練習室の防音扉を開いて、木戸武(きどたけし)は思わず舌打ちをこらえた。
「あ、木戸くんだ」
楽譜から顔を上げたその子は今、一番会いたくない人物であったから。
呑気に足をプラプラさせて、笑いかけてくるその無邪気さに腹が立つ。
それでもなんとか笑顔を取りつくろって木戸は花重祥子(はなみえしょうこ)に声をかけた。
社会適応するくらいの知恵はある。
「連弾の相手ってお前だったのか」
「うん。先生はケータイかかってきてどっかにいっちゃった」
華奢な指が外を差す。
「あっちかな。こっちだったかな」
どっちでもいい。
「でねー。曲はこれ」
はい、と手渡された楽譜をぱらぱらとめくる。
「ヘンデルのサラバンドか。また有名どころを」
「この曲好きー」
お前の好みなぞ聞いてねえよ。
「ちゃっちゃとやろう。一回譜読みして合わせようぜ」
「あたしはもうやったから。木戸くん待ってる」
余裕かましやがって。
「じゃ、お言葉に甘えて。おれ、1でいいのか」
「いいよー。あたし、伴奏の方がやりやすいんだよねー」
へへっと祥子が笑った。
さりげなく無視して木戸は楽譜に目を落とす。
幼稚園からピアノを習っていた木戸は地元では神童と謳われた。
難曲をなんなく弾きこなし、「ピアノ弾ける男ってかっこいいっぺ」と大層もてた。
当然、雄大な夢を胸に上京し大学に入ったものの、伸びきった鼻はばっきりと折られた。
才ある者は才を知る。
自分レベル、いやそれ以上のレベルのものなんて掃いて捨てるほどいたのだ。
今まで田舎の片隅でチヤホヤされて天狗になっていた自分が恥ずかしくなった。穴を掘って入りたいくらいに。
それだけでもしょげていたのに、追い打ちをかけたのが祥子のピアノだ。
水をぶっかけられたような衝撃を感じた。
「天才だから、あの子は」
横にいた友人は諦めたようにそう言って笑ったが、木戸は祥子に激しい嫉妬と憎悪を抱いた。
ただ指が鍵盤を叩いているだけだ、それだけでなんであんな音が出せるんだ、どうして耳をふさぎたいのに体が動かないんだ。
自分が欲しくてたまらないものをあの子は持っていて、いともたやすく披露している。
祥子自身がその才能を鼻にかけるわけでもなく、天然で呑気な性格だったことにも腹立たしさを覚えた。
そういうわけで、木戸は祥子が大嫌いだった。
息をひとつ吐いて、木戸は譜読みに集中する。
ヘンデルによるハープシーコード組曲 第二集の四曲目。
「サラバンド」とは、17世紀にフランスで流行した3拍子の荘重な舞曲である。ラモーやバッハ、他多数の作曲家が作曲しており誰のどの時期に発表したかを確認しないと特定できないほどである。
ヘンデルのこの曲は日本でも有名で、曲名を知らずともメロディーを知っているものも多いのではないか。例えば、映画「槍ヶ岳」でも使われたし、車のコマーシャルにも使用されたこともある。そして誰もが知っている「風の谷のナウシカ」の「ナウシカ・レクイエム」(女の子がつたない声でランランララ…と歌っている)の冒頭部分が非常に酷使している。原曲についての発表はないが「サラバンド」のメロディーがアレンジされていることは間違いないだろう。
今回、二人が連弾するこの曲は何度もメロディーを繰り返してゆくに従い、音を幾重にも重ね重厚さを増してゆく。最後には怒濤の迫力に迫るは、ラヴェルのボレロのようだと言えば分かりやすいだろうか。
木戸が担当する主軸は和音を増やしてゆくだけだが、祥子の担当の伴奏は繰り返すメロディーごとにアレンジを変えて多彩に変化していく難しいパートだ。
できればそちらをやりたかったが、先に取られてしまったのが少々悔しい。
ふと、目線を感じて木戸は顔を上げた。祥子がマジマジと自分を見つめている。
「……なんだよ」
「木戸くん、横顔きれいだねぇ」
顔が赤くなったのが分った。羞恥にではない。苛立ちだ。
「……合わせるぞ!」
吐き捨てるように言うと、ピアノに向かう。はーい、と呑気な返事をして祥子も座りなおした。
「最初はゆっくりで。これくらいに」
トン・トンとリズムを取ると、祥子が頷いた。
音が響きだす。
出だしは木戸の主軸のみ。ゆっくりと湖畔を滑るような静かな旋律。二周目にかかると祥子の伴奏が寄り添うように入ってくる。三周目、四周目と重ねるたびに音は多様化し溢れ出る。思わず木戸は引き込まれそうになった。
初見でこれかよ。
まるで伴奏に引きずられるように二つの音階は、絡まり高まり合ってゆく。蔦が光を求めて急速に成長しているような、その様子を高速でみているような、そんな錯覚に陥ってしまう。
「ふいー」
弾き終わった祥子は、奇妙な息を吐いた。
「いい曲だー」
対し木戸はぐったりと椅子に凭れかかった。なんだかこいつに全てを吸い取られたような気がする……。
「弾いている時さー」
ポーンと祥子が鍵盤を叩いた。
「どの曲でもそうなんだけど。気が付けば頭が真っ白になることってない?」
「あ、それ分かる」
思わず素直に賛同した。
「なんか、意識が遠くに行っちゃって、音と同化したみたいな」
「そうそう、我に帰ってここどこ!? 今何合目!? とか思っちゃったり」
クスクスと二人は笑う。
「すっごく気持ちいいんだよね、あれ。なんていうの、無我夢中みたいな……」
「エクスタシーみたいな」
からかいを含めて木戸が言うと、祥子は目を輝かせた。
「ああ、そっか! エクスタシーなんだ!」
そう無邪気に言われるとなんだかなあ。
「ようし、ガンガン味わうぞ! 今度は本気でやってやる!」
っていまのは本気じゃなかったのかよ。
「木戸くん、もう一度手合わせお願いします」
「武士か、お前は」
そう言いながらも、木戸は身を起こした。
先程とは違って道は覚えた。後はいかに辿るかである。
その余裕は祥子が入ってきた途端にぶっ飛んだ。まるで別人だ、なんだこの音は。
はしゃぐ、せめぐ、飛び交う、伸びる、駆ける。
蔦どころではない、嵐だ。波のように高まっては木戸を翻弄するかのように絡みつく。
巻き込まれる、飲み込まれる、自分の存在さえ消されるように。
飲み込まれて……たまるか!
主軸とその伴奏はお互いを襲い、意義を主張するかのようにぶつかり合った。魂は同化し、ただただ本能が支配する。
もっと上へ、もっともっと――!
叩きつけるようなアルペジオ、音階の向こうから襲いかかる快楽、旋律は洪水のごとく流れ再び上昇する。
もっと高みへ、もっともっと――!!
最後の和音から手を離した瞬間、木戸は今度はピアノに突っ伏した。
「うーあー……」
祥子は椅子から転げ落ちて、そのままひっくり返った。
しばらく二人は無言だった。しゃべる気力もない。ピアノを弾いてこんなに脱力したのは初めてだ。
祥子が口を開いたのは、どれほど時が経った頃だろうか。
「木戸くんのピアノはさ」
「うん」
腕の間から顔だけを向けてそちらを見ると、祥子はむくりと起き上がった。セミロングの髪がボサボサになっている。
「落ち着いていて、軸がしっかりしているから。安心して弾けた」
「はあ」
「あたし、ダメなんだよねー。感情で弾いちゃうからさ、先生にもよく怒られるんだー」
そうは思わない。祥子のピアノには人を惹きつける何かがある。自分にはないものだ。
だけども、木戸の顔は赤くなった。
「技術は素晴らしい。だが感情がない。まるで電子ピアノの自動演奏を聴いているみたいだ」
何度そう評されただろう。
初めて認められた。それも自分が羨んでいる相手から。その事はびっくりするくらい嬉しくて堪らないものだった。
「あのさ」
「んー」
「もう一回いってもらっていいか」
「なにをー?」
「おれの、その……」
詰まった木戸に、祥子はふんわりと笑った。
「あたしは」
ゆっくり立ち上がって、椅子の背に片手を置く。そして席に片膝をついた。
「木戸くんのピアノが」
真っ直ぐに目を見て、囁くように言う。
「大好きだよ」
ああ、そうか。
「大嫌い」と「大好き」は、ちょっとしたきっかけでころりと入れ替わる。
違う、自分はこの子の事が好きだった。
初めて祥子のピアノを聞いた時から恋に落ちていたんだ。
認めたくなくて気持ちをすり替えていたんだ。
「あ……」
声はのどの奥に引っ掛かってかすれて出た。
「ありがとう……」
「どういたしまして」
祥子は首を傾げて再びにっこりと笑った。
その頃、防音室の扉前。
「弱ったなあ……」
収まりの悪い白髪を掻きながら中年の男が心底困ったように立ち尽くしていた。
片手には携帯を握りしめている。
扉の小窓から覗けば、教え子二人は見つめあったまま動かない。立ち上るは自分も若かりし頃に体験した青い春。
「入ったらお邪魔だよなあ……」
己の立場を再確認しエイヤー! とばかりに突入するか、恋せよ若人邪魔者は立ち去るぜアディオス! と回れ右をするか考えあぐねて、中年男は再び頭をかいた。
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恋とピアノと名曲と。
*サラバンドはピアノでも様々にアレンジされていますが、この話はオイゲン・キケロの「ロココジャズⅡ」―組曲第四番よりサラバンド―をモデルにしました。