「―ヒガラでございます。」
そう言ってかしずいたままの一人の少年を、僕は静かに見下ろしていた。
綺麗な赤の髪だ。舞い踊る炎のような。それを乱暴に後ろに撫で付けてあるから、数本がまるで反抗期のようにあちこちに散っている。やや細身の体躯ではあったが、それは、山猫のようにしなやかだった。決して筋肉質という訳ではないが、それでも、必要最小限よりはやや鍛えているかといったような。
「…顔を上げなさい。」
僕がずいぶんと黙ったからなのか、隣から兄がそうやって口を出した。僕は横目で兄を見る。兄はさっきから笑ったままだ。絵に描かれたかのごとくに、ちっとも感情を読み取れない曲線をその目、その口元に浮かべたまま、じっと、少年を―ヒガラを見つめている。
ヒガラはそれでもかしこまったままだ。ぴくりとも動かない。兄はやれやれと言ったように肩をすくめた。そうして僕を見た。すっと、目を細めた。
「お前の命令でないと動かないのかもしれないね、イスカ。」
…捕食者が獲物を狙うときによくこういう目をする。僕は背筋がぞっとするのを感じた。けれどもそれをぐっと押し込んで、ただ静かに首を横に振り、兄さんがいるからじゃあないですかと、小さな声でそう返した。きっとかすかに震えていたのであろう。それに気付いたのか否か、兄はまたにやりと口元を歪める。楽しそうに、笑う。
「ふふ、それも一理…あるか。」
僕は、そもそもこの兄があまり好きではなかった。年が離れすぎているせいもあるかもしれないが、それでも、理解できない点が多すぎた。日がな一日部屋に閉じこもり、黒魔術や錬金術といった得体の知れないものに手を出しているからかもしれない。館の人たちだって気味悪がっている―悪魔と契約したとか、とうとう錬成にまで手を出したとか―火のないところに煙は立たないとはいえ、そういう噂すら僕の耳に入ってくるくらいには。
「それじゃあ。年の近い者同士、仲良くやるんだよ。」
頭を下げたままのヒガラの肩を叩き、明るくそう言うと兄は歩き出した。それが横を通り過ぎるときですら、相変わらず、ヒガラはかしずいたまま動こうともしない―そのとき、兄の口がぼそぼそと動いて、何かを彼に言ったようだったが、彼はそれでも何も反応しなかった。ふ、と笑い、兄もそれ以上は気にせず、部屋から出て行く。
―バタン。
軽い音。廊下を歩き去る音。そうして取り残されたのは、僕と…僕の前の彼だけ。
僕は大きく息を吐いて背もたれに寄りかかった。知らず知らずのうちに全身が緊張して、あちこちが凝り固まってしまっていたらしい。吸い込む息に、凍り付いた肺が鈍く軋むのを感じた。
見上げた天井に吊られたシャンデリアが、涼やかに揺れている。陽光が硝子に反射して、きらきらと虹色のプリズムを投げかける。開け放たれた窓から流れ込む風はわずかにリンゴの匂いを残し、呆れたように彼を眺める僕と止まったままの彼との間をおずおずと通り過ぎる。
「全く…君も、いつまでそうやっているつもりだ。」僕が口を開くと、ヒガラの肩がかすかに動いた。「もうあいつはいない。少しは楽にしたらどうだい。」けれど、彼はそれ以上をしなかった。時を止めてしまったかのようにじっと頭を垂れて、それきり、何も。
…何なのだろうか。瞬間に浮かんだ疑問は、至極当然のものだ。彼は、何なのか。いったい、『何』なのか。
外の世界を教えてもらうといい、と彼を連れてきたのは、兄だった。生まれてこのかた、この館から一歩も外へ出たことのない僕に、せめて一般教養くらいは身につけたらいいだろうと。でも連れてこられて目の前でかしずかれて、そのまま全く動かなくなるなど…始めは兄に遠慮しているのだろうかとも思ったが、兄がいなくなってもこの有様では、いったい何が彼を押しとどめているのかすらもよく分からない。理解が出来ない。
…、じんたい、れんせい。
脳内にふとひらめく言葉があった。ジンタイレンセイ。確か、使用人たちがそう言っているのを聞いた。こそこそとしていたからすべては聞き取れなかったものの、その耳慣れない響きを、けれど、僕の聴覚はしっかりと拾い上げた。
それを文字に直せばおそらく、人体錬成…
途端に、背筋が粟立つ。人体錬成。はっと彼を見る。彼は動かないままだ。でも、…でも。
まさか…まさか、そんなことは。
それが、一笑には伏せない。笑い事ではない。冗談ではない。あの、兄だ…あの。
「ッ…!」
立ち上がる。椅子が、がたんと音を立てて後ろに倒れ込む。
おぞましいまでの寒気が、悪寒が、身体中を駆け抜けていくのを感じる。震える。
造ったのか。人形ではなく、人間を?ひとを?これを?僕のために?たかが話し相手のために?
…そこで初めて、ヒガラは顔を上げた。虚ろに開いたその双眸が、僕を捕らえる。
赤い目だ。炎を彷彿とさせる髪と同色か、それよりもやや鮮やかな。けれど、艶すらないその鏡面が、僕を映した刹那にほのかな光を灯す。息を吹き返すかの、よう、に…
びくりと、した。
一歩下がった足が、倒れた椅子にぶつかる。その衝撃に、はっと我に返る。
それ以上を下がることが出来ず両足は踏みとどまり、自分はどうしてそんな行動をしたかが理解できず、ただただ彼を見やるばかり。どくどくと脈打つ心臓が、鼓動が、全身に響き渡り、まるで、皮膚を破ってしまうかのように、
…、なんだ、なんだ、これは。
ヒガラは立ち上がる。今まで動かなかったのが嘘のように、すっと立ち上がる。そのすらりとした足が動いて、僕の方へと近づいてくる。歩いてくる。僕は下がろうとして…何を考えているのか、何をしているのか、思考が完全に停止したままで、身体だけが勝手に動く。逃げようとしている。
…、なにを、僕は、怯え、て…
怯える?何故?何に?どうして?
浮かんだ思考が、次の思考を追い越し、言葉がめちゃくちゃになって脳内を駆け巡る。何一つとして考えがまとまらないまま、それが、自分が『混乱している』のだと悟った瞬間に、
肩を、捕まれた。
「…イスカ。」
ヒガラの声が、耳を打つ。いやに明瞭に響く低音。
「イスカ。俺を、…俺を、覚えていないか。」
「…えっ…?」
何を、…なにを。
意味がとれない。声が出ない。喘ぐように開いた口がぱくぱくと動く。
「俺は、…俺は、イスカ、お前に…。」
瞬間、すいと眼前で赤が揺れた。
それが相手の目だったと認識するよりも早く、唇が、触れ、る…―
「っあ、…!」
驚いて跳ね飛ばすのと、ほぼ同時だった。
何か、言いようのない既視感のようなものが、一瞬、走った。
赤の目の、少年。
モノクロの世界。
少年は泣いている。わぁわぁと泣きじゃくっている。
その手には…その腕の中には…真っ白な、
「ヒ、ガラ…?」ぽつりと口から言葉が漏れた。「君は…、…。」
ヒガラがじっと僕を見る。その目が、泣き出しそうに潤んでいるのを見る。そうだ、その通りだと、言いたげに、瞬く。
「僕は、君を、知っている…?」
そのとき、だった。
不意にがくんと、身体が崩れ落ちるのがわかった。
膝が折れ、伸ばした手を、ヒガラがぎゅっと握りしめるのを感じた。イスカ、やめろ、もう、やめてくれと、哀願し、叫ぶ声が、耳の奥でわぁんと鳴る。明滅する視界の中に映り込んだ彼の目が、赤のあの目が、涙を湛え、僕の名を呼び続けている。
…あぁ。僕は、思う。…あぁ、知っている。ヒガラ。僕は君を、知って…。
意識は黒く塗りつぶされ、モノクロの世界に、僕は、沈んでいく…
***
ヒガラ、ねぇ。気付いてる?
兄さんが、君のこと。あまり好きではないようなんだ。
僕を館から連れ出すからかな。
いつも気に入らないようにムッとして。今日もどこへ行くのかって、聞かれた。
別に敷地内から出るわけではないから、その点、安心したようだけど。
…ねぇ、ヒガラ。僕はね、世界が見たい。
君の話はとても面白いね。うみ、っていうの?大きな水たまり。たくさんの人が行き集うまち。ゆきぐに、っていうところは、一面真っ白なんでしょう。ゆきって、甘いのかな。ふね?うみを走る大きなきかい。いるか、さかな、すべて、聞いたことのない、見たこともないことば。
世界は、僕が知るよりもずっと広くて、ずっと素敵で、ずっと綺麗なんだろう。
あぁ、それを。その風景を。君の隣で見られたら、どんなに良いことか。
…うん、解ってる。解ってるよ。それは、無理な話だもの。
僕は、ここから出られない。一歩でも外へ出れば、大変なことになるって、兄さんが言っていたんだ。だから。
だから。
もっと聞かせて欲しい。君の見る世界、君の知る言葉。君の、すべてを知りたい。
ねぇ、ヒガラ。…気をつけて。
兄さんは君のことが好きではない。目障りだと、そう思っているかもしれない。
なるべく僕の近くにいるといい。僕が一緒だったら、兄さんは君にひどいことをしないと思うんだ。
…あ。違う、違うよ。そういうことじゃあ、ないよ。
確かに君とずっと一緒にいたいとは思うけど、でも、それを言い訳にして君を留めたいわけじゃあないんだ。やだな、笑わないでよ。そんな風に、楽しそうにしないでよ。
ねぇ…君は、この気持ちを知ってる?なんだか、君を独り占めにしたいような…ねぇ。
わかる?ヒガラなら、きっと、わかるよね?
…え。好き?好き、って…?
…あぁ。そうか、そうなのか。
そうだね、うん…あはは、なんか、恥ずかしいな。
物語でしか、読んだことがないから。好き。そうか。これが。…うん。
ヒガラ。僕は、僕はね、君のことが…―
***
もう、動かない。
倒れ伏したそれは、必死に揺り動かそうにも、もう動かない。目は硝子のように曇り、口は開いたまま吐息すらもこぼれない。禁忌に触れてしまった、と、ヒガラは泣いた。泣きじゃくった。ぴくりとも動かなくなってしまった、ただの人形となってしまった、『イスカだったもの』を抱き締めながら。
「全く、愉快なものだ!」
声がする。笑いを堪えるかのような、下卑た声が。
ヒガラは振り向かなかった。彼には分かっていた。その正体が…そして、それが何をしたのか。
「だから、言っただろう。余計なことはするなと。」
甲高い靴音が、いやに耳に響く。水に沈み、うつむいた視界に、革靴の先端が入った。涙をぼろぼろとこぼしたまま、それを拭いもせず、ヒガラは視線を上へ映す。黒いコート。黒い髪。そして…嘲笑する、その暗い目。
「何度、失敗を繰り返すつもりだ?何度、余計なことをして、身体を無駄にさせる?」勝ち誇ったように、それは嗤う。にやりと、口を笑ませる。「幾度チャンスを与えればいいのだ?この、失敗作が!」
それが、成功を望んでいないことくらい、ヒガラには十分わかっていた。こうやって何度も失敗し、そのたびにイスカを失い、そのたびにこうやって嘲笑されては、なおさら。だからこそ、何とかして、彼から奪還したかったのだ。けれど、けれど。
イスカと、同じ声、同じ顔、そうして、同じ感情で話されて、それで、我慢が出来るだろうか。あれだけ触れ合い、長い時間を一緒に過ごしたイスカが、一度は殺されてしまったイスカが、自分の前で話し、感情を表し…たとえ彼に、オリジナルのイスカとしての記憶はなくとも、愛する者の声で、自分の名を呼ばれたとあっては。
「お前に、イスカは渡さない。あれは永遠にわたしのものだ。永遠にな…。」
元から、おかしいとは思っていたのだ。それをイスカはわかっていて、何とはなしに自分に忠告してくれていたのだ。…気をつけて、ヒガラ。兄さんは君が好きではないようだから、と。それなのに、それなのに、自分は。
「もう一度ゲームを始めてやろう。今度はどういった趣向がいいか?」
目眩がする。耳鳴りがする。腕の中の冷たい感触が、徐々に遠くなるのを感じる。
時の渦に縛りつけ、永遠にこれを繰り返して。それで、壊れてしまうのを。
…あいつは、望んでいるんだ。
…俺が、奪ったから。
…イスカを。弟を。
「そうだ、ヒガラ。また、あの日から始めてやろうか。」回り始める風景の中で、彼はその声を聞いた。楽しげにあざ笑いながら、どす黒い感情に支配されたその声を。「お前の失敗の始まりの日からな…。」
よろめいて立ち上がる身体は、もう何の力も残っていない。瞳は光を失って虚ろに開いたまま、乾いた吐息だけがぽっかり開いた穴から漏れ出ている。
あぁ。俺は。
…俺は、間違っていたのだろうか。
お前に世界が見せたかった。ただ、ただそれだけだったのに。
…間違って、…。
ふらふらと足が歩き出す。
感情の消えてしまった顔は能面のように張り付いたまま、揺れながら前に進んでいく。
最後に残ったぬくもりが、ぽろりと頬に零れて、
それきりだった。
もう、何も。
…何も。
眼前に広がる世界、バラに彩られた大きな屋敷、その門の前にに立ち尽くし、イスカは、何かを感じて振り向く。
どさ、と、音がしたまでは分かった。でも、それの主はどこにもない。周りを見回してみても、それらしき影はどこにもない。
気のせいか、と思ったその視線が、何かを捕らえた。はっとして駆け寄ると、それは、木の陰、壁に背を預けたまま、座り込んでいた。赤い髪が俯き、風に揺れている。
「…あの?」
話しかけても、それは応えない。顔を上げもしない。
聞こえてないのかな、と訝り、そこで、イスカは気付いた。はっとして、それから離れた。
彼の腹部から映えた、銀色の刃。そこから流れ出した、多量の血の海。彼の身体はまだ温かく、流れ出る血も、今し方ここで刺したかのようではあったが、…それよりも。
手を伸ばし、触れた手首に、感じるものはない。イスカは顔をしかめ、少し離れて、そっと手を合わせた。事切れている。もうすでに…。
「どうした、イスカ。」
声に、イスカは顔を上げる。いつ近づいてきたのだろう、兄はそこで笑っていた。場違いな笑みに一瞬違和感を覚えるが、今はそれどころではない。立ち上がり、もう動かない彼の身体を指さし、ひとが…と言いかけたところで、はっとする。
泣いている…?僕が?…何故?
そう気付いてしまったら、涙は勝手にぼろぼろと零れ出す。声にならない声でしゃくり上げながら、イスカは兄の胸に飛び込んだ。理由もわからないままに、ひどく心が痛んで仕方なかった。もう取り戻しの付かない何かが行われてしまったかのような、真っ暗な世界に落ちていくような、底知れない不安が感情を支配していた。
「優しい子だね、お前は。」兄は、そう言った。「こんな、誰とも知らない男に、そんなにも泣いているとは。」
イスカは泣きながら頷いた。それしか出来なかった。顔を上げることも出来なかったから、兄がそのとき、蔑んだような見下したような視線で事切れているそれを見て、うっすらと嗤っていたことにも気付かなかった。
「残念だよ、ヒガラ。君はもう少しがんばれると思っていたんだがな。」
だから、ぼそりと呟かれたその言葉にすら、注意を払う余裕がなかった。感情のない、起伏のない、それでいて全く明るい、そんな言葉を。
「まぁいい。わたしの勝ちだ。さようなら失敗作。せめて安らかに眠るといい…。」
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