第二十七話、『その名は錦馬超』
―連合集結まで一月を切った。俺達はギリギリまで調練や兵器生産を行い、出来る限りの準備を進めることにした。
真桜と音々音の指揮で生産される兵器の運用試験も兼ねて、それを運用する部隊に対応訓練を行いつつ、兵の練度を上げていった。
兵達も俺達の指揮を受け入れ、また『天の御遣い』が味方についたことで士気はうなぎのぼりだった。
武将連中も俺や朱里の指導の下、鍛錬を重ね、一週間が経つ頃にはそれぞれがそれなりの成果をあげることができた。
そしてある日。洛陽に、あの少女が軍を率いてやって来た―
―その日、俺達は将連中を集め、才華も加えた御前会議を行っていた。御前会議とはいってもこの場には軍の将しかいないので、
あまり堅苦しいものではない。何より、才華自身がそういう形式ばったことが苦手だと言ったので、無闇に堅くすることもないと
いうことで、御前会議らしくない空気が流れている。話題は大真面目だが…俺が司会進行をやっているせいか?
「では配備状況から確認しよう。まずは華雄、兵の状況から報告してくれ」
「はっ。新しい訓練手法の導入は順調です。『天の御遣い』が味方についたということも手伝い、兵の士気も上がっております」
「よし…引き続き訓練を行ってくれ。次に真桜、『あれ』の生産状況はどうなっている?」
「資材の調達は順調、人手も足りとるから生産もなんとか期限までには必要数揃えられそうや。元の設計が優秀やからな」
「引き続き生産を頼む。ねね、兵糧の備蓄は心配ないか?」
「問題ありませんぞ」
各員に任せている部署はそれぞれ違うので、こうして報告会的な会議を開く必要がある。情報共有は大切な仕事である。
「灯里、新たな情報は入っていないか?」
「現状ではまだ。おっつけ来るとは思いますが…」
「わかった。そちらも引き続き頼む」
灯里には情報部隊、つまり忍者隊を任せている。現状では新たな情報は入ってきていないが、連合の戦力はこれまでとそれほど変わらず、
寧ろ戦力が低下しているところもあるだろう。曹操軍なんかがそうだな。黄巾党の残党をうまく取り込むことに失敗しているから。その点、
注意しなければならないのは孫策軍…あそこは将の欠員がない。兵力に関しては袁術の下にいる以上は増やしようがないだろう。ある程度
騙したりしてやることはできても、今この段階で張勲に動きを感づかせるのは得策ではない。周瑜もそのあたりはわかっているだろう。
「そういえば、一刀。公孫賛軍への対応はどうする訳?こっちの味方なんでしょ?」
「…白蓮には言ってある。他の連中と同じように。そもそも向こうの方が練度は上だ。将が相手をするならともかく、兵の質では敵わん」
「そんなに?」
「俺と朱里で徹底的に訓練したからな。戦力の質という意味では華北最強かもしれないな」
物量では袁紹軍には敵わない。だが、質では大きく袁紹軍を上回っていると言える。少なくとも、同等の物量でぶつかればほぼ間違いなく
白蓮が勝つと確信するくらいに強くなっているのだ。俺達がきっちり訓練したということもあるが、指揮官も優秀な人材が揃っている。
「まともにやり合ってもこっちの兵の方が負ける。前線に出てきても同じように対応してくれ」
「わかったわ。他に何かある?」
「それでは私から。皆さん、敵軍と戦う時、なるべく敵兵の殺傷は行わないでください」
これには全員が振り向いた。朱里の提案である。現状、軍師としては立場が一番上の朱里だが、一回聞いただけでは奇妙な提案と思うほか
ないような提案であったからだ。俺も一瞬混乱したが、「ああ、なるほど」とすぐに納得した。灯里も即座に理解した様子である。
「それは何故です?」
才華だった。まあそうだよな。いざとなれば自ら禁軍を率いる用意があると言っても、彼女は軍略では素人である。
「まず第一に、負傷兵を出すことで治療の必要性が生じる。まさか治療をすればまだ戦える兵を踏み越えるわけにもいかないだろう?
そんなことをすれば兵の士気低下や指揮官への不信に繋がってしまう。統率力が下がれば、連合軍の戦力は大幅な低下を免れ得ない」
「あ…」
「第二に、これにより医薬品…治療に必要な包帯や薬品などの消耗が激しくなる。それが無くなってしまえばもう玉砕上等の突撃戦術を
取るより方法が無くなるんだ。ましてこちらは有利な籠城ができ、向こうは策が意味を成さない攻城戦を仕掛けなければならないから、
作戦継続は非常に難しいものとなる。士気もダダ下がりだ。よって、ロクに動けなくなる」
「…」
「第三に、もし負傷兵を無視して戦闘を続行しようとすれば、人道に反する行為であるため、風評が悪化する。結果として、連合の行動は
大いに鈍るわけさ。向こうが単一の軍であるならまだしも、他の軍と連合を組んでいるんだ…まして世間では連合が正義となっている。
そこで非人道的な行為をすれば、即座に風評に直結してしまう。非人道的な悪政を敷く董卓を討つという大義名分で組まれた連合である
以上、負傷兵を無視するなんていうことをしたら…後はわかるね?」
「なるほど…よくわかりました」
「そういうわけだ。皆もいいね?」
俺の説明で納得したのか、皆も一斉に頷いた。軍師連中は当然ながら理解していたのだが…武将連中がね。
「真桜、『あれ』専用に殺傷力の低い弾体を作れるか?」
「元々深くは刺さらんようになっとるし、大丈夫やろ。まあ、まだそっちの生産はやっとらんから、生産前に改良してみるわ」
「頼む」
もうここまで言えばわかったかもしれないが、『あれ』というのは『連弩』のことだ。朱里がかつて設計したものに現代技術を加え、更に
改良を施したものだ。現代技術と言っても機構の改良のため、現代に至るまでに成熟した概念を導入したもので、つまり概念さえわかれば
この時代でも作ることができるのだ。その点、真桜は既に『螺旋槍』を稼働させるために『氣』で駆動するモーターを開発しているなど、
明らかにこの時代ではオーバーテクノロジーとなる技術を数多く有している。なので、概念の理解もスムーズだった。
改良前を上回る速射性、装弾数の増加、携行性の改善など様々な改良が為され、『弩』というカテゴリーの兵器としては相当強力な代物に
仕上がっている。とはいえ現代まで全くと言っていいほど基本構造に変化がない連弩…朱里が作ったので諸葛弩と言うべきなのだろうが、
それをさらに強力にするのにどんな改良をしたのだろうか。朱里に訊いても「企業秘密です」と言ってはぐらかされてしまうので、全貌を
知るのは朱里と真桜のみとなっている。設計図を見れば理解はできるかもしれないけどね。俺も多少、機械工学についての知識はあるから。
通称『二式連弩』…以前のものを『一式』としてのネーミングだが、急にミリタリーっぽくなったのは何故だ?
「開発順序の問題じゃないんですか?」
「君ね、もう俺の心を読まないでくれる?」
案の定、灯里に思考を読まれてしまった。
「―会議中失礼いたします」
おもむろに扉が開き、侍女が入ってきた。
「何事です?」
「はっ。今しがた、宮殿に涼州連合盟主・馬騰様の名代として馬超様が御出でになりました」
…来たな、翠。
「そうですか。では会議の内容もほぼ終わっていますし、ここで会議を解散とし、謁見の間に馬超を迎えましょう。支度をなさい」
「仰せのままに」
そう言って、侍女は退出していった。
「時に、一刀。馬超は『超越者』なのですね?」
「正確にはより大きな力を持つ『大超越者』…俺と二人きりで別外史へと渡った存在さ。
これは『超越者』とは違って自然に記憶が戻っている可能性があるから、ちょっとそのあたりは気をつけないとな…」
「なるほど。ではあなたには私が呼ぶまで控えていていただきたいのですが、よろしいですか?」
「…まあ、ね。俺は朱里みたいに素顔を隠しているわけじゃないし」
「ではそのように。皆、本日の会議はこれで解散とします」
才華の号令一下、会議は解散となった。武将連中と詠、音々音は兵の調練に向かい、謁見の場には俺と月、朱里と灯里が控えることに
なった。張三姉妹はといえば、将ではないが町中に放っておいてもいい人間でもないので、董卓軍の将が使っている屋敷にて、忍者の
護衛を受けながら過ごしている。人和曰く新曲の作曲を始めたとか。まあそれは置いておいて。
俺達は馬超を迎えるため、謁見の間に向かった。まあ俺は続きの間で待機することになるのだが…。
―――
――
―
(side:朱里)
「―陛下のご尊顔を拝し、光栄至極に御座います。涼州連合が盟主、馬騰の名代として参りました。お久しぶりです、陛下」
「よくぞ来てくれましたね。馬超よ、面を上げなさい」
「はっ」
「(…翠さん…)」
久しぶりに見る翠さんは、やはり陛下の御前であるためか、翠さんにしては堅い言動を取っていた。馬騰さんは漢王朝の忠臣だから、
そのあたりは厳しく教育されているのだと思う。きっと蒲公英ちゃんも同じように振る舞うに違いない。
「此度は突然呼びつけてしまうこととなりましたが、涼州の方はどうですか?」
「はっ。此度の反董卓連合の檄文には、馬騰の判断により『五胡に不審な動きあり』とのことで呼応しなかったのですが…噂をすれば
影、と言うのでしょうか、実際に五胡に不審な動きが見られるようになったため、此度上洛してきたのはこの馬超だけです」
「そうでしたか。そなたの弟たち、そして従妹は息災ですか?」
「はい。馬休、馬鉄、馬岱は現在、馬騰の指揮の下で五胡の動きに即応できるよう待機しています」
「馬騰はどうですか?最近、身体の調子が良くないとのことですが…」
「えっ…は、はい。確かに、母様は最近では不調に悩まされています。ですが何故、陛下がそのことを?」
「それについては後で。私の知人が腕の良い医者を知っていると言うので、今度紹介しましょう」
「あ、ありがとうございます!」
そういえば、一刀様が漢中の方に手を回してたんだった。張魯さんを通じて華陀さんに連絡を取っているので、なんとかなるはずだ。
「さて…馬超よ。時にそなた…これが読めますか?」
才華さんが取り出したのは、詠さん謹製の「チェック用」の文章だった。当然内容は日本語。最近では、才華さんも月ちゃん達から
日本語を教わっていて、才華さんも読める内容になっている。翠さんは訝しげにそれを受け取ったが、一瞬でその表情は驚愕に変わる。
「へ、陛下…これをどこで…!?」
「…詠に用意させました。そなた、その文の内容も理解できますね?」
「は、はい…」
…翠さんは『戻って』いたんだ…。星さんは私の手で、愛紗さんや鈴々ちゃんも戻りかけているような様子があった。
これは後でもう二人の『大超越者』にも手を回さないと…紫苑さんや璃々ちゃんも、もしかしたら戻っている可能性がある。
紫苑さんは大人だからともかくとして璃々ちゃんはまだ十歳にも満たない子ども…鈴々ちゃんよりもずっと純粋だから。
「やはり、『戻って』いるのですね…馬超よ。月とは以前より面識があるでしょう?」
「は、はい。それは…って、なぜ陛下がそれを?」
「『事情』は窺っています。馬超、この者が誰かわかりますか?」
才華さんはそこで私を翠さんに紹介する。当然私は仮面を着けているし、容姿も変わっているので翠さんにはわからないはず。実際、
翠さんはしきりに首をひねっている…奥の手を使おうかな。羽織で隠しているけど、私が今着ているのは聖フランチェスカの制服だ。
この羽織を脱げば、翠さんは反応せずにはいられないはずだ。
「…」
私は羽織を脱いだ。途端、翠さんの顔がこの上ない驚愕に彩られる。
「そ、それは聖フランチェスカの…っ!?」
「…やはり、『戻って』いらしたのですね…お久しぶりです、翠さん」
私は仮面に手を掛け、それを取る。ただでさえこれ以上ない驚きの表情だった翠さんがさらなる驚きを露わにする。
「お、お前…朱里?朱里なのか!?」
「はい。間違いなくあなたが知る『朱里』本人ですよ。成都で別れて以来ですね…」
「おま…どうしてここに!?」
「どうしてって…反董卓連合と戦うために決まっているじゃないですか。あなたを呼ぶために随分苦労したんですよ?」
「あ、ああ、それはわかってる…じゃなくて!どうして成都で別れたはずのお前がここにいるんだよ!?」
やっぱり、混乱するよね…それはわかっていた。だから当然、その質問に対する答えも十分に用意してある。
「…そもそも、おかしいとは思いませんでしたか?反董卓連合の戦い…あなたは今までは連合側に参加していたはずです」
「えっ!?…確かに、考えてみりゃおかしな話だな。実は、黄巾の乱が終わったあたりで思い出してさ、母様が連合に参戦するよう
言ってこなかったのは不思議だったな。それで、何も説明されないままこうして洛陽にあたしを向かわせたわけなんだが…これって、
一体何が起こってるんだ?」
「それにお答えするのは私の役目ではありません。陛下」
「ええ。一刀、お入りください!」
このタイミングだ。私が呼びかけると、才華さんも同じことを思っていたようで、私の言葉に頷き、一刀様を呼んだ。
(side:一刀)
「―そろそろ呼ばれるかと思ってたよ」
「あなたを呼ばなければならないと思いましたので。こればかりは私が説明しても馬超は納得しないでしょうし」
「まあそうだろうね。さて…久しぶりだね、翠」
続きの間から謁見の間に入った俺は、才華に一度声をかけてから翠に向き直る。翠は『戻って』いるので真名で呼んでもいいだろう。
「ご、ご主人様っ!?どうしてご主人様までここにいるんだよ!?朱里もそうだが、桃香様のところにいるはずだろ!?」
「色々事情があってね。月に味方することになった。君がここに派遣されてきたのも、俺と朱里の差し金なのさ」
「どういうことだよ?」
「…『繰り返された』んだよ、翠。記憶が戻っているなら、同じ出来事を体験した記憶がいくつもあるはずだ」
「…言われてみりゃ確かにそうだけど………ってことは、ご主人様はずっと前から仕込みをしてたのか?」
「その通りだ。俺達は各地に仕込みをしてきた。馬騰さんにも以前から接触し、この時に備えて協力を取り付けていたんだよ」
「…じゃあ、母様があたしを洛陽に寄越したのは…」
「そういうことだ。実際に五胡に動きが生じたとなると、戦力派遣は厳しかったはず。だが名代に成り得る人間はおそらく君しか
いない。だから蒲公英は残ることになったんだろう。一角の将として派遣するには、まだ蒲公英は未熟過ぎるだろうからね」
成長すれば確かな実力を備えるであろう蒲公英も、今の段階ではまだ未熟だ。翠の補佐として来るならわかるが、名代になるには
確かに力量不足の感がある。馬騰さんが現状ではあまり積極的には動けない以上、戦力のバランスを考えれば馬休と馬鉄だけ残しておく
訳にもいかないだろう。それに、蒲公英の柔軟かつ機敏な対応能力は目を見張るものがある。そういった点を考慮したうえで、今回は
翠だけを寄越したんだろうな。
「だけど、『繰り返した』ってのがわからないんだよ…どういうわけだ?」
「…この『外史』は無限にも等しい回数、繰り返されてきた…外史で戦い続けること幾星霜…俺達は『前回』で気付いて脱出した」
「『前回』?」
「『前回の外史』では俺は劉備軍にはいなかった。それは君も知っているだろう?」
「…思い出したぜ。ご主人様は確か、呉で軍師をやってたんだよな?」
「その通りだ。雪蓮が命を落とした時に俺は『無限に繰り返していた』ことに気付いた。雪蓮の死も、繰り返された事象の一つだと。
それによって、『始まりの外史』で最初に俺と共に別外史へと渡った朱里の記憶が覚醒し、赤壁の戦いの合同軍議の合間にお互いを
再認識することができたのさ。それから、数年は帰れなかったんだが…ある時朱里が建業にやってきてな。蓮華達を説得し、その後
俺と朱里は泰山に赴き、『門』を開いてこの外史を去ったんだ」
「ってことは…あの時、朱里は故郷に帰るって言ってたが…」
「そうです…私はあの時、嘘をつきました…」
辛そうに言葉を紡ぐ朱里。蜀のメンバーに対してはやはり、罪悪感が消えないとは聞いている。
まして相手は翠…『大超越者』だ。
もしも『始まりの外史』で俺が翠を選んでいた場合、朱里がいる立ち位置に立っていたのは翠だったであろうから…。
それでも、そんな仮定は意味を成さないので、そう言って俺は朱里を励ましてきた。
言ってしまえば…『運命』だったのだと。
「…詳しく説明してくれ、ご主人様。あたしだっていつまでも脳筋じゃねえ。曲がりなりにも長く一緒にやってきたんだからさ」
「わかった…長い話になる。才華、いいか?」
「構いません。むしろ長話ゆえ、今の姿勢のままでは馬超も辛いでしょう。馬超、楽になさい」
「は、はい…ご主人様、どうして陛下とそんなにお親しいんだ?」
「…それは後で。さて、途中で目を回すなよ…」
俺は翠に説明を始めた。わかりやすいよう、なるべく難しい言葉を使わないように。
―――
――
―
「―それ、全部ホントの話なのか…?」
「全て、掛け値なしの事実だよ…翠。俺達は二つの世界を救うため、再び『繰り返された』この外史に降り立ったんだ。
無限にも等しい年月の中、繰り返されてきた無意味な戦い…それにも意味を与え、今度こそ戦いに終止符を打つために。
そして、外史の終端を越えた新たな未来…『誰も知らない物語』を紡ぎだすために…」
俺が話し終わった時、普段から血色の良い翠の顔はすっかり青ざめていた。
それは彼女の理解力が追い付かなかったというわけではない。むしろ理解できてしまったからこその反応だ。
『大超越者』は外史の真実を知り、外史崩壊の瞬間にも立ち会っている。他の誰よりもこの話には詳しいのだ。
翠は実際の所、自分なりに簡単に整理して理解していたようだし、何より本質を理解できればそれで問題ないのだ。
「わからなかったことがあれば言ってくれ」
「…いや、ご主人様の話を聞いて、全部が理解できたぜ…今なら何もかもが理解できる…理屈じゃねえ。なんか、わかるんだ。
どうしようもないくらいに理解できちまう…心に押し寄せて来るって言うか、難しく考えなくてもとにかくわかっちまうんだ」
「…」
「あたしらの関係について、いまさら文句言う気もないさ。なんとなくそうじゃないかって、わかっちまったからな」
「…君は随分、落ち着いているな…」
「あたしが取り乱したって、現実は変わらねえ…華琳に故郷を追われた時や、外史が崩壊する時だって…どうしようもない現実は
絶対に襲ってくる。そのくらい、あたしだって理解してるさ。辛いことは辛いけど、だからって前に進むのを躊躇うのは、どう
間違ってもあたしじゃないだろ?」
「翠…」
翠にしては、ひどく落ち着いていた。星でさえ酷く動揺していたと言うのに、彼女には一切の動揺が見られない。
「あたしの座右の銘…『倒れる時も前のめり』、さ。どうせなら、突っ走って力尽きて、それで倒れるってのが性に合ってる」
「…」
「本当は辛いぜ?けどよ、それに足を取られずに進んできたのが今のご主人様達なんだろ?だからさ、あたしにも手伝わせてくれよ。
蒲公英がなんて言うかはわからないけどさ…ご主人様が皆を不幸にするようなことをするわけがねえ。…身を引くのも、必要だろ」
薄らと涙を浮かべながら、翠はやはり落ち着いてそう述べた。
「…翠さん、本当にいいんですか?」
「本音を言えば、なんで朱里だけが、って思ったりもするけどな。けど、そりゃ『始まりの外史』でもそうだっただろ?」
「…」
「いいんだ、朱里。あたしのことは。こうやってまた会えただけで十分だよ。そこで朱里を恨むのは筋違いだろ」
翠とて平気なはずはない。彼女の本心はそれではないと、ひしひしと伝わってくる。だが、翠が敢えてこう言ったということは、その
本心を押し殺しているということ。寂しそうな表情は消えていないし、心なしか震えているように見える。俺が言っても自惚れにしか
ならないとは思うが…そう簡単に、恋愛感情というものは割り切れるものなのだろうか。そういう意味では、俺は異常なんだろうな。
俺の恋愛はといえば…誰との関係も諦めたことが無い。次の輪廻に飛ばされる直前の、成都でのあの夜くらいだ。あの時ばかりは俺も
華琳達への想いを諦めるしかなかった。だが…結局、『前回』から朱里と共に俺達の世界へと去る時まで、俺は誰との関係も諦めては
いなかったのだ。
「…俺が気が多いばっかりに、あまりにも多くの女性を不幸にしている…それが本当に申し訳ない…」
「過去はどうしたって変えられねえよ。確かに、ご主人様は気が多すぎてちょっとあれだったが…みんなに対して真剣だったんだ。
そんな人がさ、たった一人を選ぶしかないって状況に立たされた時…朱里を選んだんだろ。あたしも選ばれたことがあったが…
最初にご主人様と一緒になったのも、最後にご主人様と一緒になったのも、朱里だ。だったら、あたしはもう何も言わねえ」
「…」
「それにさ…今のご主人様や朱里を見てると、わかるんだよ…あんなに強い光があったはずの二人の目、今はそれ以上に強い光がある。
…だが、同時に底知れねぇ闇が見えるんだよ。なんつーかさ、この世の絶望ってのをすべて知り尽くしたような人間の目だぜ、それ」
「…絶望、か」
絶望。
確かに、絶望というべきならばそうなのだろう。自分達が歩んできた、無限にも等しい年月が、全く意味のない繰り返しだったなどと。
もちろん、俺達はそんなことは思っていない。それに意味を見出したからこそ、俺達はこうして戦っているのだ。一時は絶望したかも
しれないが、本当にすべての望みが絶たれたわけではなかったのだ。そう考えると、俺が本当に絶望したことはないのかもしれない。
「あたしもかつて故郷を追われた時、何もかもに絶望した…でも、その時はまだ行くあてがあったからよかったんだよ。益州に行った
時にはあてもなく彷徨ってたが…まだ蒲公英が居た分、和らいでたような気がする。だが、今の二人はどう見ても…背負い過ぎてる」
「自分が悲劇の主人公だなんて思ったことはないぞ?」
「そりゃそうだろうさ。だけど、明らかに背負い過ぎだぜ。確かにご主人様達にしかできないことなんだろうけどさ。ここにいるって
ことは、月達もご主人様に力を貸してるんだろ?なあ、月?あたしの推理は間違ってるか?」
翠は月に訊ねる。月は僅かに笑みを浮かべ、首を横に振った。
「間違っていませんよ…私達董卓軍だけじゃありません。もっとたくさんの人たちがご主人様に力をお貸ししています…」
「だったら、あたしがそこに加わっても何の問題もないわけだ。あたしには難しいことはわからねえ。だが、ご主人様達の手助けを
するべき…いや、しなくちゃいけないんだってことはわかるんだ。あたしはそれ以外の道を知らないんだ。確かに、桃香様の許で
戦ってたこともあったけど…こうやってまた会えたんだ。どうせなら、ご主人様の許で戦いたいんだ」
翠の表情は決然としていた。この子は決めたら一直線だし、本人曰く『倒れる時も前のめり』なので、最後の最後まで走り続けるのだ。
その様は、今の俺達にも似ていた。俺達は迷ってはならない。翠は迷わない。その違いはあるけど…彼女の在り方は、俺達も学ぶべき
ものであることは確かなのだ。力の限り走り続ける。一瞬立ち止まることもあるかもしれない。だが、座り込んだりはしない。
「我が名は馬超。我が錦旗と白銀の槍、我が永遠の主、北郷一刀に…そして我が永遠の友、北郷朱里に捧げる」
跪いて包拳礼の姿勢を取る翠には、最早一切の迷いが見られなかった。
何度も繰り返してきたことだが…意志ある者を拒むことはしない。彼女が迷わないなら、俺達が迷うわけにはいかないのだ。
「…一刀様」
「…ああ。我が戦友、馬孟起。君を我らが同志として歓迎する。命をこそ誇りとし、その槍で未来を切り開いてほしい」
「応!」
「…よろしくな、翠」
「任せとけ!」
俺は翠に歩み寄り、彼女に立ってもらってがっちりと握手する。
『始まりの外史』では反董卓連合で、『閉じた輪廻の外史』では彼女が故郷である涼州を追われて益州を彷徨っていた時、俺達は彼女と
出会った。今回はいつもと違う場所…それも、反董卓連合と敵対する董卓軍側で出会うこととなった。『計画』がどちらに転ぼうとも、
結果的には出会うことにはなっていただろうが…色々と起きている想定外の事態も考慮すると、結果的には『乙計画』を採択して正解で
あったかもしれない。『甲計画』を採択していれば、涼州の皆や董卓軍の面々、張三姉妹はともかく、他の面々とは出会えなかったかも
しれないから。そういった意味では、こちらを選んで正解だったのだろう。
―――
――
―
「…ところで、一ついいか?」
「ああ…一つ説明し忘れてたな。俺の出自についてだろ?」
「そう、それそれ。ご主人様は相手の身分に関係なく接する人だってのはわかってるんだが…さすがに陛下が相手だと…」
急に空気が緩くなった気がするが、まあそれは置いておいて…
「まず一つ。俺のばあちゃんとお袋は外史の出身者だった」
「うん」
「疑問には思わないのか?」
「たぶん、ご主人様の家族にもいるんだろうなって思ってたよ。それに朱里っていう前例があるじゃないか…って、あたしもそうか」
「どういう根拠で推察したんだ?」
「なんとなく」
「おいおい」
こういうところはやっぱり翠だ。難しく考えるよりも直感で判断するほうが、翠の場合は正解に辿り着きやすいのだ。直感的解答力に
優れると言うべきか。そこに至るまでの過程がわからないという欠点はあるが…そこはそれ。正解すれば取り敢えず問題にはならない。
「馬超、そなた…一刀の出自を知っても、そなたの想いは変わらぬと誓えますか?」
「…それほど重大なことなのですか?」
「ええ…そなたらかつての一刀の戦友達にとっても、私を含めた漢王朝の歴代皇帝…そして各地に散る漢の宗族達にとっても」
「陛下にも関わりが?」
「…それを明かすのは私の仕事ではありません。一刀、お願いします」
ここで才華に話を振られる。いやさっき君は無断で話を持っていったよね?っていうツッコミ…は、無しの方向でいいか。
「さっきの話の続きだ。俺のじいちゃん、親父はかつて『天の御遣い』としてこの大陸に降り立った」
「まあ、それはわかるぜ。ご主人様の場合を考えりゃ、それが当然だろ」
「じいちゃんは前漢王朝が成立する以前の時代、親父はこの後漢王朝が成立する以前の時代に降り立っている」
「おお、そりゃまたすげえ時代に降り立ったな。時代の節目としちゃどっちも大物だな」
「ここからが問題なんだ…じいちゃんとばあちゃんは前漢王朝成立に、親父とお袋は後漢王朝成立に深く関わっているんだよ」
「…すげえ…じゃあきっと、その時代の英雄なんだろうな」
…さっきから思ってたけど…いつになく高い理解力を示す翠に少々違和感を覚える。蒲公英ならわかるが、翠がここまでの理解力を
示したことがこれまでにあったか…って、さほど難しいことを言っているわけでもなし、そのくらいはわかるってことなんだろう。
内容はとんでもないけどな。
「…ばあちゃんのかつての名は劉邦、字を季。お袋のかつての名は劉秀、字を文叔。高祖・劉邦と世祖・光武帝の二人だ」
「…はっ?」
ここでようやく当惑したような表情を浮かべる翠。俺はさらに続ける。
「ばあちゃんと一緒に天界に来たのは他に、かの張子房、そして西楚覇王・項羽がいる。この二人とは半ば親戚みたいな関係さ」
「…」
「固まってるな…」
翠が石像化してしまった。叩いてみたらコンコンと固い音がするに違いない。そのくらい、当惑した表情のまま微動だにしない。
そのまま、妙な沈黙が数分間続き…
「…え、ちょ、ちょっと待ってくれ。それじゃあ、ご主人様は…漢の宗族どころじゃない、もっと上の…!?」
「…才華…もとい、陛下から見れば、ほとんど先祖みたいな存在ということになる。俺のお袋が光武帝である以上は…」
「★■※@▼●∀っ!?」
あ、翠語。
「おーい、翠?」
「…う~」
完全に混乱している。無理もないが…翠と言えば翠らしいな。慌てると言葉にならなくなる。でも翠語がでるのって翠自身に関係する
こと限定じゃなかったっけ…記憶を掘り起こしても、彼女が自分のこと以外でここまでテンパっていた記憶はない。確かに、内容的に
テンパっても全然不思議ではないのだが…。
「…あ~びっくりした~…」
「落ち着いたかい?」
「あ、ああ…でも、まさかご主人様がな…」
「それについては気にしないでもらえると助かる。自分でその肩書きを利用することはあるかもしれない。だが、こうして接する時は
今まで通りに、普通に接したいんだよ。元々、自分自身でもごくごく平凡な庶民っていう認識だったからさ。それで頼めるかな?」
「それはいいけどさ…」
「…これは上意である」
「は、はい!…って、そりゃずるいぞ!」
「冗談だ、真に受けるな」
少々からかってみる。確かに、「上意」という言葉を使ったことはほとんどない。俺は基本上下の別をあまり意識しないから、それを
使う必要が無かったのだ。君主としてはあまり褒められたことではないのかもしれないが、形はどうあれ実態は仲間でいたいと思う。
上下の別の無い、仲間として共に戦いたい。『始まりの外史』に降り立ってからずっと俺の中に根付く、俺の主義だ。
「からかうなよ…ったく…ま、今さらご主人様相手に畏まるのもなんか違うな」
「そりゃどういう意味だ」
「…どういう意味だ?」
「わかってなかったのかよ!」
確かに今さら畏まられても何かが違う気はするが。すると翠は急に真面目な顔になり、口を開いた。
「だが、ご主人様がその気になれば、漢王朝を立て直すことだって可能かもしれないだろ?」
「…外史の修正力がある以上、ここで後漢王朝が事実上の滅亡を迎えることは避けられないが…新生させることはできるだろう」
「お、そうだな。洛陽をここまで立て直した月達もいるんだ、もう一度国を作ることだって夢じゃないぜ」
国をもう一度興すことは、当初より『計画』に組み込まれていたことだ。後漢王朝は滅びるとも、新たな王朝を新生させることにより
この乱世を収め、『敵』との戦いに備えなければならない。翠はそのあたりをわかったうえで、改めて俺の出自…肩書きと言い換えても
いいが、それの利用価値について言及しているのだ。
「だが、その前にまず反董卓連合と戦わなくてはならない。既に公孫賛軍が埋伏の毒となっている」
「毒、か…他には?」
「星と雛里がそれぞれ『計画』の参加者として劉備軍にいる。桃香の暴走を抑制するためだ」
「…ああ、なんとなくわかるぜ。まして、今まで桃香様のとこにいたんなら、連合の作戦とか構わずに突っ込んできそうだな」
なんとなくとは言いながら、心底納得したようなしたり顔で翠が頷く。
「そうなるだろうね。だが、そこは星や雛里、あるいは白蓮が対処してくれる。白蓮には連合そのものの妨害も任せている」
「つまりあれか?白蓮の軍を内応させて連合を外と中からボコボコにするってか?」
「状況に応じて判断するが…基本は撤退戦だ。戦略上の問題と、陛下の意向もあってな。君には虎牢関で待機してもらって、そこに至る
までに疲弊した連合軍にさらに打撃を加えてもらいたい。虎牢関に残るのは機動力に優れた部隊が良いだろう。撤退戦を行うためにも」
「わかった。連れて来た皆にも伝えておくぜ」
「詳しい作戦については数日中に伝える。あと君が来たことは隠しておきたいから、訓練に参加する時には董卓軍の軍旗を使ってくれ」
「確かに、あたしらは五胡を言い訳に参加してないわけだからな…わかった」
汜水関ではまだ連合側にも余裕があるだろうと思うので、その段階で翠を出すのは得策ではない。出すならやはり虎牢関だろう。呂布と
馬超が組んで現れるなんて色んな意味で想像したくないシチュエーションだろうし。ご丁寧にも堅固な虎牢関でそうなったなら、連合に
とってはまさしく悪夢だろう。その点、俺達は名前は売れているが、かなりアバウトな噂しかないので、汜水関で出ても問題ないだろう。
諸侯はこぞって俺達を捕まえに来るだろうからな。
「…馬超」
「陛下?」
「そなたは最早引き返せぬ場所に足を踏み入れました。同じ立場にある同志として、そなたに我が真名…才華。これを預けたいのです。
そなたとは長いつきあいですが…まだ私の真名を預けておりませんでしたね。これは戦友としての信頼の証です。受け取ってほしい」
「はっ!確かにお預かりしました。では、我が真名も陛下にお預けいたします。我が真名は翠。これよりはそうお呼びください」
やはり立場上の問題があるのだろう。二人は真名を交換してはいなかったようだ。才華本人はそれほど立場を気にしない性質ではあるが、
それは彼女が皇帝になった今だからこそ活きてくるのであって、霊帝の時代にはそうはいかなかったのだろう。宦官とかうるさい連中が
いたし…今は宦官も完全に排除されてしまっているし、傍らにいる月も堅苦しいやり方は好まないので、こうして今、真名を交換する事が
気兼ねなくできるようになったわけだ。
「では、この場はこれで解散といたしましょう。一刀、翠を連れて挨拶回りにでも行かれてはいかがですか?」
「そうだな…うん、そうしよう。月、何か急ぎの仕事はあるか?」
「今は特にありません。皆さんのところに行っても大丈夫ですよ」
仕事もないとなれば、才華の提案に乗らない手はない。皆は翠が上洛してきたことを知っているが、翠は董卓軍の面々以外誰がこの洛陽に
いるのか知らないのだから、挨拶回りをしに行くというのは良い提案だ。それに、俺は仕事はできるが、できれば体を動かしていたい方だ。
「じゃあ、俺達は挨拶回りに行ってくる。朱里、行くぞ」
「はい」
「いってらっしゃい、一刀」
俺達は謁見の間を退出し、調練を行っている皆の所へ向かった。
―――
――
―
「―いやー、まさかあいつらまでいるとは思わなかったぜ。ほとんど魏の連中じゃんか」
「そうだな。華琳は今ごろ人材不足で困っているだろう」
武将連中及び張三姉妹への挨拶を終え、俺達は馬屋のほうに向かっていた。やはり、翠が来たのなら電影達にも合わせておきたい。
「ご主人様も馬を乗りこなすようになったのかー」
「公孫賛軍で訓練したり、天の国での訓練のおかげでもあるかな。身体が鍛えられた分、安定して乗れるようになったよ」
「そりゃいい」
そうこうしているうちに馬屋に到着する。さすがに雍州を統べていた月の軍だけあって、馬は充実している。それに今では董卓軍に実質
吸収合併された官軍や禁軍の馬もあるから、馬屋はかなり広いし、それがいくつもある。その片隅に電影と颶風、凪達が使っていた馬が
いる。俺は電影と颶風のもとに歩み寄り、電影に声をかけた。
「電影」
「(ブルルルル…)」
静かに佇んでいた電影だったが、俺が声をかけると嬉しそうに唸る。傍らの颶風も朱里の姿を認めたせいか、嬉しそうだ。
「今日は俺達の新しい仲間を連れて来た。馬の扱いにかけては天下一、二を争うほどの子さ」
「(ブルルルル…)」
また女性を連れて来たのか、とでも言いたげな電影。しかし呆れられているというより、なんだか労われているような気がする雰囲気だ。
こいつはやけに賢いので、人間の言葉を理解するならまだしも、時々随分と人間臭い態度をとることがあるのだ。物静かな性格なだけに
そうした仕草をたまに見せる電影の姿は旅の途中でも皆の笑いを誘った。
「あたしは翠ってんだ。よろしくな、電影」
「(ブルルルル…)」
電影は静かに翠に近寄り、翠の腕に顔を擦り付ける。容易に他人に背中を許さない電影だが、挨拶はしっかりとするのである。
「礼儀正しい馬だな。身体も引き締まってるし、毛並もいい…良い馬だよ、ご主人様。こいつとはいつから?」
「涿に来た馬商人が連れてたんだけど、誰にも背中を許さなかったから商人も扱いに困っていたみたいでな。だけど俺を見た途端、
俺に『乗れ』って促すような態度をとったんだよ。それを見た白蓮が、隣にいる颶風を含めて商人が連れていた馬を買い入れる
時に、電影も買い入れてくれたんだ。こいつは俺か朱里にしか背中を許そうとしないんだよ」
「へえ…ますます良い馬じゃねえか。乗り手を選ぶ馬ってのは気位は高いが、その分能力も凄えからな」
流石、涼州出身者は馬に詳しい。涼州や并州など馬を扱えることが基本と言ってもいい地域の出身者が多い董卓軍の面々からも、電影は
色々と高く評価されている。電影は誰も乗せることはなかったが、皆とは普通に接していた。電影の賢さには皆驚いていたな。
「どっちも良い馬だな。そんで、凪達が使ってた馬ってのはどこで手に入れたんだ?」
「青州でとある邑の危機を救ってくれたお礼ってことで、たまたまそこにいた孔融から貰ったんだ」
「道々人助けをしてきたってことだな。ご主人様らしいや」
そういえば理穏は元気だろうか。書簡を普通に届けてもらおうとしてもあれだし、忍者の一人に頼んで届けてもらうか。
そこでふと、翠が神妙な表情になる。
「…なあ、ご主人様は本当にこれでよかったのか?」
「ん?」
「…桃香様を結果的には裏切る形になっちゃっただろ。愛紗や鈴々も悲しむだろうし、それはいいのか?」
「…成長には痛みは不可欠だ。俺達はその『痛み』になる。迷いはないよ」
「そっか…」
かつての戦友達と矛を交えることになるので、思うところがあるのだろう。翠は見るからに落ち込んでいた。
「あたしも決めた以上、迷うことはしない。けど…」
「翠、俺達はこの外史に再び訪れる前から、迷いは捨てている。俺達がやらなければ、他の誰も代わりはいないんだ」
「…」
「だからっていうわけじゃない。俺達が歩んだ道を否定されたくなかったっていうのもある。幾ら無意味な輪廻を繰り返してきたとは
いっても、やっぱりこの外史で過ごした時間はかけがえのないものだと思うからさ。君と過ごした時間もな。君もそうだろう、朱里?」
「はい…。翠さんもご存じでしょうが、天界は平和です。そこで一年以上、私達は平和に過ごしていました。でも外史の危機を知って、
戦うしかないと覚悟を決めました。私はこの世界の生まれです。小さい頃の思い出は碌なものが無いけど…それでも、私にとっては、
かつて捨て去ってしまったとはいえ、心にずっと存在し続ける故郷なんです。大切な…場所なんです」
翠は真剣に朱里の話に耳を傾けている。朱里もいつもより少々ゆっくりめだが、言葉を紡ぎ続ける。
「だから、この外史を救うために、可能な限りの手を尽くしてきました…翠さんを呼んだのも、その一つです」
「…」
「…すべてはこの外史を救うためです。たとえかつての友をこの手にかけることになっても…やり遂げなければならないんです。勿論、
そうならないようにはしたいのですが…どうしても友をこの手で討たなくてはならなくなった時、私達は躊躇うことはしません」
「…あの慌てん坊の朱里がここまで変わっちまうとはな…」
朱里は変わった。それは間違いない。天界では色々と昔のままの所が多かったが、それでも、外史の輪廻の真実は確実に朱里の心を
蝕み、暗く深い闇を生み出してしまったのである。軍師として冷徹な一面も確かにあった。だが、今の朱里の冷徹さはそれではない。
翠の表現を借りるなら、今の朱里の冷徹さは底知れない闇の冷たさに似ている。
「いずれきっと、そんな時が来るでしょう…その時、非情な決断を下せなければ、ひいては世界を滅ぼす事にも繋がりかねない。そんな
危険を冒すわけにはいかないのです。私達が優先するのはただ一つ、この外史と天界という外史、二つの外史に生きるすべての命です」
「…変わっちまったんだな。ご主人様も、お前も…」
「…そうかもしれません。でも、変わらなければならなかったんです。どこまでも強く、どこまでも冷徹に…」
仮面の奥で、朱里は泣いているように見えた。俺も意識して自分を変えてきたが、朱里はそれ以上に強く「変わる」という意識があった。
真実に心を蝕まれ、底知れない闇をその瞳に宿しても、朱里が感情を失うことはなかった。だからかもしれない。この世界に外見が同じ
人物がいるからというだけが、朱里が仮面を被ることの理由ではないのだろう。表情を覆い隠し、冷たく堅く心を鎧うための仮面なのだ。
決して朱里本来の性質…明るいが泣き虫という性質を捨てたわけではない。それを覆い隠していることの象徴なのだろうと思う。
「だが、熱いと思うぜ。ガワは冷徹でもいいかもしれないが、芯は熱い。あたしはそう感じる」
「翠さん…」
しかし、翠は今の朱里の在り様を肯定したうえで、根は変わっていないことを指摘する。
「心が震えるぜ。二つの世界を救うなんてな。世界を救うなんて一人の人間が抱くには烏滸がましい目的なのかもしれねえ。だけど、
ご主人様やお前が見せてくれた覚悟…それを感じていると、なんかやれそうな気がしてくる。いいぜ、あたしの力も使ってくれ。
ご主人様が間違ったことをするわけがねえ。ご主人様が『やらなきゃいけない』って判断したんなら、あたしはそれに従う」
「翠…」
「…前に進もうとする意志、それが大事なんだ。ご主人様と桃香様は確かに似てる。だが、見えてるものが違うんだよ。あたしは涼州の
民だ。ガキの頃から馬に乗って大地を駆け巡る。だから正直、桃香様の夢見がちなとこにはついてけねえところがあった。ご主人様は
大地を踏みしめて歩く。ちゃんと前が見えてるんだよ。だから皆ついていくんだと思うぜ?桃香様がご主人様に敵わないのはそこだ。
人柄が良いのは同じ。けど、前が見えてない人間についていくのは、同じく前が見えてない人間だけだぜ」
「君にしては辛辣な意見だな」
「あたしらは大地を駆けることが誇りだからな。ふわふわしてる雲の上は馬じゃ走れねえ。だから、あたしらが駆けるべき道を示せる
奴にしかついていくつもりはない。ご主人様はそうやって色んな奴が歩くべき大地をくれる…いや、ご主人様自身が大地なんだな。
道さえ示してくれりゃ、その道にある障害はあたしが全部ぶち破ってやる」
いつになく強い口調で想いを述べる翠。単純明快を好む翠らしい内容だが、ここまで長い言葉を聞かされるとは思わなかった。
「理想は人の居場所にはならねえ。大地をしっかり踏みしめないと、理想ってのは何の意味もねえよ」
「…わかった。俺も、君が駆けるべき道を示せるように戦おう」
「その意気だぜ。母様は一度約束したことを曲げるような人じゃない。それに、ご主人様の出自のこともある…きっと協力できるさ」
「ああ。改めてよろしくな、翠」
「よろしくおねがいします、翠さん」
「おう!よろしくな、朱里、ご主人様!」
またしても、得難い戦友を得た俺達。人は出会うべくして出会う。別れるべくして別れる。
それはきっと、外史の規定などというものとは関係ない、運命。
いつまでも味方をしてくれるとは限らない。だが、今はその運命に感謝せずにはいられなかった。
―それからしばらく。俺達は出陣の時を迎えた。大将軍の職を預かる俺が出陣前の激励を行う。
「―聞け、我が勇猛なる戦友達よ!これより我らは、欲に塗れた偽りの大義を掲げて我らに仇なす反董卓連合を討ちに出陣する!
厳しい戦いになるだろう…だが!これは絶望的な戦いではない!我らには大義と誇りがある!それを胸に、今こそ己の力を揮え!
そうだ!想いを守るという誇り、明日を紡ぐという誇り!それがある限り、我らに敗北は無い!出陣せよ!ただ、誇りとともに!」
「「「「「「「「「「オオォーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!!」」」」」」」」」」
俺達は歩み出す。未来への道を蝕もうとする悪しき炎を散らさんがため。戦いの狼煙は、今ここに天高くあがった―。
あとがき(という名の言い訳)
どうも、Jack Tlamです。
寒いったらありゃしない。ですが風邪はひかない。部屋で防寒着着用とかどんだけとか思うでしょうけど、
ちゃんと着ていると風邪をひきません。そして何より辛い料理ですね!作者は辛党なのですよ。凪ほどではないですが(^^;
今回は翠メインの回でした。いつになくインテリっぽい翠でしたが、いかがでしたか?
考えてることは単純ですし、そうイメージが乖離しているとは思っていませんが…
彼女を含め、五虎将はやはり一刀の許にいてこそですね。
桃香の許にいるのは成り行きのことで、きっと本来は一刀の所に居るべきなんですよ。
そう、愛紗や鈴々も…きっとそうだと信じたいところです。
無上の信頼を示してくれる翠を、一刀達も頼もしく思っているはずです。
翠が一刀と桃香を比較する際に使った例えは翠らしいものになるように考えました。
大地を駆けることが誇り、と言うのは少々誇張表現だったかもしれませんが。
あと、『二式連弩』についてはツッコまないでいてくれるとありがたいです。
本当に朱里しか詳細を知らないので。
しかし、連弩まで出すとなると最早イジメに近いな…打撃力が飛躍的に向上しますからね。作戦上の都合で殺傷力の低い
矢を使用しますが、それでも強力な兵器であることは確かです。そしてそれを一月足らずで必要分を生産する真桜率いる
開発班パネェ。
次の更新は何時頃になるかわかりませんが、よろしくお願いします。いよいよ連合との戦いが始まります。
次回もお楽しみに。
次回予告
醜悪な正義を掲げる連合。連合に与せし者達の目前に、今こそ誇り高き十文字の旗が翻る。
次回、『翻る十文字』。
驚愕する連合軍、睥睨する十文字の主。その旗を靡かせる風は怒りの宣告か、それとも悲しみの絶叫か。
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今回は上洛してきた翠がメインの回です。
いつになくインテリっぽい翠をご覧ください。
ではでは。