真恋姫無双 幻夢伝 第四章 13話 『不死鳥と雉鳩』
〝この世は舞台、ひとはみな役者〟 (シェイクスピア「お気に召すまま」)
日が昇ってまだ一刻も経っていない早朝、猪々子はまだ完全に開かれていない眼を擦りながら、本陣へ急いでいた。血相を欠いた兵士に呼ばれたからである。
冬に差し掛かる時期、北風に体を震わせる。
(なんだろう?)
その疑問は本陣に着いた途端に不安となり、そして彼女の半分閉じかけていた瞼が完全に見開かれた。
彼女が見た本陣は熱気にあふれていた。人が入り乱れて騒然としている。中央に設置された机には物が散乱し、参謀たちは罵声や怒号を挙げている。恐怖さえ覚える。
猪々子は自分を呼んだ主君の姿を探した。
「麗羽さま!来ましたよ!」
「こっちですわ!」
その声を頼りに人をかき分けて進むと、参謀や近習たちに囲まれ様々な言葉をかけられていた麗羽を見つけ出した。彼女の表情は困惑に満ちており、猪々子は彼女が額からこれほどの汗を流しているところを見たことが無かった。
「ああ!猪々子さん!良かったですわ!」
「麗羽さま、これはどういうことですか?」
一人だけ状況を理解していないというのは、滑稽を通り越して哀れに見えてしまう。麗羽は苛立ちながら彼女に大声で答えた。
「食糧庫がある烏巣が襲われたのです!!」
「は?え、ええーー!!」
彼女の驚きの声が本陣の天幕内をこだました。食糧庫の在処は徹底的に隠蔽されており、若干……どころではなく軽率な猪々子にも知らされてはいなかった。それを曹操軍が発見して襲撃している。その重大性は兵士の一人一人に至るまで理解していた。
猪々子がまだ知らなかったのは、その情報が確実に兵士の士気に関わるために、まだ本陣内でしか共有されていなかったためである。
猪々子は叫ぶ。
「じゃ、じゃあ、早く助けに行かないと!」
「そう!そうですわよね!兵を出しなさい!」
「お待ちください」
パッと笑顔に変わった袁紹が命令を下そうとした時、一人の参謀がそれを止めた。彼はこう言う。
「曹操の本陣である官渡の砦を襲うべきです」
襲撃のために兵を出している敵の本陣は、今、手薄に違いない。食糧を失うことは一時の不便をもたらすかもしれないが、本陣さえ落とせばこの戦いの決着がつく。この千載一遇の機会を逃すべきではないと。
ここで猪々子が反論できれば、彼女を信頼している麗羽ならそれを採用したに違いない。しかし猪々子がそれに納得しかかっている姿を見て、麗羽はため息をつく。
彼女にとって不幸だったことに、最後に意見を聞くべき人物が、ここにいなかった。
二つの意見が出たことで、また麗羽の周りが騒がしくなった。主張と反論が繰り返され、いつしかそれは罵声に代わっていく。
麗羽はヒステリックに叫んだ。
「全員!武将全員をここに集めなさい!」
意見を集めるのです!と命令が下り、それらを呼ぼうと近習や兵士たちが本陣を飛び出していった。
後腐れなく物事を進めるにはこれが一番良い。しかし、この方法は致命的に“時間がかかる”。静かになった本陣にいる誰もが、それに気が付いていた。
(斗詩!斗詩!)
天幕の中で立ち尽くす猪々子は、未だに起き上がれない親友の名を、心の内で叫ばざるを得なかった。
黄河南部に広がる森林地帯、その一角から黒い煙が上がった。
「終わったな」
「ええ」
馬に乗りながらその煙を見ていたアキラと華琳は、感慨深く述べた。今まで身体にたまっていた苦しみや不安が、その言葉と共に空中に溶け出していく。
「烏巣に食糧が貯蔵していたなんて、本当に良く分かったわね」
「たまたまさ。ある意味賭けだった」
アキラは商人たちの情報を基にこれを掴んだ。それが昨日のことだった。
あれほど苦労していたのに、どうやって烏巣だと分かったのか。それは、アキラは“情報が無かった部分”に目を付けたのだった。
戦場を市場とする商人の一部は、両方の陣に顔を出すことがある。その際に彼らは戦闘が行われていない所を選んで移動していく。
一方で、食糧の貯蔵場所を隠蔽したい袁紹側は、それに近づいた商人を許さないだろう。必ず捕まえるか、殺してしまうか、どちらかの手段を取る。
この二つの考えを合わせると、無事に通った商人たちのルートを分析して、その通らなかった“空白地帯”にこそ、袁紹軍の食糧庫があるはずだ。これがアキラの推察であり、それが見事に当たった。
『暗闇にも光があった』
愛紗の言葉が、アキラにこの考えを気付かせてくれた。
「しかし食料を燃やしたからと言って、完全に勝ったわけではないぞ。立て直してまた攻めてくるかもしれない」
「それは大丈夫かもしれないわよ。これ見る?」
華琳が渡してきた文を流し読みで把握する。どうやら参謀たちの横暴さや権力争いに嫌気がさした複数の武将が投降を申し出ているらしい。
「張郃に高覧……そうそうたる奴らじゃないか」
「今回の敗戦で責任の擦り付けが間違いなく始まるわ。古い家柄の中ってそういうものよ。そうなれば、もっとこちらに寝返るのも増えてくる」
「なるほど。こちらにとっては面白い展開だな。立ち直るのは厳しいか」
「そんな暇も与えないわ。こちらから攻めてあげる」
不敵に笑う華琳の姿にアキラは舌を巻く。一部の武将が投降したとはいえ、戦力はあちらの方がまだ大きいだろう。しかし彼女の自信は揺るがない。
(これが器というやつか)
どんな逆境からも立ち直ってくる彼女を不死鳥とたとえるなら、袁紹はせいぜい雉鳩か。最初から袁紹に勝ち目がないことを、アキラは改めて感じさせられる。
余裕の笑顔を見せる二人の元に、伝令が到着した。官渡の砦を守る春蘭から、砦に敵が迫っていると情報がもたらされる。
「潮時ね。引きましょうか」
「ああ」
アキラが右腕を振ると、指示を受けていた兵士が狼煙を上げる。しばらくすると、烏巣を襲っていた味方部隊が森林から出てくるのが見える。
そういえば、と華琳がアキラに尋ねる。
「今回の報酬についてだけど」
「要らないさ。袁家を倒すことは俺たちの野望だった。それが達成出来ただけでも満足だ」
「それでいいの?」
「いい。まあ、こっちが危なくなったら、その時は助けに来てくれ。今回は貸しってことで」
そんなことを言いつつ微笑みを返す彼の姿に、彼女は確信する。
「……やっぱり、あなたなのかもね」
彼女の独り言は聞こえなかったらしい。風に髪をたなびかせながら、アキラは号令をかける。
「さあ!最後の仕事だ!砦に攻めてきた奴らを叩くぞ!」
鬨の声が挙がる。烏巣から戻ってきた部隊と共に砦へと動き出した。
華琳も自分の軍隊に指示を出しながら、馬を歩ませる彼の姿をじっと見つめていた。
晴れ渡る柴桑の長江で、呉の船団が旋回運動の訓練をしている。雪蓮は川に張り出した木造の桟橋に寝そべって、それを眺めていた。
何十艘もあるにかかわらず、それらは見事に同じ動きを取っている。他の地域の人からすればそれは驚嘆すべきことであるが、呉にとっては当たり前の光景であった。雪蓮は何回目かの欠伸を出す。上空ではトンビがくるくると飛んでいる。
すると、突如として彼女の身体が動かされ、桟橋の端へと転がった。
「うわっ!」
海に落ちかけた身体を起こすと、いつも彼女がするような意地悪な顔がそこにあった。
「冥琳!」
「目が覚めたか?」
そう言って笑った彼女は寝転がる雪蓮の隣、桟橋の端に座り、長い足を桟橋の外へ投げ出した。遠くに見える船団は訓練が終わり、すでに移動を開始している。
彼女が来た理由は大体分かっていた。
「それで、終わったの~?」
「ああ。アキラたちの勝ちだ」
「やぁっとね。うーん、退屈だったわぁ」
と、言いながら立ち上がり、大きく背伸びをしてみる。
彼女たちがここに駐留していたのは、官渡の戦いを様子見するためであった。
二人としては曹操とアキラが勝つと見抜いていたが、ほとんどの部下たちは袁紹が勝つと確信していた。特に蓮華らはこの際に北進すべきだと強硬に主張していた。同時期に袁紹からアキラたちに攻撃してくれとの要請を受けた際も、大半がそれに賛同した。雪蓮はそうした意見を無下にすることが出来ず、こうして駐留して曖昧な態度を取っていたのだった。
彼女にとって無意味なことがようやく終わる。その清々しい顔を冥琳が見つめる。
「で、やるのか?」
「予定通りよ。よろしくね♪」
彼女が明るくなればなるほど、冥琳の苦悩は深まるらしい。こめかみを押さえてため息をつく。
「調整が大変そうだ。反対も多いだろうに」
「でも、あの子にとってもそれが良いんじゃない?」
「それは………むう、分かった。根回しをし終えたらすぐに使者を出そう」
よろしくねーと再度、雪蓮は手を振って相棒に頼み、桟橋を戻り出した。その後ろ姿に尋ねる声がする。
「そこにお前の道楽は含まれていないよな」
雪蓮は振り返ると、ベッと舌を出す。そしてそのまま歩いて行った。冥琳はさっきよりも大きなため息をつく。
誰かの思惑が新たな脚本を作り出す。それによって人は踊るのだ。
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官渡の戦い終結!この章最後の話となります。