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真恋姫無双~年老いてNewGame~ 十一章・中後編

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2013-12-15 21:43:22 投稿 / 全11ページ    総閲覧数:3704   閲覧ユーザー数:2863

魏軍敗走の情報は比較的早い段階で劉備たちのもとに届いた。

龐統が呉の動きを読み、諸葛亮が風を読み、火計の効果を最大限に押し上げるために曹魏を鎖で釘付けにした。

その結果が精鋭と謳われし魏の敗走であり、負ける戦と考えていなかった魏への最大の打撃となる、はずだった。

戦場は生き物で、筋書き通りにいかないのが常である。

すべての可能性を考えても、尚余りある別の可能性がそこに拡がっている。

戦に勝つということは即ち、多くの道を調べ、多くの地形を知り、多くの土地を経て目的地にたどり着くようなものだ。

しかし千里を見通す目などありはしない。

それが故に軍師がいる。

戦が行先を誤るようならば、すぐに進言し、正さねばならない。

間違った地に向かってはならないのだ。

それが故に軍師が必要である。

今ある情報から、今まであった経験から、受け継がれた兵法から、培った常識から、導きだされる正道から、考えうる奇策から、練りに練った智謀から、持てる全ての力を持って策を巡らせ敵を討つ為に、軍師はいる。

より多くの者を斬るのが武官の仕事ならば、相手より多く物を考えるのが軍師の勤めである。

多くの道を知り、そこに待ち構えるすべての悪地を乗り越えて、味方を勝利に導くために、軍師はいるのだ。

 

いま、魏においては王佐の才を持つ荀彧、呉には美周郎が、筆頭軍師とされる。

誰をとっても極めて有能というほかないであろう。

それに対する蜀の筆頭軍師諸葛亮と龐統。

司馬徽に「伏龍鳳雛」と評価され、後世においては三国に並ぶものなしとされた稀代の天才軍師である。

その二人が。

司馬徽のもとでともに学び、伏竜鳳雛と並び称された二人が、阿吽の呼吸を持ってなした策こそ「天下二分の計」。

いまやその勢力は最大のものとなっている魏に対し、呉との同盟を持って戦力を拮抗させ、そこに黄蓋の謀反をもって呉の内情を晒し赤壁におびき出す。

その後は前述のとおりである。

火計をもって魏の兵力を削り、混乱に乗じて追撃する。

この策を持って曹操率いる魏はその力を失い、大陸に覇を唱えるのは蜀と呉となる。

これをもって天下を二分する。

孔明の神算と士元の鬼謀を合わせたこの策はいわば約束された必勝と評しても過言ではないほどに練りこまれていた。

たしかに打ち合わせはなく、全貌を見通していたものは居ない。

黄蓋の謀反の謀反にはじまる一連の策は一切事前に打ち合わせはなされなかった。

士元と孔明の二人は互いの頭を探り、考え、構想し、妄想した。

互いの思考を並列化し、互いを騙すつもりで、互いを信じ、互いを疑って。

その結果、その策はいっぺんの狂いもなく、一塵の綻びもなく、ただ、完遂された。

かに見えた。

今一度、確認しなくてはならない。

戦場は、生きている。

故に何が起こるかわからないのだ。

いざ蓋を開けてみると鎖でつながれていたのは先発部隊だけであり、赤壁の大火は船を燃やし尽くすどころか半数にも見たない数を焼く程度に留まっている。

黄蓋は決死の突撃を仕掛けたが、曹操の頚を獲るに至らず。

曹操の軍は、たしかに混乱をしてはいるが、それは当初考えられていたものよりも小さなものとなっていた。

 

伏竜、鳳雛の目を以てしても読めなかった。

その原因はわからないのだ。

二人は考えられるすべてのことに対処していた。

連絡を取り合わないことで魏には悟られていない。間諜を通して、曹操に気取られていないことは確実だった。

不穏な動きにも対処できていたはずだった。黄蓋の投降に策あり、と考えられていても結果は出せるはずだった。

全軍が焼けずとも曹操の頚は…獲れるはずだったのだ。

 

「あわわ…」

小さな天才は焦る。

此度の作戦を一手に担い指揮していたのは彼女だ。策の失敗は即ち彼女の失敗にほかならない。

自らの策の責を負うにはあまりに小さな体。

しかし、戦場に立つと決めた時から覚悟はしている。

軍師はその策に自らの頚をかけるのだから。

仲間の命を背負うのだから。

失敗しましたでは済まされない。

読み間違えましたでは終わらせられない。

持てる情報と知識の全てを動員して、龐統は震えるように言葉を紡ぐ。

 

「曹操軍率いる本隊は未だに混乱の色ありです…追撃を仕掛けるならば殿を無視し全面に回りこむべきです。」

 

戦場を見つめ、小さく、しかし力強く少女は言う。

 

「はわわ…たしかに雛里ちゃんの言うとおりです…この機を逃せば曹操軍は体勢を立て直します。

 そうなっては勝ち目はありません。」

 

今を置いて他にはないと。

私たちを信じて戦ってくださいと。

諸葛亮は今にも消えてしまいそうな言葉を続け、龐統は今にも泣きそうな顔を皆に向け、号令を放った。

 

「「全軍抜刀!これより追撃戦を仕掛けます!!」」

……

………

 

蜀の兵士は魏軍のそれと比べると明らかに練度は劣る。

これは紛れもない事実であるし、率いてる将も、また兵自身も自覚しているところであった。

しかし、それでもなお彼女らが驚異となりえるのは突出した将の才があるからである。

関羽を筆頭とした五虎将から、それを支える魏延、厳顔はもちろんのこと、将の力量と層の厚さに関しては、才能を愛し集めて回った曹魏のそれに勝るとも劣らない。

よって諸葛亮と鳳統は、将とそれについていける少数で構成された部隊による奇襲ならば、現在の混乱した曹魏相手にはほぼ確実に勝てると言うのが小さな軍師たちに共通する見解であった。

そのため、敵の本隊に追いつきうる馬超、趙雲、公孫賛が曹操率いる本隊を直に攻撃。その補佐に黄忠、厳顔、馬岱。

張飛、関羽は現在急速に収束しつつある混乱を長引かせるため、敵の殿について攻撃。

蜀軍本隊には劉備が控え、万一の時に備えて袁紹一派はその護衛とした。

黒髪を靡かせ作戦通りの位置についた彼女も、この策は有効であると疑わなかった。

なぜか士気の高い殿を足止めすることによって戦線を不用に延ばす。間延びした戦線には必ず綻びが生じる。

妹の言葉ではないが、その隙をついて一人千人倒せば、まさに一騎当千の働きをすれば勝てると、そういうことだ。

それだけ聞けば無茶な作戦ではあるが、現状とりうる中では最適解であると認めざるをえない。

作戦が決まれば武将が働く番である。

今にも死んでしまいそうな顔で、文字通り決死の覚悟で我が軍の小さな軍師たちが導きだした答えを、現実のものとしなければ。

姉の目指した世の中の実現のためにも、ここで絶対に負けられない。

敵は追い詰められた手負いの獣だ。

相応の覚悟を持って首元に食らいついてくるだろう。

声を出し、発破をかける。

我らの仕事は押して押すことだ。

圧して圧して圧して圧して。

全ては我が姉の悲願と、民のために。

「皆の者!決死の覚悟で進軍せよ!我々の勝利のために!理想の実現のために!全軍、一つとなり敵陣を突き破るのだ!」

……

………

 

「もうちょいや!もうちょいだけ粘り!」

「もー!隊長ってばなんでこんなときに…そこー!口からクソ垂れてる暇があったらとっとと下がるの!お前らみたいな蛆虫どもでもいま野垂れ死なれたら困るの!」

 

一見すると戦線と言うにはあまりにもお粗末で、統制は取れていない。

比較的落ち着いていると言われた曹魏の殿でこの有様ならば、自分の役目などそうはないだろうと、そう考えていた。

 

「えぇから!はよ!っあーもううざったいわ!

 チクチク薄っ気味悪い感じで突きまくりよって!

 えぇ加減にせぇよ!あかん、うちもう我慢できん!」

「ちょっとだめなの!姐さんがいっちゃったら沙和が隊長に怒られるの!」

「そんなこといっる場合ちゃうやろ!

 大将もへこんどるし、そのおっちゃんもぶっ倒れとるし!

 加えて敵さんはあの関羽や!誰かがぶつかったほうがまともに逃げれるっちゅーの!」

「それ絶対お姉様が関羽と戦いたいだけなの!」

 

なんのことはない、精鋭と謳われし曹魏の兵も所詮人の子ということだ。

 

「アホなこと言うとらんとはよ兵纏めてにげぇや、敵さんそこまで来とるて言うてるやろ!」

「だからいまやってるの!隊長が溺れたりするから沙和達完全にとばっちりなの…

 そこー!ぼさぼさしてたら縮み上がったその玉引きちぎって豚の餌にしてやるのー!」

「あぁもうどないせぇっちゅうねん!

 関羽の奴いい手間張り付いとるのに全然攻めてけぇへんし…

 おそらくそれでうちら引きつけんのが狙いなんやろうけど。」

 

想定外のことに心を乱し、混乱する。

だからこその火計、だからこその策。

我らが頭脳と孫呉の意地をぶつけられてはどこ吹く風ということはなかったということだ。

 

「これじゃ本隊とどんどん離されちゃうの…」

「おそらくそれが狙いやから、はよ兵隊さん達纏めて戻れ言うてるのに…」

「沙和だってそれくらいわかってるのー!でもお姉様ってばほっといたらすぐ関羽のところに行きそうだし…」

「それはやね…」

 

将が兵の前で言い争いを始めるなど言語道断。兵の士気も徐々に下がり始めるはず。

 

「曹魏の精鋭か…。長く持ったほうだが、これで終わりだ。」

 

偃月刀を握り直し、号令を…

我らが悲願の達成を!

 

……

………

 

目を覚ました、と気がついたのが数刻前。

気絶していたと気付いたのがその一瞬後。

原因不明の頭痛はこの伏線だったかと、その男は小説の主人公のメタ発言みたいなことを考える。

 

「隊長!大丈夫ですか?」

「目ぇ覚ましたん?んなら飛ばすで!」

「いまどんな状況だ!どうなってる!?華琳は?みんなは無事か!?」

 

聞けば、黄蓋を送り返してすぐに気を失って溺れかけたらしい。

そんなことしている場合ではないというのに。

俺がこの世界に来た理由を考えるに、今働かなくていつ働けと言うんだ。

いまだに頭は痛む。

しかしそんなこといってる場合ではない。

 

「すまない凪、全速力で華琳たちに追いついてくれ。」

「言われずともそのつもりですよ隊長!」

「気張っていくで隊長!かっこつけて敵さん助けて、うちらが全滅じゃ笑うに笑えへんしな!」

……

………

 

振り上げた手に握られているのは自慢の獲物、偃月刀。

応じる手に握られているのも、やはり偃月刀。

 

ぶつかり合うのは意地の為か。

打ち合うのは誰が為か。

 

「そこをどけ!貴殿にかまってる暇はないのだ!」

「そないつれないこといわんと付き合えや!こちとらずーっとこの時を待っとったんやから!」

 

張文遠。

神速と謳われし西涼の勇は、関羽に惚れていた。

華雄を打倒し、己が前に立ちはだかった時から、心底関羽に惚れていた。

同種の獲物を持ち、あそこまで豪壮に立ち回るものがいようとは。

いつか手合わせしてみたい。

ずっとその機会を待っていた。

それは会えぬ殿方への想いを募らせる乙女のように。

ずっとずっと待ち焦がれてきた。

しかし、やっと得た機会は一騎打ちではない。

正面からのぶつかり合いでない。

撤退戦、敗走する兵のけつ持ち、いわば敗戦処理。

加えて、関羽は張遼自身を見ていないではないか。

 

「えぇ加減こっちみぃや!そない態度で勝てるほどウチは弱くないっちゅーことにえぇ加減気付けや!」

 

望まぬ状況で望まぬ出会い。

有りっ丈の想いを吠えるしかなかった。

だがそんな泣き声も、想い人がこちらを見てくれないのだから、想いなど伝わるはずもない。

 

「だまれ張遼!私はいま貴殿にかまっている暇などないと言っているだろう!勝たねばならぬのだ。この戦、負けては帰れぬのだ!」

 

相手も必死だから。

想いはいま、届かない

こちらも必至。

必ず至って見せるしかない。

 

「そういうこったら必ず負かしたる。負かしてあんたの中にウチを刻み付けたるさかい、覚悟せぇよ!」

 

偃月刀を構え直す。

 

「いくで関羽!」

「邪魔をするな!!」

 

裂帛の気合いとともに踏込みにあわせて、

 

光が走り、

 

辺りが爆発した。

 

土煙と白煙が闇夜に映える。

 

包み隠された世界のなかで、頼りになったのはその声だった。

 

「この勝負俺が預かった!凪、霞たちつれて引き揚げろ!全軍に通達、宴は中止!全部終わったらパーッとやろうぜ!」

聞きなれた声。

見慣れた煙幕。

気弾と煙幕弾による目隠しだと気が付くと同時に、体は動いていた。

関羽が想い人なら、その声の主は最愛の人。

命令に対して反射的に動く体に、一瞬遅れて思考が追いつく。

倒れてたんちゃうんか?

間に合ったんか。

 

「遅いわ!おっちゃんが来んせいでウチ危うくイってまうところやってんよ?」

「悪かった。そして邪魔してごめんな。だけど不本意な戦いはいけない。命かけてんだからそんな泣きそうな顔しないでくれよ。」

「ドアホ!言うてる場合ちゃうやろ。」

「ほら、もう兵は纏まってるじゃないか。逃げた逃げた!本陣は目と鼻の先だぞ。華琳がだいぶ参ってんだ、早くいって元気づけてやれ。

 北郷隊も即刻本隊に合流しろ!」

「「「御意!」」」

「今夜が山だ、越えたら飲むぞ!!」

「御意!必ず生きて帰ってきてください!」

………

………………

 

見覚えのある光景だった。

天下へ向かう一端を手中におさめかけたあの時。

見えた希望を包み隠したあの煙。

またしても、邪魔をするというのか。

逃がしてなるものか。

二度も同じ手を食うと思っているのか!

 

馬鹿にするなと吼える声は、しかし発せられることはなかった。

気配だけは捉えているからと、その目くらましに踏み込もうとしたときには、関羽の後方から悲鳴が聞こえていたからだ。

状況を把握するまで一瞬かかった。

さらにその状況を理解するのにもう一瞬かかった。

 

送った目線の先にあったのは逃げ惑う部下と飛来しているもの。

そこには矢はもちろん剣に槍、弓に弩、さらには鎧に盾まで、およそ装備といえるものすべてが投擲されていた。

(捨て身か…?)

迷いが生じる。

関羽は動けない。いま、その煙の向こう側にいるであろう相手を考えると、迂闊に動くのは躊躇われた。

来るべき決戦のことを考えたら兵はできるだけ減らしたくない。

相手が焦っているのであれば、こちらの動揺を立てなおしてから追撃しても十分間に合うはずだ。

奴の気配はまだ残っている。

だったらここは動くべきではない。

下手をうち、奴の罠にハマるのだったら、多少遅くなっても堅実な行軍を目指すべきだと関羽は判断した。

 

ただここで、関羽は大きな思い違いをしている。

号令の意味を。

煙幕の理由を。

行動の真意を。

 

関羽がすこしでも冷静であったならば気が付いたはずだ。

武器を捨てたらどうなるか。

煙幕で目をくらますのは何のためか。

号令の後の彼らの行動が、なぜこんなにも遅いのか。

しかし気負いすぎた彼女は気が付けなかった。

彼の発した不可解な号令の意味に。

武器を手放した兵士に残された行動は何か。

未知のものに対して警戒心を強くする彼女の性格は、この時ばかりは良い方向には向かなかった。

 

ほどなくして煙は晴れる。

そこにいたのは1小隊だけだった。

木剣を肩に担ぎ、逃げていく部隊を見送るその姿がそこにはあった。

その男が振り返ったとき、関羽はやっと気が付く。

(嵌められたか!)

考えてみれば当然の帰結。

なぜこうまでしてやられたか。

矢が尽き、剣を失い、鎧もなくなった兵に戦えという将がいるわけがない。

しかし逃げることを前提とするならば、手持ちの武具をすべて投げ出し捨てていくことは理にかなっている。

兵は神速を尊ぶのだ。重い剣を捨て、動きを制限する鎧を擲つ。

これから戦うのであればそれは愚か者のする所業だ。

だが、逃げるのであれば、その速度は格段に上がる。

煙幕を張って、あれだけ発破をかけているのに打って出ないことからすぐに感づくべきであった。

体一つになっても死を持って進軍を止めよという号令だと考えた。

相手を怯ませるための煙幕だと考えた。

決死の行動だと考えた。

 

自らの命を懸けているのだから、当然相手も同じだと、どこかでそう思っていた。

それがどうだ。

何のことはない、たかだか号令ひとつで逃げ出すような覚悟しかない。

そういうことか。

貴様らの覚悟はその程度のものだったということか!

馬鹿にするなと。

声を張り上げていた。

 

「貴様!どこまで我々を愚弄する気だ!我らが意地を!我らが誇りを賭けた戦をこのような方法でごまかすのか!」

 

恥を知れと、吐き捨てる。

 

「姉上が!朱里が!雛里が!どのような思いでここまで来たと思っているんだ!」

 

泣きそうになりながら、搾り出す。

 

「我らの悲願を踏みにじる権利が貴様にあるのか!」

 

怒り、わめき散らす。

 

「貴様一人のふざけた行為で!我らがゆく道を塞がれ!どれほどの人々が泣くか!貴様はわかっているのか!」

 

鳴き叫ぶ様に、吠える。

 

「私の前に立ちふさがる権利がどこにあるのだ!」

 

男は答えない。

まだ彼女を向かず、まだ兵たちを見送っていた。

 

「こちらを向け!我々がどれほどの想いでここに立っているか!この世界の人間でない貴様にはわからないだろうな!

 だからこの様なことができるのだ!」

 

民のため。

笑顔のため。

そう信じて戦ってきた。

自らが戦わねば、後ろに控える何万もの民が泣くから。

みんなの笑顔を願った姉を悲しませたくないから。

 

「これ以上戦を愚弄する気ならば、これ以上我らの理想を蹂躙する気ならば!

 私がこの場で叩き伏せてやろう。さぁ掛かってこい!」

 

その叫びは万感の思いを込めて木霊する。

その声に男はついに彼女を見た。

 

彼女の思いが万の声というならば、彼の願いはたった一つ。

そのひとつのために、彼は彼女の前に立つ。

彼女に向き合った男は、誰に話しかけるわけでなく、話し始めた。

 

「あるところに男がいた。なんのとりえもなく、ただ働くだけの男だ。」

 

その口調は緩やかで、とても戦場にいるもののものとは思えない。

妙に落ち着いた雰囲気は、しかし死臭を纏っていない。

まるで子供に語って聞かせるようなその口調は、安堵さえも感じる。

微笑んでいるとさえ錯覚するほどの表情は、死地で兵が見せるそれとはおよそ似つかわしくないものであった。

 

「その男はある日、女の子と出会った。その男よりもはるかに賢いその子だ。

 その女の子は、男に力を貸せといった。」

 

彼女はその時、戯言を抜かすなと言うのは簡単だったはずだ。

しかし、そうさせない、有無を言わせぬ雰囲気を、彼は持っていた。

 

「『私の下では誰も泣かせない。そのためにあなたの力を貸しなさい』。

 けど、誰よりもそう願ったその子自身が泣いていた。

 そのことに気がついたとき、その男は望んだ。

 男の願いはたったひとつだ。その女の子に笑っていてほしい。

 民を救いたいとか、悲願がどうとか、その男には関係なかった。

 男にはその女の子が泣いてるように見えたから。

 皆を背負い、弱音も吐けずに強がるその子の力になりたい。出来るのならば笑ってもらいたい。」

 

彼女が気がつかないわけがない。

その男とは一体誰なのか。

そしてその女とは一体誰なのか。

 

「世界なんて知ったことか!民なんて知ったことか!

 何も出来ない男が望んだのはたった一つだ!

 あんたらの理想、結構だ!だがその理想のためにあの子が泣くのなら!

 ここにいることがあの子の笑顔になるのなら!

あの子の道がそれで開き、最後にあの子が笑うなら!

 その男は喜んで死ぬ!

 男ってのはなそういう生きもんなんだよ!

 意地はってカッコつけて、そういう風に生きたいと心の何処かで望んでるもんだ!

 それがバカにしてるって言うなら、わからせみろ小娘が!」

 

もう、彼は笑っていなかった。

 

その話で、彼女は気がつかないわけがない。

その表情で、彼女がわからぬはずがない。

それは我らと同じ思いだと。

恥じた。

己の疎さを。

だから尚更、譲れなかった。

大切な人を思うその気持ちが、痛いほどわかるから。

彼が目指す理想は、かつて自身が抱いた理想だから。

 

同じものを求め、同じものを欲した。

だから、語り合う言葉など尽きていた。

これ以上話しても分かり合えぬから。

もはや、語り合う術などなかった。

これ以上分かり合えぬほど話したから。

 

先程まであれほど激高していたのが嘘のように、彼女は落ち着いていた。

 

張遼、楽進、李典、于禁を取り逃がしたとあったら、朱里も怒るだろうな。

愛ささん!どうしてすぐに追いかけなかったのですか!とか言うのだろうか。

ふふっ、噛んでいるぞ朱里。

私はまたしてもその策に嵌ってしまったのだな、御遣い殿、と。

そんなことを考えるまで、余裕が出来ていた。

感情に任せてがなり挙げた言葉を、いまさらながら後悔する。

 

その後悔は彼女の言葉となって口を衝いて出た。

 

「御遣い殿、どうか先程の無礼を許していただきたい。」

 

「いや、こちらこそ巫山戯たことをして申し訳なかった。」

 

応じる彼もまた、自らの非礼を詫びる。

華琳に怒られるわけだ。

あなたはこちらの流儀というものがまるで分かっていないわねと。

思わず苦笑する。

こんな場においても俺は華琳のことを考えるのかと。

 

この戦が始まって以来始めてであろう。

関羽は、目の前の敵を見据えた。

「一つ、お聞かせ願いたい。

 貴殿はここに現れてから、何一つ命令らしい命令を出していないように思えたのだが。

 どのようにして他部隊を撤退させたんだ?」

 

相手も見ずに戦っていた姿からは想像もできないほど誠意に満ちた態度に、北郷は応じざるをえなかった。

 

「そうだな、俺があいつらに命令したのは二つだけ。

 戦場で『宴は中止』は武器を捨てる時の合図なんだ。

 そして、『パーッとやろうぜ』は、行動開始だ。

 それ以外の行動はあいつらの独断だ。」

 

そういって、男は笑った。

 

「それであれだけの行動が取れるというのですか…」

驚きと呆れ、それしかない。

「あぁ、みんなを信じてるからな。」

 

しかし同時に、そうであれば納得が行く。

あの号令は仲間を逃がすため。

あの煙幕はその時間を稼ぐため。

そしてこれらの行動はすべて、ただ一人のため…

 

彼女は兵士に合図する。

「ここは私が一人でやる。」

 

彼は兵士に合図する。

「一騎打ちだ。やらせてくれ。」

 

青龍偃月刀を構えて彼女は高らかに歌い上げる。

 

「我が名は関雲長!劉玄徳が義妹にして五虎将が一人!

 我らが前を阻む者をすべて切り捨てるものなり!」

 

応えるように、男は嘯く。

 

「遠からんものは音に聞け!近くば寄って目にも見よ!

 我こそは天からの遣いにして曹魏が客将北郷一刀!

 我が覇王を支え、その覇道を背負う者なり!」

ここからさきは二人だけの世界だ。

 

「行くぞ北郷殿!いざ尋常に勝負!」

「死ぬといったが、ありゃ嘘だ。お前らのためになんぞ、絶対に死んでなんかやらないからな。

 掛かって来いよ関雲長!一撃でのしてやる!」

 

戦いの幕は、切って落とされた。


 
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