No.471713

竜たちの夢4

漸く桃香登場です。


・来週の月曜日から一月程投稿できない可能性が高いです。可能であれば投稿していきますが、ご了承ください。

2012-08-18 00:23:16 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:6858   閲覧ユーザー数:5912

 

 

 一刀と愛紗が益州巴東郡を出発してから、早二年弱の時が経とうとしている。

既に旅を初めてから二度目の冬が明け、眠気を誘う春も終わり、蒸し暑い夏が訪れた中、一刀達は幽州の涿郡涿県に来ていた。

 

青洲東莱郡で太史慈と別れた後、一刀達は兗州と冀州の各県を見て回ったが、特に彼が知る武将とは会えなかった。

冀州、并州と言えば楽進、李典、于禁、程昱などの魏の主要メンバーの出身地の一つだったが、会えなかったのは仕方がない。

 

 日夜蜃気楼達を走らせた為、通常の馬での旅ではありえない速度で、既に幽州の遼東などの北部を回っていた。

一刀としては公孫賛などにも会っておきたかったが、生憎会えなかった。

幽州出身の有名な者と言えば、後は劉備、張飛、張遼くらいである。

 

 

「愛紗、路銀はまだ大丈夫そうか?」

 

「はい、まだ問題ありません」

 

「ならば良い。ここの農村の名は確か楼桑村、だったか?」

 

「はい、そういう名だと聞いております」

 

 現在、一刀達は劉備玄徳の出身地だと言われる楼桑村に到着したのだが、この時代には相応しくない程平和だ。

幽州は北部の異民族の件を除けば、かなり平和なのではなかろうか?

先の青洲と比べると、治安が良過ぎて却って不安になるくらいだ。

 

 今までいくつもの邑や村を見てきはしたが、やはり幽州はどこか落ち着いた何かがある。

北部の異民族とのぶつかり合いが多い遼東辺りではその限りではないが、どこか間延びした空気がやけに落ち着くのだ。

 

 

「さて……どうしたものか。ここでゆっくりするのもどうかと思うしなぁ」

 

「一刀様、覚えていらっしゃいますか? 私が薦めた勢力のことを?」

 

「ああ、劉家だろう?」

 

「その劉の名を持つ方が、ここにもいらっしゃるようなのです。」

 

 愛紗から告げられた言葉に、一刀はここが確かに劉備の故郷であることを確信した。

劉備は恐らくは母親と二人暮らしをしている筈だ。曹操の例を考慮すると、まだ元服はしていないだろうことは容易に予測できる。

 

 

「名は?」

 

「劉備、と言うそうです」

 

「字が無いということはまだ元服してないということか」

 

「はい。現在十二幾何かだそうです」

 

「そうか。では、会っておくか」

 

 一刀の知る限りでは、劉備はかなり強かで人間を扱うのが上手い人物だった筈だが、この世界ではどうであろうか?

どうしようもない愚か者かもしれないし、かなりの切れ者かもしれない。

いや、もしかしたら彼の想像の及ばぬ人間である可能性すらある。

 

 想像し始めればキリがないが、一刀としてはどんな人物かを想像するのは実に楽しかった。

何せこの農村から一旗上げて、孫権や曹操と渡り合ったのだから、伸びに関しては間違いなく一番だ。

 

劉備にあったのは血のみで、曹操には家柄と財力が、孫権には孫堅と孫策が残してくれた人材があった。

最初から恵まれていた曹操と孫権に比べると、劉備は殆ど零から蜀を立ち上げるまでに至ったのだから、大したものだ。

 

 

「あー! 大きなお馬さんだー!」

 

「ん?」

 

 劉備の人柄などを想像していた一刀は、ふと聞こえてきた声に顔を上げた。

どうやら、通常の馬よりも二回り程大きい蜃気楼を珍しいと思った村の子どものようだ。

見た目は十二歳程度であろうか?……濃い浅葱色の瞳と、緋色の髪が特徴的だ。

 

 一刀としては、何故ここまでここの人物はカラフルなのかが非常に疑問で仕方がないが、能々考えれば彼の母校の人間達も大差無かったことに気付き、泣きたくなってきた。

この世界は愚か、元の世界でも自分の方が浮いているのは何かがおかしい。間違っているのは世界の方だ――そう一刀は思うことにした。

 

 

「ねぇねぇ、お兄さん。このお馬さんはなんて言う名前なの?」

 

「この馬の名前は蜃気楼と言うんだ。凄く熱いから、蜃気楼が常に見えるからね」

 

「本当だ! すごーい! 燃えてるみたいで格好良い!!」

 

「蜃気楼、褒められているぞ」

 

 少女がベタベタと触ってくるのに対して、大人しくしている蜃気楼に一刀が苦笑しながら話しかけると、蜃気楼は少しばかり満足そうに鼻を鳴らした。

一刀は最近気づいたのだが、蜃気楼は背中に乗せる者を選ぶこと以外は非常に聞き分けの良い馬だ。

背中に一刀と愛紗以外を乗せるのを渋るものの、どちらかが共に乗ればそれを許容する。

 

 見た目は暴れ馬どころか地獄への送り馬にすら見えるが、背中に乗せる者を選ぶ以外は実に素晴らしい名馬だ。

一刀はここまで見事な馬を知らない。今まで多くの邑で馬を見てきたが、やはり一番は蜃気楼で間違いない。

この馬には限界という概念がまるでないのだ。

 

 

「お兄ちゃんは、旅の人?」

 

「ああ、今日はこの村に泊ろうと思っているんだ」

 

「そうなんだ。でも、ここには宿はないよ?」

 

「それについては心配無用だ。近くの森で野宿する」

 

「一刀様、それだとこの村に泊まるという表現は相応しくありません」

 

「はは、そうだな」

 

 愛紗の指摘通り、森の方で野宿をするならば、この村に泊まるという表現はおかしい。

強行軍故の野宿には慣れている一刀としては自然に出た言葉であったが、確かに変だ。

愛紗の美容を考えるとあまり野宿はしない方が良いのだが、彼女自身は平気なようだった。

竜というものは人間に比べて圧倒的に頑丈なだけに、こういう無理をしてしまうのは考え物かもしれない。

 

 

「困ってるなら、私のお家に来る?」

 

「ありがたいが、あまり迷惑はかけたくないからね。遠慮しておくよ」

 

「お兄ちゃん旅の人なんでしょう? お話聞きたい! ねぇ、来てよー!」

 

「参ったな……どうする、愛紗?」

 

「良いのではありませんか? たまには全部忘れることも大切ですから」

 

 誘いを断った一刀に対して頬を膨らませながら、その足を引っ張ってねだる少女の姿が、無性に愛らしい。

この少女は、何処か思春に似ている。無邪気さもしれないし、他の何かかもしれない。

そんな少女に少しばかり混乱しながらも、一刀は愛紗の意見を聞いてみた。

 

 愛紗ならば野宿で構わないと言うと思ったのだが、意外なことに彼女は少女の意見に賛成だと言った。

その後に告げられた言葉から、愛紗が一刀を案じての決定であったということが分かるが、一刀としてはやはり違和感を拭えない。

どうやら彼に隠している何かがこの少女か、その家にはありそうだ。

 

 

「そうか。なら、お世話になるとしようか」

 

「本当? お話沢山聞かせてくれる?」

 

「そうだな。宿代の代わりになるかは分からないが、話そう」

 

「やった! こっちだよ!」

 

 一刀の返答に無邪気な笑みを浮かべながら、少女は一刀達を先導し始めた。

そんな少女の姿に思わず一刀と愛紗は顔を見合わせ、互いに苦笑した。

まるで、娘の面倒でも見ているような錯覚に襲われたのは一刀だけではなかったようだ。

 

 

「少し待っててね! お母さんに話してくるから!」

 

「ああ。待っているよ。それにしても―――桑の木、か。」

 

 ある程度の距離を進むと少女はある家の前で止まり、一刀達に親に説明をしてくると言って中に入っていった。

一刀は微笑と共に少女を見送ると、彼女の家の前に生えている桑の木を見て、一つの仮説を立てた。

しかし、それは仮説でしかないのだから、違う可能性だって十二分にある。

 

 少しばかり待っていると、扉が開き先程の少女と共に母親らしい女性が出てきた。

こう言っては失礼だが、女性と少女とはあまり似ているようには見えない。恐らく、父親の方に似たのだろう。

もしくは、親戚なのかもしれない。

 

 

「娘より話は聞きました。どうぞ、お入りください」

 

「ご厚意に感謝いたします」

 

「どうぞ!」

 

「お邪魔します」

 

 蜃気楼達の手綱を桑の木に結び付けると、一刀と愛紗は少女達に続いて家の中へと入った。

蜃気楼と空蝉は一応繋いではいるものの、あの二頭は規格外なので簡単に木をへし折って抜け出せるだろう。

特に蜃気楼はずば抜けて賢いので、何かあれば一刀に知らせてくれる筈だ。

 

 一刀達が入った家はこの農村に似つかわしいものだが、少女の母親らしき女性だけは違った。

仕草に妙に気品があるのだ。育ちの良い者特有の動作を所々でするのを、一刀の目ははっきりと捉えている。

先程考えた予想が本当になるかもしれない予感を彼は感じざるを得なかった。

 

 

「今日は宿を貸していただきありがとうございます」

 

「ふふ、お気になさらないでください。人は助け合って生きていくものですから」

 

「自分は姓を北郷、名を一刀と申します。異国から来た故、字も真名も持ちません」

 

「私は姓を司馬、名を懿、字を仲達と申します」

 

「! 司馬というと、司馬家のお方ですか!?」

 

 礼を言って一刀と愛紗が自己紹介を始めると愛紗の姓に女性は驚いた表情をした。

無理も無い。かの司馬家の者がこんな場所に男連れでやって来るなどと、誰が予想できようか。

一刀が異国のものであることには驚かなかったようだが、やはり大陸ではそういうことも多々あるのだろう。

 

 

「はい、司馬家の者でした。二年程前に勘当されてしまったので、今は違いますが」

 

「そうですか。そちらの北郷さんとはどういうご関係で?」

 

「一刀様は私の主でございます。この方は王の器の持ち主であるが故、こうして仕えることを許していただいたのです」

 

「王の器、ですか。ああ、申し遅れましたが、私は分け合って名乗ることができません。ご容赦ください」

 

「構いませんよ。事情は人それぞれですから。それで、その子は?」

 

「この子は私の娘で、姓を劉、名を備と申します」

 

「えへへ」

 

 どうやら愛紗が勘当された理由が一刀であると勘違いしたようだったが、愛紗はそれをやんわりと否定した。

一刀からすれば、自分と愛紗では身分や容姿などを考えると釣り合わないので、その返しは実に見事であった。

そんな彼の考えが表情に出ていたのか、愛紗は少しばかり不満そうな顔をしている。

 

 一刀には彼女が何故そんな表情をするのかは分からなかったが、後で聞けば良いだろうと思い、今は忘れることにした。

それよりも問題は、彼の予想が当たってしまったことだ。

やはりと言うべきか、劉備は女の子だった。この調子だと本当に彼が知る有名な武官文官は皆女性なのかもしれない。

 

 

「劉備、ですか。良い名だ」

 

「えへへ、ありがとう!」

 

「良かったわね、桃香。」

 

「うん!」

 

 劉備と母親のやり取りを見ていると、一刀は不意に目頭が熱くなっていることに気付いた。

どうやら、彼女達の姿を甘家のそれと重ねていたようだ。

思春と思秋の遣り取りにあまりにも似ているせいで、懐かしさが溢れ出してくる。

 

 泣くことは無いが、あまりにもこの光景は一刀にとって愛おしく、辛いものであった。

皆生きているかもしれない。また笑い合えるかもしれない。そう信じたいし、望みたい。

だが、彼にはできない。

 

その望みが叶わなかった時のダメージが大き過ぎるのだ。だから、死んでしまった前提でいなければならない。

元来人間は生きているという希望を持つのだろうが、彼にとってそれは難しい。

甘家に恩返しをしきれなかっただけに、彼の無念は強いのだ。

 

 

「ねぇ、お兄ちゃん! お兄ちゃんは旅をしてたんでしょう?」

 

「ああ、そうだよ」

 

「じゃあ、どんなところに行ったかお話して!」

 

「そうだな。まず俺が行ったのは―――」

 

 

 

 あまりにも懐かし過ぎる感覚に涙が出そうになるのを堪えながら、一刀は劉備に話を始めた。

彼が今まで行った荊州、豫洲、徐州、青洲、兗州、冀州で、彼がどんな人間と出会い、どんな物を見て、どう感じたのか。

 

 劉備は一刀の話を時に笑顔で、時に慌てた表情で、時に怒った表情になって、熱心に聞いてくれる。

そんな彼女の姿に、一刀は益々饒舌になり、気付けば真夜中になるまで話しつづけていることに気付いた。

 

その頃には劉備も眠そうにしていたので、彼女の母親が寝かしつけてくれた。

その間手持無沙汰であった一刀は、愛紗が微笑と共に彼を見守っていることに気付く。

どうやら、彼女には彼がどんな思いで劉備に話をしていたのかが分かっていたようだ。

 

 

「一刀様、ご気分は?」

 

「ああ、大層良いよ。あの子を見ていると、俺が最初に世話になった家の子を思い出してしまってね……ついつい、饒舌になってしまった」

 

「そうですか。それは良かったです。それで――劉備さんのことをどう思います?」

 

「そうだな……あの子もまた、王の器を備えているのは間違いない。あの包容力はまるで大空の如きだ」

 

「ふふ……随分とお気に召されたようですね?」

 

 劉備玄徳は人徳の者だと言われていたが、一刀にもその意味が理解できた。史実ではどうだったかは定かではないが、この世界の劉備はその包容力故に、人徳の劉備と呼ばれるようになるのだろう。

彼女の人柄に義侠を重んじる関羽と張飛が惹かれたのも無理はない。

 

 まだ孫家の者には一人しか出会っていないが、やはり今現在では一刀を一番惹きつけているのは劉備だ。

彼の欠けた部分を彼女ならば埋めてくれそうな、そんな気がするのだ。

勿論、それは彼の勝手な幻影でしかないが、それでも彼女にならば希望を抱けるかもしれない。

 

 思春の代替でしかないのかもしれない。思春と再会した時、彼は劉備を見捨ててしまうかもしれない。

だが、それでも彼は希望を見つけたのだ。もしも思春が死んでしまっていた時、縋る希望を見つけたのだ。

だから、彼は彼女と共に天下を取ろうと思う。

 

 

「娘の我儘に付き合っていただきありがとうございます。お蔭で勉学に励んでくれそうです」

 

「いえ、こちらが勝手にしただけですから。ところで、一つお尋ねしても宜しいですか?」

 

「はい、なんでしょうか?」

 

「では、聞かせて貰います。あの子は――高祖の血を継いでいるのですか?」

 

「!……はい」

 

 劉備の母は、劉備を寝かしつけるとお礼を言いに来たが、それに対してやんわりと自己満足であったことを示すと、一刀は劉備が高祖劉邦の血を継いでいるかを尋ねた。

それに一瞬彼女は体を震わせて答えを渋ったが、彼の真剣な表情についに肯定した。

 

彼女の表情には警戒の色が浮かんでいるが、一刀はその気持ちが良く分かる。

現在漢王朝が衰退をしている中、その血筋かどうかを尋ねるのは、二択の理由しかない。

即ち、担ぎ上げるか、消すかだ。

勿論、一刀はそのどちらでもない。今は、だが。

 

 

「先に言っておきますが、俺は彼女を担ぎ上げる為に来た訳でも、消す為に来たのでもありません。そもそも、その気になれば誰にも気疲れずに消すことなど容易いのですから」

 

「では、いったい何の用でここにいらしたのですか?」

 

「劉邦の血を継ぐ者を見極める為です。そう遠くない未来に、戦乱の時代が来ます。その時、恐らく貴方のお子さんは名乗りを上げる」

 

「……どうして分かるのですか? 今日あったばかりだと言うのに」

 

「彼女が劉邦の子孫であること、そして彼女が劉備であること……それが理由です。貴方も薄々感じているのではありませんか? 彼女の夢が何であるか」

 

 一刀はすぐに気づいた。この世界の劉備は甘い夢を抱いていることに。

彼女はこの世界が優しい世界であることを望んでいる。それがどれだけ困難かを実感できていない。

彼女の夢には穴があり過ぎて、誰かが埋めてやらねばならない。

 

 ならば、一刀がそれになろう。彼女に現実と夢の差異を教えてやろう。

彼女の夢を不可能だと否定しつつも、それに限りなく近いものが実現可能であることを教えてやろう。

桃の木が根付き、花を咲かせる時まで傍に居よう。

 

 

「……貴方はまるで心を読む妖のようですね」

 

「いえ、これは飽く迄俺の勘です。まぁ、勘も当たり過ぎると、ある意味妖かもしれませんが」

 

「それで、私はいったい何をすれば良いのですか?」

 

「話が早くて助かります。あの子は将来立ち上がるでしょうが、このままではただ信念のみで彼女自身は力を持たないことになります。だから、彼女にはしっかりと学んで欲しいのです。」

 

「勉学、ですか。」

 

 一刀が知る限りでは、劉備は実戦経験などは豊富であったものの、学問に関しては孫子すら殆ど知らない状態だった筈だ。

劉備はなんだかんだ野戦に関しては強かったので、そこを伸ばす為にも、一刀としては最低限のことは知っておいて欲しい。

 

彼女を前線に出さないのが最良だが、それでは勘が育たない。

彼女は戦場の重さを感じて、戦場ではどのように人間を動かせば良いのかを知るべきだ。

人心把握に関しては天性のものがあるのだから、それを生かせるように様々な状況に慣らす。

 

 もはやこれではどちらが主なのか分からなくなってしまうが、一刀は出来る限り早く劉備に大成して貰う必要がある。

迅速にこの大陸を平定しなければ、彼の様に誰か大切なものを失ってしまう者が増えてしまうからだ。

血を流すのを防ぐ為に血を流すのは矛盾しているが、次世代、またその次世代と、無駄な争いで失われる命を減らすことは出来る。

 

 偽善と罵られても構わない。結果を出せば、文句は言われない。言わせない

 

 

「彼女には、その志に見合う力を得て欲しいのです。勿論、彼女の限界以上は求めませんが」

 

「分かりました。できるだけのことはします。あの……どうして、貴方はそこまでこの子のことを考えてくださるのですか?」

 

「……いくつか理由はありますが、一番大きいのは昔守れなかった子に似ているから、です。要は、俺のただの自己満足です」

 

「ああ……貴方はお優しいのですね。それはただの自己満足ではなく、誰かを幸せにできる自己満足だと、私は思います」

 

「っ……そうあることを願います。時間も遅いので、今日はもう寝ましょう」

 

 劉備の母親の優しい笑顔に、一刀は胸が締め付けられるような痛みを感じた。彼には、彼女達の微笑みは眩し過ぎた。

彼は優しくない。もしかしたらこの世界の劉備は戦乱に巻き込まれないかもしれないのに、彼はそうさせないのだから。

 

 北郷一刀は劉備を思春の代わりにしようとしている――その事実が彼を責める。

決して劉備は思春にはなれないし、なりはしない。彼女は彼女であって、思春は思春なのだから。

一刀は逆鱗を上書きしようとしている。誰よりも守りたいものを、思春から劉備へと変えようとしている。

 

 それは彼の心を今までの様に保つ為には仕方のないことなのかもしれない。必然なのかもしれない。

だが、それは同時に彼の心に傷をつける。裏切りを許せない自分が彼の中には確かに居るのだ。

思春との約束を破ってしまって良い筈は無い。死ぬまで操を立てるつもりでいなければならない。

 

 

「そうですね。それではおやすみなさいませ」

 

「おやすみなさい」

 

「おやすみなさいませ」

 

 

 一刀は悩む。どんなに竜が人間よりも圧倒的に強くて、非情になれる存在だとしても、大切なものは大切なのだ。

その大切なものを上書きしてしまって良い筈が無い。思春はまだ生きている筈なのに、忘れようとして良い筈が無い。

 

 だから、彼は逆鱗に関してはこのまま変えないことにした。思春と再会できた時、彼女が彼を拒絶するならば、逆鱗を上書きする。

十二分に有り得る可能性であり、だがそうでないことを彼は望む。

思春には生きて居て欲しいし、彼を受け入れてくれるのが望ましい。そう望みたいが、願うだけに留めざるを得ない。

 

 この世界は歪だ。彼が歪にしてしまったのか、それとも元々歪だったのかは分からないが、何かがおかしいのだ。

彼が良く知る武官文官が女性であることもそうだが、その年齢などもおかしい。

歪みだらけのこの世界で不用意に希望を抱くのは自殺行為だ。しかし、そうしたいのも事実。

 

 

「……はぁ」

 

 痛みを忘れてしまうのは上に立つ者としては良くないことだ。

上に立つからには、痛みを忘れず、しかしそれに負けない精神力が必要となる。

彼にもそれが必要だ。この苦しみは背負い続けなければならない。

痛みを忘れることがあってはならないのだ。

 

 一刀には、痛みに慣れることはできても、忘れることはできなかった。そうしたくなかった。

この苦しみは彼が彼である証だ。竜も人間も関係ない、北郷一刀という一つの存在である証なのだ。

だから、忘れない。忘れてはいけない。

 

 何処に行くかも分からない彼が、唯一得ている確かなものなのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「虎穴に入らずんば虎児を得ず」

 

「それってどういう意味なの?」

 

「目的を達成する為には危険なことを覚悟しろ、という意味だよ。劉備もお母さんに黙って遊ぶ為には、怒られるという危険を覚悟しないといけないだろう?」

 

「う、うん」

 

 翌日、一刀は朝から劉備の話し相手をしていた。丁度彼の国での諺の話になると、劉備はキョドりながら彼女の母親の方を見た。

どうやら本当に親に黙って遊びに行ったことがあるようだ。一刀からすればあって然るべきだが。

 

 これから先のことを考えるとあまり長居はできないので、一刀としては今は劉備と親しくなり過ぎるのは避けたかった。

劉備と触れ合うと改めて感じることだが、彼女が一刀に与える安らぎは思春に勝るとも劣らない。

 

 彼はあまり迷いたくないが、ここに長居すれば迷ってしまう。それは避けたかった。

北郷一刀は迷い続ける訳にはいかないのだ。頭が迷えば、下も迷ってしまう。

彼の迷いは愛紗に伝わり、彼女を悩ませるだけだ。

 

 

「ねぇねぇ、肩車して?」

 

「ああ、良いよ。ほら」

 

「わー! 高い高い!」

 

 肩車をせがむ劉備に苦笑しながらも、一刀は彼女を肩車してやった。この二年で更に身長が伸びた為、十二少しの劉備からすれば、絶景であろう。

旅の途中での鍛錬の成果もあって全身にはしっかり筋肉がついている為、かなり体格は良い筈だ。

 

 一刀の筋肉は実戦で使うものが主に発達しているが、これに関しては彼が散々愛紗と実戦形式の訓練を行っていることと、山賊などを狩っている為だ。

こういう言い方は悪いが、一刀にとって彼らは後に多くの命を奪うのを躊躇わない為の練習台でしかない。

 

 愛紗との実戦形式の訓練も、同等の条件では一刀の勝ちが確定してしまう為、現在は無手などで行っている。

いかなる状態でも戦場では戦わねばならない為、あらゆる状況下で愛紗に勝つことを目標としている訳だ。

愛紗程の武人を相手にしてそういう訓練を行えば、誰かに後れを取ることはない。

それ程に、愛紗の武は抜きんでている。

 

 

「お兄ちゃんが見ている世界ってこんなに広いんだね!」

 

「ああ、劉備もいずれ同じ景色を見ることになるさ」

 

「そうかな? 私もお兄ちゃんみたいになれるかな?」

 

「っ……ああ、きっとなれるさ」

 

 それは、あまりにも甘い果実だ。彼女は一刀と同じにはなれないし、彼のようにもなれない。

ここは頷くべきではないところだ。だが、一刀は頷いてしまった。

子どもというものは、大人が思っているよりも多くを覚えていることを考慮せずに。

幼い頃の些細な事柄が、後の人生を大きく狂わせることを考慮せずに。

 

 しかし、彼に罪は無い。彼がその甘い果実を無意識にぶら下げずとも、いずれ劉備という人間は同じ道を辿るのだから。

ただ、この世界では劉備がそれを意識するのがほんの数年早かっただけの違いだ。

この違いが、後に大きな前進であったことを彼は知るが、それは今ではない。

 

 

「お兄ちゃん、このまま外に行こう!」

 

「仕方ないな……頭をぶつけないように気を付けるんだぞ」

 

「うん!」

 

 肩車をされてはしゃいでいる劉備が外に出ることを望んだので、一刀はちらりと彼女の母の方を見遣って、了承したのを確認すると外に向かった。

扉を開けると、少しばかり眩しさを覚える。やはり、朝日と言うものは素晴らしい。

一刀は自分の頬が緩むのを感じながらも、そのまま歩を進めるのだった。

 

 

「あー! 桃香ちゃん知らないお兄ちゃんに肩車してもらってるー!」

 

「本当だー! 良いなー!」

 

「えへへ……ここは私の特等席だよ!」

 

「お兄ちゃん、私もー!」

 

「僕もー!」

 

「おいおい……見ず知らずの俺にいきなり頼むかな」

 

 劉備を肩車したまま歩いていると、彼女と同世代の子ども達が一刀の周りに寄って来た。

どうしてこうも、この世界の子ども達は人懐っこいのだろうか?彼の世界ではこうはいかない。

欲も悪くも昔の世界だということか。

 

 一刀としては別に遊んでやるのは構わないのだが、あまりここに馴染み過ぎるのは良くない。

馴染み過ぎてしまうと、離れられなくなる。彼はまだ何処かに落ち着くべきではない。

今は未だ彷徨うべきなのだ。

 

 

「分かった分かった。順番な」

 

「えー、お兄ちゃんの裏切りものー」

 

「「「やったー!」」」

 

 上から一刀の顔を覗き込み、頬を膨らませながら文句を言う劉備の姿は本当に愛らしい。

ここに来る前は、ここまでのものとは思いもしなかっただけに、一刀は嬉しくもあったが悲しくもあった。

彼はここに長居できないし、してはいけない。

 

 しかし、彼は内心ここで彼女の行く末を見守りたいとも思っているのだ。

人の心は謎だ。それこそ自分でも制御できない程に、迷宮のように入り組んでいる。

あまりにも複雑な心は、自分自身だけでは制御しきれないことも多々あるもので、だからこそ人は助け合って生きていくのだ。

 

 

では、竜は?

 

 一刀には確かに愛紗が居る。だが、本当に彼が彼女にとっての救いになっているかは分からないし、その逆もまた然りだ。

愛紗は飽く迄彼にとってこれ以上下に行かない為のストッパーであり、決して彼女は彼にこれ程の安らぎを与えてはくれない。

ただ、一人ではないという実感を与えてくれるだけだ。

 

 それだけでも十二分に有難いが、劉備はそれ以上のものを彼にくれる。

 

 

「そら」

 

「うわー! 高い高い!」

 

「次は私―!」

 

「僕だよ!」

 

「むう~、お兄ちゃんもう一度!」

 

 子ども達と遊びながらも、一刀は二つの思考を張り巡らせる。一つは裏表なく彼らと遊ぶ為の思考。

もう一つは――彼の今後をどうするか、というものだ。

膨れっ面で再び肩車をせがむ劉備の頭を撫でながらも、彼はその思考を止めない。

 

 この二年の間、彼は愛紗に甘え過ぎた。そろそろ彼女と向き合うべきではないのだろうか。

北郷一刀という竜に付き従うことを生きる意味とする、何処にも行けなかった竜に向き合ってやるべきではないか。

彼だけの為に彷徨う竜にしてやる――そう一刀は豪語したのだ。

彼は約束を違える気はないし、もし違えたのならば、主失格だ。

 

 

「さて、次は誰だ?」

 

「私!」

 

「僕!」

 

「違うもん! 私!」

 

「劉備は後でまた肩車してあげるから、我慢しなさい」

 

 

 色々と思うことはあるものの、一刀は取りあえず子ども達と遊んでやることに専念することにした。

今ここに居る子ども達が求めているのは、北郷一刀ではなく、遊んでくれる優しい兄貴分なのだから。

だから、この子ども達の前で彼が北郷一刀である必要はない。

 

 

 今、この瞬間だけ、彼は己が竜であることを忘れることができるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

子ども達の相手をした後、一刀は愛紗を連れて森へと向かった。無償で泊めて貰うのは悪いので、いくつか仕事をしようと思ったからだ。

一刀と愛紗の目的は薪だ。薪を大量に作って、それを村に安く売ることで得た金を宿代として渡そうと考えている訳だ。

 

 一刀と愛紗ならば、短時間で大量の薪を作れるので、簡単な仕事だ。特に一刀は氣を使って刃を形成できるので、道具など要らない。

青洲で賊を殲滅した時と比べれば、氣の練度は格段に向上しており、今の一刀ならばほぼ自由自在な形のものを形成できる。

 

 無手であろうとも瞬時に氣による武器形成が可能なのは実に良いことで、相手の油断も誘える。

相手が氣の使い手であった場合はそうもいかないが、それでも一刀は後れを取るつもりはない。

 

 

「なぁ、愛紗。いくつか聞きたいことがあるんだが、良いか?」

 

「はい、なんでしょうか?」

 

「愛紗は、俺と会って良かったと思うか? 俺は本当に、愛紗の救いになれているのか? 正直に答えて欲しい」

 

「一刀様――何度言われようとも、私の答えは変わりません。一刀様の存在そのものが私にとっての救いなのです。貴方に出会えなかったならば、私は今こうして生きていなかったでしょう」

 

「そうか―――なら、良いんだ」

 

 手頃な木を切り倒して、適度な大きさに分解していく合間に一刀は愛紗に疑問をぶつけるが、それに返ってくる答えはいつもと同じだ。

一刀にはそれは嘘ではないことは分かるし、それを考慮した上での質問だったのだ。

彼女はとても真っ直ぐで、忠義に厚い。

 

 一刀にこの二年間しっかりとついて来てくれた上に、何度も彼に助言をしてくれた。

竜としての自分と人間としての自分の齟齬に苦しみながらも、一刀がここまで来れたのは彼女のお蔭だ。

常に陰ながらの支えではあったが、やはり感謝せずにはいられない。

 

 そんな彼女が本当に自分を必要としてくれていたのならば、彼にとってそれ程嬉しいことはない。

愛紗には感謝してもしきれない程支えて貰ったし、今後も支えて欲しい。

だから、一刀は言うのだ。感謝を込めて、愛紗に尋ねるのだ。

 

 

「愛紗、君と俺が出会ってもう二年経つが……何かお礼をしたい。俺にできることなら、何でも言ってくれ」

 

「……一刀様、そのお言葉は真ですか?」

 

「ああ、本当だ。ただ、俺に可能な範囲で頼む」

 

「では、一刀様の御寵愛を承りたく思います」

 

「――え?」

 

 愛紗に今までの感謝を込めて、何が欲しいか尋ねた一刀は、彼女の答えに固まった。

寵愛というのは、皇帝などが妃などを囲うことを意味する筈だ。

彼は聞き間違ったのではないかという錯覚すら覚えてしまい、もう一度聞き直すことにした。

 

 

「済まない。もう一度頼む」

 

「ご寵愛を承りたく思っております」

 

「あー……その寵愛っていうのは、そういう関係ということで良いのか?」

 

「一刀様の御考えの通りで宜しいかと」

 

「そうか。しかし――俺で良いのか?」

 

「今更何を仰るのですか。以前申し上げた筈です。不完全な竜は完全な竜を求める、と」

 

 確かに一刀は以前愛紗がそう言うのを聞いたし、分かっているつもりで居た。

だが、分かっていなかった。求める、という言葉の意味を彼は理解していなかったのだ。

愛紗は彼に己の主であることを、二重の意味で求めていたということになる。

 

 北郷一刀に付き従う家臣だけではなく、彼に隷属することすらも求めているとは、普通ならば気付かない。

愛紗は二重の意味で一刀に主であって欲しいということは分かったが、それでも一刀には抵抗があった。

元々そういう経験が無いのだから当然の反応だ。

 

 

「……それは、俺が竜でなければその限りではない、という意味で良いのか?」

 

「いえ、そうではありません。正確には貴方が北郷一刀だから、です」

 

「俺が北郷一刀だから?……どういう意味だ?」

 

「ふふ、いずれ分かります。一刀様は聡明ですから」

 

 一刀は愛紗の言葉の真意を尋ねてみたものの、意味深な回答が返ってきただけだった。

彼が北郷一刀であることは明白だが、それがどうすれば愛紗が執着する理由になるのか、彼には分からなかった。

彼には彼女の真意を掴みかねるが、いずれ分かるという言葉は恐らく本当なのだろう。

 

もしかすれば、一刀は過去に愛紗と会ったことがあるのかもしれないが、過去に司馬懿仲達に会ったことはない。

元の世界でも、彼女と出会ったことは無い。出会っていたならば、忘れる筈は無いのだから。

 

 

「そうか。なら、その時まで待つことにしよう。愛紗の願いに関しては――考えておく」

 

「ふふ……ありがとうございます」

 

 艶美な笑みを見せる愛紗にドキリとしながらも、一刀は薪割りを続けていく。

既に彼らの周りには大量の薪が積み重なっていた。

一刀も愛紗も武人としては最高峰の武を誇る為、この程度の作業は遊んでいるようなものだ。

 

 一刀が氣の刃で薪を切っていくと、あっという間に薪の山ができていく。

氣の扱いは難しいが、極めれば日本刀のような切れ味を持った刃すら生成できる。

日本刀は打ち合いには向かないが、氣の刃ならば刃こぼれなどは無視して扱えるので、実質氣の刃の方が優秀なのは間違いない。

 

 

「ああ、そうだ。一刀様、ここにはいつまで滞在されるおつもりですか?」

 

「明日ここを出る。予定通り并州に行き、司隷を抜けて雍州、涼州に向かう」

 

「御意。しかし、宜しいのですか? 一刀様はここを大層起きに召したようですが」

 

「微温湯に浸かるにはまだ早過ぎる。今はより多くを吸収すべき時期だ」

 

「微温湯、ですか……」

 

 確かにこの村に居るのは心地よいが、一刀が求めているのはそれではない。

この村の光景はある意味彼にとっての理想ではあるが、そこに彼の姿は必要ない。

皆が笑っていてくれる世界を作る為には、血反吐を吐くような下準備が必要なのだ。

 

理想だけを掲げるのは簡単だが、その為の段階を示せなければ、皆はついてこない。

ゴールだけを見るのは簡単だが、そこまでどのように進んでいくのかを示さねば、人はついてこない。

恐らく劉備にはまだそれが分からない筈だ。だから、その部分を彼が埋める。

 

この大陸の全貌を確認することで、彼は劉備の示す理想への道を示す。要は、具体案をしっかりと形にするのだ。

理想は劉備がこれでもかという程示してくれる。その甘い果実に噛り付く人間は少なくない筈だ。

一刀は、その果実を毒ではないものへと変えていく。理想が現実にならないことで人々が絶望しないように。

 

 

「愛紗。俺は、優しいかな?」

 

「はい、お優しいです。私が一番それを知っています」

 

「そうか。なぁ、知っているか? 悪役というものは、優しい者にしかできないんだ」

 

「っ……一刀様」

 

「言うな。俺だってしたくはない」

 

 愛紗は一刀の真意を理解したのか、諌めるように彼の名を呼ぶが、彼はそれにため息をしながら返す。

頭である劉備は非情にはなりきれない。ならば、彼がその代わりに暗い部分を背負う必要がある。

彼女が一旗揚げるまではまだ八年程あるが、不安要素は今から潰しておくに限る。

 

 幸い、愛紗はそういったことに関しては口を尖らせるものの、批判はしない。

彼女も分かっているのだ。清濁併せ飲まなければ、いずれ潰されてしまうことを。

この世界の劉備が強かになるのはかなり難しい。なればこそ、彼らがその代わりに汚れを背負う。

 

 蜀の衰退の原因は、末期の人材不足による諸葛亮孔明への内政軍事の一極集中化だ。

龐統が生きていれば軍事は任せて、孔明は内政に集中できた。他にも法正や徐庶などを失わなければ、更に孔明の負担は軽減する。

その為には歴史を捻じ曲げることになるが、一刀はその程度ならば歪めて見せるつもりだ。

 

 

「誰かがやらねばならないのならば、最初に気付いた者がする。それだけのことさ」

 

「では、微力ながらも私もご協力します。一刀様だけに背負わせはしません」

 

「――ありがとう」

 

 一刀は魏で言う夏候惇のような鬼将軍でなければならないが、同時に孔明のように内政を充実させる参謀でもあらねばならない。

彼は内政と軍事の双方に携わり、蜀の基盤を強固にする必要があるが、その中枢には立てない。

後継を育てる為には、最初からしっかりと教育しておく必要があるからだ。

 

 最初に体制を整える際にも、それを身近で誰か次世代に見せておく必要がある。

次世代の教育、特に政治や軍事を実践させる教育が疎かだったのもまた、蜀が滅んだ理由だ。

机上の勉学ばかりできても、現場で何もできなければただの役立たずでしかない。

 

理論だけに長けた人材は、学校の方に回せば良い。どんなに政治では無能でも、いくらでも使い道はあるのだ。

この世に不必要なものなどない――それは確かに正しい。

残酷な手段でしか、それは示されないが、確かに一刀はそれが正しいことを知っている。

 

 

「俺は、かなりの憎まれ役を演じることになる。だが、そうすることであの子達が成長できるのなら、それで良いさ」

 

「この愛紗だけは、如何に他者が一刀様を誤解されようともその御心と共にあります」

 

「ありがとう、愛紗。これからも、宜しく頼む」

 

「御意!!」

 

 北郷一刀は竜だ。それ故に、人間に理解されることはない。恐れられることはあれど、感謝されることはない。

彼を欲する者よりも、排除したい者の方が圧倒的に多いのは容易に想像できる。

だから、北郷一刀は排除されても良い存在でなければならない。

 

 彼は劉備という風車を回す為の台風となるが、彼が居なくなった時劉備に立ち止まられては困る。

彼の代わりはいくらでも居る――そういう状態に持って行く。

だから、北郷一刀は誰よりも聡明で、圧倒的であらねばならない。

 

 彼を理解してくれる者は一人で良い。愛紗という彼だけの為に彷徨う竜さえ居れば良い。

彼は、己の役目が終わった時天に帰るのだから、それだけで良い。

北郷一刀は、この時代に居てはならない存在なのだから、それで良いのだ。

 

 

―――本物の竜は、人間には必要ない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お世話になりました」

 

「また会える日を楽しみにしています」

 

「お兄ちゃん、またいつか会いに来てね!」

 

「ああ、いつか会いに行くさ。必ず、ね」

 

 翌日の早朝、一刀と愛紗は劉備とその母に見送られていた。劉備は名残惜しそうにしているが、一刀はそう長居をしていられなかった。

いつか必ず会いに行く――それは事実だ。彼女が力を望んだ時、彼は彼女に会いに行く。

 

 

「約束だよ? お兄ちゃん」

 

「ああ、約束だ」

 

「私、待ってるからね! また沢山お話聞かせてね!」

 

「勿論だ!」

 

「それじゃあねー!!」

 

 大きく手を振りながら見送ってくれる劉備に手を振りながら返すと、一刀は前を向いた。

これから彼は様々な障害にぶつかることになるが、それは全てあの笑顔を守る為だ。

思春達のことは守れなかった。だが、今度こそは守りたい。

 

 小さくなっていく劉備達の姿がこの村との別れを物語っている。後四つの郡を回った後、彼らは并州に入る。

そこからは暫くの間、あの暖かさに触れることはできないし、一刀にはそのつもりも無かった。

 

 

「……一刀様、少し宜しいでしょうか?」

 

「どうした、愛紗?」

 

「以前お話頂いた天下三分の計についてなのですが――あれは、変更できませんか?」

 

「変更、か。この前話した時も渋っていたな。そうだな……問題点を言ってくれ」

 

 以前一刀は愛紗に天下三分の計について語ったのだが、その時も彼女は大分難色を示していた。

三国の力が拮抗するようにし、尚且つ頭の部分の交流をしていればどうにかなるものではないようだ。

一刀も問題点は多いと感じるものの、歴史を変えるのは拙いと思っていたのだが……愛紗の意見次第では考えた方が良いかもしれない。

 

 

「民に関しては問題ありません。彼らには、君主が誰であるかよりも、平和であることが大切なのですから」

 

「そうだな。俺だってそうだ。しかし――武官文官は違う、と?」

 

「その通りでございます。主が天下を取ると思い付き従ったのに、三国の拮抗で終わりを迎えるのはあまりにも無念――そう思う輩は必ず出てきます」

 

「そうだな。だが、それだけではないだろう?」

 

「はい。中には己で統一を、と思う輩も出て来る筈です。それが相当数になっただけでも脅威ですが、その間に五胡の者達が一斉に攻めて来くれば――再び戦乱の時代に逆戻りです」

 

 確かに愛紗の言う通り、天下三分の計には問題がある。史実でも結局は綻びが生じてしまったのだから、当然ではあるが。

まず蜀、魏、呉の三国が共存する為にはそれを薦める者が三国全てに居なければならない。

更に言えば、三国を纏める者も必要になる。

 

 しかし、そうするならばもう三国を纏めてしまった方が早い。統一した方が、確実に混乱は少なくて済む。

統一した上で、各地域を各々の頭に任せれば、天下三分の計を疑似的に行うことも可能だ。

実際の権力は中央に集中することになるが、仕方がない。

 

 

「愛紗、統一と天下三分の計は、どちらが優れている?」

 

「断然統一です。一刀様には、その力があるのですから」

 

「そうか。では―――俺には五胡を滅ぼす力はあるか?」

 

 

 

 

 

 

 

「……一刀様」

 

「その沈黙は肯定と受け取るぞ。天下三分を五胡が揺るがすならば、根絶やしにする。それこそ全員、な」

 

 

 愛紗はただ絶句するしかなかった。

五胡、つまりは中国に侵入してくる匈奴・鮮卑・羯・氐・羌の5つの非漢民族を、一刀は滅ぼそうと言うのだ。

確かに、彼女の主にはそれだけの力がある。

竜である彼は、未だ成熟していないものの既にそれを行えるだけの暴力を備えている。

 

 しかし、そんなことをして心を保っていられる程非情ではない。そんなことをすれば、心が壊れてしまう。

より純粋なる竜へと近づく為にはそれも必要なことだが、彼女は一刀には人間らしさを失わずに居て欲しかった。

 

 彼女が――愛紗が愛した男は、愛している男は、そのようなことをできるひとではなかったし、これからもそうであって欲しい。

それが彼女の我儘であることは分かり切っているし、彼がそうしようと考える原因を作ったのは彼女だ。

しかし、それでも彼女は一刀にそのようなことを考えて欲しくなかった。

 

 

「いくら一刀様でも、総勢百万を超える者達を絶滅させることは不可能でしょう」

 

「確かにそうだな。しかし、絶滅させる必要はない。寧ろ恐怖で壊れた者を生かして返す方が、効率は良いだろう?」

 

「確かにそうですが、それは――」

 

「我が戦が求めるは、後世の名誉ではなく後世の平和なり。つまりは、そういうことだ」

 

 愛紗は分かっている。一刀はこう言っているが、五胡を滅ぼすつもりはないと。

彼らとて人間なのだ。話し合いができない相手ではない。彼はそれを試すつもりで居るようだ。

もしも話し合った上で、それでも平行線を辿るのならば――竜に滅ぼされるだけだ。

 

 北郷一刀という竜を見せつけ、恐怖で以て侵略によって得るものよりも失うものが多いことを知らしめるのだ。

その行いは百年の恐怖を五胡の者達に知らしめ、忘れたならば再びその牙で思い出させるだろう。

 

 愛紗の言う通り、一刀には五胡の者達を全滅させることはできないが、限りなくそれに近い状態まで持って行くことは不可能ではない。

竜は人間を容易く発狂させることができる存在なのだ。それは伝染していき、やがて五胡を確かに壊滅させるだろう。

全滅はしないが、その形は保てなくなる。国の形も、人の形も。

 

 

「一刀様。貴方は―――本当に、竜なのですね。竜になり切れぬ私とは違う、完全な竜なのですね」

 

 

 愛紗は見誤っていた。一刀は竜になり切れないだろうと、心の何処かで思っていたのだ。

だが、現実は違った。彼は竜になり切っている。出来損ないの愛紗など足元にも及ばない、完全なる竜へと成長し始めている。

血と共に吐かれる鱗は未だに大きくなっている。彼の纏う氣は既に、万人を超えている。

 

 彼が元々持っていた資質なのか、北郷一刀は愛紗が思っている以上に強く、優しい。

その優しさは、彼女からすればあの劉備も、曹操も、孫家の者達も、簡単に飲み込む程のものに思える。

彼は悪役になることも辞さず、ただただ平和を主としている。

 

 だからこそ、愛紗は強くあらねばならない。彼だけに背負わせずに、共にその重荷を背負いたい。

彼は過去のどの彼とも違う、甘さを完全に捨て、本当の優しさを得た北郷一刀なのだ。

彼女が恐れた別離などあり得ない、完全なる王であり、彼女の主なのだ。

 

 

 

「ああ、俺は竜だよ。愛紗が望んだ本物の―――化け物だ」

 

 

 

 

 そう言いながら微笑む一刀の姿は、愛紗が知るどの彼よりも美しく、気高かった。

 

 

 

 

 

 

 


 
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