No.466291

【C82】黒子のバスケ「secret teacher」本文サンプル

アキさん

「何故俺は返事をする前に人事を尽くさなかったのだ」――C82新刊の、黒子のバスケ緑間×黒子本、本文サンプルです。緑→←黒な二人。ドタバタ+ちょっぴりラブ、なコメディ。途中、友人位置として高尾が登場致します。

2012-08-07 00:14:49 投稿 / 全2ページ    総閲覧数:4983   閲覧ユーザー数:4959

   1

 

 

 

 そもそも事の発端は、秀徳高校バスケ部監督である中谷仁亮だった。

 

 

 高校生になって初めて迎える夏休みも中盤に差し掛かった、八月のとある日。

 おは朝のお天気キャスターが熱中症に注意と言っていたとおり、その日も真夏の太陽が強い陽差しを容赦なく体育館の屋根を照りつけ、伝統ある建物とは物はいいようの、古めかしい校舎を存分に熱していた。

 じめっとした湿度の高い空気のなか、バッシュのスキール音とボールがゴールネットをくぐる音、気合いの入った声が響く体育館の室温は全部の扉を開放して尚かなり高くなっていたが、秀徳バスケ部員達の熱気は外気のそれ以上だ。

 夏の合宿を経て更に気合いが入ったようだが、それも無理らしからぬことだった。 

 辛うじてウィンターカップ予選リーグの出場権は確保したものの、インターハイは予選リーグ敗退という、古豪と呼ばれる強豪校にあるまじき戦績を飾り、秀徳高校のインターハイは終わりを告げたのだから。

 雪辱と後悔を味わった秀徳部員達はリベンジを誓い、次なる目標であるウィンターカップに向けて誰もが練習に精を出していた。

 そのうえ、夏合宿ではその倒すべき相手である誠凛と宿舎が同じで、合同練習があったのも皆に火を点けた要因だった。

 無論、秀徳のエースたる存在、キセキの世代の看板を背負った緑間真太郎も例外ではない。

 誠凛との試合に負けて以降、シュート練の本数を更に増やし、自ら基礎体力の向上メニューを作ってそれを実践する毎日だった。

 あまりにハードな練習内容に、チームメイトである高尾からは「真ちゃんマジ無理すんなよ」と、普段の軽いノリではなくかなり真剣に諭された。

 が、緑間は練習の手を緩めることを良しとしなかった。

 誠凛との試合後、高尾と寄ったお好み焼き屋で偶然同席することになった黒子と交わした言葉。

 ――緑間君。また、やりましょう――当然だ。次は、勝つ――。

 意地やプライドがなかったわけではない。

 だがあの言葉が『誠凛ともう一度公式試合で当たりたい』という気持ちが素直に自然と口から出たのもまた事実だった。

 かつてのチームメイトに宣言したそれを有言実行とする為に。もう一度試合をしたときに、誠凛に――黒子に勝ち、自分のバスケを証明する為に。

 今日も基礎体力の向上の為に走り込みをし、定められた部活動内での練習をこなしたその後に、ただひたすらに、自分で決めた数のボールをゴールへと放るのだ。

「緑間。ちょっといいか?」

「……何でしょうか」

 背後から聞こえた声の主は、振り返らずとも中谷監督であることを察する。

 今日のラッキーアイテムであるうさぎのぬいぐるみを体育館のベンチに置くこと。

 部活中であるが一番近い自販機まで缶しるこを買いに行くこと。

 爪のかかり具合が甘いので練習中に爪を磨き直しに行くこと。

 ――計三回、既に今日の我が儘を使い切ってしまっていた緑間は、もし我が儘が残っていれば、最後までシュートを打ってから話を聞くのにと、内心ため息を吐きながら振り返る。

 流石に監督相手に面と向かってため息を吐くほど、目上の人間への礼儀がなっていないつもりはない。

 もっとも緑間は丁寧語と尊敬語を駆使しているにもかかわらず口調が生意気だと言われてしまうのだが、自分では何処がおかしいのか判らない。

 おそらく生来のものなので直しようがないと思っている。

「シュート練の最中に、すまないね」

「いえ、別に」

「ふむ。あとどれくらいだ」

 床に散らばったボールをぐるりと眺めた監督の口ぶりに、なにがしか説明の長くなる用件があるのだろうと推察した緑間は、こなそうと思っていたノルマを減らすか一瞬悩む。

 けれど、監督の用件がどれだけ重要かは判らないが、やはり優先して人事を尽くすべきなのはバスケなのだと思い至り、当初の予定をそのまま伝えた。

「あと籠二つです」

「なら終わってからでも構わんから、準備室まで来てくれ。話がある」

 中谷監督は外部から招いた専任の監督であり、秀徳高校で教鞭を執っている教師ではないので、職員室にはデスクがない。

 秀徳高校には他の部にも招致した外部顧問が幾人かおり、彼らの為にと学校側が用意した準備室があった。中谷監督のデスクも例外ではなくそこにあるのだ。

「俺だけですか」

「んー、そうだね。緑間が一番適任だと思うから」

「……俺が、適任ですか?」

「兎に角話はあとで。集中を切らして悪かったね」

 自主練続けなさい、と言い置いて中谷監督は体育館を後にする。

 不明瞭な会話に若干集中力を乱されたことに苛立ちを覚えた緑間は、今度こそ肩を落としてため息を吐く。

 だが籠からボールを手にしてゴールを見据えたその時にはもう、緑間の頭から監督の会話内容は既に消え、ボールを放ることだけに集中していた。

 

 

 

「……俺が家庭教師、ですか」

 そうだ、と教員用の椅子に深く腰を下ろした中谷監督が足を組んで鷹揚に頷く。

 シャワーを浴びて制服へと着替え、中谷監督の待つ準備室へ向かった緑間を待ち受けていた話は、思いもかけない内容だった。

 心当たりは特になかったが、部内で何か問題でもあって注意でも受けるのかと思いきや、予想の斜め上な話をする中谷監督に、緑間は目を瞬かせる。

 あの後シュート練に集中するあまり中谷監督との会話内容をすっかり忘れていたのだが、そういえば彼は「緑間が適任だと思う」と言っていたのだから、説教をされるはずはなかったのだ。

 だがしかし、言うに事欠いて家庭教師とは。

 冗談かとも思ったが、そもそもこの中谷監督という人は基本的に真面目な性質で、学生相手に冗談を言う性格をしていない。

「実はね。古くからの知り合いに、高校一年生の勉強を見られる人間の心当たりを頼まれててね。秀徳なら学業優秀な生徒が多いだろうと言われてるんだよ」

「ちょっと待って下さい。高校一年生相手って、俺も同じ一年なんですが」

 家庭教師というからには少なくとも相手は年下ではないかと、流石に首を傾げた緑間が待ったをかける。

 同学年の家庭教師を雇うなど聞いたこともない。受験を控えた三年生はともかく、普通なら二年生に振るべき話ではないだろうかと緑間は怪訝な表情を浮かべた。

「判ってるよ。でもうちの部でお前が一番出来るんだよね、勉強。一学期の総合成績、首席だったろう」

「それは――確かにそうですが」

「授業は基本的にあっちよりうちのが進んでるから問題ない。それに知り合いから、大事な生徒だから出来る限り頭良い子を紹介しろって言われていてね」

「しかし、練習がありますし」

「秀徳の練習日には重ならないようにして貰うから、そこは問題ない」

 家庭教師など到底務まるとも思えない緑間は、どうにかして断る理由がないかと言葉を繋ぐが、既に中谷監督から理由封じの先回りをされているようで、次の言葉を言いあぐねる。

「家庭教師と言うことは、マンツーマンの対面でしょう。正直、協調性に欠ける自分には向いていないと思われます。成績は劣るかもしれませんが、性分から言えば高尾や大坪主将のほうが余程向いているでしょう」

「自覚はあるんだね」

「……それは、それなりに」

「確かに緑間の言うことも一理ある。高尾ならば空気を作るのが上手いし、大坪も生徒を安心させてやれるだろう。だけどね緑間、家庭教師に最も大切なのは――学力は勿論だが、教え方の上手さだ」

「教え方、ですか」

 対人コミュニケーションに難有りと秀徳の人間ほぼ全員から太鼓判を押されているし、それなりにその自覚もある緑間だが、実は勉強を教えること自体は苦にならないし、経験もある。

 何故なら帝光時代、考査の度に面倒を見てきた連中が居るからだ。

(…………あの苦労は思い出したくもないのだよ)

 その頃の苦い記憶を掘り起こしてしまった緑間は、当時の疲労が蘇ったかのように軽くこめかみを押さえた。

 帝光中学バスケ部時代、常に首席だった赤司、次席だった自分、意外にも特に問題の無い紫原と、国語以外平均飛行の黒子は良いとして、青峰と黄瀬は毎度赤点ギリギリだった。

 何故ギリギリで済んでいたかというと、試験前に毎回緑間と赤司による集中勉強合宿をしていたからだ。

 赤点を取って補講になるのは自業自得なのだが、万が一にでもキセキの世代がフルメンバーで試合へ出られない事態になっては宜しくない。

 というか、ぶっちゃけその不味い事態は、実際に起きたことがある。

 練習試合ではあったのだが、そのとき考査で青峰が赤点を取ってしまって補講と試合の日程が重なり、出場することが出来なかった。

 以降、赤司の発案でテスト前は黄瀬と青峰の勉強をみることになったのだ。

 当然ながら、学年次席の成績である緑間にも、教師役の白羽の矢は立てられた。

 モデルの仕事で遅刻早退は当たり前でまともに授業を受けていない黄瀬に、居眠りサボリの常習犯である青峰の勉強をみるには根気が要った。

 赤司と共に苦労をして懇切丁寧に教えたにもかかわらず、二人とも毎回赤点ギリギリの水平飛行だったのは実に腹立たしいが、それで補講を免れたのだから結果オーライ、なのだろう。多分。

 ――苦労をした帝光時代の回想から現実へと緑間を引き戻したのは、意外すぎる中谷監督の一言だった。

「そりゃ、高尾や大坪の教え方がどうかはわからないよ。でもね緑間。お前、帝光時代にチームメイトの勉強、見てやってたんだって?」

「…………」

「なんで知ってる、って顔だね。実は桐皇と海常の監督から、少々ね」

 思いもかけない中谷監督の情報網に緑間は奥歯をギリっと噛みしめたが、それも仕方の無いことかとすぐに諦めの境地に至った。

 バスケに携わるプレイヤーの一人として、かつての全日本で活躍した選手が監督を務めているチームはそれなりにチェックしている。

 と言うのも、中谷が監督をしているというのは、緑間が秀徳を選んだ理由の一つでもあった。

 そして同様に桐皇、海常の監督も同じく全日本のプレイヤーだったのも事前調査済みだ。

 果たして彼らが今でも親交があるかは定かではないが、つながりを推測するのは容易だった。

 桐皇・海常の両監督から、青峰と黄瀬の成績について情報を得ていても不思議ではない。何しろ桐皇には桃井も居るのだから、そのルートも考えられる。

 単に両監督が何かの席で二人の成績について愚痴った可能性も捨てきれないが、もしもそうだとしたら、栄誉ある元全日本の面子にそんな形で話題に出されるというのもキセキの世代としてどうなのだと、心の中で緑間は黄瀬と青峰へもっと勉強をしろと腹立たしげに文句を垂れた。

 少なくとも自分だけは中谷監督に恥をかかせないように人事を尽くさねばと、緑間は改めて心に誓う――余談であるが、指導者達の会合で毎日必ずおは朝占いのラッキーアイテムを所持している変わり者と話題になっていることを知らぬは本人ばかりだ。

 それはともかく。

 帝光時代の話が筒抜けである以上、嘘をついても仕方が無いと、ある程度諦めの境地に至った緑間は軽く息を吐いた。

「ご存じだったのですか」

「案外面倒見の良いところがあるんだと、話を聞いたときは意外だったけれどね」

「帝光バスケ部にとってよりよい人事を尽くしただけです」

「ふむ。それで……どうしても無理だろうか。話を聞く限り、緑間の教え方は良さそうなんだがねえ」

「……無理とは言いませんが、やはり今はバスケに集中していたくあります」

 詳細を聞くと、アルバイト経験の無い緑間が聞いても、就労条件は決して悪い物ではなかった。

 というより、はっきりいって破格だった。

 夏休みの間、週の内に部活が休みなのは一日と半日。そのうち半日、勉強の面倒を見てやれば良い。

 つまり時間にして一日はしっかり体を休めることが出来るのだ。

 重点的に教える科目が理数系というのも大きい。

 文系の成績も決して悪いわけではないが、緑間がより得意としているのは理数系だった。独自に勉強を進めてもいるので、教えるのに不便はないだろう。

 そもそも秀徳高校は特別な事情を除き、校則でアルバイトが禁止されている。どうしても希望する場合は申告して担任と学年主任、生活指導の教師から許可を貰う必要があるのだ。

 教師公認で大手を振ってアルバイトが出来る機会など滅多にない。

 幼い頃から続けている貯蓄の足しにもなるし、そのバイト代でおは朝のラッキーアイテムを買っても良いし、監督が紹介しようとしているのがいったいどんな生徒かは判らないが、あの青峰や黄瀬より酷いということはないだろうと踏んでいる。

(条件は悪くない……が、やはり面倒は御免なのだよ) 

 それなりに付き合いを重ねてきた相手ならともかく、見ず知らずの他人に勉強を教える手間と、時間を消費している間バスケの自主練が出来ないことを天秤にかけた緑間は、お世話になっている中谷監督たっての頼みとは言え、やはり断るべきだ――そう結論づけ、辞退の決意を胸に、悠然と座っている中谷監督を見下ろした。

「緑間」

「はい」

「我が儘、夏休みの間だけ五回に増やす――って言ったら、やってくれるか?」

 予想外な中谷監督の言葉を聞いて、僅かな逡巡の後、緑間はゆっくりと首肯していた。

 

 

 

(…………二回増えるか。ならば、引き受けるのもやぶさかではない) 

 秀徳バスケ部において、緑間は一日に三回まで我が儘を言うことを許されている。

 周囲はキセキの世代の特別待遇だと揶揄られたりやっかまれたりするが、スカウトの際に秀徳側が提示した条件の一つでもあったので、そのことで卑屈になるつもりはない。

 実力ある者が、それに見合った優遇を与えられるのは当然のことだと緑間は思っている。

 それに三回というのは案外あっさりと使い切ってしまうものなのだ。

 大体にして、体育館へラッキーアイテムを持ち込む為に毎日確実に一回使ってしまうので、実質は二回に近い。

 残されたその二回も、緑間自身は特に我が儘と思っていない行動でも、我が儘だと認定されてしまえば、そこで我を通す為に使うことになってしまう。

 帝光時代、赤司の組んだ練習メニューは厳しいことこの上なかったが、その分とても効率的で文句のつけようもなかった。

 それに比べてしまうと、どうしても秀徳のメニューが自分のペースに合わないことが多くあるのだ。

 チームメイトである高尾には「わざわざ我が儘使って自分からメニュー厳しくしてどうすんの」と笑われる。

 だが集中力が切れることとペースを乱されることを何より嫌う緑間としては、それを守る為に残された二回を使ってしまう。

 果たして五回あったところで回数が足りるかは定かではないが、例え期間限定だとしても、少しでも回数が増えるに越したことはない。

 夏休みは部活動の時間が長い分、いつもより我が儘の消費が激しいのだ。

(大体にして、夏休みが終わるまであと約三週間。家庭教師を頼まれたのは週一日。――つまりたった三回勤めをこなすだけで我が儘を増やせる、か)

 休日が減ってしまうというリスクもあるが、半日ならば影響は少ないだろう。

 それで滞りなく人事を尽くしやすくなる為ならば、緑間にとって損は無いように見えた。

 おそらく中谷監督はそれを見越して我が儘の回数を増やすという交換条件を持ちかけたに違いない。

「うん、良かった。助かったよ、緑間」

 練習中にはおよそ見たこともない朗らかな笑顔を浮かべた中谷監督が、ホッと息を吐いて引き出しからクリーム色のシンプルなメモ帳を取り出した。

「これが生徒の連絡先だ」

 家庭教師先の住所が書かれた紙を受け取った緑間は、おそらく監督の自筆だろう、やけに丁寧な達筆で書かれていた住所を見て、ピキッと音を立ててフリーズする。

 何かの間違いではないかと何度もそれを読み返す。

(確かここは――いや、まさか――)

 記憶の中で開いたのは、帝光中学の生徒手帳の住所欄。とある人物の個人情報と、目の前のメモに書かれた住所は、寸分違いなく一致しているのだ。

 自分の記憶違いであればと願うが、そんなことがあるわけないのも緑間はよく知っていた。

「監督……その、ここが?」

 そうだ、と表情を変えずに頷く中谷監督を見つめながら、緑間は衝撃に唇を震わせた。

 例え見苦しくとも今からでも断りの言葉を、と思って緑間が口を開いたそのタイミングを見計らったように、中谷監督が立ち上がり、肩をぽんと叩かれる。

「それじゃ早速だけど明日から頼んだよ、緑間」

「……はい」

 先手を取られ、項垂れたままおとなしく返事をしたは良いものの、緑間の胸中を占めるのは、後悔の二文字だった。

 せめて、何故引き受けると首肯する前にどんな相手を教えるのか、もっと詳しく聞かなかったのか。

 我が儘の回数にあっさり釣られた己の愚かさを呪いつつ、緑間は中谷監督に頭を下げてから準備室を後にする。

 今日のおは朝占いでかに座が最下位だったことを、今更のように思い出す。ラッキーアイテムであるミントキャンディを一つ、口に放り入れた。

 すーっと心地良い清涼感が口内を満たしてくれるが、気分は正反対の極地にあった。

(何故俺は返事をする前に人事を尽くさなかったのだ)

 後悔先に立たず。後の祭り。覆水盆に返らず――普段の緑間からほど遠いが、今の緑間に似合いすぎることわざが、夕暮れの校舎で半ば呆然と一人佇む緑間の脳裏に次から次へと掠めていった。

 

<<中略>>

 

「……俺が来たことに驚かないのだな」

「いえ、ぶっちゃけ緑間君を見てものすごく驚きました。カントクからポケットマネーで家庭教師を斡旋するので勉強もしっかりするようにと言われてたんですが、まさか緑間君がくるとは」

「その顔で言われてもまったく説得力がないのだよ」

「そう言われても、困ります」

 本当に困ったように小首を傾げた黒子を見上げ、緑間は昨日から抱いていた疑問をぶつけた。

「そもそも、お前はそこまで成績が悪くはなかっただろう。なのに家庭教師が必要とは、まさか赤点の教科でもあったのか?」

「いえ、それは流石にないです。ただバスケの練習を頑張りすぎてしまって、授業中に眠ってしまう回数が増えてしまいまして。その影響で、期末考査で苦手科目がかなりギリギリだったんです。休み明けには実力テストもありますし、ここで判らないところを放っておくわけにはいかないと。まあそんな感じです」

「相変わらず体力のない。基礎体力の向上は昔からお前の課題なのだから、いい加減なんとかするのだよ」

「返す言葉もありません」

「事情は判らなくもないが、お前達の先輩方は勉強の面倒を見てくれないのか?」

「そんなことはありません」

 些かムッとした風の黒子が首を横に振ってから、斜め下に俯いた。

 それにしても、黒子に見下ろされながら話をするというのはかなり新鮮な気分だ。

 二十七センチも身長差があると、立っていようと座っていようと見下ろすのが当然で、こんな機会はあまりない。

「先輩方は、優秀です。中学の時の緑間君のように学年次席の人も居ますし、皆さん教え方も上手です。ただ…………先輩方は今頃、チームを組んで火神君の面倒を見ていますので、ボクにまで手が回らなかったんです」

「…………成る程な。火神の学力アップか」

「はい」

 納得するしかない理由だった。

 火神の学力は以前夏の合宿で軽く話題にあがったのだが、黒子曰く「緑間君に判りやすく言うなら、青峰君と良い勝負です。帰国子女なので日本語の読み書きが拙い点で、青峰君以下かもしれません」と聞いて目眩がしたものだ。

 現代国語や古文の成績が悪いのは確かに帰国子女なのだから仕方ないと言えば仕方がないが、それでいながら英語の成績も悪いというのだから救いようがない。

 もっとも、日本で習う英語はかなり勝手が違うと聞くのでそれもやむなしかもしれないが。

 いっそ最終手段として自作のコロコロ鉛筆を火神に進呈しようかと思ったが、一学期に施行された実力テストで既に大活躍したらしい。

 だがあれはあくまでその場しのぎであって、当人の学力が向上するわけではないのだ。

 結局大事なのは努力なのだと緑間は頷く。

「火神君は、バスケと同じく勉強に取り組む姿勢は非常に真面目です。だから休み明けの実力テストも、きっと乗り越えてくれると信じてはいるんですが、なにぶん先輩方が心配していて。今も勉強会をしているはずです」

「学生の本分は勉強なのだからな。バスケに人事を尽くすのも良いが、両立すべき義務を果たすのは自明の理なのだよ」

 話を聞きながら軽く額を抑えた緑間は、今日何度目かのため息を吐いた。

 青峰の悪夢再来と思うだけで、かつて心配していた周囲側の人間としては、誠凛の先輩方の心境が他人事とは思えない。

 秀徳は成績優秀者が集まっている高偏差値の高校なので、その辺りの心配をせずに済んでいるのが、今更ながら幸せなことなのだとしみじみ実感する。

 おちゃらけているように見えるあの高尾も、秀徳の中で決して埋もれることなく、成績上位者とまではいかないものの、そこそこ以上の成績をキープしているのだ。

 苦手な人間からマンツーマンで勉強を教わるくらいならば、誠凛の先輩にでも頼んだ方が余程良いのではないかと思ったが、そういうわけにもいかない事情があったのかと緑間は納得する。

 ――秀徳の中谷監督が、いったい誠凛の誰と旧知の中でこんな話を受けたのかは、かなり謎だが。

「すみません。わざわざ来て貰って。知り合いの、しかもボクの家庭教師とか、面倒じゃありませんか」

「随分ハッキリ言うのだな」

「そんな気がしたので」

「確かに教えるのがお前だと知っていれば、この件は断っていただろう」

「緑間君なら、そうすると思います」

 理由も聞かずにそうあっさりと肯定されてしまうと、それはそれで言葉に詰まってしまう。

 だがここで言葉を続けなければ嫌々ここに来ているのだと思わせたまま会話が終わってしまう。

 非常に複雑な心境なので、嫌々だという感情がないとは言い切れない。けれどそれだけではないのも事実だ。

 我ながら煮え切らないとは思う。

 思うが、この心境を的確に表現する言葉を緑間は知らなかった。

 なにはともあれ、否定的な感情のみでこの場に居ると思われてしまうのは、緑間にとって本意ではない。 

「それでも見も知らない他人に教える労苦を考えると、学力を把握しているお前相手で、かえって良かったのかもしれないのだよ。とはいえ、黄瀬や青峰相手は流石に勘弁して貰いたいが」

「緑間君。その比べ方、ちょっと酷いです」

 ぷう、と僅かに頬を膨らませる黒子の表情に、抑えていた鼓動がどくんと大きく鳴った。

 小動物が頬袋に餌を溜め込んだような可愛らしさに、少しばかり恨めしげな色を宿した瞳。

 普段表情が薄い分、モノクロの世界に突然色味がさしたように、黒子の表情が与える衝撃は大きい。

(――そんな、稚い顔を――するな)

 欠片も気付かせてたくない、互いに苦手だと言い合った相手に対する、言葉と裏腹の感情が浮き上がってきてしまう。

 今まで、そしてここまで心の奥底へと沈めてきた努力を無にしない為、緑間はぐっとグラスを持つ手に力を入れて、ともすればせり上がってきそうな熱を喉から冷ますと言わんばかりに、残りを一気に飲み干した。

「……もう一杯持ってきますか?」

「それは後で良い。兎に角、話はわかったのだよ。ならば俺は俺に出来る人事を尽くすだけだ」

「はい?」

 立ち上がった緑間は、黒子が座る勉強机へと近づいて棚に収まっている教科書を眺めやった。

 ざっと見た印象だけだが、使っている教科書は同じものもあれば異なるものもある。

(まあ、文系ならばともかく理数系ならばことは簡単なのだよ)

 現代国語や古典だと教師の趣味で教材や解釈が変わるので授業の進捗以前の問題なのだが、理数系であれば基本的にやることは変わらない。

 そういえば黒子は文系が昔から得意だった。他の教科は軒並み平均点にもかかわらず文系に限って好成績なのは、読書量に比例しているのは間違いないだろう。

「苦手教科……は、変わっていないならば物理と数学か。あとは他にもあるならば申告しろ。それから、どこまで進んでいるのかも言え。――言っておくが、俺がついている以上、確実に結果を出すのだよ。手を抜く気は一切無いからな、しっかりついてくるのだよ」

 眼鏡の中央を、テーピングを巻いた左手の中指で軽く持ち上げた緑間が、じっと黒子を見据えた。

 何事にも人事を尽くす緑間としては、自分が教えて学力がアップしないなどというのはプライドが許さない。

 多少スパルタになってでも、実力テストとやらで結果を出せるように、脳内を勉強モードに切り替えた。

 ――が。

「宜しくお願いします、緑間先生」

 こちらを見上げて花が咲いたような笑みを浮かべてから、黒子がぺこりと頭を下げる。

 黒子が発した音の響きがやたら耳慣れない言葉の連なりで、びきりと一瞬体を強ばらせた緑間は、発言をゆっくり脳内で咀嚼する。

 ゆうに五秒は経ってから言葉を把握した緑間は一瞬目を点にし、左足を半歩下がらせ、たたらを踏んだ。

 唐突に飛んできた変化球にデッドボールを食らった気分である。

 否応なく顔に熱が集まっていくのを止められないのが悔しい。

「ばっ……その呼び方は止めるのだよ」

「顔真っ赤ですよ、緑間先生。どうしたんですか緑間先生。クーラー強くしますか?」

「だから繰り返すな! 止めろと言っている!」

「でも、中学時代よく黄瀬君もそう呼んでませんでしたか? 緑間っちセンセって。黄瀬君は良くて、ボクはダメなんて不公平です」

「そういう問題ではない! ……確かに黄瀬にそう呼ばれていたこともあったが、あれにも止めろと何度も繰り返し言ったのだよ」

「しばらくやめなかったんでしたっけ、黄瀬君」

「あの日のことは思い出したくない。黄瀬だけではなく、一緒に居た紫原や赤司までも面白がって」

「ボク、青峰君と桃井さんと一緒に席外してたんですよね。どうしてその場に居られなかったのかと、今でも悔やまれます」

「俺はお前らだけでも居なくて良かったと心の底から思っているのだよ。……とにかく止めて欲しい。同い年に先生などと呼ばれるのはこそばゆくてかなわない」

「わかりました、緑間君」

 これだ――顔を真っ赤にして渋面を作った緑間は、楽しそうな笑みを浮かべた黒子を軽く睨んでやれやれと息を吐いた。

 緑間が黒子のことを苦手な理由の二つ目。

 おとなしめな風貌に反し、これでなかなかイイ性格をしていて、善良でないとは言わないが、悪戯心をそれなりに持ち合わせている。

 キセキの世代の中で弄られるのは大抵黄瀬だったが、ときたま緑間にも矛先が向くこともあった。

 そんなときの黒子は、普段の表情の薄さが嘘のように、たいそう楽しそうな顔を緑間へ向けるのだ――そう、今のように。

 空気を繕おうと、緑間はごほんとわざとらしく咳払いをする。

「いいから、早く教科書を出せ」

「わかりました」

 口元に拳を当ててまだ微妙に笑いを残しているというのが些か納得いかないが、ひとしきり笑った黒子はおとなしく勉強する気になったようで、勉強机の棚から理数系の教科書を軒並み引っ張り出した。

 勉強机に広げられた教科書の数に、緑間はこめかみを押さえる。

「……おい黒子」

「はい」

「まさかとは思うが、これ全部か」

「そうです」

 いくら何でも、理数系に類する教科書を全部出されるとは思っていなかったのだ。

 果たして夏休みが終わるまでの週半日という短い時間で全部終わるのだろうかと、緑間が少々怯んだのは言うまでも無い。

「あ、でも一番危なくて重点的に教えて欲しいのは物理だけですよ。ただ、どうせなら他の科目も教えて貰おうかと」

 ダメですか、と小首を傾げて問いかけてくる黒子の上目遣いに、ごくりと喉を鳴らしてしまう。

(だからどうして無意識にそういう仕草を見せるのだ、判っているのかいないのか、人の心をかき乱して何が楽しい、普通に言えないのか普通に)

 自分でも言いがかりだと判っている文句をつらつらと気が済むまで心の中で吐き出して、それを終えてから呼吸を整えた緑間は、黒子に向かって平静に首肯して見せた。

「構わん。ならば一分一秒でも時間が惜しい。さっさと始めるぞ」

「お願いします」

 男に二言はない。

 必ずや黒子の成績を上げてみせると緑間は、黒子の死角になる勉強机の影でこっそり拳を握りしめて自らの心に誓いを立てた。

 

 

 

 始める前は些か不安があったのだが、いざ勉強をはじめてみると、なかなかどうして黒子は優秀な生徒だった。

 とはいえ、比較対象が黄瀬と青峰なので、余程酷くない限りは優秀に見えるのかもしれないが。

 一通り授業の進行具合と黒子の理解度を確認し、今はあたりをつけて持ってきた問題集からいくつかピックアップした問題を解いて貰っている。

 緑間の教え方は基本的に細やかだが、判らないと言われた範囲を一から十まで懇切丁寧に教えるわけではない。

 基礎を必要とする問題、応用が必要な問題、出題頻度が高い問題の三種を用意し、順に自力で解かせる。問題を解く過程でどの部分につまづくかを自分で確認させ、そこを重点的に解説するのだ。

「終わりました」

「ああ」

 ふう、と息を吐いて天井を見上げた黒子の言葉を聞いて、緑間はストップウォッチを手にしてカチリと止めた。

 問題を解くのにどれくらい時間をかけたかというのも一つの指針になると持参した緑間の私物だ。

 用意して貰ったローテーブルで行っていた作業を一旦中断し、緑間は立ち上がって勉強机に広げられたプリントを手に取る。

 今黒子に出題していたのは、基礎問題。これが解けなければ話にならないと思っていたが、幸いにしてそこまでではなかったらしい。

 手にしていた紅いボールペンで全設問に丸をつけていく。

「……ふん。基礎は問題ないようだな。答えは全部合っている。だが少々時間が掛かり過ぎだ」

「そうですか?」

「ああ。どうやって解いたのかの過程を、最初から聞かせて欲しいのだよ」

「判りました。えっとですね」

 シャープペンの先をとんとんと軽く叩きながら、解に至った過程を説明していく黒子の横顔をじっと見つめる。

 クーラーの効いた部屋にいる所為か、汗っぽさがまったく感じられない肌は至近距離で見るときめが細かい。

 こんな風に誰の邪魔もない閉じられた空間に二人だけで居るというのは、中学時代にも滅多になかった。黒子を独占できるのは大抵が相棒である青峰で、その次に仲の良い黄瀬と紫原が続く。赤司は――あれは別な意味で常に黒子を捕らえていたし、桃井も同志として何かと声をかけていた。

 自分が最も距離を取っていたと、緑間は内心自嘲する。

 物理的には必ずと言って良いほど一歩以上の距離を取り、精神的にもつかず離れずの位置にいた。

 全ては、触れてしまえば止まらない自分を自覚していたからこそ。

 決して気取られてはならない――風邪をひいた黒子を一人で見舞いに来たときも、まったく同じ事を考えていたなと思いだしてしまった緑間は、あえてそう振る舞っていたとはいえ、一年近く経っても変わらない自身の精神がまったく成長していない滑稽さを内心で軽く嗤った。 

「――緑間君。聞いてました?」

 ぼうっとしているように見えたのだろう、黒子が少し不満げにこちらを見上げる。

 自身の心にトリップしていたので黒子の指摘はあながち間違いではないのだが、一応は黒子の話も聞いていたので、緑間は当然だという表情で頷いた。

 さらりと揺れた髪からシャンプーの残り香が不意にふわりと緑間の鼻孔をくすぐり、内心動揺していたのは悟られないよう、努めて平静を装う。

 指先で眼鏡を軽く持ち上げて位置を正し、緑間は密かに深呼吸をしてから身を屈め、紅いボールペンを手にプリントへと書き込みを始めた。

 思考転換や着目点のポイントを、簡単な解説と共に図解付きで問題文へと次々に記していく。

 口頭だけで説明しても良いのだが、こうして形に残しておけば、黒子が後で読み返すことが出来るからだ。

 こうして弱点と要点をまとめておけば、テスト前に見直すだけでも違うだろう。

「これを踏まえて、もう一度類似問題を出すからやってみろ」

 先程まで作業していたローテーブルから作成した新たなプリントを手に取り、机へ置く。

 少しばかり難易度を上げたが、基本問題には変わりない。今の説明が把握出来ていれば時間短縮は容易だろうと、緑間はストップウォッチを手にした。

「やっぱり緑間君の教え方は判りやすいですね」

「この程度、誰でも出来るのだよ」

「そうでもないですよ。緑間君って、予備校の先生とか向いてるかもしれませんね」

「ふん。他の人間にこんな面倒な手間をかける気は無い」

「それって、ボクだから手間をかけてくれるって事ですか」

 自分の不用意な発言に今更気付いた緑間は返す言葉に迷う。

 というより、まさかそこを突っ込まれると思わなかったのだ。

 指摘された内容は事実であるが故に、どう誤魔化したものか悩ましい。 

「……勝手知ったる相手ならば、教えやすいと言うだけなのだよ。それより無駄口を叩いている暇はないだろう。始めるぞ」

 返事を聞くより前にストップウォッチを問答無用で押すと、ちらりとこちらを見てから黒子が問題を解き始めた。

 一気に表情が引き締まり、問題に集中しているのが判る。

 何事にも関心が無いように見えるとぼけた顔も、悪戯が成功したときの笑顔も良いが、バスケをしているときにも見られるこの横顔が一番良い、と緑間は無意識に伸ばしかけた手を引っ込める。

 自分が見つめていては邪魔になると、くるりと背を向けた緑間は再びフローリングへ腰を下ろし、次に黒子へ出す問題のピックアップとプリント作成の作業に戻った。

 背中の向こうに黒子の存在を感じる。

 つかず離れず、手が届かず、触れることも許されないこの距離が、切ないはずなのに何故か一番心地良い。

 大仰な言い方をすれば、黒子と言う存在は緑間にとって聖域だった。

「……まくん」

 土足で踏み込むことが出来ないから、直視するのも出来ないから、こうして一定の距離を取って背を向けているのが一番呼吸が楽で良い。

 他の人間が聖域へと軽々踏み込んでいるのを遠くから眺めているのを見るのは胸が痛いが、行動を起こせない自分には、羨む資格すらないと思っていた。 

「緑間君」

「なああああっ!?」

 前触れなく急に背中が温かいもので覆われたうえずしっと重量を感じ、何が起きたのか状況の把握が一瞬遅れた緑間は、至近距離に黒子の顔があるのに驚いて、半オクターブほど高い大声を出してしまった。

 周章する鼓動が早鳴る。黒子とこんなに密着するのは初めて――とは言わないが、おぶったことが数度あるかないか。

 狼狽している緑間とは対照的に、落ち着いてじーっとこちらを見ている黒子が憎らしい。

 黒子の髪先が頬をくすぐるくらいに近く、心臓の音が伝わってしまわないか心配になるくらい、鼓動音が耳に五月蠅い。

 ごほん、と咳払いをしてから緑間は間近にある黒子の顔を思いっきり睨み付けた。

「……黒子」

「なんでしょう」

「何をしている」 

「緑間君の背中に乗っかってます」

 こめかみがひくりと痙攣し、眉間に寄った皺が二本は増えた気がする緑間は、自身に落ち着けと言い聞かせ、冷静になろうと努力しつつ黒子へ返答した。

「俺が聞きたいのはそういうことではないんだが」

「幾ら呼んでも返事がなかったので、どうしたら気付いてくれるかなーと。出来ましたよ、プリント」

 その体勢のままテーブルのストップウォッチに手を伸ばした黒子が、未だ動いていたカウンターをカチリと止める。

 しれっとした風に「これより二十秒くらいマイナスして下さいね」と言う様子があまりに小癪で、わなわなと肩を震わせた緑間は、相手の耳元と判っていてつい、息を吸い込んでから大声を張り上げた。

「お前は黄瀬か!」

 ――叫ぶ直前、高尾と黄瀬のスキンシップ過多な両名どちらを出すか悩んで、秀徳での高尾をそこまで知らない黒子に言っても判らないだろうと、判りやすい黄瀬を選んだのだが、蛇足にしかならないのでこの場は黙っておく。

「あの大型わんこと一緒にしないでください。キセキの世代相手なら誰でも――あ、今では笠松さんにもですね、仲の良い人にじゃれつくのが大好きな黄瀬君と違って、ボクの場合は緑間君に気付いて貰うという、れっきとした目的があるんですから。だいたい返事をしてくれない緑間君が悪いんです」

「……それは悪かったのだよ。作業に集中していた」

「判ってくれれば良いです」

「何はともあれ、判ったならばさっさと退け。熱いし、重いのだよ」

「緑間君って結構背中広いですね」

 ああもういい加減にしろ襲われたいのか貴様は――と叫ぶより前に辛うじて腕が自然に動き、背中に回した手で黒子の襟首をむんずと掴み、強引に背中から退かした。

 危なかった、と胸中で独白して息を吐き出すが、叫ぼうとした内容に自分でショックを受ける。

(――誰が――誰を――襲うだと?)

 黒子の飲みかけだというのは判っていたが、今は少しでも喉を潤したいと、立ち上がった緑間は勉強机に置かれたままの麦茶のコップを手にとって「貰うのだよ」と言って返事を聞く前に麦茶を飲み干す。

 ふうっと息を吐いてから黒子に向かって手を差し出した。

「プリントを寄越せ。答え合わせと書き込みをしておくから、黒子は飲み物のおかわりを頼むのだよ」

「麦茶で良いですか? それとも、他の何かが? あ、冷たいお汁粉はありませんすみません」

「……アイスなら何でも良い」

「判りました」

 空いたグラス二つを持って部屋を出て行く黒子の背中を見送って、プリントを手にしたまま緑間は腰を下ろし、立てた膝の上に額を乗せて深く深くため息を吐いた。

 勘弁しろと言ってやりたい。

 スキンシップの類いが苦手なのは中学時代からよく知っていただろうに、それをあえて実行するあたりに黒子の茶目っ気を感じるが、今の緑間には悪い冗談にしかならない。

(落ち着け。落ち着くのだよ)

 クーラーのほどよく効いた部屋は肌に冷たく心地良いのに、体の芯だけがやたらと熱をもったままで、先程の麦茶程度では冷却されてくれない。

 意識すればするほど不味い思考の迷路に嵌まりかねないと、緑間は深い呼吸を繰り返した。

 黒子の所為にばかりしているが、確かに声をかけられて気付かないのも悪かったし、己の精神修行が足りないのだと自戒する。

 そろそろ普段の自分を取り戻せただろうかと緑間が思っていたところに、飲み物を手にした黒子が戻ってきた。

「お待たせしました」

「ああ」

 ローテーブルに並べられたグラスを手にとり、緑間は三口ほど一気に飲んだ。

 先程と同じく中身は麦茶のようで、渇いた喉から胃へと滑り落ちていく感覚が気持ち良い。

「緑間君、今日ずいぶん水分摂りますね。もしかして、かなり喉渇いてました?」

「……少しな」

 まさか黒子の挙動で躯が熱くなって喉が渇いた――とは言えない。言えるわけない。 

 眼鏡の位置を正し、赤ボールペンを手にした緑間は傍目にクールを装ってプリントのチェックを始めた。

 やはり基礎は問題ないようだ。先程緑間が書き込んだポイントもしっかり捉えて時間の短縮も出来ている。

 こうして教えているとよく判るのだが、普段の成績が芳しくないのは、要領が悪い所為だと思われる。

 特に理数系は問題パターンや使用する公式を問題文から読み取れるか否かで結果が大きく変わるのだ。

 目の前で成果を見せられると教える側も俄然やる気が出てくる。

「この出来ならば基礎は問題ないだろう。あとは解答までの時間短縮が課題だな」

 プリントを軽く指で弾き、黒子に向かって首肯した。

「一応、このプリントも先程のと一緒にファイリングしておくといい。出題者の性格にもよるが、この手の基礎問題は必ずと言って良いほど一問は試験に出るからな。応用問題に時間をかけしまいがちなぶん、基礎をきっちり押さえて時間の短縮を図るのが定石なのだよ」

「はい」

「次はこちらのプリントをやってみろ。同じように時間は計るが、応用問題が中心だから時間は気にせず解くことに重点を置いて――どうした、黒子」

 途中まで真剣な眼差しで話を聞いていた筈なのに、いま緑間を見上げる目からは考えが読めない。

 ずずい、と不意打ちに顔を近づけてくる黒子に、思わず同じ距離だけ躯を引いてしまう。

「……なんなのだよ」

「緑間君って、睫毛長いですよね」

「は?」

「改めて近くで見ると、特に下睫毛が長いなと思って。ちょっと触っても良いですか」

 突拍子もないことを言い出したうえ指先を伸ばしてきた黒子の手を、緑間は問答無用にぴしゃりと払う。

「いい加減にしろ黒子。俺は遊びに来ているのではない。真面目にやらないのならば帰るぞ」

「仕事に来ている人が、職務放棄はいけません」

「ならばさせるなと言っているのだよ」

 むう、と唇を尖らせた黒子が「判りました」と不満げに言ってプリントを手にし、おとなしく勉強机に向かう。

 黒子がペンを握ったタイミングを見計らって、緑間はストップウォッチのボタンを押した。

 デジタルな黒い数字が画面上で正確に時を刻んでいくのを横目に見ながら、折角冷めかけていた熱にふいごを吹きかけるような真似をしてくれた黒子に向け、緑間は恨みがましい青息吐息を吐いた。

 

<<続く>>


 
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