閑静な高級住宅街の中でも一際目を引く屋敷の前で、柏木宗助は息を吸った。
主家に入る時は、いつもほんの少しの勇気がいる。
「臆することないさ」
本村泰二はそういって笑う。
「身分なんて取ってしまえば、結局みんな同じだろう」
それは、あちら側の人間の言うことだ。伯爵家ご子息の泰二とは帝都大学時代の同級生であり友人でもあったが、育ちの違いを端々に感じる。息苦しくなるような嫉妬を無理やりに抑えて、宗助も笑うしかなかった。
頭をひとつ振って、気持ちを切り替える。呼び鈴を鳴らすと、女中が顔を出した。
「あれ、柏木様」
郷土訛りの強い声を上げて、目をぱちくりさせる。ドングリの様な眼や、赤みがかった頬が可愛らしいと言えなくもないが、いかんせん田舎臭すぎた。洋装に慣れていないのだろう、バックルの位置が高すぎることも。
「旦那様と奥様は、本家へ年賀のご挨拶に行かれましたが」
勿論想定済みだ。
「そうか、残念だな」
宗助は困ったように眉を顰めて口に手を当てた。視線を斜交いに転じれば、僅かながらの憂いができる。それがとても美しく見えることを――特に女には――宗助は熟知している。
「元旦には風邪をひいて無礼をしたものだから」
女中はしばらく茫然と宗助に見入っていが、はっとしたように声を上げた。
「お嬢様がいらっしゃいます。少々お待ちくだせえ」
今日はそのお嬢様に用がある。
宗助は地方の貧しい農家の息子だった。幼いころから秀才の誉れ高かったお陰で同郷の子爵の目にとまり、書生へと引き上げられた。援助を受けて帝都大学へ行くことも許された。今は新聞記者として働いている。
恩人である子爵には感謝しても感謝しきれない。だが、それとこれとは別物だ。別物だと思いたい。
「あら、柏木さん。ご無沙汰でしたわね」
案内された部屋には、子爵令嬢の彰子がピアノの横で楽譜を閉じながらにっこりと笑った。
濡れ烏の様なたっぷりとした黒髪は大ぶりのリボンで纏められ、珊瑚色のブラウスにビロードのゆったりとしたスカートをはいている。
「お父様とお母様は山梨家へご挨拶に行かれてしまいましたの。わざわざお越し頂いたのに、申し訳ないわ」
「とんでもない、わたしが押し掛けたものですから、すぐに失礼いたします」
いいえいいえ、という風に彰子は首を振った。
「そんなことおっしゃらないで。どうぞゆっくりなさっていってくださいね」
この人は本当に美しい。顔も心も全てが。
宗助が彰子にあったのは、今から七年前、まだ彰子が少女の頃だった。初めは男性に慣れていない少女が恥ずかしそうに父親の影に隠れるのを、微笑ましく思っただけだった。気が付けば、いつも目で追っていた。探していた。その内、狂おしく想うようになった。
上京して関係したどの女とも彰子は違った。美しく清冽なまま、宗助の心の中に君臨している。まるで女神のように。
「ピアノは続けておられるのですね」
「ええ。唯一与えられた自由ですもの」
「昔を懐かしく思います」
宗助が微笑むと、彰子は恥ずかしそうに頬を染めた。
――柏木さん、柏木さん、あのね。彰子の秘密を教えてあげる。
打ち明け話をするように、耳打ちをして来た時の少女の吐息。
――大きくなったら、エジプトに行くの。ピラミッドを見てみたいの。ピラミッドはね、王様のお墓なんだって。それを大きな象さんが守っているんだって。
――はあ、象さんが。
多分、スフィンクスの事を言っているのだろう、象と像を間違えたのだろうと思ったが、宗助は違うことを口にした。
――では、わたしも連れて行っていただけますか?
その答えを覚えていない。あの時、彰子はなんと返事をしたのだろうか。
「わたくしだって大人になりましたもの」
言葉の中に寂しさが混じっているのは気のせいだろうか。
「世の中の理だって、理解しているつもりですわ」
しばし沈黙が室内を支配した。目の前に置かれている紅茶の湯気だけがゆっくりと立ち上っている。
「お願いがあるのですが」
彰子が顔を上げた。
「ピアノをお聞かせくださいませんか」
その為に来た。その為だけに来た。
「ええ、ええ、勿論」
場違いなほど明るい声を出して、彰子が立ち上がった。
「リクエストは?」
「ラ・カンパネッラを」
ラ・カンパネッラ。
二コロ・パガニーニのヴァイオリン協奏曲第2番ロ短調Op.7、第3楽章のロンド『ラ・カンパネッラ』を主題を聞いたフランツ・リストが「わたしはピアノのパガニーニになってやる。さもなければ気違いになってやる」と熱烈に意欲を燃やし、ピアノ用に編曲したものである。
ピアニスト泣かせといわれる難曲を、彰子は見事に弾きこなした。
輝くような高音が部屋の中に満ち溢れてゆく。チリチリと煌めく火花を散らしているような。
これが欲しかったんだ。
宗助は長椅子に身を預けて、目を閉じた。暗闇にピアノの音色が星屑を撒いてゆく。
手の届かない存在を無理やり奪った所で、幸せにする自信は自分にはない。住む世界が違うという事実を、最初に出会ったころからまざまざを実感してきた。
なにより彰子は美しすぎた。愛情にあふれた温室から一歩も出ることもなく育てられた娘は、あまりにも自分と違いすぎる。それは友人の本村泰二にも言えることだった。
頭を下げ、狡猾な計算を巡らせ、時には心ないおべっかを使う処世術を身に付けた農家の息子とは同じ人種ではないのだ。
だから、この時間が欲しかった。ただ二人の空間で、彰子が自分の為だけにピアノを弾いているこの時間が。
紡ぎだされる旋律は煌めく火花を散らし、めくるめく快楽を引き出してくれる。激しく鍵盤を叩くその手で、殺してくれればいいのに。
回転する思考の中でそう願う。
いっそのこと、殺してくれれば楽になれるのに。
この痛みも切なさも全て消えるのに。
目を開けると、彰子は向かいのソファで冷めた紅茶をすすっている所だった。
「ひどい方」
クスクスと笑っている。
「リクエストしておいて、寝入ってしまうだなんて」
「すみません。少し……音に酔ってしまいました」
「まあ」
冬風が窓を叩く。静寂にそれは妙に物悲しく聞こえた。
「この度はおめでとうございます」
自制を保って、宗助は声を出した。
「本村と婚約なさったのでしょう。今日はそれを言いに来たのです」
嘘だ。
「ありがとうございます。秋に式を上げる予定ですの」
ふんわり笑った彰子の顔からは何も読み取れない。
「子爵もお喜びでしょうね」
「お父様が決めたことですから」
「本村はいい奴だから、きっと彰子さんを幸せにしますよ」
「ええ」
会話はそこで止まった。
「……では、わたしはこれで」
彰子は頷いただけだった。扉のノブに手をかける。
もし、ここで宗助が振り向いていたら。声を殺して涙に肩を震わせる彰子の姿が見えた事だろう。そして事態は変わっていたのかもしれない。
だが、宗助は振り返らなかった。
――では、わたしも連れて行っていただけますか?
――うん、一緒に行こう。お父様には内緒ね。
山燃ゆる秋。彰子は嫁ぐ。
火花の残像だけを残して。
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恋とピアノと名曲と。
*「リストが弾くあの鍵盤に身を横たえたい」とサンドが言った逸話を中学生の時に読んだんですが、裏が取れなかったので作中に入れるのを断念しました。
なんの本だったのかなあ…。