追撃をしろ、と?」
「はい。……このまま捨て置けば、またいつか、袁紹さんはこちらを攻めて来るでしょう。……その為に、残り少ない若者たちを無理にかき集め、更なる負担を民たちにかけて、です。……それは、一刀さんの望むところではないでしょう?」
「……」
撤退する袁紹軍を追い、南皮まで攻め落とすべきだと、徐庶は一刀にそう具申した。……普段、朗らかで穏やかな彼女ではあるが、こういう時だけはその感情を封印し、冷静に戦況を判断して、冷徹にその場で最適な策を献策してくる。
だからこそ、彼女が名参謀といわれる所以であり、一刀が彼女を一番に信頼している、理由である。
「……わかった。けど、その前に、平原にだけは寄っておきたい。……いいね?輝里」
「はい。……そう言うと思ってましたよ。……あ、でもその前に後一つだけ、オハナシしておきたいことがあるんですが」
に~っこりと、これ以上無いくらいの笑顔を見せ、一刀にそれを向ける徐庶。
「……な、ナンデショウカ?カガリさん?」
「……大した事じゃないですよ。……”これ以上”は、赦しませんから。……ワカリマシタネ?」
「………………ハイ」
「……の、仲達よ?」
「……なんでしょう」
「元直は、”いつも”あんな感じなのか?」
「……大体は。……ま、頑張って下さい」
「は、はは、は……。と、とんでもない恋敵じゃの……」
と、にっこり微笑む徐庶の隣で、蛇ににらまれた蛙の様になっている一刀を、その頬を引きつらせつつ見ている李儒であった。
~続く~
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北朝伝、三章・四幕でふ。
漢と袂を分かつ事にした一刀たち。
鄴の地を接収に来た、袁紹軍とついに対峙します。
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