真・恋姫無双外史 ~昇龍伝、地~
第七章 虎が咥えてきたモノは
目の前にいる女の容姿は人の形をしていた。だが鋭く輝く蒼い瞳は猛禽類のそれでなけば、一体何だと言うのか。その女の二つ名が、まさに正鵠を射ている。
江東の豪族達から絶大な支持を集め、その名声と実力から長沙の太守に抜擢された。名を孫堅、字を文台という。
この女の若き日の姿に、私は瓜二つだと言われる。
桃色の長い髪の毛。褐色の肌。孫家特有の赤い衣装。底辺が肩幅まであるあの三角の冠を被れば、母様の若き日から従う四人の将は孫堅殿が若返ったと笑うだろう。
その冠が私の正面を向くと、その女は勝ち誇るようにニヤリッと笑った。
――母様の機嫌が良い?
袁家の軍議に一人出席させられた、母様の鬱憤晴らしの場になるだろう。誰もがそう口を揃えた今日の軍議。
だがいつにもまして母様は穏やかだった。それは隣に立つ青年のせいか。
真新しい白い服、腰には赤い布。頭に巻いていた赤い頭巾は今、彼の手の中にある。衣装からして、孫家の関係者と言わんばかりだが目や肌の色からして違う。
「あの子、確か……」
見覚えがあった。彼とは一度、荊州の南陽の城で顔を合わせたことがある。
南陽郡の役人達をまとめ上げ、復興に導いた男だ。無官であることを理由に太守の座にも就かずに。
だがその謙虚さが彼自身を救った。
一瞬でも太守の椅子に座っていたなら、母様に首を刎ねられていただろう。
本来なら南陽周辺の賊を狩り尽し圧倒的な軍事力を見せ付け、役人たちに母様の軍門に下らせることが目的だった。
だが留守にしていた長沙で反乱の報が告げられたため、私達は急遽南陽を後にした。だが賊はその隙を見計らったかのように再び南陽で暴れ始めた。
彼はそれを鎮圧、襲われた周囲の村や町まで復興してしまった。
私達が舞い戻った頃には、飲めや歌えやと復興祝いをしていたのだから、孫堅軍の面目はまる潰れとなった。
母様が悔しそうにしているのを見て、あぁこの完璧超人でも悔しがるんだなと再認識させられたぐらいだ。
結局、母様は南陽から手を引いたのだが……
タダでは帰らぬ。と、私を連れて身分を偽り酒宴で大暴れ。土産に酒を少し拝借……もとい、盗み出すとうい暴挙にでた。が、そこで私がしくじった。
見つかってしまったのだ。
その後のことは思い出したくもない。
ただ母様がこの男を大変気に入ったことだけは分かる。帰りにうざいくらい北郷君遊びにこないかなぁ、北郷君。と言っていたのを覚えている。
――そういえば、趙子龍の姿が見えないわね。
辺りを見渡す姿が目に止まったのか、北郷一刀が私に向かって会釈してきた。
私も鞘を握って武人らしく返礼した。
が、彼はまだ私から目を逸らさず、申し訳なさそうにこちらを見ている。
何だろうか。いや、何となく分かる。
これから面倒事が起きるのだろう。
ふと母様がこちらを向いて不敵な笑みを浮かべると、彼の横で大きな胸を揺らした。
――ちょっと何やっているのよ!
絶対、わざと揺らした! いい年して盛ってんじゃないわよ!
赤い布一枚で隠すところだけを隠した――ただし横から見れば肌丸出しの服を着て、どどんっと大きな胸を逸らすものだから、例えそれが三人の子持ちで、かつ同じ年頃の娘がいるという事実を知っていても尚、年頃の男の子が鼻の下を伸ばしてしまうのは、無理もない話かもしれないけど。
咳払いすると、北郷一刀が背筋を伸ばす。
母様が睨んできたので睨み返してやる。
――もう少し自重したら? 恥しい人!
視界の隅で北郷一刀が青い顔をしていた。
しばらくして母様は私から目を逸らし、皆に向かって口を開いた。
「皆揃っているか。軍議を始める。皆知っての通り袁紹の屋敷へと行ってきた。私がいない間、さぞこの軍は平和だったのではないか? なぁ、祭!」
「さっさと本題へ入られよ」
イーッと、いつもの二人らしいやり取りがなされる。可愛いらしいという言葉がほとんど似合わない二人に皆苦笑いだ。
が、そのやりとりを微笑ましそうに見ている北郷一刀。
――ま、まさか……ね?
「袁術の情報通り、洛陽周辺の賊退治だ。勅命よ。今まで私達が対処してきた反乱と比べれば大したことないわ。さっさと終わらせて長沙へ戻るつもりだから、洛陽に用事のあるものは済ませておきなさい。賊の位置など、詳しい情報が届き次第我々は動く。以上でこの話は終わり!」
そして厳しい表情から一転、温和な笑みへと変わる。
母様の手が彼の肩に置かれ、誰もが気になっていた話題へと移った。
「皆に紹介するわ。彼の名前は北郷一刀。私の息子みたいなものだから、よろしくねっ」
「……はっ?」
反響する母様の声が耳から離れない。
……息子みたいなもの?
何それ、どういうこと? 義理の息子ってこと?
なら彼は私の弟ってことになるのかしら?
余りにも突然の出来事。当然、皆騒然となった。
「本当は旦那にしたいんだけど、それじゃぁ祭に悪いでしょ?」
母様に襲い掛かろうと暴れる祭を、既婚である程普、韓当、祖茂の三人が笑いながら押さえ付ける。
「放せ! 一発殴らせい!」
「挑発に乗っちゃ駄目だって!」
「祭、我慢だ!」
「……我慢」
――頭、痛くなってきた。
ふと母様が北郷に何か耳打ちすると、彼は心底驚いた表情を浮かべて母様に耳打ちを返した。
「祭、祭! 北郷君が祭のこと、綺麗な人ですねっ、だって!」
「ちょ――!! 何、本人の前で暴露とか――、ぐっ!」
母様が北郷の顔を掴んだ。
「浮気は駄目よね~♪ お仕置き、決定――!!」
「ぬおぉぉぉっ!」
母様に吊るされた瞬間、彼は私達家族の仲間入りを果たした。そんな気がした。
「できるなら祭に紹介してあげたいんだけど、ごめんね」
「――ふんっ!」
祭が機嫌を損ねた。今日は飲むのに付き合ってあげよう。
「ほら、孫家って女の子ばかりでしょ? 男の子もほしかったの。だから袁紹の陣営にいたのを、袁術に手を回して貰って私の陣営に引っ張ってきたのよ」
「……あの柔な男がか? 戦場に立てるとは思えぬが」
その誰かの一言に、母様が唇が釣り上がった。その質問を待っていたかのように……
「――雪蓮」
……嫌な予感しかしない。
「何?」
「北郷君を守ってあげなさい」
……つまり、私への楔ってわけね。
「それから貴女は北郷君に真名を預けなさい。あぁ、他の者は別に構わないわ」
――真名を預けろって言うの!? しかも私だけ!?
同情の刃が一斉に私に突き刺さる。
「……っ」
「返事は?」
だが逆らえない。母様はこの軍の長。彼女自身が掟なのだ。真名を預けろと言われれば、預けねばならない。
「ま、待ってくれ、孫堅さん。それはいくら何でも無茶苦茶だ」
「あら、どうして?」
母様に反論――!?
「北郷一刀、やめなさい! 死にたいの!?」
だが彼は私を無視して、母様に食い掛かった。
「真名は心を許した、信頼に値する人に預けるものですよね?」
「そうよ。娘を託せると思えた。それで問題はあるまい?」
「ありがとうございます。ですが孫堅さんと知り合って二日ほどしか経ってませんし、パッと湧いた俺に、疑問を持っている方もいらっしゃいます」
必死になって彼は続ける。
「お互いが納得できない状態で呼び合うってことは、形だけってことですよね。お互い騙し合っているみたいで、ほら……えっと、孫策さんの真名が穢れるんじゃないかなって?」
「穢せばいいじゃない。正気の沙汰とは思えない、狂気的な恋もありだとお母さん思うな!」
「――っんなわけないでしょ! この馬鹿母が!」
しばらく考える素振りを見せた母様は剣を抜くことはなかった。その代わり彼をがばっと抱きしめた。その行動に全員が唖然とした。
「娘のことを思ってくれてありがとう! でもここでは私がすべてで、もう決めたことよ。そう思うなら雪蓮が真名を預けるに足る人物だって思えるように、北郷君は頑張ること。――雪蓮!」
「……何?」
「北郷君に免じて猶予を上げるわ。親睦を深めて、今日中に真名を預けなさい」
「……分かったわ」
「北郷君には雪蓮と四六時中一緒にいて貰うつもりだから。ご飯食べるのも一緒。遊ぶのも一緒。部屋も、お風呂も、寝るのも一緒。常に一緒よっ!」
両手を広げて、踊るようにくるりと回る。
「ちょっと何考えてるのよ!」
「間違いが起きれば、名実ともに彼は私の息子になる! 誰にも文句は言わせないわ」
誰もが顔を見合せる。そんな理由で大丈夫なのかと。
「冗談じゃないわ。絶対に嫌っ」
「そうですよ、孫堅さん。俺にはちゃんと心に決めた人がいて――」
……そうだった。彼には趙子龍がいるのだ。
「ああっ、あの白い子ね。……子作りしたの?」
「こ、子作りっ……!?」
遠慮の欠片もありゃしない。
戸惑う北郷一刀の表情からまだであることを知るやいなや、母様は私に向かって満面の笑みを向ける。
「あら、雪蓮。何ソワソワしているの? あっ、嬉しいんだ……!」
「――してないからっ、嬉しくもないから!」
「なら何の問題もないわ! 期待しているわよ、雪蓮!」
「いちいちこっちに話振らないでよっ、鬱陶しい!」
――付き合ってられないわ!
ここから連れ出そうと彼の手を握ると、周囲から一斉に茶化される。
「雪蓮をよろしくね~♪ 釣り竿が私の部屋にあるから持っていくといいわ! でも毛鉤はひとつだけだから気をつけてね!」
北郷一刀が振り返ろうとしたので、無理やり引き摺るように軍議の間から連れ出した。
釣りか。まぁ悪くないわね。お金もそんなにかからないし。
母様の部屋から壁に飾られていた釣り竿を拝借。
「何気に良い品使ってるじゃない」
長すぎるのが難点だが、軽くて弾力のある良い竿だ。さりげなく金の細工まで施されている。
それを彼に手渡す。
「はい」
「こんな上等なの、使っていいの?」
「もちろんよ。母様が良いって言ったんだから。あ、私は自分のを取ってくるから厩で待っててくれる? 場所は分かる?」
「あぁ、大丈夫。それじゃまた後で!」
一先ず彼と別れて部屋へと戻り、鏡の前で立ち尽くす。
……疲れた。
変に意識するから疲れるのよ。
真名を預けると決まったのだ。断れないし、どうすることもできない。だったら遠慮する必要なんてない。
――良し!
頑張りますか!
二人納得して真名を預け合うために!
彼を待たせてはいけない。釣り竿と羽織るものを手に私は厩へと向かった。
* * *
釣り竿を持って厩へいくと目を疑った。
馬に跨る北郷一刀の後ろに母様がいた。おまけに密着するように抱きついている。
彼が体を強張らせながら、危なげに馬を操る。
「あっ、キタキタ! 雪蓮こっちよー!」
「こっちよーじゃないわよ。何してんのよ」
「何してって、一刀君に二人乗りの助言をちょっとね」
「二人乗り?」
「さっき言ったでしょう。馬も一緒よ!」
……ちょっと、あれ本気だったの!?
馬が急に嫌がり首を振ったため、二人して体制を崩して悲鳴を上げる。
「もう、雪蓮を落馬させたら一刀君でも許さないわよ!」
「……一刀君?」
「すいません。気をつけます。お義母さん」
「……おかあさん!?」
一日二日で仲良し小好し。何があったのか想像がつかないんだけど。
「えっと、家族でいるときはお義母さんと呼べと孫堅さんが……」
彼が申し訳なさそうに私に言った。
「母様が許してるんだし、別に構わないわよ」
「あらヤキモチ?」
「違うわよ!」
睨むと逆効果だったようだ。大声を出して笑われた。
「それより、雪蓮は早くも一刀君に真名を許して貰ったのね」
「真名?」
「どういうこと? 雪蓮貴女、今、一刀君って言ったじゃない」
「えっ? ……嘘! だって北郷一刀って名乗ってたじゃない! 初対面で真名なんて名乗らないでしょ!?」
「信じらんない。一度ならず、二度までも! 貴女って子はっ本当にどうしようもないく――」
「――気にしないで、孫策さん! 真名みたいなものってだけだから」
それ以上言わせまいと北郷一刀が体を捻って母様の口を塞ぐが、それを容易く振りほどくと母様はため息をついて憤怒した。
「何言ってるの! 例え生まれた場所が違っても、一刀君のお父様やお母様がつけてくれた大切な名前でしょう?」
「それはそうですけど――」
母様が愛刀を抜いて私に向かって投げつけたそれは、足元近くに突き刺った。
やばい。これは洒落にならない。
まさか初対面で真名を名乗っていたなんて。
「一刀君は私の部下を信頼して名乗ってくれたのでしょう?」
だとしたら、私はとんでもない間違いを犯してしまった。
「ち、違います!」
「もう! そこは嘘でも、ハイそうですって言うのよ! 折角、いつも生意気な雪蓮が青い顔してるってのに!」
「…………二人して私を騙したってわけ?」
「んっな訳ないでしょうが。私なら速攻でその首跳ばしてるわよ。一刀君、許して頂戴」
「いえっ、俺が悪いんです。俺の配慮が足りませんでした」
彼が馬から下りて近づいてくると、頭を下げた。
「ごめん、孫策さんには最初に伝えておかなきゃいけないことがあったんだ」
「……何か特殊な事情でも?」
私が問うと、彼は頷いた。
「俺の生まれた国には真名が無いんだ。字もない。姓と名だけ」
驚きである。
「ただ名前の一刀がこちらの真名に近いってだけなんだ。ある程度親しければ下の名前で呼び合ったりもするし、誰に呼ばれても特にこれといって悪いわけじゃないんだ。孫堅さんにも言いましたけど、この国みたいに崇高な、生死に関わるほど重いものじゃない」
「本当なの? ちょっと信じられないんだけど……」
「北郷君が優しくて良かったわね」
いっちいち煩いわねっ。
「だから気を使わないで、名前で呼んでくれたほうが嬉しいかな。孫策さんとはこれから遊びに出掛けるわけだし、気軽に呼んでくれるほうがこっちも助かるし」
「そう。なら一刀って呼ばせてもらうわ。私のことは孫策で構わないから。真名はもう少し待って頂戴」
「無理はしないでね」
「ありがとう」
彼が首を横に振る。
「良い雰囲気じゃない? それじゃぁそろそろ邪魔者は退散するから。あとは若い二人で仲良くやって頂戴」
「ご教授、ありがとうございました!」
「どう致しまして。それじゃ、また後でね。雪蓮も頑張りなさいよ! あの白いのに負けちゃだめよ!」
年頃の二人が一頭の馬に跨り、しかも釣り竿を持って朱雀通りを駆け抜ければ、冷ややかな視線を向けられるのは当然と言えば当然である。
このご時世だというのに、良い御身分ですな、と。
それは宮殿から離れるほど目に見えて増えていく。
洛陽の恋人達はそんな視線を気にも留めずに、甘味を食べながら毎日を謳歌している。これから訪れるであろう現実から目を背けるように……
母様が暇をくれた。真名を預け合うほどに、北郷一刀と信頼関係を築けと。
――無理。絶対無理。仲睦まじく食べ合いこなんてできるわけないわ。父様と母様じゃあるまいし。
甘味屋を通り過ぎ、そんな光景をぼんやりと眺めながら馬鹿なことを考えていると、ずっと無言だった私を気遣ってか、彼が声をかけてきた。
「孫策、大丈夫?」
「えぇ、大丈夫よ。そのまままっすぐあの山に向かって」
「了解!」
今は彼のことを知ることが大事だ。母様に気に入られた北郷一刀に少しばかし興味がある。本当に彼が素敵な人なら、蓮華や小蓮に譲っても良いだろう。
「母様は私と一刀をくっつけようとしているけれど、それについてどう考えているの? 趙子龍はどうしたのよ?」
「孫堅さん。お義母さんには、孫策との関係は仲の良い友人でありたいって伝えてる」
「厚かましいわね貴方っ。まぁ、いいわ。それで母様は納得したの?」
「了承はしてくれたんだけど、納得はしてないと思う。『一刀君を孫家に迎えることこそ、私達孫家の宿願! そのためならば実の娘だって捧げる覚悟よ』って言われた。返答に困ったよ……」
「……私達って、アンタ一人だけでしょうがって言ってやってよ。……本当に呆れるでしょ?」
「そんなことないよ。お義母さんは孫策や、孫権……さん達の幸せを凄く考えてるよ。かなり思い込みが激しいけど……」
彼が突然、母様の物真似を始めた。
「『そっか、あの白いのがいなければ一刀くんは晴れて私の息子……そうよ、いなくなれば良いんだ……ふふふっ……』って、物騒なこと言われたよ。孫堅さんマジヤンデレ。でもそこまで思ってくれてるんだなって、逆に嬉しくもあるよ」
「そ、そう。で、その趙子龍は?」
「趙雲とは戦場で離れ離れになってからそれっきりなんだ。何とか落ち延びて幽州に向かっていたんだけど、その途中で袁家の知り合いに偶然バッタリ遇っちゃってね……」
「それは御愁傷様。運が無かったわね」
彼は首を横に振る。
「でもそのお陰で、俺はこの世界で母親と思える人ができたよ」
「ふーん」
一体どんなやり取りが母様とあったのだろうか。
* * *
川までの道のりはさほど遠くない。馬で駆ければすぐそこだ。
ただ途中、馬を下りて歩かなきゃいけないんだけど……
馬の上ならそれほど気まずくもならない無言も、徒歩だと途端に気まずくなる。
何か話題を振ったほうがいいかしら。
いやいや、ここで私が彼を引っ張ってどうするの。しかし、ここは年上の余裕を……
そうこう考えているうちに、木漏れ日の中を二人並んで歩いていることに気づいた。川のせせらぎが微かに聞こえてくる。
――ま、いいか。
そして私達は川の畔までやってきた。大股で十歩ぐらいの川が目の前に広がる。
「おお、綺麗な所だな」
彼が驚きの声を上げる。気に入ってくれたようだ。
「私が見つけたの。皆には内緒よ」
どこから持ってきたのかと言わんばかりの大きな岩が点在するこの場所は、川の流れが緩やかで水も澄んでいる。キラキラと光る水面の下で、群れを成した魚が優雅に泳いでいるのが見て取れる。
「結構いるなぁ。これならきっと釣れる!」
そう確信する彼を横目に、私は適当な岩へ腰掛け、早速水面に糸を垂らそうとしたのだが……
まだ何もしてないのに、私の前から魚がいなくなった。
「……何の嫌がらせよ」
「何か言った?」
「何も!」
今日も釣れる気がしないわ。
彼は毛鉤のついた糸を持ちながら私の隣まで昇ってくると、じっと待ち続ける私に向かって言った。
「……それって、釣れるの?」
「さぁね。それより貴方の糸、少し長くないかしら?」
「遠くを狙うならこれくらいだろ?」
「……遠く?」
すると彼は立ったまま何度も竿を前後させる。見ていて気持ちくらいに釣り糸がふわりと宙に舞う。
「なっ、何してるの?」
「えっ、釣りだろ?」
唖然とする私を横目に彼は毛鉤を着水させしばらく川に流すと、すぐにまた引き上げて再び竿を前後させて着水させた。いや着水させるというよりも、打ち込むといった方が正しい。まるで狩人のようだ。
「……」
何度目かの打ち込みで、魚が食いついたと思った瞬間、それは油断していた私の顔目掛けて飛んできた。
頬にぶつかり、ぬるりとした感触を残した元凶は、私の前で元気良くその存在感を誇示する。
「……ご、ごめん。大丈夫?」
針を外して、遠くに放り投げてやった。
「ううん、気にしないで♪」
頬を腕で拭いながら考える。
取り敢えず、今のは無し。あんなの反則以外の何ものでもないわ。
釣りとは、そう。釣りとは、毛鉤をただ水面に浮かせて魚が食いつくのをじっと待つものよっ。
「よっと!」
「……むむむっ」
くっ、やりたい。やってみたい!
でも手元の仕掛けでは、彼のように遠くを狙う釣り方はできない。
よって魚が近付いてくるのを、ただじっと待つしかない。
「…………」
が、全然魚が寄りつかない。
「よっ……と!」
私の横で彼が楽しそうに竿を振る。
「……楽しそうね」
「……まぁね」
「…………」
「……楽しそうね」
「……ん?」
空気読みなさいよ……っ!
「もうっ、全然釣れないわ。太公望の魚釣り。ここに極まれり、なーんてね」
「太公望って、釣り人や釣り好きのことを言うんだろ?」
「違うわ。釣りが下手な人を指す言葉よ、もう!」
ついイライラしてしまい、バンバンと水面を叩いてしまう。
しまったと気づいても、もう遅い。
「仕方ないよ。水温が冷たいと魚はじっとしてるからね」
が、彼はその行為を咎めず、逆に私を慰める始末。
――だから今は違う優しさが欲しいんだってば~!
立ち上がって、彼の真似をしてみるが全然遠くに届かない。
そこでやっと彼が気を利かしてくれた。
「やってみる?」
彼を睨みつける。
「さっさと貸しなさい!」
母様の釣り竿を奪い取り――
「とうっ!」
――全力で釣り竿を振り下ろした!
「…………」
軽過ぎて、全然前に飛ばない。
「もう最悪! 何もかもが最悪!」
はっ! 逆ギレしてしまった。
いやっ、まぁ、これくらいしておけば? 面倒な女だと思われて、大抵の男は寄りつかないはず。
これにて一件落着っと思ったら、甘かった。
彼は頗る優しかった。
「どこに投げたい?」
嫌な顔一つせず私の背後に回り込むと、私の手を包み込むように釣り竿を握った。
「えっ!? えっと――。あの辺り……なんだけど……」
反対側にある大きな岩を、握られていない反対の手で指差す。
「ほら、あそこよ。大きな岩の影」
「よしっ! 力抜いて~」
二人して、ぎこちない動きで釣り竿を振り上げては振り下ろす。
毛鉤に羽が生えたようにあらぬ方向に飛ぶ。飛びまくる。
でもそれが楽しかった。声が弾んでしまうくらい。
「ちょっと、こんなので本当に狙った所に飛ぶの?」
「あれっ!? こんなはずじゃなかったんだけど、取り敢えず飛ぶまで頑張る!」
「分かったわ!」
何度も繰り返していくうちに、徐々に一体感が生まれてくる。一つになればなるほど、釣り糸が気持ち好いくらいに宙に舞う。
「良い感じねっ」
何度も狙いを定めながら、少し川の上流へ向かって毛鉤を飛ばす。着水すると毛鉤はゆっくりと流れながら目的の岩へ近付いていく。
「――今っ!」
掛け声と同時に確かな手応え。水面が跳ねると、魚が物凄い速度で私の顔目掛けて飛んできた。
――ペシッ!
「あっ……」
再び頬に鈍い痛みと、ぬるりとした感触が残る。
文句の一つでも言ってやりたくなる。一度ならず二度までもと。でも今は目の前で勢い良く暴れる魚を掲げて、二人で勝鬨を上げようと思う。
「大量、大量~♪」
驚くほど川魚が釣れた。
こんな日が必ずくるって、私は信じていたわっ。
一刀の手助けがあったとしても私が釣り上げたと言えば、皆、目をぎょっとさせて驚くだろう。いつも私を馬鹿にする人達の頬に、ペシペシと現実を叩きつけてやりたい。
丸みを帯びた小さな魚籠の中では、鮮やかな輝きを放つ川魚が澄んだ目でこちらを見ている。
「今からお前達はその身を焼かれ、人間様に食されるのだ。――覚悟せよ♪」
「嬉しそうだな~」
隣を歩く北郷一刀が私に向かって言った。
「釣りに行って、魚が釣れたのよ?」
「そりゃそうか。でも何で一人だと釣れないんだ?」
「さぁ、知らな~い♪ でも二人だったからってのは間違いないわね。きっと私達の相性が良かったからよ」
「相性? う~ん、相性ねぇ……」
――なによぉ~ そこで言い淀んじゃうわけ?
「じゃぁ、あの一体感とか! ……気持ち良かった?」
少し艶っぽく言ってみたら、顔を赤くして怒った。
「何の一体感だよ!」
「――っ!? 酷い! 遊びだったのね!」
「ちょっと!」
街中歩く人達に非難の目を向けられる北郷一刀、ざまぁ~みなさい!
「冗談よ。でも本気だったら私は嬉しいわっ」
その一言に、彼は私から目を背けた。
残念。なんて思わない。
逆に真名を預ける身として一安心である。
――蓮華のお婿さんは、やっぱ誠実な人じゃなきゃ。じゃないとあの子、すぐ実家に戻ってきそうだし。
「何笑ってんだよ」
「別に~?」
帰途に就いた私達は馬を預け、祝杯を上げるために酒場へと向かっていた。そこで釣ってきた魚を焼いて舌鼓を打つのだ。
本来なら釣ったその場で焼いて食べるのが一番なのだが、それだけではやはり物足りない。今回は急だったので竹飯の準備ができなかったし、山の幸を調達するにも時期が悪すぎる。もし彼がずっと私の傍にいるなら、そのときは二人で自然を満喫するのも悪くないだろう。
暖簾を潜り、その手筈を整えてもらうように申しでる。こちらへと席に案内され一品と酒が運ばれてきたところで、私達は杯を掲げた。
「とりあえず、乾杯~!」
くっと酒を飲み込むと、やっと落ち着くことができた。
「はぁ~美味しい♪ そうだ。酔ってしまう前に聞いておきたいんだけど、貴方の目的を教えて」
「目的って……」
「堅っ苦しくて詰まらない話は最初に済ませて、楽しい話をするためよ。制限時間は魚が美味しーく調理されて、運ばれてくるまで。さあ、どうぞ!」
彼は少し考えてそれを受け入れる。
「ん~、一番はやっぱり孫堅さんかな。前に一度、呉に遊びにこいって言われてたし。袁紹の屋敷で偶然出会って、そこでまた誘われたらもう俺には断れなかったよ。用事も意外と早く片付いて都合も良かったしね」
そう言って、彼は笑った。
……呉か。母様、本当に彼のことを気に入ってるのね。
呉とは、母様が江東一帯で起った許昌という人物の反乱を鎮圧したことで、その褒美として県の丞として働く機会を得たとき、民の信頼と支持を集めに集めた(三つの県の県令達に迷惑がられて盥回しにされたと言うと怒る)場所を主に指す。
そこは言わば、我が孫家の基盤を築いた場所。そこへ招待しようと言うのだから、母様の本気具合が伺える。
「本当に遊びにきただけ?」
「人の上に立つ勉強と、これからのために孫堅軍の強さの秘密も知りたいかな」
「そう、偉いわね。でも参考にする人を間違えてるわね」
今はその実力が買われ長沙の太守となった母様だが、太守の枠に捉われず他の土地まで賊退治。『別に悪い事してないわよ?』っと、堂々と越権行為を正当化する人が、人の上に立つ資格があるとは思えない。
咎めた荊州刺史をバッサリと切り捨てたらしいし?
それを聞いたとき、さすがの私でも一族郎党、晒し首かなぁと思ったくらいなんだけど……
お咎めないし。裏から手を回したのかしら……
そうなると、母様は確実にその影響力を荊州全土へと拡大していくのだろう。
……考えるのやめっ、面倒くさっ。
「孫策は夢とかある?」
突然彼から質問がきた。
「えっと、夢、夢ね。勿論あるわよ」
ここは彼を知る良い機会ね。
自分でも笑っちゃうような夢を告げ……そうだ。笑ったら彼を脅かしてやろう。その喉元に剣を突きつけ、貴様は人の夢を笑う愚か者だと罵ってやる。そうすれば、すべてが丸く収まる。
「何?」
彼が興味津々と首を長くする。
「愛した人と一緒になることよ」
「………………」
彼は目を丸くした後、私に向かって微笑む。
「きっと叶えられるよ」
気休め以外の何ものでもない、詰らない台詞だった。
私に向けられるその微笑を、ただ無性に引き裂きたかった。
「知ってる、一刀? 夢には二種類あるの。努力すれば叶う夢と、決して叶わない夢」
「えっ?」
「私の夢はどっちだと思う?」
「それは……」
「私は孫家の姫。母様が太守となった今、私達家族の命はもう自分達だけのものではないわ。その繁栄のためにその身を費やさねばならない」
柄杓で酒を掬おうとするも、すでにそこに酒はなく。いつしか酒甕が空になっていた。
彼が店員に同じ物をと注文する。
……場の空気を悪くしてしまった。
ただ、まだ料理が運ばれていないのが救いか、とも思う。
店員が無言で酒甕を置いていく。
一度仕切り直そう。
「それじゃぁ、次は貴方の夢を聞かせてくれる? 私だけなんて不公平なんだから」
彼はしばらく言うか言わないか迷ってはいたが、腹をくくるように残っていた酒を一気に飲み干し、音を響かせるように杯を置いた。
「……孫堅さんは言ってたよ。娘達の夢と幸せを奪って、何が母親だって」
「――っ」
「でも俺はこう思うんだ。孫堅さんも家族の幸せを考えてこその、平定なんじゃないかなって。皆が幸せじゃないと、幸せにはなれないだろ? 自分達だけ幸せになろうなんて、絶対できっこないんだから」
彼は言った。だから俺の夢は――
「この国から憎しみや悲しみを少しでも減らすこと。そして少しでも皆の笑顔を取り戻すこと」
母様の危ういまでの行動は、私達娘のため、ね……
――そして私は、自分の事しか考えていなかった、か。
「それが俺の夢だよ」
「…………そう、なんだ」
「孫策の想い人が誰なのか気になるけど……」
彼が突然立ち上がると、誓いを立てるように手を上げて大きな声で宣言した。
「孫策が幸せになれるように、俺は頑張ります!」
――イヨッ! 兄ちゃん!
合いの手がどこからか飛んでくると拍手が巻き起こった。
これって、どう考えても告白よね?
でも彼を見ているとそんな風には見えない。つまりこれは告白ではないのだ。
その証拠に彼は手を上げながらその声援に応えていた。
私は湧き起こる悪戯心を抑えきれなかった。
「料理まだですか~っ!」
* * *
うわっ、容赦ねぇ……
と、周囲の客の同情の深さが、彼の落ち込み具合を露わしていた。
「一刀を一刀両断~♪ なーんちゃってって、嘘、嘘。ごめんごめん!」
立ち上がって帰ろうとする彼の横に座って、その腕を引っ張って座らせる。
「だからごめんって、そろそろ機嫌直してよー」
機嫌を損ねてしまった彼を宥め続ける。ちょっと反省。
「それから、何を勘違いしているのか分からないけど、私に想い人なんていないから」
少し落ち着いた彼の手を取って少しだけ身体を許す。
彼の身体が少し硬直するのが分かる。
「魚釣りの上手い、気になる男の子はいますけどね?」
「どんな人?」
「一刀、酔ってる?」
「えっ、まだ酔ってないよ?」
……有り得ないわっ。
ここまで鈍いと、趙子龍もさぞ苦労したでしょうね。
店員が一刀を睨みながら、無言で焼き魚を置いていく。
「……何で俺、睨まれたの?」
「失礼しちゃうわ」
「だよな」
「貴方のことよっ、さぁ食べましょう!」
彼の頬にペチッっと拳を当てて私は箸を握り、器に盛られた魚の身をほぐす。
「皮はパリパリだし、~~っ、中もほくほく~♪」
身を噛みしめれば、ほんのりとした塩味と脂の乗った旨味が口の中全体に広がる。
そして喉を鳴らして酒を飲めばっ!!
「くっ、くっ、……か~~っ♪」
「親父かっ!」
そう言って、彼もその身を口に運び、私と同じように酒を飲んだ。
「か~~っ♪」
彼の肩を叩いて、人差し指を伸ばす。
振り向いた瞬間、無防備な彼の頬に見事に突き刺さった。
「…………。はいはい飲んで飲んで~♪」
空になった彼の杯に酒を注ぐ。
「孫策、近いって――」
「――嫌なの?」
「嫌ッて訳じゃ……」
「ふっふーん♪」
言質取ったわよ~♪
「じゃぁ、嬉しい?」
「……いや、だからっ!」
「そこは嬉しいって言いなさいよ~」
ほぐした身を箸で摘まみ、手を添えて彼の口元へと運ぶ。
「な、何を……?」
「……嬉しいでしょう?」
そして微笑む。
もう笑っちゃうくらい彼の反応が面白い。趙子龍が夢中になるのも分かる気がする。
二人の時間を堪能していると思わぬ邪魔が入った。
「――あっ、裏切り者がいる!」
「ちょっと、文ちゃん!」
何かと思えば、二人の女性が私達と一つ隣の席に座って話しかけてきた。
髪の乱れを防ぐために布を巻いた(それでも乱れている)女が一人。それを宥める綺麗に髪を切り揃えた女が一人。
「猪々子に斗詩じゃないか。どうしてここに!?」
……真名よね。
どうやら一刀の知り合いのようだ。
二人は私を一瞥すると彼に反論する。
「何だよアニキ。仕事終わったアタイ達が、飲みにきちゃダメだってのかよ~」
「いやっ、そんなことは無いよ! お疲れ様。偶然だね」
私の心境を気にすることなく、彼は彼女達に向かって言葉を続ける。
「でも裏切り者は酷くないか? 袁紹さんに、『袁術さんが困ってるからちょっといってきてくださるぅ~』とか言われて、いざ出向いたら出向いたで、袁術と張勲に『んぁ? ……誰じゃお前っ!?』『ってことで、最前戦送りですぅ。良かったですね~』とか言われたんだぞ!」
二人があ~っとを頷く。
「孫堅さんが裏で手を回したっぽいよね。孫堅さんと袁術さん、繋がってたんですね……」
「結局アニキ持って行かれちまったなぁ。身内同士じゃどうしようもないし……」
「仕方ないよね」
「母様が何か粗相したの?」
二人が私の存在を思い出したかのように視線を向けてきた。
「……紹介するよ。こちら孫堅さんの娘さんで、孫策さん」
どうもと挨拶。
二人は文醜と顔良と名乗った。そうか、この二人が袁紹のところの二枚看板か。
「――っで? アニキに新たな女の影が……」
さすがにこの話題は反応せざるを得ない。
「何だよ、新たな――」
「どういうこと?」
彼の言葉を遮って続きを促す。
「白いのだろ? 黒髪だろ? アタイに、斗詩に……短いクルクル。そして赤いの。旅先にもいるんじゃね?」
赤いので指を指された。
「呆れた。よくそれで俺には心に決めた人が、とか言えたものねっ」
彼の頬を突いて、ぐりぐりと抉る。
「いや、ちょっと待って孫策。それは誤解。華琳は友達! 関さんは命の恩人! 当然旅先では知り合いもできた。勿論二人も旅先で出会ったわけで……」
良く言うわ。この調子じゃ、何人泣かせたか分かったもんじゃないわね。
「うわっ、今の聞いた斗詩?」
「うん、聞いた。酷いよね~。私達を十常侍から守っておいて、旅先で何人期待させてるんだか……」
「えっ、何それ!」
「――実はですね!!」
* * *
何でもこの顔良、陛下に媚を売ったと十常侍に勘違いされ、目をつけられていたところに彼がその誤解を見事に解決したらしい。
その手段が……
「宮中で愛を叫ぼう、ねぇ~♪ 一刀は誰の名前を叫んだの?」
「いや、アニキは実況してた。陛下キターッ! またも陛下ァァァッ!」
「集まったの宦官ばっかだったもんね」
――ほんとこの国腐ってる。
「でも最後、アニキの質問に陛下の返しが――」
「――嘘でしょっ! 陛下がいらっしゃったの!?」
「そりゃ十常侍主催だもん」
文醜が箸を握ると、それを自らの口元に添える。
「男として複雑だと思いますが、如何ですか?」
それを私の口元に突き出した。
「――ぶふッ!」
「うわっ!」
咽せた。その勢いで一刀にまでお酒がかかってしまった。
「ご、ごめんなさい。余りにも予想外で……。でもそれって禁句中の禁句じゃないの?」
「アタイも、アニキ終わったーって思ったねっ!」
「事前に陛下にお願いしたに決まってるだろ?」
その台詞とは……
「今日の皆の言霊を、この胸の中に刻もう。ありがとう」
「やはり陛下は違ったーっ!! 深ぁぁぁい! 陛下の愛が深すぎるうぅぅぅ!!」
握りこぶしを作って実況を再現する文醜。
「黄土色の悲鳴が凄かったね」
――この子、相当根に持ってるわねっ。
「で、どう? あれから十常侍の嫌がらせとか?」
「はい、鳴りを潜めました。これも一刀さんのお陰です」
「でも逆に袁紹さんと十常侍の溝を深くしてしまったのが気がかりで……」
「だよなぁ。空気読まずに乱入するもんなー」
「そうですよねぇ……」
辛気臭くなったために、手を叩いて気持ちを切り替えさせる。
「ほらほら~ここはお酒の席よ! 飲みましょう!」
明日も仕事だという二人と別れ、私達は屋敷へと戻った。二人揃って母様に報告に向かう。
「で、どうだったの?」
「楽しい休日を過ごさせていただきました」
「そう。それは良かった。娘の真名、呼んでくれた?」
「いえっ、真名はまだ……」
「まだですって……? あっ、そうか。夜のお楽しみに取ってあるのね?」
「んな訳ないでしょ!」
母様の興味が一刀から離れない。
「どう、北郷君。雪蓮が嫌なら蓮華を紹介するわ。そうね……釣りをすると同じ場所でじっと魚を待ち続けちゃうような子だけど、とても良い子よ。間違っても誰かさんみたいに水面を叩いて迷惑をかけたりしないわ」
――ちょっと、ちょっと!
「あっ、いや!」
「本人の前で、嫌とか言えるわけないでしょ」
「嘘っ、やだ雪蓮。手応えありなの?」
――両手で口を塞いで驚愕されてもね。
「手応えって、何よそれ……」
母様が立ち上がって、破顔しながら彼の手を取る。
「なら北郷君、改めて婿にこない? 雪蓮だったら三食、おやつ、昼寝付きよ! 早期決断が命運を分けるともいうわ。蓮華の場合、この待遇は受けられないものと思いなさい!」
「ちょっと、その言い方だと私が蓮華に劣ってるみたいじゃない! でも私なら絶対嫁に行くわっ!」
「お前が言うなっ、お前が」
「一刀、覚えておきなさいよ。もし私を嫁に迎えるなら、三食、おやつ、昼寝付きが最低条件よ!」
「あははっ、肝に銘じておくよ」
「……脈無しっと。貴女、本当に私の娘なの?」
「――くっ」
「お話はこれでお終い! 考えて置いてね。それじゃ、一刀君はお風呂にいってらっしゃい」
「――はい、失礼しました」
「あっ、雪蓮は少し話があるから。一刀君、雪蓮も後で向かわせるから、待っててあげてね♪」
* * *
「で、どうだった?」
「どうって?」
「……良い男でしょ?」
「そうね。私には勿体ないくらいの優しい人だったわ。認めるけど、蓮華でも良かったんじゃない?」
「馬鹿言わないで。ずっと一緒に旅してた趙子龍ですら一線を越えてないのよ? 受け見の蓮華と一緒になんかしたら、まごまごしているうちに一刀君が祭に食べられちゃうでしょ!」
――ズドッッッ!!
一本の矢が天井に突き刺さった。
「おおっと、すまぬっ堅殿! 手が滑ってしもうた!」
窓の外から祭の声が聞こえると、母様は窓に向かって大声で叫んだ。
「ちょっとー! しっかりしてよ、もう~」
「……今のは聞かなかったことにするわ」
「そうして頂戴。まさか祭が近くにいるとは思わなかったわ。話を戻すわね」
母様が椅子に深く腰掛ける。
「彼の夢の話は聞いた?」
「……えぇ、大きな夢ね。大きすぎて笑っちゃうくらい。でも笑えなかったわ」
「よねぇ。自分達だけが幸せならそれでいいのか。違うわよね。知ってる? 彼の国って刀を持ってると捕まるのよ? それくらい平和な国なの。凄いわよね」
――どこにそんな国があるのよ。
それよりも、驚いたことがある。
「ねぇ、母様。彼のこと、やけに詳しくない?」
「当り前じゃない。義理の母親になるに当たって、彼のことを根掘り葉掘り教えてもらったもの。この国の人間じゃないってこともね。だから字も真名もない。そして何故彼が、私の娘の名前を知っていたのかもね」
最初、母様の言った意味が分からなかった。
「――あの子、きっと天の御使いよ」
* * *
さぁ一刀君がお風呂場で待っているわ!
と送りだされた。とんでもない話だ。天の御使い? 何それ?
管輅という占い師の噂を耳にした母様が、適当に言ってるだけとしか思えない。
理由が、この時代とはかけ離れた価値観を持っているから。
それなら母様も十分天の御使いねっと返してみたら、母様は豪快に笑って話を切り上げた。
あの人の場合、違う価値観よりも、狂ってるって言った方がしっくりくるんだけどね。
「……年頃の娘に、年頃の男と、裸の付き合いさせる親がどこに入るのよ!」
このままじゃ、本当にお嫁に行けなくなるわ。
でも母様の命令は絶対だし、逃げられない。
――溜息が出そう。
脱衣所に到着し、覚悟を決めて服を脱ぎ落とす。
もしかして私、追い込まれてる?
これって、もう後に引けなくなるんじゃ……
手に布を携え、引き戸の前でそんなことを考えていると、勢い良く扉が開かれ、私の前に北郷一刀が立ち塞がった。
背後を気にしながら、まるで何かから逃げ出すような慌てっぷりである。
――どうしたのかしら?
湯に濡れた彼の肌から湯気が立ち昇っていく。そしてとうとう、彼は目の前にいる私の存在に気付いた。
「そ、孫策!?」
目と目が合う。
目を逸らすな。逸らしたら負け、――負けた。好奇心に負けてしまった。
屈強とまではいかなくとも、適度に筋肉の付いた身体に逞しさを感じる。
服越しでは分からなかったであろう彼の姿。
触ったら失礼かしら。怒られるかしら。――でも気になるじゃない。
それに向こうは私の裸を見てるわけだし、それ相応の対価は頂かないと……
ってことで、人差し指で鎖骨の真ん中下当たり、胸筋をそっと押してみた。
……思ってたより、硬い。
さり気無く視線を下に向けると、片手で握っていた布で隠された。
顔を上げると、彼は鼻の下を伸ばしていた。
髪から雫を滴らせながら、私の姿を上から下までしっかり、しっかりとその視界に収めてから……
私の視線に気付いて、さすがに不味いと感じたのだろう。後ろを向いた。
が、すぐに反転。再び目が合った。そして彼は天井を見上げた。
「何をしてるのかしら?」
「いやっ、黄蓋さんが!」
「祭? 祭がどうかしたの?」
「なんじゃ? 策殿も来たのか?」
湯気が邪魔してハッキリと分からないが、真っ裸で立っていた祭を見てさすがに鼻で笑ってしまった。
「祭、ここで何をしているの?」
「風呂に入ったら儒子がおった。それだけじゃが?」
「……さすがに聞いて無かったから驚いてさ。先に上がるね」
そう言って、彼はいそいそと外に出て扉を閉めた。
* * *
「祭、もしかして狙ってるの?」
「ふむ、まさか策殿。……惚れたのか?」
「出会ってたった一日よ? どれだけ私は惚れやすいのよ。ただ後に引けなくなるんじゃないかって、彼を困らせるんじゃないかって思ってるだけ」
祭が笑う。
「策殿、今は自分の事だけを考えなされ」
「馬鹿言わないでよ。私は江東の虎、孫文台の娘よ」
「それを知って、一体何人の男が策殿に手を出そうとするかの……」
「そこは~~……ほらっ、私の魅力で何とかするわよ」
祭は豪快に笑うと私に告げた。
「堅殿も昔同じようなことを言っておったな。結局最後は力付くだったがの」
……むむむ。
「思いっきり飛び込んでみるにかぎると儂は思うが?」
「彼の前で醜態を晒せと言うの?」
「遅かれ早かれ晒すじゃろ」
また笑われた。そして頭に手を置かれた。この歳になってまだ子供扱いされるなんて……
全身に返り血を浴びて冷静さを失った私が、あの状態を隠し通せるわけがない。こうなったら勢いで、いくところまでいくしかない。
「祭、私って卑劣な女ね」
「ノコノコと虎の巣穴に潜り込んできたあの儒子が悪い。それこそ文句など口走れば堅殿が許すはずがない。きっと同意の上じゃろ」
「……それもそっか。ありがとう、祭」
湯から上がり、部屋に戻ると彼は限界に近付いていた。
「眠いなら、先に寝ていれば良かったのに……」
鏡台の前に座り櫛を手に取ると、寝台に腰掛ける彼の姿が映る。鏡の中にいる彼が私に向かって話しかけてくる。
「いや、何だか申し訳無くって」
彼が大きな欠伸を一つして、この現状をどう克服しようかと考えを巡らせていた。
私に宛がわれた部屋には、寝台が一つしかないのだ。
「……ここしかないか」
案の定、彼は冷たい床で寝ようとする。
「それだけは止めて頂戴。私が怒られるわ」
「じゃぁ、どうするんだよ?」
「もう一緒に寝るしかないわ。男なら覚悟を決めなさい」
「ごめん。孫策。迷惑かけて」
振り返って、彼に頭を上げて貰う。
「気にしないで。貴方の夢のために、少しでも協力できるならさせて頂戴」
「孫策……」
彼に見詰められると、何だか落ち着かない。
「雪蓮で、良いわよ」
「……本当に?」
「明日の朝には、一刀から真名で呼ばれることになるわ。なら早いか遅いかの違いよ。それなら今が……」
逃げるように鏡台に向き直っても、その瞳は私の目をじっと見詰めている。
「ほ、ほらっ! か、一刀は先に寝て頂戴。私は寝る前に手紙を書こうと思うから。もう少ししてから寝ることにするわ」
私は机に移動するために立ち上がる。
「うん。それじゃ、おやすみ……雪蓮」
「はい、おやすみなさい、一刀。あっ、裏切ったらどこまでも追い掛けて貴方を殺すから。その心算でいてね♪」
「ははっ、怖いな、雪蓮は。……まるで華琳みたいだ」
よりにも寄って他の女の真名っ――!!
「……誰と、同じですって?」
彼は静かに笑って、曹操っと呟くと眠りについた。
それって友達じゃないわよっ、全く――!!
墨を磨る。
――ゴリゴリゴリゴリゴリッ!
凄まじい勢いで、墨の角が削れていく。
柔らかい墨っ。まぁ、良いわ。
私は筆を取って、まず初めにこう認めた。
『――親愛なる、冥琳へ』
あとがき
お久しぶりです。短編では無く、昇龍伝でまさかの生存報告です。まだまだ書き足りないんですけど、書けば書くほど進まないので、一先ずここで更新とします。
一刀が洛陽に強制送還され、袁家の話が始まるはずだったんですが……えっ、覚えてない?
まあ、誰得の話が始まる予定でした。が、プロットの段階で面白くなかったので、斗詩と十常侍の問題が終わった次のお話からとなりました。……さり気無く、本文で終わらせようという魂胆。
そんでもって、一刀視点じゃなくて雪蓮視点。
孫文台の後継として、その務めを自覚しつつも……えっ、俺の知ってる雪蓮じゃない?
………………そういえば話は変わりますが、孫堅ママはめちゃくちゃ厳しいという話があった気がします。本文ではかなり丸くなってますが、たぶん一刀君がいるからです。猫を被らせても天下一品なわけです。
取り敢えず、恋姫、演技の時代背景など、その当たりの辻褄を合わせつつ、孫呉編を進めていきたいと思います。まだ一日。まだ一日しか経ってないわっ――!!
……それではこの辺で。
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この作品は、真・恋姫†無双の二次創作物です。
作者の勉強不足でおかしなところがあるかもしれませんが、お付き合い頂ければと思います。