No.482524

竜たちの夢10

思春デレデレする・蓮華一刀に会う・愛紗の愛が重いの巻


キャラ崩壊と、思春が甘えたり、あの声で「お兄ちゃん」と呼ぶのが許せない方は、すぐさまブラウザバックをすることをお薦めします

続きを表示

2012-09-11 01:51:19 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:6849   閲覧ユーザー数:5750

 

 竜とは人間の形をして生まれてくる化け物のことである。

 

 まさしく天災と呼べる程のその圧倒的力は、一つの国を一匹で滅ぼせる程だ。

たった一匹で数百万を相手にすることができる竜は、しかし脆い一面も持つ。

竜はその大き過ぎる力故に孤独であり、寂しがり屋なのだ。

 

 彼らは人間と生きていく為に彼らと人間の橋渡し的な存在の逆鱗に、誰か一人人間を選ぶ。

その逆鱗となった人間は竜によってあらゆるものから守られることと引き換えに、彼らが人間性を忘れぬ為の証であり続ける。

人間の姿との心を持って生まれる竜がその人間性を惜しむが故に、逆鱗は生まれたのだ。

 

 竜と人間の交流の記録を記した一対の書がこの世には存在する。

『竜の書』『真名の書』と名付けられたそれらは、かつて最初の逆鱗となった人物の知り合いが纏めたものだ。

この二冊は長い時の中で失われたかに見えたが、その片割れである『竜の書』はとある家系に密かに受け継がれていた。

 

それが―――甘寧興覇の生まれ育った甘家である。

 

 

 

 

「思春……」

 

 北郷一刀は、静かにその名を呼んだ。

その名は、かつて失ったと思った逆鱗の名であり、彼を見つけてくれた少女の名であり、彼が裏切ってしまった少女の名だ。

甘寧興覇の運命を彼は大きく狂わせ、そして逃げた。

あまりにも弱かった彼はあの時彼女の生死を確かめることさえしなかった。できなかった。

 

 だから、一刀はここで思春に全てを懺悔しなければならない。

もう人外のものとなってしまった瞳で彼女に全てを語り、その口で赦さなくて構わないと告げなければならない。

彼女が彼を憎しみの余り殺したいと望むのならば、殺されても構わない。

彼は、罰を受けなければならないのだから。

 

 

「……」

 

「? 思s……!」

 

 動きの無い思春を不思議に思い、再び彼女の名を呼ぼうとした一刀は、彼女が片手に持っていた剣を見て思わず微笑んだ。

彼女は彼を殺しに来たに違いない……そう判断した彼は、笑顔で両手を広げた。

いつでもこの命を奪いに来い、と後押しをしてやる為に。

運命を狂わせた者への復讐を果たして楽になれ、と彼女の背中を押す為に。

 

 一刀は思春に殺されるのならば、劉備達を最後まで導けなくても構わなかった。

殉ずることもできないようでは、彼は逆鱗として彼女を選びはしなかったのだから。

劉備達を最後まで導くことができないのは寂しいが、既に劉備はその足でしっかりと理想に向かえる筈だ。

関羽も張飛も、孔明も士元も……愛紗だって、彼無しでも生きていける。このまま進んでいける。

 

 だから、一刀は安心して思春の剣がその体を貫くのを甘受できる。

まだ再会を果たしていない者達も居るが、そんなことよりも彼女が最優先だ。

彼は十年前に思春を最優先することができなかった。己を守ることばかりに夢中で、彼女を守れなかった。

だからこそ、ここで殉ずる。その贖いを果たす。

 

 

「―――来い、思春」

 

「……っ」

 

 一刀は十年前に彼女を受け入れた時と同じ表情で、思春の復讐を迎え入れた。

そんな彼の姿に、今まで静かに佇んでいた彼女はその片手に持っていた剣を―――手放した。

音を立てて地面に落ちる剣に見向きもせずに、彼女は駆ける。

その淡い赤の瞳を潤ませながら、彼女は両手を広げていた一刀の胸に飛び込んだ。

 

 

「えっ?」

 

 そんな思春の行動に驚きながらも、一刀は無意識の内にその背中を、広げていた両手で抱きしめた。

十年前よりも確かに成長したが、しかし彼にとっては小さく華奢なその背中は震えている。

ただただ彼の胸に顔を埋める彼女に、彼は何と声をかければ良いのか分からない。

 

 しっかりと両手で彼を抱きしめる思春の眼は見えない。

ただその震えているその体を抱きしめてやることしか、今の一刀にはできなかった。

しかし、それではいけない。それでは、彼は何一つ大切なことを確かめることはできない。

何一つ謝ることも、贖うことも、喜ぶこともできない。

 

 だから、彼は再び彼女の名を呼んだ。十年前のように……あの懐かしい頃のように。

 

 

「……思春」

 

「……もっと」

 

「思春」

 

「もっと」

 

「思春「もっと」思春「もっと」思春「もっと」思春「私の名前――」そうだ……君の名前だ―――思春」

 

 彼が名を呼ぶ度に、思春はもっと名を呼ぶことを強請る。

だから、彼は言ってやったのだ。その名は彼女のものだと。彼が呼んでいるのは間違いなく彼女の真名だと。

そんな彼に応えるように、思春はその顔を上げ、彼を見た。

 

 涙に濡れた赤い眼が愛らしく、その悲しみも痛みも喜びも、何もかもを内包する混沌とした表情も愛おしい。

一刀は己の頬を零れ落ちていく涙の温かさを確かに感じながらも、その怯えが露になった眼を直視した。

彼の眼は多くを理解し、多くを語る。

だからこそ、彼はその眼で彼女に告げるのだ―――彼は彼女を拒絶などしない、と。

 

 しかし、それだけでは足りない。言葉にしなければ、思いは届かない。

どんなに強い思いも、しっかりと言葉にして形にしなければ伝わらないのだ。

だから一刀は告げる。その眼に宿したことをそのままに、より強く。

 

 

「十年前、俺は思春を探そうとしなかった。思春が死んでいたらと思うと怖くて、できなかった。俺は弱い……強くなんかない。俺は、最低だ。けど、もしも思春がまだ俺を必要としてくれているのなら―――傍に居てくれ。俺には、君が必要だ」

 

「――はい。今度は、私が探すから。だから、だから……傍に居てください」

 

「ああ……約束だ。今度は、守ってみせる」

 

「私も守れなかったから良いよ……だけど、二度目は絶対に守って見せるから」

 

 鋭さを持つ筈の、綺麗な顔を幼い色で一杯にしながら思春は一刀に縋る。

もうただ待つだけの甘えは捨てるから、傍に居てくれと強請る。捨てないで欲しいと必死に愛を強請る。

彼にそれを拒絶することなどできる筈もない……彼女が彼を受け入れてくれたのならば、彼もまた彼女を受け入れるだけだ。

 

 孫呉での無口で無愛想な彼女を知る者が見ればあまりのギャップに驚くだろうが、これが本来の彼女なのだ。

切れ長の眼を潤ませながら、ただ彼に縋るこの弱弱しい姿こそが鋭い刃で隠していた彼女の本性である。

 

 思春がここまで依存的なのは、今や一刀だけが知る事実なのだ。

誰も知らない、甘寧興覇という仮面を脱ぎ捨てた思春という一人の女の子の本音なのだ。

鈴の甘寧と言われ、恐れられている凄腕の隠密の姿は、ここには無い。

ここに居るのは、思春という一人の娘だけだ。

 

「今は呉に居るのか?」

 

「うん。孫文台の娘である孫仲謀の右手として、孫呉に居るの」

 

「ふむ……思春から見て、孫文台、孫伯符、孫仲謀はどうだ?」

 

「三人の中で最も王に相応しいのは孫仲謀。しかし、現在の孫呉に最も必要無いのも孫仲謀……かな?」

 

 椅子に座った一刀の上に、まるで恋人同士がするように横に座りながら、思春はそう告げる。

その言葉に一刀は不安を覚えずには居られない。

最も王に相応しい孫権仲謀が最も疎かにされる状況にある孫呉を、天下三分の計に加えるのは難しいのだ。

 

 本来ならば、再会してすぐにこのような話をするのは良くない。

しかし、思春が孫呉に居る已上はそこからどうやって一刀の下へと彼女を連れてくるかが問題だ。

孫呉の状況を知れば、そこから彼女を引き寄せられる駒が見つかる筈である。

だから、一刀はこの色気の欠片も無い話を続けるしかない。

 

 

「思春。現在の孫呉と孫仲謀の状況は?」

 

「孫呉は孫文台が重体になった間に孫策が王として立ち、その後復帰した孫文台との二枚看板の状態。それによって孫仲謀は孫呉の血を残すことのみが求められている。ちなみに、孫仲謀……蓮華様は、嫁ぐならお兄ちゃんが良いと思っている」

 

「……は?」

 

「正確には私がそう仕組んだんだけど……表向きは蓮華様を嫁として迎え入れ、その上で実際は王として育てるのが良いと思うの」

 

 思春の言葉に一瞬固まった一刀だが、続けて告げられた言葉に直ぐにその意図を理解する。

つまり、現在の孫呉が信頼できないのならば、一刀自身で信頼できる王を育てろ、という訳だ。

確かに、その方が彼にとっては都合が良い。

 

 聞けば、彼が十年前に出会った孫家の女性は孫堅文台本人だったようだ。

孫堅文台は今も尚彼に執心しており、今回の戦であの殺戮を行ったのが彼だと知れば、繋がりを求めてくる筈だと彼女は言う。

確かにその際に孫権を指名すれば、一刀は最も器の大きな王をその手で教育できる。

 

 だが、これには一つ大きな欠点がある……それは、孫権仲謀が呉にとってあまりにも親近感の湧かない存在になってしまう可能性だ。

確かに一刀は王として孫権を育て上げることはできるが、孫呉の王として育て上げるには、孫呉の土地で育てる方が良い。

 

 

「……成程。相変わらず良く回る頭だ」

 

「えへへ……お兄ちゃんの為なら、私は何だってするから」

 

「しかし、それでは孫仲謀は孫呉の王にはなれないぞ? 時間さえあれば解決することではあるが」

 

「そこはお兄ちゃんの腕の見せ所だよ?」

 

「……責任重大だな」

 

 十年前のように甘えてくる思春の頭を撫でながら、一刀は孫権仲謀をどう教育するかを考える。

孫堅文台や孫策伯符とは異なり、孫権仲謀は慈しむ王だと彼女は言う。

しかし、劉備とは違い、孫権には自身を飲み込んでしまう程の大きな理想は無い。

ならば、彼が教えるべきは平和の齎し方ではなく、平和の維持の仕方であろう。

 

 いかに同じ慈しむ王であるとしても、劉備と孫権ではその前提条件が異なり過ぎる。

劉備は今まで通り痛みと喜びの双方を教え、理想の危うさとそれが齎す良い結果の双方を教えれば良い。

それに対して孫権は、基本は劉備と同じで構わないが、より一刀寄りになるように教育する必要がある。

 

 確かに中々に難しい所だが、やってやれないことはない。

 

 

「思春。済まないが、今はまだ一緒になれない。孫仲謀をこちらに引き込む時、一緒に来ることはできないか?」

 

「大丈夫。孫文台にお兄ちゃんが蓮華様を気に入ったと伝えれば、全て思いのままだから」

 

「……成程、飽く迄孫呉の血に拘るか。しかし、思い通りになってやるつもりはない」

 

「今の孫呉には蓮華様はそこまで重要ではない。それがお兄ちゃんと孫呉を繋ぐ橋になるのなら、無条件で引き渡してくれる筈だよ」

 

「……それは、本当に大丈夫なのか?」

 

 一刀の孫堅への忠告が未来を変えてしまった今、孫堅と孫策がどうなるのかは彼にも分からない。

だが、彼ならばその二人を双方共逃がさずに殺すことなど容易いのだ。

そんな彼の存在を知った後でも、孫呉が孫権にそこまで大きな価値を見いだせないならば、滅んだ方が身の為だ。

 

 一刀は孫権や太史慈を中心にした新たな孫呉をそこに建てるだけであり、何も今の孫呉が揚州、交州を担う必要は無いのだ。

孫権を教育しておけるのは実に良いことだが、そうしなければならない状況にあるのならば、孫呉は最悪捨ててしまっても良い。

既に史実から大分歪み始めている今、何を躊躇する必要があるのだろうか?

 

 史実で孫堅文台が黄祖の伏兵によって死ぬのは董卓が討たれた後であり、今ではない。

既に黄祖討伐も終了し、孫堅文台は健在で、孫策が王となっている……これを歪みと言わずしてなんと呼ぶ?

既に流れは一刀の与り知らぬ部分を見せつけ始めている……流れが読めないならば、自分で流れを作った方が良い。

 

 

「思春、呂蒙という人物を知っているか?」

 

「呂蒙?……会ったことも聞いたことも無いけれど?」

 

「十年前に会ったが、あれは良い原石だ。今後会うことがあれば、引き込んでおいて欲しい。孫権と共に教育しておく」

 

「成程……分かった」

 

 周瑜と陸遜が本当に孫権の教育の重要性を理解できぬ筈が無いが、これは保険だ。

まだ孫呉に加わっていない呂蒙を前もって教育しておいて、孫呉に送り込む。

周瑜と陸遜が本当に一刀の危惧している状態にあるのならば、もしもの時に余裕を持って行動できる軍師を一人置いておく方が良い。

それでも孫呉が崩れゆくのならば、一刀は孫権を孫呉の王ではなく呉の王にするだけである。

 

 過度な安心は危険な状態を呼びこんでしまうものだ。

一刀は確かに数十万を一人で葬る程の圧倒的暴力を持つが、彼に味方したからといって必ず生き残れる訳ではない。

それと同じように、孫堅文台と孫策伯符の二枚看板がいかに強固であっても、過度な安心は禁物だ。

 

 もしも今夜、黄巾党を倒して油断しきった孫呉の野営地を一刀が奇襲すれば、孫呉は滅ぶ。

滅びが身近にあることを自覚した上で行動しなければ、孫呉は揺らぎに揺らぐだろう。

危機感の薄い状態でこの乱世を生き抜いていける筈も無い。

一刀が孫呉の者ならば、皆を叱責したいくらいだ。

 

 

「名残惜しいけど……そろそろ行かないと」

 

「……そうか」

 

「全部、しっかりとやってみせるから」

 

「ああ、分かっている。だから、待っているよ」

 

 名残惜しそうに一刀の膝から降り立つと、思春は儚げな笑みで彼を見る。

あまり長居をすれば誰かに気付かれてしまうかもしれないし、孫呉の蓮華のことも心配だ。

思春は、本当はもっと北郷一刀という竜に触れていたかった。もっと彼の匂いに抱かれていたかった。

彼にこびりついた他の女達の匂いを自分のもので上書きしてしまいたかった。

 

 だが、もう行かねばならない時間だ。

思春はこれから甘寧興覇に、鈴の甘寧に戻る。仮面を再び被り、一刀への手土産を迎えに行く。

彼は思いの他彼女との再会を喜んでくれたし、彼女を受け入れてくれた。

だから、それに応える為にも成功させなければならない。

 

 本当は、思春は一刀に謝らなければならないことが沢山ある。

思春達甘家がいかに彼の運命を狂わせたかも、彼女達が竜のなんたるかを知っていながら教えなかったことも、彼は知らない。

だから、いずれ彼女はそのことを彼に打ち明けなければならない。

 

 

「それじゃあ……また今度」

 

「ああ……待ってい――んむ!?」

 

「ん……今度は、私が探しに行くよ。だから、これは――目印」

 

 不意に思春は、椅子から立とうとした一刀の肩を抑えるとその桜色の唇を彼のそれに重ねた。

そのことに驚いて目を見開く彼に、顔を真っ赤にしてそれを目印だと告げると、彼女は身を翻して天幕から駆け出す。

地面に落とした剣を滑らかな動作で拾い上げ、そのまま闇の中へと消えていった彼女を、一刀はただ見送る。

 

 

「……」

 

 接吻など、愛紗を労う時くらいしかしたことがなかった一刀には、思春の行動は実に驚くべきものだった。

愛紗は彼に強請りはしても彼女からはして来ない。

一刀は愛紗と既に肉体関係を持っていたが、その際も彼女は常に一刀のことばかり考えている。

一刀が望んでいるのか、望んでないのかを恐る恐る確認しながら行為を進めていくのだ。

 

 そんな愛紗とは違い、思春は完全に不意打ちをしてきた。

一刀はそのことに驚きを隠せなかったものの、すぐに満面の笑みを浮かべる。

思春が生きていて、彼を受け入れてくれたのならば。それ以上を望む必要など無い。

彼女がこちらに来るのならば、劉備の下を離れる必要は無くなったと言える。

 

 

「成長したな……思春」

 

 肉体は勿論のこと、精神もまた思春は成長していた。

以前とは異なり、彼女もまた劉備と同じ位階まで上り詰めていたのだ。

今の彼女ならば、逆鱗としては十二分な心の強さを持っている為、上書きの可能性は消えた。

 

 もはや劉備は彼が仕える主であっても、逆鱗にはなり得ない。

一刀の欠けていた逆鱗は自らの足で彼を探しに来て、その欠損を埋めてしまった。

彼は、完全な竜へとなれる。もはや成長の過程で人間らしさの欠損を恐れる必要は無い。

だから、彼は安心して―――吐血した。

 

 

「あ……ぐ……っ!!」

 

 大量の白い鱗が含まれたその血を見やりながら、一刀はそのまま地面に倒れ伏す。

今まで必死に抑えていた成長が一気に彼の体に訪れたのだ。

あまりにも急激な変化は全身を磨り潰されているような痛みを齎し、精神を摩耗させる。

しかし、彼には既に逆鱗が居る。彼の心は壊れない。

 

 

もはや恐れる必要は無くなった一刀は、安心してそのまま意識を手放した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あの殺戮を行った者の名が分かった?……それは本当なの?」

 

「はい」

 

 翌日、孫堅文台は彼女の天幕を訪れた甘寧興覇の報告に驚いた。

同じ野営地とはいえ、彼女の娘である蓮華の護衛よりも優先すべき事柄などある筈もないと思っていたが、そうではなかった。

彼女が持ってきた情報は十二分に重大で、それこそ最重要事項と言っても良い。

 

 昨夜、あの大量殺戮をたった一人で行った武人の名が分かったのだ。

あれは放っておけば最大の脅威になり得るし、逆に取り込めば最大の戦力になる。

呂布奉先と同じく、一騎当千を体現した正真正銘の天才を欲しがらない者など居ない。

孫堅文台は、あの武人が手に入るならば欲するし、手に入らなくとも敵にならないようにするつもりだ。

 

 

「それで、名前は?」

 

「姓を北郷、名を一刀……異国の者故、真名も字もありません。劉備玄徳個人に仕えているようです」

 

「!? ちょ、ちょっと待ちなさい。ということは……ああ、もう!!」

 

「はい、約束を違える訳にはいきません」

 

「生きていると思ったら、もう劉備の手がついているなんて……ついてないわね」

 

 孫堅は武人の正体がかつて仲間に引き入れようとした男であったことを理解し、肩を落とした。

彼女と彼の約束は、次に会う時彼が誰にも仕えていなければ、彼女に仕えるというものだった。

あの誠実さを眼に溢れさせていた男が、その約束を覚えていない筈が無い。

 

 孫堅は、不可能でない限り約束は絶対に守る。

契約や約束を違えることは、お互いの信頼に大きなヒビを残していくからだ。

小さな約束すらも守れない者が、大きな約束を守れる筈も無い……そう考えて彼女は行動している。

実に惜しいが、今回は孫呉に取り込むことは諦めるしかない。

 

 

「そんな文台様に、一つ良い話があります」

 

「良い話?……聞かせて貰おうかしら」

 

「はい。その北郷一刀なのですが……蓮華様をお気に召されたようです」

 

「―――話を続けて」

 

 甘寧興覇は北郷一刀が守っていた忘れ形見のようなものだった。

そんな彼女が彼に接触できない筈がない……つまり、彼との接触に成功したのだろう。

孫堅は、彼女の娘である孫権仲謀に北郷一刀が興味を持ったならば、喜んで利用する。

あの圧倒的暴力を孫呉に向けさせない為にも、蓮華には役立って貰わねばならない。

 

 あの優しかった男があれ程の殺戮を行ったのには驚いたが、あれは今もまだ優しい筈だ。

そうでなければ、甘寧興覇はこうしてここに戻ってくることすらできなかっただろう。

ならば、北郷一刀に孫権仲謀を与えれば、その家族である孫家に牙を剥きはしない筈だ。

彼は誠実過ぎる……故に、孫堅はそこを利用させて貰う。

 

 

「簡潔に言えば蓮華様が欲しい、と述べていました。条件はたった一つ―――私ともう一人を引き渡すこと」

 

「……破格ね。逆の立場だったら、私は孫呉の戦力をもっと引き抜くわ。彼の武には、それだけの価値がある。そのもう一人については、こちらで決めても良いのかしら?」

 

「いえ、指名がありました。名前は呂蒙……彼の知り合いだそうです。孫呉の何処かに居る筈だ、と述べておりました」

 

「益々破格ね……重臣処か中堅でも無い無名の者だなんて。何か裏がありそうなくらい、美味しい話よ」

 

 孫権仲謀と甘寧興覇を失っても、孫呉には十二分な力がある。

将には孫堅文台、孫策伯符、周泰幼平、黄蓋公覆が、軍師には周瑜公瑾と陸遜伯言が居る。

現在は離れ離れになっているものの、魯粛という心強い味方も居るのだ。

孫堅文台の復帰によって、孫呉の戦力は減る処が日に日に増大している。

 

 孫策は、分からないことがあっても孫堅が導いてくれる為、気負うことなく王として振る舞える。

孫堅も、娘である孫策が王としてしっかりしている為、一介の将として戦闘に参加できる。

既に王として十分に成長した孫策の御蔭で、孫堅と孫策のどちらが欠けても孫呉は揺るがないのだ。

 

 孫策、孫堅の両方を失いでもしなければ、揺らぐことはあり得ない。

その両方を失う可能性を限りなく上げる北郷一刀を、孫権仲謀を与えることで抑えることができるのならば願ったり叶ったりである。

あわよくば、二人には孫呉の血を継ぐ子どもを産んでもらえれば、尚良い。

 

 あの圧倒的暴力を生み出した北郷一刀の血を継いだ子は、きっと孫呉にとっての希望となり得るだろう。

 

 

「それで……どうされますか?」

 

「どうするもこうするも、受けるしかないでしょう。雪蓮達には私から話しておくわ。蓮華には貴方が話をしておいて」

 

「御意。時期はいつ頃に?」

 

「今は戦後処理が忙しいから、暫くして落ち着いた後ね。少なくとも朝廷から恩赦を貰った後になるわ」

 

「では、蓮華様にもそう伝えておきます」

 

 一礼の後に、静かに天幕から甘寧が去っていくのを見ながら、孫堅は思わず苦笑した。

彼女が十年前に益州で出会った優しい男と、その男に甘えていた幼い少女が、今現在は片や常軌を逸した暴力の持ち主、片や彼女の娘の臣下になっているなど、まるで夢のようだ。

それがおかしくて、ただただ彼女は笑っていた。

 

 あの日孫堅文台が出会った時は、まだ知のみしか備えていなかった男が、十年経った今彼女を圧倒的に上回る武を備えてその姿を現した。

甘寧を人質として使うことなど一目で不可能だと分かってしまう程の、圧倒的な暴力を持つ嵐になって、蘇ったのだ。

 

 それを抑える為に、あわよくば孫家にその血を取り込むために、彼女は己の娘を彼に捧げるつもりなのだ。

英雄色を好むという言葉がある……彼もその例に漏れない筈。

だからこそ、孫権仲謀――蓮華を気に入ってくれたのならば、そこに取り入る。

 

 

「……母親としては失格ね」

 

 確かに母親としては失格だが、彼女は孫呉を支える将である。

王の座は娘である孫策に譲りはしたものの、彼女は孫呉を第一に考える。

仮に彼女達が死んでしまっても、他の勢力に蓮華が居るならば、そこから孫呉は再び蘇ることが可能だ。

そして、北郷一刀と孫権仲謀の子ならば、間違いなく孫呉を強大なものにできる。

 

 気がかりなのはその子の教育についてだが、そこは蓮華がどうにかしてくれる筈だと孫堅は考えている。

元々、孫呉を第一に考えている節がある蓮華は、同じように子にもそれを教える筈だ。

そして、家族というものを大事にするであろう北郷一刀に、それを止めることなどできない。

なればこそ、今回の話は呑んでおいて損は無い。

 

 

「明命、居るかしら?」

 

「ここに」

 

「雪蓮達をここに呼んできてくれないかしら?」

 

「はい!」

 

 周泰幼平の真名を呼び、現れた彼女に娘達を呼ぶように言うと、孫堅はその碧眼を細めた。

もはや漢王朝の力は衰え、これから先は戦乱の時代だ。

これは好機だ……今回は上手くいかなかったものの、彼女達が名を上げる機会は多い。

 

 それに先んじて、この先最も名を上げるであろう最有力候補に娘を嫁がせることができるのは、まさしく行幸だ。

呂布奉先のように華やかに大陸中に堂々とその名を残しはしないだろうが、裏で密かに語り継がれる伝説となるだろう。

 

 孫堅は曹操と語り合った時、北郷一刀は呂布奉先と同等だと述べたが、あれは嘘だ。

彼女の勘は、北郷一刀の方が何段も上を行っていると告げている。

あの圧倒的暴力の前では、呂布奉先すらもが赤子のように扱われることを理解している。

表向きの無双は呂布奉先だが、真なる無双は彼に違いない。

 

 だからこそ、蓮華にはその無双を縛る鎖となって貰うのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 昼過ぎに、既に被害状況の確認などを終えた劉備の義勇軍は一息をついている。

先程、朝廷からやって来た使者から恩賞を貰える旨を伝えられ、劉備と関羽が官軍の責任者である何進将軍の元に赴くこととなった。

 

 他にも、冀州で黄巾党本隊を討伐するのに貢献した曹操、孫堅、袁紹に、他の州で黄巾党を相手にしていた諸侯達も集うそうだ。

一刀はここで劉表景升と陶謙恭祖と仲良くなっておくように、劉備と関羽には言っておいた。

一刀は過去に二人に会ったことがあるが、中々に良い人物であった。

 

 今の内に二人と劉備の間に繋がりをつくっておけば、徐州から荊州に移動する必要があった場合に素早く動ける。

徐州に劉備が移動するのはまだまだ先だが、今の内から親交を深めておいて損は無い。

できる限り、劉備が有利に動けるようにしておくことが重要だ。

 

 そうして皆を導く一刀の姿はいつも通りに見えたが、愛紗だけはそこに大きな違いを感じ取っていた。

 

 

「一刀様、何か良いことでもありましたか?」

 

「……愛紗には隠せないか」

 

 劉備と関羽が既に何進将軍の下へと向かっている間の留守を任されている一刀に、愛紗は問いかけ、その勘が正しいことを再確認する。

他の者からすれば大した差異ではないかもしれない……だが、この十年間の間、一度たりとも彼は愛紗にこのような表情を見せてはくれなかった。

本当に、何かから救われたかのような安らぎを込めた表情だ。

 

 これを齎したのが愛紗であるならば、何も問題はない。

しかし、現実は理想とは異なり、それを齎したのは愛紗でないし、恐らく劉備でもない。

悔しいことだが、愛紗には北郷一刀がこれ以上堕ちていかぬようにすることはできても、幸せにはできない。

彼女はあらゆる外史で彼に先立たれ、寄り添うことなど一度たりとも叶わなかった。

 

 

「実はな……昨夜、思春と会った」

 

「!?……どう、なされる……おつもりですか?」

 

「思春と孫仲謀をこちらに引き抜く約束を孫堅にさせる。その代わり、“こちらから”は孫呉には攻めない」

 

「……昨夜示した武力を考慮すれば、重臣数人を引き抜いてもお釣りが来ます。そのような破格な条件で宜しいのですか?」

 

「ああ、孫呉がどこまでできるのかを見ておきたいからな」

 

 愛紗は一刀が下した判断に安堵しながらも、彼女をここまで恐怖させる甘寧興覇を憎む。

そもそも、この世界で彼を最初に見つけるのは愛紗の役目であった筈なのだ。

なのに、彼女ではなく甘寧興覇が最初に出会ってしまった。

一刀は彼女を逆鱗とし、劉備を逆鱗にはしてくれない。

 

 最初に北郷一刀を見つけたのは彼女だ。

北郷一刀が関わる、あらゆる外史の始点こそが、彼女が最初に彼と出会った外史なのだ。

劉備の居ない世界でその代わりに彼が立ち、曹操も孫権も呑みこみ、最後は大陸を制覇した。

そんな彼も、最後は彼女達を置いて正史に帰ってしまった。

 

 何度も何度も愛紗はあらゆる外史で一刀に寄り添おうとした――しかし、できなかった。

最初の外史から引きずり続けた別れは、一つ前の外史でも彼女を苦しめた。

そんな彼女が半端ながらも竜となり、漸くこの外史ならざる外史を作り出せたのだ。

数十万に及ぶ別離の連鎖を終わらせる為に、漸くこの歪な世界を生み出したのだ。

 

彼女の願いをひたすらに体現した世界ですらも甘寧興覇というイレギュラーが邪魔をするならば、彼女は容赦しない。

 

 

「それで、引き抜いた孫仲謀と甘興覇はどうなさるのですか?」

 

「孫仲謀は王として育てる。思春には……隠密をして貰う。いかに逆鱗であっても、働いてもらわねば俺の信用に関わる」

 

「御意。単純な学問などの教育は私が担いますので、王としての教育は一刀様にお任せします」

 

「勿論だ。彼女には、劉備とは少しばかり異なる王になって貰うさ」

 

 孫権仲謀――その名は、愛紗にとって少しばかり忌々しいものだ。

彼女が歩んだ最初の外史で北郷一刀と結ばれた、たった二人の女性の内の一人が孫権なのだ。

もう一人は曹操孟徳だが……この二人は、誰よりも一刀を知る愛紗を差し置いて彼と結ばれた、彼女にとって憎き存在である。

 

 余りにも優しかった一刀に付け込んで、その弱さを貪った憎むべき二人の片方がもうすぐやってくる。

かつての彼女ならば、烈火の如く怒り狂っていただろう……しかし、今はどうでも良い。

愛紗は、ただ一刀に殉ずることさえできれば良い。

 

 孫権仲謀も曹操孟徳も所詮はただの人間であり、一刀の子を残せはしない。

確かに二人共女性としては魅力的であろう……だが、一刀は竜であり、人間と結ばれることはない。

彼の子を残せるのは愛紗ともう一匹の何処にも行けぬ竜のみであり、人間達にその権利は無い。

北郷一刀が苦しまずに触れ合えるのは、完全な竜の子だけなのだ。

 

 だから、大丈夫だ―――きっと一刀は孫権を拒絶してくれる。

 

 

「ああ、そうだ……愛紗、董仲穎の調査は進んでいるか?」

 

「はい。やはり彼女の勢力は腐敗とは完全に無縁でした。今回の乱では涼州を単体で平定したので、かなりの地位を賜ることになるでしょう。」

 

「成程。それで、人柄の方は?」

 

「至って内向的ですが、いざという時は戦う強さを持っています。臣下の謀反を恐れずに能力を最大限に使わせる点は、及第点でしょう。野心は――正直に申し上げれば、欠片もあるようには見えないようです」

 

「ふむ……しかし、今回の乱でそれ相応の地位を得るんだ。それを悪用しようとする輩は居るだろう」

 

 例えば、今現在の朝廷を蝕む十常侍が邪魔な勢力を排除するのに利用したり、逆に十常侍を排除する為に他の勢力が利用したりするかもしれない。

その上でその全てを董卓仲穎の行いにしてしまえば、そこからは史実のように各諸侯から手柄の為に蹂躙されるだろう。

 

 史実では粘ったそうだが、この世界ではあまりにも戦力差があり過ぎる。

董卓の持つ軍は大凡五万超であり、曹操、孫堅、袁紹の三者だけでそれに匹敵する数が揃うのだ。

そこに公孫賛や袁術、劉表や劉焉などまでが加われば、恐らく戦力差は二倍を超える。

 

 仮に一年間の猶予があったとしても、互いの戦力差は変わらないだろう。

黄巾党の残党が多いのは東側であり、それらを取り込める曹操、孫堅、袁紹達には大きく差をつけられてしまうのだ。

その為、一刀の見立てでは史実通りに反董卓連合が結成されるならば、その戦力は大凡董卓六万、連合十五万であろう。

 

 

「一刀様の仰る通り、最近十常侍が怪しい動きを見せています。恐らくは――」

 

「では、決まりだな。愛紗、劉備の次の教訓は董卓が教えてくれる。最も危険で、しかし最も必要なものを、教えて貰いに行こう」

 

「御意」

 

 一刀の言う通り、彼がこれから董卓を利用して劉備に教えようとしているものは、彼女を壊し得る。

今までとは違う、劉備玄徳が完全に崩壊してしまう危険性を孕んでいるのだ。

彼が彼女に望んでいる強さを得る前に、彼女の心は壊れてしまうかもしれない。

 

 しかし、それでも一刀は劉備が拒絶しない限り、その痛みを教える。

まさしくパンドラの箱に相応しい反董卓連合を、彼は彼女の成長の為に利用するのだ。

愛紗の過ごしたとある外史では、ここで劉備が壊れてしまうことも確かにあった。

まさしく、劉備玄徳が理想に生きるか、現実に生きるかの分かれ目となる舞台だ。

 

 しかし、愛紗は知っている。

この外史の北郷一刀は今まで愛紗が見てきたどの彼よりも優しく、強い。

この外史の劉備玄徳は今まで愛紗が見てきたどの彼女よりも現実的で、揺るがない。

劉備は一刀が用意する最大級の痛みすらも受け止め、そして成長する筈だ。

ここで全てが決まる……しかし、不思議と愛紗に不安は無い。

 

 

きっとそれは―――この世界が、彼女の願いのままに歪んでいく世界だからなのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「私が北郷殿の下に嫁ぐ?……それは本当にお母様の決定なの?」

 

 孫権仲謀――蓮華は混乱していた。

 

 黄巾党の本隊を討伐し終わり、その後処理も終えて、後は恩赦を受け取りに行っている母達を待つだけだったのだ。

その状況下で、いきなり思春から自分が嫁ぐ旨を伝えられたのだから、無理もない。

混乱してしまわない方が不思議なくらいであろう。

 

 

「はい。戻った後に直接お伝えに来られるかと」

 

「そう……私が、北郷殿に……」

 

「不安ですか?」

 

「勿論よ。思春の言うような優しい方だったとしても、まだ会っても居ないのよ?不安でない訳がないわ」

 

 蓮華が知る北郷一刀は、思春の語る過去の彼でしかない。

思春が語る彼がいかに優しいとしても、昨夜の大量殺戮を行ったのが本当に彼ならば、安心などできよう筈も無い。

彼女のこの反応は正常であり、そこに微塵も動じない思春がおかしいのだ。

 

 しかし、世界は常に正常な者が生き残るようにはできていない。

正常でも環境に適応できなければ死に、異常でも環境に適応できれば生き残る。

そうやって生物は進化を続けてきたし、人間もそうやって今まで生き続けてきたのだ。

これから始まる戦乱の時代で生き残るのは、正常ではなく異常だ。

 

 

「ご安心ください、蓮華様。昨夜出会いましたが、あのひとは十年前と少しも変わりませんでした」

 

「……思春がそう言うならそうなのでしょうけれど、不安なものは不安なの」

 

「蓮華様……」

 

「そもそも、北郷殿は思春の想い人なのでしょう? 私が嫁いでしまっても、良いの?」

 

 蓮華にとって、思春の想い人である一刀に嫁ぐことは非常に複雑なのだ。

圧倒的な暴力の持ち主に嫁ぐ恐怖よりも、腹心への後ろめたさが大きいのは実に彼女らしいと言える。

しかし、そのような心配をする暇があるならば、表向きは王となることを永遠に許されなくなった己の心配をすべきであろう。

 

 孫権仲謀は生まれた時から王となるべく教育されてきた。

徹底的に孫堅文台の後を継ぐ者としての教育を受け続け、その結果現在の凝り固まった排他的な彼女が生まれてしまったのだ。

元来は孫堅文台、孫策伯符よりも懐の広い彼女であるが、長年の教育の弊害で、その輝きはくすんでいた。

 

 三人の中で最も王に相応しい器の大きさと強い心を持つ彼女も、教育には勝てなかったのだ。

だから、それを今から北郷一刀が同じ教育によって元来のものへと戻していく。

その為の偽の婚姻であり、そこに彼女が想像するような色気は無い。

思春に遠慮することそのものが間違っているのだ。

 

 

「フッ……蓮華様では逆立ちしても奪えませんので、ご安心を」

 

「ちょっ!? 今鼻で笑った!?」

 

「女には、勝たねばならぬ時がある。例え相手が主でも」

 

「何の諺!? いえ、そもそもそれは諺なの!?」

 

 思春の言葉に一々真面目にリアクションをする蓮華は、思春が彼女を落ち着かせる為にこのようなことをしてくれていることを知っている。

一刀に関係無いことに関しては無表情な彼女だが、確かに蓮華の助けになってくれているのだ。

彼女が居なければ、蓮華はもっと早く駄目になっていただろう。

 

 甘寧興覇という一人の人間を形成した北郷一刀が優しくない筈が無いことは、蓮華も分かっている。

思春への後ろめたさと彼への恐怖はあるものの、やはり一番大きいのは期待だ。

北郷一刀ならば、何処にも行けない彼女を、何処かに行ける者へと変えてくれるかもしれない。

何者にもなれない彼女を、何かにしてくれるかもしれない。

 

 蓮華は北郷一刀という果実に既に依存しかけている。

まだその味を知りすらしていないのに、思春の話から想像して、焦がれているのだ。

それは酷く身勝手な行為だが、勝手に期待するのは誰もが通る道だ。

勝手に期待して、勝手に裏切られ、勝手に裏切るのが人間であり、そうしない為に絆を確かめ合うのだ。

 

しかし、蓮華にとって幸運もあり、不幸でもあったのは――北郷一刀はその身勝手な期待すらも叶えてしまう存在であることだ。

 

 

「取りあえず、一度会ってみては如何でしょうか? 今日ならば会うこともできる筈です。私が取り次ぎますが?」

 

「そうね……思春、悪いけれどそうしてくれないかしら」

 

「御意。それでは孫策様達にその旨を伝えて、その上で会えるかどうか聞いて参ります」

 

「ええ、お願い」

 

 孫権仲謀は無力だ。

王としても将としても軍師としても、今の彼女の能力は中途半端であり、誰からも必要とされていない。

確かに王としての器は母や姉よりも彼女が上かもしれない。

しかし、才能があるだけで開花しないならば、才能が無いのと同じだ。

 

 孫堅文台は圧倒的な武力を持っている。

王としても将としても成熟しきった彼女は、まさしく江東の虎という名が似合うだろう。

その圧倒的な力の前では、孫権も孫策も赤子のように扱われてしまう。

王としては孫権よりも公平で、孫策よりも力強い。

 

 孫策伯符は不思議な魅力を持っている。

彼女は王として既に立派に歩み始め、母である孫堅文台が倒れている間も孫呉を維持し続けた。

袁術の客将扱いになったのは仕方のないことだが、それ以外は上手くやっている。

その人柄を考慮すれば王としての器は、孫堅文台よりも上であろう。

 

 

「ああ、そうだ。あのひとから一つ伝言を頼まれていました」

 

「北郷殿から?……いったいどんな?」

 

「孫仲謀には期待している、と」

 

「き、ききき期待って、一体何をよ!?」

 

「そこまでは存じ上げません。それでは、失礼します」

 

 思春から伝えられた一刀の伝言に、思わず蓮華は声を荒げる。

既に嫁ぐ話が固まり始め、後はその日時などを決めるだけとなった現状で、その言葉を邪推するなというのは無理だ。

英雄色を好むとも言うのだし、北郷一刀が彼女にそういうものを求めていると受け取ってしまっても仕方ない。

 

 蓮華は一刀が優しく、恐ろしく強いことしか知らない。あっという間に二万の黄巾党を屠った彼しか知らない。

だから、彼が彼女に向ける期待がそういったものでないことを、彼女は己の中で証明できないのだ。

疑うことはできても、信じることはまだできない。

 

 北郷一刀を語る思春を信頼できても、その本人を信頼できるかは別だ。

だからこそ、これから会いに行こうという話が纏まったというのに、これでは彼を意識してしまうではないか。

蓮華はただでさえ緊張しているのに、更にそこに彼の期待を意識してしまえば、もうテンパってしまうのは目に見えている。

 

 

「北郷一刀、ね……いったいどんな人なのかしら?」

 

 まだ会ったことの無い一刀に蓮華は思いを馳せる。

彼女は彼に恐怖しながらも、実の所、彼が彼女を欲してくれたことが嬉しかった。

今の孫呉にとって、彼女はもはや孫家の血を残す以外の価値は無いと見做されている。

だから、彼女は嬉しかったのだ……王としてではないが、少なくとも女としての彼女を欲してくれたことが。

 

 これは実に歪な考え方であるし、蓮華自身もそれを自覚している。

母である孫堅文台の健在は喜ぶべきことなのに、それによって彼女は殆ど無価値となってしまった。

皆から必要とされている母や姉を誇りに思いながらも、同時にそこに並び立てない自分を惨めに思ってしまうのだ。

そんな彼女にとって、一刀はまさしく期待したい存在であり、不安要素だ。

 

 彼が受け入れてくれなかったらどうすれば良い?

本当に彼は自分を必要としてくれているのか?本当に欲してくれているのか?

ただ、孫呉の血が欲しくて彼女を利用しているだけではないのか?

彼は彼女に何かを与えてくれる処か奪ってしまうのではないか?

 

彼女の不安は尽きない。

 

 

「……私は、弱いわね」

 

 蓮華は弱い……王には相応しくないと自負してしまう程に。

彼女は王にもなり切れず、将にもなり切れず、今こうして彷徨っている。

確かに一介の武人に後れを取りはしないだろう……しかし、将を相手にしては、まともに戦うことすら叶わない。

確かにただの将よりは強い求心力を持つだろう……しかし、王を相手にしては、競うことすら叶わない。

 

 あまりにも半端な蓮華は、この世界でそれを支えてくれる者に出会えなかった。

そっと支えてくれる思春も真の意味では彼女のことなど眼中になく、まさしく彼女は一人なのだ。

だからこそ、彼女は思春が話す北郷一刀に惹かれた。

彼女の目指す、深い慈愛とそれを強固なものにする芯の強さを持つ王の器に、憧れた。

 

 その彼の下に嫁ぐことになるのだ……嬉しくない筈が無い。

王になれなかった彼女を、彼ならば王にしてくれるかもしれない。

将になれなかった彼女を、彼ならば将にしてくれるかもしれない。

誰かに欲されたかった彼女を、彼ならば欲してくれるかもしれない。

心の中でずっと誰かに救って欲しかった彼女を、彼ならば救ってくれるかもしれない。

 

 だから、会うのだ―――本当に彼が蓮華を何者かにしてくれる者なのかどうかを確かめる為に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一刀は少しばかり混乱していた。

 

孫権仲謀が今日会いに行くという旨の伝言を、程遠志が思春から預かったからだ。

隠密としてはほぼ完成された技術を持つ思春が程遠志を見つけ出すのは問題ない。

しかし、その程遠志にこのような伝言を預けるのは如何なものであろうか?

一度しっかりと孫権仲謀とは話しておきたいと思っていた彼だったが、まさかすぐにその機会が訪れるとは思いもしなかったのだ。

 

 

「はぁ……愛紗、この話は受けようと思うが、構わないな?」

 

「はい。一度孫仲謀を見極めておくのには私も賛成です。ですが……過度な期待をさせないようにするべきでしょう」

 

「過度な期待?」

 

「一刀様、考えてもみてください。もはや孫伯符と孫文台という強固な二枚看板がある今、孫仲謀は孫呉にとって重要な存在ではありません。だからこそ、彼女は誰かに必要とされたがっている筈です。甘い蜜を差し出してはなりません」

 

「甘い蜜?……そこまで甘くはないつもりなんだがな」

 

 彼女の言葉を理解していない一刀に、愛紗は思わずため息をつく。

彼はこういったことに関しては今までの外史同様に鈍い。

他人の痛みや苦しみは敏感に感じ取るのに、こういうことには疎いのだ。

彼は自分が甘い果実であることを理解していない。

 

 あまりにも美味で、毒の入っていないその果実は、知れば誰もが欲するだろう。

しかし、実際にその甘さを知ることができるのは数少ない者達で、それを手に入れられる者は更に少ない。

今現在その甘い果実に噛り付けているのは、愛紗と劉備、それに思春の三名だけであろう。

 

 もはやその甘さは毒が無い故に、高い中毒性を持つ。

その味を知った呂布奉先は必至に愛を強請るであろうし、誰にも触れさせないようにするだろう。

もう一匹の竜は、既に人中の呂布、馬中の赤兎馬としてその名を上げている。

反董卓連合でぶつかる時、彼女を打ち破らねばならないのは実に面倒なことだ。

もはや、今の彼女を相手にできるのは愛紗と一刀だけである。

 

 

「とにかく、孫権には会おう。程遠志、できればこちらに会いに来て欲しい旨も伝えておいてくれ」

 

「御意。では、野営地の外でお待ちしている仲謀殿に伝えておきます」

 

「……待て。今、何と言った?」

 

「ですから、野営地の外でお待ちしている仲謀殿に――」

 

「はぁ?……もう来ているのか?」

 

 一刀は顔を引きつらせながら程遠志に孫権が既に来ているのかどうかを尋ねる。

既に来ているのならば、その旨も程遠志には報告して欲しいものだ。

愛紗は程遠志がそれを言わないように甘寧興覇に言われたのだろうと、予想をしながらも程遠志の答えを聞いた。

 

 

「はい。興覇殿の提案で最初は黙っているように言われましたが、既にいらっしゃっています。」

 

「程遠志の主は俺であって、思春では無いんだがな……まぁ、良い。既に来ているならばここに呼んで来てくれ」

 

「御意」

 

「一刀様、御一人で会われますか?」

 

「いや、それだと孫権が緊張し切ってしまう。愛紗も居てくれ」

 

 一刀の答えにほっとすると、愛紗は静かに頷いた。

二人きりで会うことになれば、孫権は彼が何かしないか警戒してしまうだろう。

こういう場合は互いの護衛を近くに待機させた上で話をするものだ。

最も一刀の信頼を得ている愛紗と、甘寧興覇がそれに値するが、彼女は甘寧とはあまり会いたくなかった。

 

 会ってしまえば、あまりにも彼女の安寧を乱す甘寧を、愛紗は殺してしまうかもしれない。

そのようなことをすれば一刀は悲しむ……愛紗と劉備以外の誰かが殺してしまえば、劉備を逆鱗に据えることもできるが、愛紗と劉備だけは駄目だ。

一刀は本当に何も信じられなくなり、心が壊れてしまう。

 

 愛紗はそれだけは絶対に許さない。

一刀の心を壊そうとする者は誰であろうとも絶対に認めない。

ここまで彼を思っている彼女が生み出したこの世界が、最も彼を苦しめているのは皮肉なことだ。

愛紗はそれに気づかないし、気付けない。

 

 既に、数十万に及ぶ外史での一刀との別離によって、彼女の心は壊れているのだから。

 

 

「俺はあまり年頃の女性の好きな話題は分からないからな……いざという時は頼むぞ」

 

「何もお見合いをする訳ではないのですから、お気楽になさっては如何です?」

 

「いや、状況的にこれはお見合いのようなものだろう。違うか?」

 

「……違いませんね」

 

 他愛のないことをこうして一刀と話せることすらも、愛紗には酷く嬉しい。

ただひたすらにこの大陸の為に彼が切磋琢磨してきたのを最も知るのは彼女だ。

その弱さや優しさを内包した鋭さをどうやって扱うかを最も理解しているのは彼女だ。

彼という甘い果実を齧り続け、その味に涙するのも彼女だ。

 

 数十万に及ぶ別離を経て、愛紗は漸く……漸く一刀と結ばれたのだ。

遂に操を捧げ、身も心も漸く捧げることができたことが、彼女は嬉しかった。

誰よりも彼を欲し、求めながらも幾度も死に別れ、奪われ、発狂してきた末に漸くこの世界に辿り着いたのだ。

だから、この世界では絶対に彼に殉ずる。

 

 一刀が死なねばならないのならば、彼女が代わりに死のう。

彼が苦しまなければならないのならば、彼女が代わりに苦しもう。

もう彼を死なせはしない……その心も体も、必ず守って見せる。必ず、最後まで傍に居る。

この世界は彼女の世界だ――絶対に、誰にも邪魔させるつもりはない。

 

 

「北郷様、司馬懿様、仲謀殿をお連れしました」

 

「ご苦労。下がって良いぞ、程遠志」

 

「はっ」

 

 孫権の到着を程遠志が知らせ、それに合わせて一刀は立ち上がった。

仮にも孫堅文台の娘と会うのだ……無礼が無いようにしなければならない。

無礼なことには敏感な血筋であることは、伝聞からも良く分かる。

力で抑えることは簡単なことだが、それはなるべくせずに済ませたいものだ。

 

 程遠志が下がるのと同時に天幕に入って来たのは、そのまま孫堅文台を若くしたような女性だった。

違う部分があるとすれば、それは表情の硬さと、自信の無さであろうか。

自分の自身の無さを隠すために、気高くあろうとしているのが見え見えだ。

 

 

「まずは、初めましてだな。仲謀殿。俺は姓を北郷、名を一刀と言う」

 

「姓を司馬、名を懿、字を仲達と申します」

 

「姓を孫、名を権、字を仲謀と言う。この度は突然の訪問を快く受け入れてくれたことに感謝する」

 

「……ここは政を行う場所ではない。素で結構だ」

 

 あまりにも脆いメッキに、思わず一刀は孫権に素に戻れと言う。

たった一回の会話で孫権の人柄を理解した彼は、無礼だの失礼だのを考えることが無駄だと悟った。

王という形に拘り過ぎているのならば、それを忘れさせてやらねばならない。

 

 仮にも表向きは王として立ち上がることは無くなるのだから、あまり堅くなられても困る。

実際は王としての教育を施す訳だが、それを今教えて良いかどうかは孫権次第である。

ここは腹を割って話してしまった方が早い。

 

 

「……では、お言葉に甘えることにするわ。」

 

「それで良い。俺もあまり堅苦しいのは好きじゃないからな。今回の訪問の目的を聞いても?」

 

「私の夫となる男の下見、かしら? 言い出したのは私じゃなくて思春なのだけれど」

 

「ああ……成程。道理で妙な遊び心があるのか」

 

 一刀は孫権が既に到着していることを程遠志が最初に報告しなかった理由を悟る。

思春は一刀の前では必死にその存在をアピールしていたし、今もそうだ。

今回の会合を仕組んだのが自分であると、彼に伝える為にあのようなことをしたのだろう。

程遠志は生真面目なので、そのような遊び心を抱く筈も無い。

 

 

「あの子は、本当に貴方のことになると表情豊かになるわ。いつもは無表情なのに」

 

「……そうか。あまり、受け入れられてはいないのか」

 

「私同様、腫物扱いね」

 

「そのようなことを初対面の俺に言ってしまって良いのか?」

 

「良いのよ。皆知っているもの……孫仲謀は孫呉には必要無い、ということは」

 

 自嘲するように言う孫権は確かに正しい。

今日一刀が愛紗に尋ねた処、孫呉では孫権は重要視されていないという報告を受けた。

今の孫呉には彼女は必要無いだろうし、彼女無しでも孫呉は発展していくだろう。

しかし、次の世代とも言える孫権の教育を疎かににしているままでは、先は短い。

 

 百年の安寧を望むのならば、一刀のように先を見越して次世代の教育を始めておくべきだ。

自分だけで全てを抱え込むことなど不可能なのだから、それを支えてくれる存在が居て悪いことなど無い。

それを弱さだと一蹴するのは愚かなことであるし、あの周瑜公瑾がそれを分からぬ筈が無い。

 

 確かに、史実でも周瑜公瑾は生真面目過ぎる嫌いがあった。

それが次世代に頼ることを許さないのだとすれば、一刀は幾分かの尊敬と多分の嘲笑を彼女に向ける。

次世代に頼ることの何が悪い?次世代を伸ばしていくことの何がいけないのだ?

力も持たないままに全てを放り出す方が余程悪しき行為だ。

 

 

「仲謀……そんな君に一つ良い知らせがある」

 

「孫権で良いわ。それで、良い知らせというのは何かしら?」

 

「孫権……君は、王になる」

 

「―――え?」

 

「俺が君を王にしてやろう。俺達が、何にもなれぬ者から、君を王にする」

 

 一刀の言葉に孫権は固まった……その碧眼が大きく見開かれるのが、良く見える。

彼は苦笑したくなるのを必死に堪えながら、その碧眼を真直ぐに見据えた。

彼の瞳は多くを理解し、多くを語る。混乱している孫権にすらもはっきりと分かる程に、その意図を心に焼き付けていく。

 

 自分が嫁ぐことになる男に挨拶に来た筈が、そこでその男が彼女を王にすると言い出したのだ。

孫権が混乱するのは当然のことで、一刀はそれを予想していた。

不安に揺れるその碧眼に少しずつ安心が染み渡っていくのを見遣りながらも、彼はそのまま続ける。

 

 

「実は、今回の婚姻は君を王として教育する為のものだ。だから、君は俺にその身を捧げる必要は無い」

 

「そ、それじゃあ……貴方は私が欲しくて婚姻をお母様に持ちかけた訳ではないの?」

 

「そういうことになる。今回の婚姻は表向きでしかなく、孫仲謀という王を育てる為のものだ」

 

「そう……貴方が欲しいのは、王としての私だけなのね」

 

 どこか悲しげな表情でそういう孫権は儚げで、どことなく一刀は愛おしさを感じてしまう。

思春や劉備と同じく、春を司る名前を持つ彼女もまた、竜と相性が良いのかもしれない。

しかし、彼の逆鱗は既に思春に定まり、思春以上に相応しい筈だった劉備すらも彼は跳ね除けた。

もはや逆鱗の上書きは、思春が死なない限り有り得ないだろう。

 

 思春は春を思う者であり、劉備は桃の香りを抱く者で、孫権は蓮華の花の如き者だ。

全員が全員真名に春の意味を持ち、一刀が竜として天に帰る為の逆鱗としては相応しい。

だが、一刀にとって真に必要なのはその名に秋を隠し持つ者だ。

その点では、劉備が最適な逆鱗である。

 

『桃の実』は秋の季語なのだ。

 

 

「誤解があるようだな……何も婚姻そのものが嘘だとは言っていない。君が拒絶するならば、俺は無理強いしないと言っているんだ。英雄色を好むとは言うが、無理強いは嫌いだからな」

 

「そ、そう……なら良いの」

 

 一刀は孫権が何故揺らいだのかを、その安堵したような反応から理解した。

彼女は、彼に必要とされていないと思って揺らいだのだろう。

今まで誰にも必要とされなかった彼女は、思春の語る彼にもしかしたらという希望を抱いていたに違いない。

それを見事に打ち砕かれそうになったから、揺らいだに違いない。

 

 孫権仲謀は一刀が歴史を捻じ曲げたせいで生まれた被害者だ。

彼女が孫呉に必要とされなくなったならば、彼が彼女を必要としなければならない。

この自信の無い、汚されてしまった原石を磨き続けるのは彼の役目だ。

贖罪ではないが、彼女をできる限り育て上げねばなるまい。

 

 

「私は貴方の……北郷一刀の妻となり、同時に王としての教育を受ける。これで、違いは無い?」

 

「ああ、無い」

 

「だけど……どうして、私なの?」

 

「それについては、私が説明しましょう」

 

「! 司馬懿殿」

 

 

 漸く出番かと、愛紗は二人の会話に介入する。

今頃天幕の裏で話を盗み聞きしているであろう甘寧興覇に殺気を放ちながらも、彼女は語る。

孫呉の持つ危うさに、孫権仲謀が孫堅文台や孫策伯符よりも王として相応しいこと、更には一刀が描いている未来図と、それこそ膨大な情報を、孫権が理解できるように噛み砕いて話していく。

 

 最初はただただ驚いていた孫権であったが、愛紗が話を進めていくとその表情は少しずつ何かを理解したものへと変わっていった。

愛紗はその眼に、確かに一刀が描く未来図を映しているのを確認すると、静かに微笑む。

一刀の覇気は、凝り固まった孫権をいとも簡単に呑み込み、その未来図は彼女を虜にしてしまった。

 

 北郷一刀が目指す平和は、曹操のそれに近い。

しかし、絶対的なルールによる政治だけでなく、劉備の持つ慈しみを取り入れた国とする。

劉備が国を作り、彼がそれを整備していく……それが理想的な形であろう。

彼女の慈愛で生まれた国が、彼の力で力を得れば、それこそ揺るぎない圧倒的な力となる筈だ。

 

 理想は劉備が担い、現実は一刀が担う――それこそがこの策の要となる。

 

 

 

「つまり、私は――王に従う王になるのね? 王佐として王の教育を受けるなんて、普通はあり得ないでしょうに」

 

「そのあり得ないことをこれから行っていくのです。どうですか?……今ならば、まだ引き返せますよ? この婚姻を無かったことにするのはまだ可能です」

 

「そんなことをすれば、私はお母様に殺されてしまうでしょうね」

 

「殺させないさ。孫権と孫文台ならば、生き残るべきは君の方だ」

 

「っ……ありが、とう」

 

 確かにこの婚姻を無かったことにするのは不可能ではないが、そうなれば孫権が孫呉にとって無価値に等しくなることもあり得る。

この婚姻を無かったことにすることは実質不可能であって、愛紗の言葉は孫権に死ねと言っているようなものだ。

 

 そんな退けない状況にある孫権をそっと後押しするように、一刀が紡いだ言葉に彼女はその碧眼を滲ませた。

一刀はそれに驚きながらも、同時に納得する。

今まで必要とされなかった彼女が、孫呉にとって最も必要な孫堅文台よりも価値があると言って貰えたのだ。

嬉しくない筈が無い……それがお世辞ではなく、本心から出た言葉ならば、猶更だ。

 

 

「良いか? これはお世辞でも何でもない。孫権、君は――居なくて良い存在ではない」

 

「本当に?……本当に、そう思う? 本当に、そう感じてくれている?」

 

「ああ、これは本心だ。俺の描く未来図で呉を治めているのは孫文台でも、孫伯符でもなく、孫権だ。俺の描く未来に必要なのは孫伯符でも孫文台でもなく、君だ。だから――!」

 

 本心を語る内に、ふと一刀は孫権が彼の手を握っていることに気が付いた。

震えているその手は、弱弱しく、だが絶対に離さないと言いたげに彼の手を握る。

何故ここで手を握られたのか理解できない彼は混乱してしまうが、孫権が紡いだ言葉にそんなものは吹き飛んだ。

 

 

「ありがとう……本当に、ありがとう。こんな私を必要としてくれてありがとう。お母様でもお姉様でもなく、私を選んでくれて――ありがとう」

 

「……なに、ただ現実的に考えて選んだだけさ」

 

「良いの。どんな理由であったとしても―――私は居なくて良い存在なんかじゃ無い。貴方がそう言ってくれた。それだけで、私は満足だから」

 

「そうか。ならば――良いな?」

 

「ええ、この孫仲謀で良ければ――貴方の見ている未来の為に使ってください」

 

 孫権は涙を拭うと、静かに臣下の礼を一刀の前で取った。

それは、不器用な彼女なりの彼への誠意の示し方であり、彼に従うことを意味する行為だ。

王を従える王に、自ら従属することを彼女は選んだのだ。

たった一度の会合であり、まだ初対面ではあったものの、彼女は北郷一刀の眼の中に確かな未来を見た。

 

 北郷一刀は甘い果実だ。

たった一度齧っただけで、それに依存したくなる圧倒的な中毒性を持つ果実だ。

既に孫権仲謀はその実を齧ってしまった。もう後戻りはできない。

彼は、歪みが望むものを分かっている。歪みの心を掌握する術を生まれながらに持っている。

だから、こんなにも心地良いのだ。こんなにも優しいのだ。

 

 彼が竜だからではなく、北郷一刀であるからこそ、こんなにも歪みは彼を求めるのだ。

愛に飢えた歪み達が、必死に愛を強請り、その果実に噛り付く。

それは、全て愛紗の分身だ。今まで数十万に及ぶ別離を繰り返した彼女の怨念が生み出した、歪みだ。

この世界の端々で彼女の分身は彼を愛し、彼に愛されようとする。

 

 それが愛紗には堪らなく苦痛だ。

 

 

「今はまだ真名は受け取らないが――歓迎しよう、孫権」

 

「ありがとう……ありがとう、ございます」

 

「っ……」

 

 この世界はたった一人の傀儡が、数十万の外史で主との別離を繰り返した末に漸く手に入れた世界だ。

運命に抗い続けた末に、竜となって漸く辿り着いた終点だ。

この世界には、彼女の思いの全てが込められている。

病的なまでに北郷一刀を愛し続けた愛紗という一人の女の子の愛の形が、この世界なのだ。

 

 一刀と共に過ごした日々を肯定し、再び繰り返す為に生まれたこの世界は、歪みに歪んだ愛紗の彼への思いが具現化したものだ。

誰よりも彼を愛し、誰よりも彼を求めた、愛紗というたった一人の女の子の救済の為にあるべき世界なのだ。

 

 なのに、この世界は愛紗を苦しめる。彼女が愛する一刀を苦しめる。

甘寧興覇というイレギュラーが、彼女が望んでいない筈の要素が、彼女を彼から引き離そうとする。

この世界のあらゆる歪みが、彼の心を蝕んでいく。

歪みに歪んだ愛は、触れる者全てを傷つけていくだけで、救済は無い。

 

 

 

 

 

 

 愛紗とは、あまりにも不確かな愛を示す名であり、それが成就することは無いのだ。

 

 

 

 

 

 


 
このエントリーをはてなブックマークに追加
 
 
30
1

コメントの閲覧と書き込みにはログインが必要です。

この作品について報告する

追加するフォルダを選択