No.470302

竜たちの夢

なんとなく書いてみたよ、な作品。

なので、途中で止まる可能性大です。

色々と知識などが不足している上に、独自設定などもあります。

続きを表示

2012-08-15 01:38:29 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:15496   閲覧ユーザー数:12968

 

 

 

 

世界は残酷だ。

 

 いくつもの可能性を示して人を惑わせ、希望を与える癖に、それを決して掴ませてくれはしない。

地面を赤く染める血の源が己だと感じながらも、彼はその中を歩く。

そして、見る。

 

 

己が守れなかった命を。守ろうとしても守り切れなかった灯を。

 

 

 彼はただ守りたかったのだ。車に轢かれそうになったこの幼い子どもを助けたかっただけなのだ。

身を挺しただけあって、傷を負ったものの彼はそれに成功した…筈だった。

一度彼らを撥ねた車が念入りに再び彼らを轢きに来なければ、確実に助けられていた命だった。

 

 

「……ごめん、な」

 

 涙の浮かぶ幼子の死に顔にそっと触れ、その目を閉じてやる彼の表情は暗く、青白かった。

大量出血により、既に血の気は失われ、彼もまた間もなく死に行く存在だ。

動けているのが奇跡と言える程の傷と出血ではあったものの、彼は動いている。

それは、精神が肉体を凌駕したからだ。

 

だからであろうか?彼は今目の前にある死に恐怖を抱けなかった。

 

 

「あの車……念入りに殺すなら、確実にやれ、よ……」

 

 

そんな悪態をつきながらも、彼は不意に訪れた睡魔に誘われるまま、目を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……なんだ?」

 

 不意に浮上した感覚に、彼は眼を覚ました。全身を引き裂くような痛みが無いことに違和感を覚えながらも、視界いっぱいに広がる夜空が綺麗だな、などという唐突な感想を抱く。

腕を月に向かって伸ばしてみると、そこ傷一つ無い白い制服を纏った己の腕が見える。

 

 

「あれ?……俺、車に轢かれたんじゃあ?」

 

 違和感の正体に気付いた彼は慌てて起き上がり、己の全身を見てみたが、全身に及ぶ傷は無かった。

確かに二回車に撥ねられたことで全身は傷だらけになっていた筈なのだ。

それが、己の体は愚か制服にすら傷一つついていない。

 

 もしや、ここは死後の世界か何かなのでは?……そんな疑惑を抱く程に彼が意識を失う前の記憶と今の彼の状態の間には大きな差異があった。

全身に及んでいた筈の傷は無くなり、おまけに周りを見渡せば道路は愚か建物すら無い、森の中なのだから。

 

 

「ここは何処だ? 全部憶えているんだから、俺が記憶障害というのは……多分無い筈だ」

 

 彼――北郷一刀は取りあえず一番近くに感じる人の気配を頼りに、森の中を進むことにした。

彼は北郷家、つまりは島津家の分家に位置する家の者だ。それ故に、剣術を昔から教えられている。

 

その中には人の気配を読む、というものもあり、一刀はそれを利用している訳だが、彼のそれは完全なものではない。

実戦、つまりは戦場に赴くことさえ出来ればそれは完全なものになるだろうが、平和な日本に生まれた彼にそんな機会がある筈も無かった。

故に、その技術は不完全であり、遠くの人気を感じることなど出来る筈も無い。

 

しかし、現状を何としても把握したい一刀には、その違和感に気付くことは出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……いったいどうなっているんだ?」

 

 三十分程歩いて漸く森を出たと思った瞬間に、目の前に広がった光景に一刀は思わすそう呟いた。呟かずには居られなかった。

彼の眼の前に広がる光景は好意的に見ても、現代社会のそれには見えなかったからだ。

彼の眼前に広がる光景は、一言で言えば、時代劇に出てくる街だった。

 

 

「中国っぽい意匠だけど……古いな。それに、城壁まである。」

 

 取りあえずある程度の活気がありそうな街なので、状況を確認するのは容易いだろう、と一刀は判断した。

あまりにも今まで見てきたものとは異なる光景に一抹の不安を覚えながらも、彼は街に行ってみることにした。

 

表情を引き締め、早速向かおうと足を一歩踏み出し――

 

 

「お兄ちゃん、何してるの?」

 

「ん?」

 

 

後ろから聞こえてきた声に中断された。

 

 一刀が声のした方を振り向いてみると、そこには齢十前後であろう少女が居た。

澄んだ淡い赤の瞳と、濃い紫色の髪が特徴的な、将来美人になるのは間違いない。

しかし、一刀が最も注目したのはその点では無かった。彼女の服装が明らかにチャイナドレスの類であることに、彼はある種の確信と困惑を感じた。

 

やはりここは中国なのではなかろうか、という疑惑の証拠が一つ増えたのだ。

 

 

「君は、ここの街の子?」

 

「うん。それを聞くってことは、お兄ちゃんは違うんだね」

 

「その通りだよ。ちょっといくつか質問したいことがあるんだけど、良いかな?」

 

「質問? 私で応えられる範囲なら良いよ?」

 

「そうか。ありがとう」

 

 思わぬ少女の申し出に有難いと思うと同時に、一刀は少女の物分りの良さに感心した。

学があるかどうかは分からないが、少なくとも頭の回転は良いようだ。

一刀からしてみれば、素直で質問しやすい上に物分りも良いというのは実に助かる。

態々街に出向く必要も無さそうだ。

 

 

「さて、まずここは何処なんだい?」

 

「益州の巴郡臨江県だよ」

 

「は?……益州? 中国の?」

 

「中国? 私、そんな地名聞いたこと無いけれど……」

 

 一刀は混乱していた。確かにここが中国である可能性は目の前の少女と街の意匠が教えてくれるが、それでも彼には受け入れ難かった。

日本に住んでいる自分が一瞬で中国に来れる筈は無いし、何よりも言葉が通じる筈が無い。

かと言って少女が嘘をついているようにも思えない彼は、この事実を受け入れるしか無かった。

 

 大分開発が進んでいる中国にもまだこんな古い意匠の街が残っているとは思えなかったが、取りあえず彼はここが中国であることを受け入れた。

しかし、中国という名称を少女が知らないという事実に、彼は新たに疑問を生じさせる必要が出来てしまった。

己の属する国の名称くらいは教育の一環で教えられる筈なのに、何故彼女はそれを知らないのかが、新たな違和感を生み出す。

 

 

「君達はこの国をなんと呼ぶんだ?」

 

「漢だよ、お兄ちゃん」

 

「へ?……漢? 漢って漢王朝のか?」

 

「うん。お兄ちゃん、本当に何にも知らないんだね」

 

 まさかと思った一刀だったが、その通りと返す少女を見てまさかが本当にまさかになりそうな予感に襲われた。

この少女が電波なのか、或いはそういう風に教育されたのか、嘘を言っているのか……そんな可能性も考えてみたものの、利点などを考えると非現実的だ。

 

 だとすれば、彼が俗に言うタイムスリップか何かでもしたのかもしれないが、それは少々頭がお花畑な発想である。

一刀はそれなりに適応力には自信があるが、それでもこの状況は中々に受け入れ辛い。

後もう一つだけでも、何か決定的な何かがあれば彼は現実を受け居られそうなのだが、それがない。

 

 

「あー……ちなみに、今の皇帝は?」

 

「劉宏様だよ。お兄ちゃん、もしかして何処か遠くの国から来たの?」

 

「そうかもしれない……お蔭で右も左も分からない状態だ」

 

 

 劉宏という決定的な名前に一刀は大凡の状況を把握した。彼が今いるここはかの有名な三国時代の直前か、若しくは真只中の中国なのだ。

つまり、千八百年も前の時代に飛ばされてしまったということになるが、やはりこれは死後の世界か何かなのではないかと思わずには居られない一刀であった。

 

 

「ふ~ん……それじゃあ私の家に来る?」

 

「……はい?」

 

「私の家、結構大きいんだよ? お兄ちゃん一人くらいなら暫く居ても大丈夫だから」

 

「いやいや、それは有難いんだけど……名前も知らない相手にいきなりそういうことを言うべきじゃないだろう!?」

 

 この時代は後漢の力も大分弱まっており、まだ賊などが多く居る筈だ。そんな時に名前も知らない、しかも怪しい男を家に入れるのは自殺行為だ。

実際にこの時代に生きていない一刀ですらもそれは分かるのだから、この少女もそうであるべきだ。

訳が分からない場所に飛ばされた一刀としては実に有難い提案だが、これだけは言っておかねばらない。

 

 

「じゃあ名前さえ分かっていれば良いんでしょう? お兄ちゃん、名前は?」

 

「姓が北郷、名が一刀だ。字は無い……って、違う! 怪しい人間をいきなり家に――」

 

「私の姓は甘、名は寧。字はまだ十五歳じゃないから持ってないの」

 

「入れるのは……って、甘寧!? 今甘寧って言った?」

 

「うん、甘寧だよ! 良い名前でしょう?」

 

 少女のペースに乗せられながらも、一刀は何とか彼女の不用心を注意しようとしたが、彼女の言った名に驚愕し、思わず聞き返してしまう。

そんな彼に対して少女――甘寧は、えへんと胸を張って肯定する。

一刀はそんな彼女の姿を微笑ましく思いながらも、同時に新たな混乱にぶつかってしまった。

 

 彼女が言っている甘寧が、一刀が知る甘寧興覇のことを示しているのならば、“彼女”ではなく“彼”になってしまう。

しかし、目の前の少女はどう見ても女の子にしか見えない。

そもそも彼女が来ているチャイナドレスを男の子に着せるのは色々とアレだ。

 

 

「あ、ああ。良い名だね。甘、と呼ぶべきなのかな? 名は親しい者しか呼ばない風習なんだろう?」

 

「え? 確かにそうだけど、真名程厳しいものじゃない、ってお母さんから聞いたよ?」

 

「真名?……なんだい、それは?」

 

「真名を知らないの? 名の風習は知ってるのに、真名を知らないなんて不思議だね」

 

 真名などというものは、少なくとも一刀が知る限りは後漢において存在しない筈だ。

甘寧が女性であることと言い、この世界は少々彼が知っているそれとは異なるように見える。

こうなるとタイムスリップではなく、所謂パラレルワールドに飛ばされたと思った方が気が楽だ。

 

 

「真名って言うのはね。もう一つの名みたいなもので、ごく親しい者しか呼んじゃいけないの。勝手に呼んだら殺されても文句は言えないんだって」

 

「うげぇ…そんなに重い名なのか」

 

「ちなみに私の真名は――「オイマテ」どうしたの、お兄ちゃん?」

 

「今、普通に真名を名乗ろうとしたよね!? 初対面の俺に! 軽いよ! そんな軽くて良いのかよ!?」

 

「お兄ちゃんは良い人そうだし、どうせ私の家でお世話になるんだから良いかな、って。」

 

 真名という風習を理解した途端に真名を名乗られそうになった一刀は慌てて甘寧を止めた。

真名を預けることは即ち信頼を示すこと、更には束縛にさえなることを、一刀は瞬時に理解したからこそ、止めたのだ。

下手に真名を預かれば、思わぬ束縛を生むことになるかもしれない。

 

 一刀には真名がどれほど重いものなのかを実感できないが、やはり人それぞれにその重さが異なるであろうことは分かった。

だからこそ、真名を預けてくる相手は、預けられる前にこちらがある程度見極めておく必要があるということも分かる。

 

真名を預けられた時に、それを拒絶するのは信頼していないと言っているようなものなのだろう。

つまり、真名を持たない一刀はそれによって誠意や信頼を示せない上に、逆にそれを受け取る側に立ち続けることになるのだ。

 

実に難しい世界だ――そう彼は思わざるを得ない。

 

 

「いや、まだそうなると決まった訳じゃ「それじゃあ行く宛はあるの?」……ゴザイマセン」

 

「でしょう? だから、お兄さんが安心して暮らせることを約束する為に真名を預けるね。私の真名は、思春って言うの」

 

「!……思春、か。その真名、確かに受け取ったよ。俺には真名が無いから、好きに呼んでくれ」

 

「うん、お兄ちゃん!」

 

 甘寧――否、思春の言葉の意味することを理解した一刀は態度を改めて、その真名を受け取ることにした。

これは即ち、彼が先程予想した複数の真名の使い方の一つなのだと気付いたが故の判断だ。

これを跳ね除ければ、一刀は思春に「お前のことなど信用できない」と言っているようなものなのだから。

 

 真名を持たないが故に、それの威力を感じることは出来ない。だからこそ、一刀は注意しなければならない。

信頼を示すことに真名を使えない彼は、別の術でそれを補う必要があるのだから、自然と彼の負担は増す。

他者が真名を預けるのと同等の信頼を得ることが出来るように行動をしなければいけないのだから、下手は打てない。

 

 

「さて……思春、早速君の家に案内してくれないか?」

 

「うん、分かった! こっちだよ!」

 

 太陽のように眩しさを覚える笑顔を浮かべる思春に手を引かれながらも、一刀は苦笑する。

やはり彼には、こんなにも素直な少女が“あの”甘寧だとはどうしても思えないのだ。

遊侠を好み、激情的な面もあったという説を何処かで見たことがある一刀にはにわかに信じ難い。

 

この世界は、色々と彼が知る歴史とは異なるようなので、同じ道を辿る訳ではあるまい……そう一刀は思うことにした。

そもそも、既に彼女は十歳近いのだ。余程のことが無い限り、根本は書き換えられない。

だから、一刀は安心して彼の地を出すことにした。

 

それが、後々彼女に大きな影響を及ぼすことさえも知らずに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ふぅ。これで終わりか」

 

 一刀はゆっくりとため息をつくと、手元の竹簡を折り畳んだ。これで彼の今日の仕事は終わりだ。

漸く仕事が終わったと伸びをすると、骨が鳴り、小気味良い音がする。

一仕事終えた時の満足感は中々に良いものだが、それが人の役に立っているとあれば、尚更だ。

 

 

「う~ん……あれからもう二ヶ月経つのか」

 

 最初に一刀が思春の家に招かれた時は、親御さんが拒否するのではないかという心配があったが、実際に会ってみるとそんなことは無かった。

二人共大層良い人で、右も左も分からない一刀が一人で生きていけるようになるまでの間家に置いてもらえるようになったのだ。

 

 それに感謝した一刀は最初疑っていたことを正直に話し、その旨について謝罪した。

そうしなければ彼の気が済まなかったからだが、二人はそれに関しては笑顔と共に赦してくれた為、益々一刀は己の狭量さを恥じ、同時に二人に深い感謝を示した。

 

 

「しかし……我ながら随分と成長したものだな」

 

 この甘家に世話になってから気付いたことだが、一刀は何故か文字を読むことが出来なかった。

言葉は通じている筈なのに、文字の読み書きが出来ないことは不思議だったが、それでは困るのですぐさま教えて貰うことにした。

 

 元々漢文についてもある程度の知識はあったので、一ヶ月もすれば大体は読めるようになっていた。

最初は皆一刀の物覚えの良さに驚いたが、それを理解すると色々と彼に仕事の手伝いを回してくれるようになった。

お蔭で一刀はただ居候をしているという罪悪感から解放されたので、大助かりだ。

 

 邑の皆も良くしてくれるので、一刀は暇を見つけては邑を回り、様々な手助けをすることにしている。

そうすることで共通の話題の元に互いを知ることができ、同時にこの邑に貢献することができるからだ。

まだ二ヶ月しか経っていないが、その間に一刀の存在はこの邑でも大きなものになっていた。

 

 

「お兄ちゃん、お仕事終わった?」

 

「ん、思春か。今終わったところだよ」

 

「じゃあ、稽古しよう!」

 

「ああ、分かったよ」

 

 一刀は部屋を訪れた思春に手を引かれ、中庭の方へと向かいながらも苦笑する。彼女は随分と彼を気に入ったようだ。

この家に来てからも、彼が剣術を嗜んでいたことを知ると、その赤い目を輝かせながら手合せをしたいと言ってきた。

 

 それに応える形で一刀は思春と相対したが…その才能に驚かされた。結果は一刀の勝利であったものの、思春の剣は素早く、圧倒的な手数で迫ってきたのだ。

彼女は身軽さと高い柔軟性を生かした戦法で全方位のあらゆる角度から攻撃してくる為、非常にやり辛い。

 

 この二ヶ月間の間は一応一刀が全勝しているものの、後数回で越えられてしまうに違いない。

思春の攻撃はまだ重さが無いが、一撃一撃の的確さと速度は既に実戦に出せるものではないか、というのが実際に戦ってみた一刀の感想だ。

 

 

「お兄ちゃん、今日こそは私が勝つからね!」

 

「俺も簡単には負けてやらないぞ?」

 

「そうだ! 今度お祭りがあるでしょう? お兄ちゃんに勝ったら、そのお祭りで何か買って?」

 

「ん? 俺の小遣いで買える範囲なら構わないけど……それで良いの?」

 

「うん!」

 

 漢王朝の力が衰退して、様々な不安や不満が続出する中、この邑は珍しく恵まれている。

今度祭りがここであるのは事実で、例年行っている、と以前思春に言われたことを思い出した一刀は、最初に訪れたのがこの邑で良かったと再認識した。

しかし、それと同時にこの邑がいつ賊に狙われるかを警戒する必要があることが、彼を不安にさせる。

 

 思春の笑顔がそんな彼の不安を和らげさせるのと同時に、その笑顔も守るべきものなのだという再確認を彼に強いる。

後十年もすれば、人を殺すのが当たり前の時代が始まる……そんな中で彼もまた、直接的か関節的かの違いはあれども、それを為す必要に迫られるだろう。

 

 その時、一刀は己が人を殺めることを躊躇してしまうであろうことを予想していた。

彼の生きた時代では身近ではなかった、殺し殺されの世界の真只中に放り込まれた時、彼は決断しなければならない。

出来なければ、何もできずに死ぬだけだ。

 

 

「行くよ、お兄ちゃん!」

 

「ああ、来い!」

 

 一刀の思考は思春との模擬戦の最中も留まることを知らない。何が今必要で、何を退けるべきかを絶え間なく彼は考え続ける。

思春の持つ木刀が滑らかな軌道を描きながら迫ってくるのを認識し、それを防ぐ……と見せかけ、受け流す。

 

 思春はまだ体ができていない為、その一撃一撃の重さはまだ必殺になり得ない。それが故に、技量も力も未熟な一刀でも防ぎ、受け流せてしまうのだ。

この二ヶ月の成長を見る限り、一刀の見立てでは後半年で彼の防御を崩すまでには到達し、一年もすれば一撃目で負ける、というビジョンが見える。

 

 故に、一刀は手を抜かない。甘寧の名は本物であったという確信が彼にそうさせる。

一刀はいつまでもこの家に厄介になれる訳ではない。ここにいる間に彼女には出来るだけ成長して欲しいのだ。

それこそが、この家への、ひいては思春への恩返しとなる――そう彼は思う。

 

 

「っ……やっぱり、思春は攻撃が上手いな。」

 

「お兄ちゃんも……っ!……相変わらず守りが堅いね!」

 

「!……そこだっ!」

 

「うわっ!?」

 

 圧倒的な運動量と手数で翻弄してくる思春のリズムを崩す一撃を放つと、一刀は一旦距離を取る。

思春は攻撃回避双方共にリズムが一定にならないように上手く動いているが、それはまだ崩せない程のレベルではない。

とは言え、思春のリズムを崩せても、そのまま強引に勝負をつけることができる程の武は一刀には無い。

 

 だからこそ、一刀が鍛えることが出来るのは思春の攻撃のみだった。彼では彼女の防御をこれ以上高めることは出来ないのだ。

一刀のカウンター気味の攻撃も既に思春には見切られて始めている已上、もう彼には防御面を鍛えてやることは出来ない。

 

 そもそも、彼と彼女では戦い方が大分異なるのだから、当然使う技術も異なったものになる。

安定した足場で丁寧に攻撃を捌き、確実に一撃を入れる型の一刀と、その機動力を生かした一撃離脱を得意とする思春では、やはり鍛えるべきものが異なる。

 

流石に一刀にはそこまで面倒を見ることは出来ない。

 

 

「良く躱したな……やっぱり思春は才能があるよ」

 

「えへへ……それじゃあ、行くよ!」

 

「っ!?……これは!」

 

 一刀が不意に急接近して来た思春のリズムを崩そうと、木刀を薙ぎ払った瞬間、思春の体が沈んだ。

上手い―――その迅速な、だが無理の無い動きに一刀は心から賛辞を送り、同時に後方にわずかに下がる。

それを追うように前に出る思春の袈裟切りを認識しながら、彼はそれを防がんと構えを直そうとしたが――

 

 

「っ!?」

 

 

不意に襲ってきた頭痛に動きを中断してしまった。

 

 

「!……貰った!」

 

「! しまっ……」

 

 その隙を思春が見逃す筈も無く、彼女の袈裟切りは頭痛で力が抜けた状態で構えられた木刀を弾き飛ばした。

一刀は一瞬それを追おうとしたが、目の前に突き付けられた木刀の切っ先を見て動きを止めた。

所謂王手……つまりは彼の敗北だ。

 

 

「……負けてしまったか」

 

「やった! やっと勝った!」

 

「おめでとう、思春。ご褒美に今度の祭りで何か一つ買おう。可能な範囲で、だけど」

 

「うん! ありがとう、お兄ちゃん!」

 

 朗らかな笑みを浮かべる思春の頭を撫でながらも、一刀は全身を襲う倦怠感と、吐き気に堪える。

最近になって一刀はこういう状態になることが多くなってきた。

吐き気の赴くままにすれば、恐らく今回も血を吐くことになるのだろう……そんなことを考えながらも、一刀は思春の頭を撫でるのを止める。

 

 こちらを見遣る思春の母の存在に気付いたからだ。日頃は警邏を行っている思春の父は殆ど時間外に居る為、実質彼女がこの家の主となっている。

父親は優れた武官で母親は頭の切れる文官なので、思春の動きのキレと頭の良さも遺伝なのだろう。

一刀が笑顔で会釈すると、彼女も笑顔で会釈してくる。

 

 

「一刀さん、今日も娘が世話になっているようですね」

 

「このくらいは家に置いて貰っている身として当然の行いですから」

 

「ふふ……本当に、一刀さんは素晴らしいですね。これならば、真名の重みなど無くともやっていけますよ」

 

「……そうだと良いんですが」

 

 真名の重みは人それぞれだが、やはりそれは酷く重い。軽いノリで預けてくる者も居るが、その裏に多大な信頼があることは考慮しなければならない。

真名の重みを本人がはっきりと態度で示してくれたならば何も問題は無いが、そうでない場合は己で見極めなければならないのだ。

 

 一刀はこの二ヶ月で真名の重さと、真名を持たない己の立場の危うさを再確認した。

真名さえあれば、この家に世話になった際も感謝の印として預けることができたが、残念ながら彼には無い。

今から自分で勝手に考えるのも真名の重さを無視しており、却って軽薄さが目立つ。

 

 真名は親から与えられるものであって自分で決めるものではないのだから、そこは何としても守るべきだ。

そうしなければ、折角の真名の重さは消え去り、彼の言葉の重みも消えてしまう。

だからこそ、彼はその行動と態度で真名の重さを補わなければならない。

 

 

「安心してください。真名は一刀さんが思っている程絶対的な重さを持ってはいません。名に重さは必要ですが、重過ぎれば呼ばれませんから」

 

「はい。分かっています」

 

「あ、お母さん! 私お兄ちゃんに勝ったよ!」

 

「あらあら、頑張ったわね」

 

 一刀の元から駆け出して、母の元に向かう思春の姿を見て、彼は思わず笑みを浮かべた。

やはり、親子というものはこうでなくてはならないと一刀は思うし、こうであって欲しい。

この邑はまだ裕福な方だが、場所によっては貧窮によって子を捨てる親も居るし、親を捨てる子も居る筈だ。

 

 これは彼の身勝手な願いでしかないが、そんな光景を見たくはない。皆が笑える世界であって欲しい。

全員は無理だとしても、せめて己の目の届く範囲だけでも、そうであれば良い。

自分勝手な考えであることは分かっているが、一刀は誰かが苦しむ姿など見たくなかった。

 

 

「さぁ、思春。お勉強の時間よ」

 

「うん、お母さん。お兄ちゃん、また後でね!」

 

「ああ、また後で」

 

「一刀さん、それでは失礼します」

 

「はい、俺も少し休憩したら仕事に戻ります」

 

 思春は一刀が来る前はあまり学問が好きではなかったそうだが、彼が来てからそれが変わったらしい。

一刀の知る甘寧は、頭は良かったが若い頃はそこまで学問が好きでなかった筈なので、聊か驚いたが、誤差の範囲だろうと思うことにした。

 

 思春曰く、最近一刀が両親と仕事の話ばかりしているので、それが面白くないから勉強しているそうだ。

確かに、自分を無視して全く分からない話題の話をされるのは面白くないが、それが学問を嗜む理由にはならない。

 

詰まる所、思春はそういった時に寂しさを感じているからこそ、学問を本格的にすることにしたのだろう。

そんな彼女の姿を見ていると微笑ましいし、何よりも一刀にとって掛け替えの無い原動力となってくれる。

 

 

「……ゴフッ!?」

 

 吐き気を完全に忘れ去っていた一刀は、不意に再来したそれに思わず吐いた。内容物は出なかったものの、地面には真っ赤な跡がついている。

一刀は最近こういう風に吐血するようになった。体調は悪くない筈が、突然来る吐き気と共に血を吐いてしまうのだ。

 

 まだ思春達には知られていないが、いずれ見つかってしまうだろう。一刀としては無用な心配はさせたくないが、吐血は無用な心配と言えるレベルではない。

しかし、彼の体調は決して悪くないのだ。この吐血と倦怠感さえなければ、健康体そのものだ。

 

 

「ん? これは――鱗、か?」

 

 一刀は己が吐いた血の中に浮かぶ鱗のようなものに気付き、血に塗れるのも構わず手に取った。

手に触ってみると、確かに鱗のようだったが、異常に堅い。鋼か何かで出来ているのではなかろうか?

こんなものを自分が吐いたとは思えないので、一刀は元々ここに落ちていたのだと思うことにした

 

 

「さて……行くか」

 

 一刀は早く自立できるように学問も武芸も身に着けなければならない。いつまでもこの家に世話になる訳には行かないのだ。

この二ヶ月で詰め込める知識は詰め込んだが、まだまだ覚えるべきことは山積みだ。

一刻も早くそれらを吸収して、甘家には恩を返さねばならない。

 

 彼は学問に関しては大分吸収出来たが、武術に関しては新兵とどっこいどっこいだろう。

一刀は決して努力を怠っている訳ではないが、十二分な武を得るには少々時間がかかりそうだ。

目に関しては既に将並みのものを備えているつもりではあるが、それ以外はてんで駄目だ。

 

彼はこの二ヶ月の間に何度か思春以外の人間とも手合せをしたが、いかに相手が強かろうとも……それこそ、思春の父が相手でも、その全ての攻撃を見切ることが出来た。

しかし、彼の体はそれについて行けずに、ほぼ全敗という結果になったのだ。

眼では全てを捉えていただけに、一刀にとって実に悔しい敗北であった。

 

 

「あっ!? そう言えば、あの案件今日中に終わらせないといけないんだったっけ?」

 

 

 暫しの間現在の状況を振り返っていた一刀だったが、今日中に終わらせる必要のある仕事の存在を思い出し、慌てて部屋に戻る羽目になったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お兄ちゃん、川に遊びに行こう!」

 

 数日後の早朝、眼を覚ました一刀が食卓に着いて最初に聞いたのは、思春のその言葉であった。

一刀は若干残っている眠気を振り払いながら皆に挨拶すると、席について思春の方を見た。

その目は期待に満ちており、断るのが躊躇われる。

幸い、今日は非番なので、問題は無い。

 

 確認を取るように両親の二人を見遣ると、二人共微笑と共に肯定の意を示してくれた。

一刀は微笑を浮かべながら思春を見て、静かに頷いた。

その意味を理解した思春の笑顔が、彼にはとても眩しく見える。

 

この世界の皆は希望があるかどうかに関わらず、生きようとする執念があり、それが力強さを生み出している。

現代では中々見られなかったそれは、一刀に確かに変化を齎していた。

世界は確かに残酷かもしれないが、それ故に人は強くなる……それを実感出来る。

 

 

「食べ終わってすぐはきついから、行くのはちょっと準備をしてからな」

 

「うん!」

 

 笑顔で頷く思春を愛おしく思いながらも、一刀は己のこれからに思いを馳せる。

現状を確認する限り、彼の知る歴史の通りにことが進めば、黄巾の乱が起こるのは十年近く後だ。

その時までに力のある者の下につくか、或いは自分がその力ある者にならねばならない。

 

 しかし、現状を見る限り一刀の取れる選択肢は前者しかない。後者になるには彼自身の文武はあまりにも弱い。

有力者になる為には、天・地・人のいずれかを持たねばならないが、一刀自身は自分にはどれも無いように見える。

 

故に、後十年以内に彼はかの有名な曹操、孫堅、袁紹、劉備などの有力者達と繋がりを持つ必要が出てくる。

その為にも、彼はそれなりの知力と武を備えておかなければならない。

軍に入るにしても、それ以外の道を選ぶにしても、ここから先は力が必要な時代なのだ。

 

 

「ごちそうさまでした。ちょっと確認しておきたいことがあるので、御先に失礼します」

 

「ふふ、分かりました」

 

「ふむ、思春との約束を違えぬように」

 

「はい。思春、四刻半経ったら出発するから、時間になったら部屋に来てくれ。」

 

「うん、分かった!」

 

 確認をそこそこに食器を片づけると、一刀はすぐさま自分が貸し与えられている部屋に向かった。

部屋に到着すると、机の上に置いてある竹簡をいくつか取り、それに目を通していく。

既にそこにある竹簡には彼の持てる知識を総動員した案を農業、水産業、工業、邑の区画の整理などが記されている。

 

 この二ヶ月はこの邑や他の様々な環境を知る為に費やされたが、お蔭で一刀はその改善点を思いつく限り竹簡に記しておくことが出来た。

まだ色々と粗がある為、もう一段階磨き直す必要はあるものの、一刀は中々に良い改善案を纏められたと自負している。

 

 次の磨き上げが終わり次第甘家の皆に見て貰うつもりなので、一刀の目算では一週間以内には見せられる筈だ。

彼の知識には穴があるし、現代では容易に実現できてもこちらでは難しいものもある。

それらを考慮しての案だが、中々に良い出来だ。

 

 

「……ここは直しておかないとな」

 

 手元にあるものは軽く手直しすれば問題ないので、一刀はすぐさま手直しに入る。

この県の県令はそれなりに頭が柔らかいそうなので、これらが無駄になることは無さそうだ。

仮に無駄になったとしても、他の県や邑でこれらを応用することもできる。

 

 一刀が今していることは決して無駄なことではない。

元の世界に戻れる可能性が低い已上は、この世界で生涯を終えるつもりでいなければならない。

そうでなければ、戻れなかったと分かった時の絶望は大きいであろう……もっとも、一刀は元の世界にそこまで未練がある訳ではない。

 

 確かに家族に会えないのは寂しいことだが、それ以上に一刀はこの世界に感じる多くの未知により深く関わりたいと思うのだ。

この世界は彼の知る歴史のままに流れていくかもしれないし、そうならないかもしれない。

彼が介入することで何かが変わるかもしれない――ここは、そんな夢を抱ける世界なのだ。

 

 

「……俺って親不孝者だな」

 

一刀は家族が嫌いな訳ではない。寧ろ、彼は家族を大事にする部類の人間だ。

言うなれば、現在彼がこの世界に残ることを望んでいるのは、この世界から戻れる可能性が分からないからだ。

可能性があまりにも不確定な現状で、希望を抱くのは自殺行為だと無意識に覚った彼の防衛本能がそうさせているのだ。

 

 本当ならば一刀は元の世界に帰りたい。だが、帰れない。だからこそ、この世界を第二の故郷と考えるしかない。

いっそのこと根づいてしまえば楽なのだから、彼はそうする。生きる為に、そうした。

その防衛行動の欠点に気付くことなく、彼はそれを続ける。

 

 この防衛行動の欠点――それは、こちら側に大切なものが出来てしまった後に元の世界に戻ってしまう可能性のことだ。

この世界に大切なものを残してしまい、同時に元の世界では時間のズレで己の場所は無い。

こうなってしまえば、もはや彼には絶望しか残されていない。

その可能性を考慮しなければいけない訳だが、仮に考慮しても今の彼にはそうならないように祈ることしか出来ない。

 

 

「お兄ちゃん、時間だよ!」

 

「! ああ、分かった」

 

 不意に廊下から聞こえてきた思春の声に一刀は作業を中断すると、手頃な大きさの鞄に着替えを入れて廊下に出た。

その際には護身用の小刀が懐にあるかを忘れず確認している一刀の姿は、二ヶ月前の彼からは想像できないものだ。

彼は間違いなく、この世界に馴染み、変わり始めていた。

 

 この時代に安全な場所など何処にも無いことを彼は知っている。だからこそ、油断しない。できない。

人気がある場所ならば良いが、人気が少ない場所では己の身は己で守らねばならないのだ。

こういったことを自覚せずして、生き残ることなど出来ない。

 

 

「思春。分かっていると思うが、なるべく人が居る場所で遊ぶぞ」

 

「うん!」

 

「それじゃあ、行ってきます」

 

「行ってらっしゃい。お昼には戻ってきてね」

 

 見送りに来てくれた甘家の二人に微笑と共に会釈をすると、一刀は思春の手に引かれるまま外に出た。

真夏の鋭い日光が二人を照らすが、これはまだ序の口だ。後一刻もすれば更に日差しは強くなる。

 

 水分補給をしっかりとしておかねば日射病で倒れてしまうような日差しの中、外に出るのは中々にきついものだが、それに見合うだけの価値はある。

この時代で最も素早い移動手段は馬だが、それでも遠乗りをすれば何日もかかるのだ。

こちらお気候に慣れておかなければすぐに倒れてしまう。

 

 一刀は確かに大した武は無いが、その頭の回転は並外れて良かった。あらゆる行動に意味があり、それらは全て糧になっているのだ。

しかし、彼は意味が無いからと言って行動をしない人間でも無い。誰かの為に行動することに躊躇はなく、真摯に働ける。

 

 

「……なぁ思春。思春は俺のことどう思う?」

 

「? 大好きだよ? 強くて、優しくて、格好良いもん!」

 

「そうかな? 俺は本当に優しいのか? 本当に強いのか?」

 

「うん!」

 

「そうか……ありがとう」

 

 この時一刀は思春が彼を兄貴分として評価しているだけだと考えたが、それは違った。

思春は一刀が真名を持たずして真名と向き合わなければいけない重圧に耐えていることを知っている。

思春は彼がいくつもの問題を解決し、関わった人々を笑顔にしているのを知っていた。

 

 彼女が評価したのは彼自身の強さであって、決して彼女の兄貴分としての彼ではない。

思春は彼の内面を高く評価し、信頼に足る人物だと言っているのだ。

信念を曲げず、だが固執しない柔軟さも持ち合わせていると知っているのだ。

 

だから、思春は彼が好きだ。いずれ成人した暁には彼と共にこの世界を渡り歩きたいと思う程に、彼女は彼に憧れ、尊敬している。

その感情を上手く言えない思春ではあったが、それでも飾らずに、思いを直接ぶつけているのだ。

 

 

「お兄ちゃんはきっと将来偉い人になると思うから、その時は私が傍に居てあげるね!」

 

 それは、何度も思春が一刀に告げた言葉であり、彼女の偽りない本心でもある。

彼女は知っている。一刀が様々なものを抱えていることを。彼が多くを語らないことを。

一刀は知らない。思春がこんなにも彼を理解していることを。彼女が多くを語れないことを。

 

 せめて思春と一刀が出会うのが後五年遅ければ結果は違ったかもしれない。互いの間に生じる壁を思春は取り払えたかもしれない。

だが、現実に二人があったのは二ヶ月前であり、決して五年後ではない。

だからこそ、このすれ違いは必然のもので、二人に罪は無かった。

 

 

「ありがとう、思春。お蔭で気が楽になったよ」

 

「えへへ……どういたしまして!」

 

 思春の言葉に気が楽になった一刀は彼女の頭を撫でながら、礼を言う。それに対して思春は、恥ずかしそうに顔を赤らめながらも、一刀の手を握る力を強めた。

確かに一刀の立ち位置は不安定だが、そんなものは皆同じだ。明日こうして笑いあえるかも分からない時代なのだ。

 

 そんな中で一刀だけが特別扱いされる筈もない。一刀の悩みは彼だけのものではないし、そう思うのは傲慢だ。

真名が無いのも一刀だけではあるまい。親に幼くして捨てられてしまった者は真名を覚えていないかもしれない。

だから、彼だけ特別だという言い訳はできない。

 

 

「あっ!見えて来たよ!」

 

「おお、本当だ」

 

 河のすぐ傍に位置する臨江県だけあって、そう長い距離を歩く必要は無かった。ある程度人も居るこの渓流はかなり邑から近い。

すぐに駆け出した思春の後を追うように一刀は岩場に向かい、近くで涼んでいる知り合い達に軽く会釈する。

それに応えるように笑顔で会釈を返してくれる皆に一刀も自然と笑みが深まる。

 

 この渓流はあまり日差しが強くないので、涼むには絶好の場所なので、この季節になると良く人が涼みに来るそうだ。

一刀のよく知る人達もここには良く来るようなので、一刀はここを一種の情報交換場所だと理解した。

 

 夏場ならばここに涼みに来るのは何もおかしいことではない。つまり、ここで数人が集まって喋っていても怪しまれない訳だ。

それを利用して情報収集をすることも可能である以上、使っている者も居る筈だ。

 

 

「うひゃあ! 冷たくて気持ち良い~」

 

「思春、ちゃんと準備運動をしておかないと溺れるぞ」

 

「大丈夫! もしもの時はお兄ちゃんが助けてくれるでしょう?」

 

「はぁ……まったく」

 

 一刀は全身の筋肉を解しながら、既に川で遊んでいる思春に注意をするが、思春は笑顔のまま予想通りの答えを彼に返す。

そんな彼女に一刀は苦笑しながらも、それを咎めない。実際思春の言う通りにするつもりなので、否定する意味が無いのだから。

 

 一刀にとってはこの渓流も何かを為す為の手段の一つだ。この世界に存在するものを余すことなく利用しなければ、力の無い彼は生き残れない。

だからこそ、はしゃぐ思春の相手をしながらも、その頭の隅では常に試行錯誤が行われている。

考えることを止めることはできない。手を抜けば、生き残れない。

 

 浅瀬ではしゃぐ思春を見守りながら、一刀は岩場に座って持って来ておいた竹簡を開く。

流石に複数持って来るとかさばる為一つしか持ってこなかったが、この渓流に関して書くだけならば十分だ。

 

 

「……俺ってワーカホリックだったりするのかな」

 

 休みにも関わらず竹簡は愚か書く為の道具を全て持っている己に苦笑しながら、一刀はこの渓流の活用法を書き記していく。

この世界の住人と比べればまだまだ拙い字ではあるが、読めないものではない。

竹簡などの目に見える形にしたものはここに残し、知識は今後の己の為に残す――これを怠ってはいけない。

 

 前者を怠ればこの邑への恩返しは出来ず、後者を怠れば己の首を絞めてしまう。

常に全力であることは不可能だが、先を考えれば可能な限り全力で取り組み続ける必要がある。

土台を安定させるのは早い方が良い。

 

 

「さて…こんなものか。」

 

「なになに? ははぁ、この渓流をそう使うつもりなのね。面白いじゃない」

 

「……突然後ろから話しかけられるのは心臓に悪いのですが?」

 

「あら、気づいていたでしょう? 私は誤魔化せないわよ?」

 

「……それで、何の用ですか? 何処のどなたかは存じませんが」

 

 一刀は先程から感じていた気配に背後から声をかけられ、軽く返事をすると振り返る。

振り返った彼が見たのは、思春達と同じ南方の者特有の健康的な褐色の肌と、それを申し訳程度に覆う赤紫の服、更には透き通った碧眼を持つ女性だった。

 

 その容姿と体から漏れだす覇気を見て一刀はこの女性の正体を大凡掴んだが、確証は無い。

恐らく彼が知る有名な一族に名を連ねている者であることは間違いないのだが、それ以上は分からないのだ。

 

 

「いえ、この土地に北方の人間が居るのが珍しくて興味本位で、ね」

 

「そうですか。こんな美人に興味を持って貰えるとは、光栄です」

 

「ちょっとちょっと!? 全然嬉しそうじゃないんだけど!?」

 

「大丈夫デス。チャント見蕩レテイマスヨ?」

 

「棒読み!? 棒読みなの!?」

 

 予想とは異なり、思いの外リアクションが面白い女性に、思わず一刀は意地悪をしてしまう。

一刀からすれば、露出の多い服装から除く健康的な肌は確かに眼福であるし、この女性は美人なので、何も嘘は言っていない。

 

 ただ彼は思春の世話を優先しているだけで、この女性に魅力が無い訳ではないのだ。

もしも元の世界に居た頃の一刀であれば、間違いなくキョドっている程の美人だが、今の一刀は甘家で十二分に美女には見慣れているので耐性が大分ついている。

美女の美しさに中てられても、呆けることはそうそう無い。

 

 

「見かけない顔ですが、この地の人ではありませんね?」

 

「正解。ちょっと遠乗りして来てね。それにしても、ここは随分落ち着いているのね」

 

「はい。もう暫くの間は、ここも大丈夫でしょう」

 

「……そう遠くない内に戦乱に巻き込まれる予定でもあるのかしら?」

 

「いえ、そんなものはありません。血の匂いのする虎が来る予定はあったようですが」

 

 一刀は女性を試し、彼は勝った。彼の言葉に一瞬目を見開いた女性は、その覇気を揺らしたものの、すぐさま肥大化させたのだ。

それは一刀に首元に切っ先を突き付けられているような錯覚を覚えさせながらも、他の者に気取らせない程のものだった。

 

 これ程のことが出来る者はそう居ない……ましてや、見事な碧眼を持ち、ここまでの覇気を持つのは、やはり孫家の者くらいであろう。

彼女がもしも一刀の予想通り孫家の者であったならば、彼はかの江東の虎の血族と合見えているということになる。

 

 

「ひるまない、か……貴方への興味が更に深まったわ。もっと仲良くなりたいかな?」

 

「そうですか……すいません! ちょっと思春のことを見ていてくれませんか?」

 

「ん? おう、任せな兄ちゃん!」

 

「ありがとうございます!」

 

「良いってことよ!お蔭様で女房も元気にやってっからな!」

 

 一刀が近くで釣りをしていた知り合いに思春のことを頼むと、笑顔と共に了承の声が返ってきた。

この知り合い、この二ヶ月で一刀が助けた人物の一人であるが、彼の問題は妻の体調だった。

彼の妻は生来体が弱く、よく体調を崩していたのだ。

 

 そんな彼に一刀が示した改善案は極々単純なもので、ずばり衛生面の見直しだった。

例えば飲み物を飲む際には一度沸騰させておく、などの簡単なものばかりだが、このお蔭で彼の妻は大分体調が良くなったようだ。

 

 一刀の示した案の効果を知った彼は、それを他の家にも伝えたらしく、そのお蔭で薪売りが大分儲かったそうだ。

油屋に関しては、まず体制を立て直してもっと安く買えるようにしてからでないと庶民の手には行き渡らない為、一刀はその件に関しても案を纏めている。

 

 

「あら、随分と慕われているみたいね。益々興味深いわ」

 

「それはどうも。できればその覇気も抑えて頂けると助かります」

 

「その必要は無さそうだけど?」

 

「……確かに、そうかもしれませんね。では、そのままでお願いします」

 

 群雄達の何れかの元に仕えるのならば、覇気には慣れておかねばならない。

群雄本人、もしくはその腹心が放つ覇気を前にすることも少なくない筈だ。

それなりではあるものの、圧倒的な武を持たない一刀では将は無理だろうが、文官として合見える可能性もある。

一刀はその時ただただ青ざめる失態を犯すつもりは毛頭無い。

 

 

「それで、貴方は何処かの手の者かしら? それとも、まだ誰にも仕えてはいない?」

 

「後者です。まだ右も左も分からないですから」

 

「そう……それで、私が虎だと思った理由は?」

 

「南方でそれ程の覇気を持ち、尚且つその素晴らしい碧眼を持つのは江東に住む虎しか居ない、と思いまして」

 

「貴方、大分頭が切れるわね。面白いわ。私の所に来ない?」

 

 女性の問いに違わぬ様に気を付けながら応えた一刀であったが、不敵な笑みと共に告げられた思わぬ言葉に固まる。

彼女の元に行くというのは、即ち孫家、ひいては孫呉に仕えるということを意味する。

 

孫呉と言えば、彼が知る歴史では一度は瓦解しかけるものの、最終的には蜀、魏と並ぶ三国となった。

その後に魏に蜀もろとも吸収されてしまうことに目を瞑れば、最有力候補の一つだ。

 

 一刀はまさかこの時点でその孫呉の者、しかも頭の孫家から誘われるとは思わなかった。

確かに魅力的な誘いではあるし、この時点で仕えることができたならば、大分アドバンテージもあるだろう。

しかし、一刀はどうにもこの状況を喜べなかった。気味の悪い何かが、そうさせてくれないのだ。

 

 

「……何故そのようにお考えになられたのですか?」

 

「酔狂ではないわ。貴方はこの先必ずのし上がってくると私の勘が告げているからよ」

 

「そうですか。非常に有難い申し出ですが、今回は断らせて頂きます」

 

「あら残念。でも、“今回は”ということは、次は期待しても良いのね?」

 

「確約はしかねますが、もし次に会えた時自分が誰にも使えていなければ是非」

 

 この女性はそう何度もここに足を運ぶことは出来ない上に、一刀もそう遠くない未来にここを離れることになる。

もしも再び会うことがあるならば、その時こそは応えても良いかも知れない。

少なくとも、今一刀が感じている不気味さはその時にはない筈だ。

 

 知も武も突出したものを持たない今の一刀には、有力者の元に仕えられる程のものは無い。

それを理解しているからこそ、彼はこの誘いを断った。断るしかないという確信があった。

その確信は実に傲慢なものだが、彼のこの判断が過ちで無かったことを、後にこの女性は知ることとなる。

 

 

「あ、ちなみに今日明日にその“次”を持って来た場合は謹んでお断りしますので」

 

「安心して。そんなことはしないから」

 

「それを聞いて安心しました。それでは、自分はこれで」

 

「ええ、またいつの日か会えるのを楽しみにしているわ」

 

 女性は静かに会釈する一刀に背を向けると、片手を軽く上げながら去っていく。

その背中を見送りながらも、一刀は一つ良いことを思いついた。彼がこの世界にどの程度干渉出来るのかを確認できるかもしれない。

 

 

「堅という名の御親族にお伝えください! 黄祖という名の者にはお気を付けくださいと!」

 

「!?……了解したわ!」

 

 一刀が突然言った言葉に驚愕の表情と共に振り返った女性だったが、周りに怪しまれないように笑顔でそう返すと、そのまま去って行った。

これで一刀が知る歴史との間に差異が生じれば、彼は歴史の流れに介入できることの証左になる。

 

 勿論、彼が言った一言だけで結果が変わる可能性は非常に低い上に、そもそも介入できない可能性もある。

結果が分かるのは反董卓連合結成以降、つまりは十年以上後になる為、結果が変わるか否かを確かめるには時間がかかる。

 

 これに関してはのんびりと待つしかない。

 

 

「さて…あまり放っておくと思春がむくれてしまうな」

 

 

 一刀は不機嫌になった時の思春を思い浮かべながら、苦笑と共に彼女が待つ浅瀬に向かってゆっくりと歩きだすのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ちょっとお時間を借りて宜しいですか?」

 

 昼前に駄々をこねる思春をなだめて甘家に帰還した一刀を待っていたのは、思春の母のその言葉だった。

何か拙いことでもしたかと思いながらも一刀は彼女の後をついていき、彼女の自室に入った。

 

 難しそうな表情で一刀を居る彼女に、彼は不安を覚えてしまう。やはり何か粗相をしてしまったのかもしれない。

いかに一刀の物分りが良いとしても、まだ二ヶ月だ。その間でこの邑の全てを理解することはできない。

 

 

「あの……もしかして、仕事の方で何か粗相をしてしまったのでしょうか?」

 

「いえ、今回一刀さんを呼んだのは他でもない、貴方の部屋に積んであった竹簡についてです」

 

「……なにか拙かったのでしょうか?」

 

「寧ろその逆です! あれは実に素晴らしいものばかりでした!」

 

「そうですか。それは良かった」

 

 思春と同じ赤い目が柔らかに歪むのを見ながら、一刀は満足げに微笑んだ。

やはり、彼のしたことは無駄ではなかったと証明されたような気がして、一刀は嬉しかった。

暇を見つけては書き加え、修正し続けた甲斐あって文官である彼女にも認められたのだ。

 

 

「あそこまで磨かれていれば、準備さえ整えばすぐに施行できます。県令様には私から見せておきますね」

 

「ありがとうございます。お蔭で少し気が楽になりました」

 

「一刀さん。前々から思っていましたが、やはり貴方はより高みを望むべきです。貴方の能力はこの二ヶ月で見させていただきましたが、こんな場所に留まらず太守……いえ、勅使の元へと赴くべきです」

 

「いえ、俺は別にそこまで――」

 

「いいえ、貴方は十二分に有能です。その能力を生かす為には、より高みに行かなければ」

 

 一刀自身は自分がそこまで有能だとは思えないが、彼女は違うようで、真面目な顔で彼により高みを望むべきだと主張してくる。

まだそこまで出来る力は一刀には無いことなど分かり切っているだろうに、彼女はそれを薦めるのだ。

 

 

「そもそも貴方は己の力量を過小評価し過ぎています。そして、何よりも真名を重く見過ぎです」

 

「甘さん。だから、俺は――」

 

「いいですか、一刀さん?真名とは確かにその人そのものを表す重いものです。ですが、絶対的なものであってはならないのです。呼ばれない名前など、ゴミにも劣ります」

 

「あの、甘さん?」

 

「名前は呼ばれて初めて意味を成すのです。その時初めてその役割を果たすのです。それは真名とて同じこと。軽々しく扱えとは言いませんが、絶対視してもいけません。それは却って真名を軽んじる行為となりかねませんから」

 

「は、はい」

 

 いつの間にか真名の話に切り替わっていたことに慌てる一刀であったが、そんなことは気にせず彼女は甘家の者として彼に真名のなんたるかを語る。

いつもの彼女からは想像できない権幕にたじろぐ一刀であったが、それでも彼女の話は続く。

 

 

「ですから、今度こそ私の真名を受け取ってください。良人の真名は既に受け取っているのでしょう?」

 

「あ~……あれはですね。一戦交えた上で互いを認め合ったからであってですね……」

 

「では受け取っていただけますね?私と貴方は知を認め合った仲ですから。私の真名は思秋と申します。」

 

「で、ですが「何か?」有難く受け取らせていただきます」

 

 笑顔のまま真名を預ける彼女――思秋に反対意見を示そうとしたものの、彼女の迫力に負けてしまった一刀は顔を青くしながらも、その真名を受け取った。

それに満足したのか、思秋は笑顔と共に一刀を見遣り、再び開口した。

 

 

「一刀さん。良人とある約束をしたそうですが、覚えていますか?」

 

「約束、ですか? 確かにしましたけど――」

 

「それじゃあ、是非とも頑張ってくださいね。私どもも容赦なく鍛えますから、娘の許婚に相応しい方になってください」

 

「あれって冗談じゃあ……って、えええええ!? ナンデ!? 思春ナンデ!?」

 

「娘の了解は既に取っていますからご心配なく。あっ、でも成人するまでは手を出しちゃダメですよ?」

 

 一刀は訳の分からない急展開に逃げ出したい気分になったが、ここで逃げ出すとやばいと本能が告げている。

思春の父――思伴と何度か模擬戦を行った後に半ば一方的にさせられた約束がまさかここで、しかもこんな形で出てくることになるとは夢にも思わない一刀であった。

 

 甘家は皆真名には思の字を入れるのが習わしらしい、などと現実逃避の為に思考を割き始める一刀であったが、思秋はそれを許してはくれなかった。

 

 

「で、でも八も年の差がありますし!」

 

「八つ程度の差なんて愛の前では無力ですから」

 

「さ、さいですか……で、でも俺はある程度力を得たらここから去るつもりですよ?」

 

「その時は思春も一緒に連れて行ってください。良い経験になるでしょう。あの子もこんな辺境の地で終わる子ではありませんから」

 

「軽っ!?」

 

「私達は大真面目です。ですから、一刀さんには是非とも頑張って貰わないといけません」

 

 一刀は思秋達の真意を量りかねていたが、彼女達の真意は至って単純明快なものだった。

北郷一刀という少年は将来的にこの大陸に大きく名を残す可能性を秘めており、王の器さえ秘めている。

だからこそ、今の内に思春をこの将来圧倒的な力を持つことになるであろう少年に託したい。

 

 漢王朝への不満は少しずつだが、日に日に高まっている。もうすぐ大きな混乱が生じる筈だ。

思秋達甘家の者はそれを察知しているからこそ、その時強大な勢力に関わりうる、或いはそれを己で立てうる一刀に思春を託したいのだ。

 

 この男は竜だ。天から地上に舞い降りた竜なのだ。しかも、漢王朝の竜とは違う、本物だ。

思秋達は一刀には言っていないが、午前に彼が思秋と渓流に行った際に見張りを一人つけておいた。

その見張りが持ち帰った報告に、彼女は確信したのだ。天から降りた竜は江東の虎すらも惑わせると。その虎を狩ることすらも可能だと。

 

 この竜はまだ伏せている。だが、天に向かおうとする時、その力は途方も無く大きいものとなるに違いない――そう理解した上での策なのだ。

いかに彼から恨まれてしまおうとも構わない――娘さえ生かしてくれたならば、それで良い。

きっと、思春は彼の逆鱗となる筈だから。

 

 

「すいません。その……少し考えさせてください。確かにお二人の真名を呼べるようになった暁にはそれに了承すると思伴さんと約束させら…しましたが、まだ決意が固まりません」

 

「分かっています。急な話ですから、混乱するのも無理はありません。来週ある祭りの時に思春に答えを言ってあげてください」

 

「……分かりました。その時答えを言います」

 

「ありがとうございます。お腹も空いたでしょうし、お昼にしましょう」

 

「はい」

 

 笑顔で立ち上がり、一礼と共に部屋を去っていく一刀の姿を見る思秋の心は罪悪感で一杯だった。

いかにいずれ竜として天下に名を轟かすであろう可能性を持つとはいえ、彼はまだ若い。

彼が美しい心を持っているだけに、それを利用しようとしている己達が醜く感じられてしまう。

 

あの竜は何処に行くかはまだ分からない。もしかしたら何処にも行けないかもしれない。何処にも行かないかもしれない。

だが、思春がその逆鱗となった時、彼は動く。動かざるを得ない。彼女を守る為に嵐を巻き起こす筈だ。

 

 彼は竜だ。人間のことなど理解できないかもしれない。人間は彼のことを理解できない。

だが、彼はきっと人間を守るだろう。人間の為に立ち上がるだろう。

彼は孤独だ。その孤独に抗う為に、逆鱗が必要なのだ。

彼女達は思春をその逆鱗にし、彼を動かす。彼を生かす。彼を完全無欠の竜にする。

 

天から降りた竜が天に戻らぬ様にする為に。もしも竜が天に戻ってしまっても、逆鱗がその孤独を癒せるように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お兄ちゃん、こっちこっち!」

 

「そんなに急ぐとこけるぞ」

 

 一刀が思秋に思春との婚約について切り出されて一週間が経った。

期日である今日、この祭りが終わった時一刀は思春に答えを告げる気だ。

人がいつもよりも多い通りを見ながら一刀はこの二ヶ月半程の日々を振り返る。

思秋の話では後半年も鍛え上げれば問題ないとのことだったが、一刀には果たしてそうなのか怪しい所であった。

 

 一刀はあの後それとなく思春に婚約について聞いてみたが、若干顔を赤らめながらも笑顔で肯定されたので、思秋の言う通り思春はそのことを知っていたようだ。

一刀としては、己が与り知らぬ所でそんな話を進められていたのが中々に心苦しかったが、そんな気持ちは思春の純粋な笑みの前に掻き消えた。

 

 

「そうだ。以前模擬戦で買った時祭りで何か一つ買う約束だったな。思春は何が欲しい?」

 

「ん~と……あれ!」

 

「ん? 鈴、か。あんなもので良いのか?」

 

「うん! お兄ちゃんも同じの買ってお揃いにしよう?」

 

「俺も、って……両方共買うのは俺なのに」

 

 一刀は苦笑しながらも、思春が示した鈴を二つ買うことにした。

値段を聞いてみると思ったよりも安かったので、しっかりとした長持ちしそうなものを二つ選んだ。

確かにお互いの位置を鈴で知らせるのは便利そうだな、などと思いながらも一刀はその片方を思春に渡す。

 

 

「えへへ、ありがとう!」

 

「どういたしまして。これを互いにつけておけば、場所が分かりそうだな」

 

「お兄ちゃんは私が迷子になっても、この鈴をつけてたら見つけてくれる?」

 

「……そうだな。時間はかかるかもしれないが、見つけよう」

 

「えへへ……それじゃあ、お兄ちゃんが迷子になった時は私が見つけてあげるね」

 

「そうか。是非とも頼むよ」

 

 早速鈴を腰につけて鳴らす思春の姿に微笑みながら、一刀もまた腰に鈴をつける。

鈴は彼女にとって大切なものだ。甘寧が義賊の頭をやる際は皆に鈴を装備させていたのは、一刀も良く知っている。

買った鈴は素材が他のものと違うのか、彼らが歩くのに合わせて小気味の良い音を立て、彼の耳を刺激した。

 

 

「珍しいが、良い音だな。聞いていて気分が良い」

 

「ねぇねぇ! 次はあの店に行こう?」

 

「ん? 焼き鳥か。そうだな、行こう」

 

 腕を引っ張る思春の指差す店が焼き鳥屋だと認識した一刀は、笑顔と共に彼女の期待に応える。

幸い仕事の手伝いで得た彼の小遣いはまだ余裕がある。

思春が余程の無理を言わない限りは問題なく今日と言う日を終えることができるであろう。

 

 一刀たちが焼き鳥をいくつか買って、長椅子に座って食べていると知り合いが数人通ったので会釈する。

そんな一刀の姿を見つけた知り合い達もまた笑顔で会釈を返してくれる。

一刀はまだ二ヶ月半程度の時間しかここに居ないが、それでもここがいかに心地よい場所なのかは分かっていた。

 

 

「祭りもあと少しで終わるな……」

 

「そうだね……もうすぐ終わっちゃうね」

 

 祭りそのものはそれなりの時間やっているが、一刀達は色々と仕事や勉学を済ませてから参加した為、参加できたのは殆ど終わり間近だった。

二人が祭りを楽しむには十二分な長さであった為、一刀個人としてはそれでも構わない。

 

 

「……思春、少し良いかな?」

 

「……うん」

 

 一刀は何気なく話かけたつもりだったが、思春はそれが何を意味するのかを分かっていたようだ。

少しばかり緊張した面持ちでゆっくりと頷くとそのまま一刀についていった。

思春のその態度に一刀は驚いたものの、苦笑を浮かべ彼女を河のほとりに誘った。

 

 ここに誘ったのは甘家の誘いへの返答を思春にする為だ。もっとも、一刀はただ返事のみをここで伝える気は無い。

思春と色々と話し、その上で彼の決断を伝えたいのだ。

ただ結論だけを言うのは味気ないし、冷たい。

 

 

「思春はさ、将来何になりたいんだ?」

 

「私? 私は……将軍になりたいな!」

 

「将軍、か。将軍になるのは大変だぞ? 武があるだけでは人はついてこないからな。」

 

「うん。だから、頑張って勉強してるんだ。お兄ちゃんは何になりたいの?」

 

「俺か? 俺は――」

 

 そこで一刀は気づいた。気づいてしまった。彼は何にもなるつもりがないと。何にもなろうとしていないと。

彼はただ生き残ることのみを目標としている。その為に有力者達の下に仕えようとは思っていたものの、それ以上は考えていなかった。

なんと空虚な人間であろうか?――己の実情に気付いた一刀はそう思いながら苦笑した。

 

 

「……俺には、なりたいものはない。夢はあるけれど」

 

「夢? どんな夢?」

 

「俺が知る皆が笑顔で居られますように、っていう単純なものだよ」

 

「それって素敵な夢だよ? 私も同じ!」

 

「そうか。ありがとう」

 

 笑顔で一刀の夢を肯定してくれる思春の頭を撫でながら、彼は己の空虚さを嘆く。

何処にも行かず、何処にも行けぬ者など生きる屍だ。彼はまさにそれに当てはまる。

こんなことではいけない。こんなことでは生きていけない。

生ける屍など、いったい誰が必要とするのだろうか?いったい誰の為になるのだろうか?

 

 

「最初にこの世界に来た時は怖かった。右も左も分からず、誰ひとり頼れる者が居なかったからね。だが、思春に出会えたお蔭で今はこうして落ち着いていられる。改めて礼を言う。俺を見つけてくれてありがとう」

 

「えへへ……どういたしまして。私もお兄ちゃんに会えて良かった。私に見つけられてくれてありがとう」

 

「なぁ、思春。例の件なんだが……思春さえ良ければ受けようと思う。」

 

「! 本当!?」

 

「ああ、本当だ。俺で良ければ、思春と一緒に居たい」

 

 口ではそんなのことを言いながらも、一刀は思春に対して女性としてのものは何も求めていない。

ただ、彼の欠けた部分を埋める為の己が一部として、彼は彼女を選んだ。

一刀は何度も悩んだ末に答えを出したつもりだが、彼の無意識は最初から答えを出していたのだ。

 

 しかし、それは思春とて同じだ。思春は一刀という竜の逆鱗になることで己を守りたいのだ。

思春は依存することでしか生きていけない弱い人間だ。そんな彼女の目の前にある日北郷一刀という竜が現れた。

その竜は彼女を逆鱗とすることで己を保とうとしている。だから、彼女は己を彼の逆鱗とすることで己を保つのだ。

 

 それは、酷く歪な関係だが、思春はそれで構わなかった。一刀の為に在ることで己を保てるならば本望だった。

甘家は皆一刀の正体のなんたるかを本人よりも理解していたが、その中でも彼女は最も一刀という竜を理解している。

だからこそ、彼のこの答えは彼女にとってとても嬉しいものだった。

 

 

「もう一度確認させてくれ……本当に俺なんかで良いのか? 俺よりも強い人は沢山居る。俺よりも優しい人は沢山居る。俺よりも思春を幸せにできる人は沢山居る。それでも……それでも、俺を選ぶのか?」

 

「うん! お父さんやお母さんに言われたからじゃないよ? これは、私の気持ちだから」

 

「……そうか。こんな俺で良ければついてきてくれ。俺には、君が必要だ」

 

「―――はい」

 

 無意識の内に人ならざる形へと変わっていく一刀の瞳を見つめながら、思春はそっと一刀を抱きしめた。

彼女の運命を己が手で歪めてしまうことを恐れる一刀へ、あらゆる思いを乗せた肯定の言の葉を飛ばす。

それに彼は気づかない……だが、思春はそれで良かった。

 

 竜――それは神獣の一種であり、同時に全ての人間の中に潜む氣の正体でもある。

全ての人間は竜の血を持つが、それは酷く薄い。故に、多くの者の氣は弱い。

だが、これが濃く発現した者は氣を多く持ち、それによって強靭な精神や肉体を得る。

覇気を持つ人間はこの竜の血が強い人間のことを示すが、それでも飽く迄人間だ。

 

 しかし、純粋な竜は違う。その氣は時に人間を容易く発狂させ、時に命すら奪い、時に苦しみから救う。

その強大さは完全に覚醒すれば天災に値するものとなり、王の器たる人間達すら容易くなぎ倒す。

その竜に求められている―――それだけで彼女には十分だった。

 

 

「お兄ちゃんの体、暖かい……」

 

「……思春?」

 

「私の名前、もっと呼んで? もっと聞かせて?」

 

「思春。「もっと」思春。「もっと」思春」

 

「えへへ……」

 

 思春はまだ齢十と少し程度だが、それでも一刀が己を選んだ理由は分かっていた。何故彼女を逆鱗にしたのかを理解していた。

彼女の真名は思春――そして、竜は春に天に昇る。即ち、春を思う彼女が傍に居ることで彼は永遠に天であり続けることが出来るのだ。

 

 真名はその人物そのものを示す。だから、思春は彼の為に春を思い、彼が上り続けることを助ける。

そうすることで彼は永遠に天であり続け、誰もがその姿に息を吞み、心から欲せども、手の届かない存在となる。

そしてそれは、彼が逆鱗である彼女にしか触れることのできぬ存在となることを意味する。

 

 秋の来ない世界で、彼女以外が竜と触れ合うことはできない。出来るとすれば、それは彼と同じ竜だけだ。

 

 

「お兄ちゃん。私、とっても幸せだよ……」

 

「ああ、俺も―――!」

 

 危うさを感じさせる思春を御する為にそっと頭を撫でながら言葉を紡いだ一刀は、ふと視界の隅で自分に迫るものに気付いた。

一刀の眼は並みのものではない。それが矢であることは、数瞬の間に認識出来た。

しかし、同時にそれがこのままでは思春に当たってしまうことも彼の眼は認識してしまう。

 

 気付けたのは幸いだったが、既に矢は回避が不可能な距離にある。だから、一刀はそれを諦めた。

その代わりに、己に抱き着いていた思春を思い切り引き離すと、横に放り投げる。

驚きと拒絶されたのかという恐怖が垣間見える表情の思春に心の中で謝りながらも、一刀は――その胸に矢を受けた。

 

 

「……っ!!」

 

「お……お兄ちゃん?」

 

「思春……行け」

 

「お兄ちゃん!?」

 

「行け!!」

 

 一刀はその目で木陰に潜む者達の数を数えながらも思春に怒鳴る。それに怯えるように体を震わせながらも思春は従った。

彼女が去っていくのを見送りながらも、一刀は研ぎ澄まされていく感覚に従い懐の小刀を投げつけた。

 

 それが一番近くの賊の命を刈り取るのを感じながらも、すぐさま動いて武器を奪う。

後ろから切りかかってきた者を横薙ぎの一撃で葬ると、更に己を取り囲む数人の攻撃をいなす。

心臓に一撃貰っている筈が、いつも以上に思い通りに動く体を不思議に思いながらも、一刀は身近な一人の眼を見た。

 

 恐怖に歪んでいる。まるで化け物を見るような目だ。なんという脆弱さであろうか。

一刀は先程何の躊躇も無く命を奪ったことを実感しながらも、その重さを感じられなかった。

まるで己に纏わりつく蚊を叩き潰したかのような感触だけが彼の手に残っており、その感性のままにその賊を見遣ると、突然泡を吹いて倒れてしまった。

 

 

「――不味そうだ」

 

 不意に己の口から漏れた言葉に一刀は内心驚きながらも、賊の動きに違和感を覚えた。

これは賊ではない――官軍だ。何故彼が狙われる必要があったのかは分からなかったが、予想はできた。

 

先日思秋が一刀の案を県令に見せたことにより、聡明な県令は甘家及び一刀に大変感服し、挨拶に来た。

更に、その案を考えたのが一刀であることを明言した上で、太守や勅使に他の県でも採用できないかを聞いてくれることになっている。

 

 この一件で甘家、特に思秋は出世が確約され、場合によっては太守、もしかすれば勅使の下で働くことになるかもしれないそうだ。

この一件を快く思わない連中の差し金であることは容易に想像できる。

醜い嫉妬だが、悪くない策だと、冷めた思考を張り巡らせながらも、一刀は新たに二人の命を奪った。

 

 

「これで終わり、か」

 

 恐怖に顔を引きつらせる残り二人をすぐさま葬ると、一刀は手に持っていた剣を捨てた。

今現在自分がどんな状況にあるのかは彼には分からないが、少なくとも生き残れはしたようだ。

安堵によってあっという間に引いていく異常な感覚と入れ替わるように訪れた吐き気に、一刀は思わず吐いた。

 

 

「ゲェ……ゴホッ」

 

 彼の予想とは反して、胃の内容物ではなく大量の血と共に吐き出された鱗が、夜空に浮かぶ月の光で怪しく輝く。

一刀は震える手で胸に刺さった矢を抜こうとするが、上手く力が入らない。

どうやら矢には猛毒が塗られていたようだ。アドレナリンで痛みを忘れていた間は動けたが、今の一刀はもう動けそうにはない。

 

 一刀には人間を殺したことへの罪悪感は無かったが、ただ何も得ることなく殺してしまったのを無為だと思った。

恐らくこの賊……否、官軍は先程の彼の予想通り、甘家に嫉妬した者達の差し金に違いない。

だが、正確な首謀者を突き止めることは一刀にはもはや叶いそうにはなかった。

 

 彼に刺さった矢に塗られた毒は実に強力だった。掠るだけでも確実に命を奪える程に。

毒が全身に回った今、一刀は歩くことは愚か、平衡感覚すらも定かではなかった。

 

 

「思春……ごめん、な」

 

 少しずつ薄れていく人間としての感覚と、それに逆比例して湧き上がってくる恐ろしい感覚の双方を感じ取りながら、一刀は全身の力を抜いた。

弛緩しきった肉体が河に落ち、流されていく。上流で雨でも降っていたのか、いつもよりも流れの速い河は、彼の動かぬ肉体を何処までも、何処までも押し流していった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 この日、北郷一刀という人間は二度目の死を迎えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
このエントリーをはてなブックマークに追加
 
 
37
14

コメントの閲覧と書き込みにはログインが必要です。

この作品について報告する

追加するフォルダを選択