No.438612

恋姫異聞録146  ― 蜂王と父の背中 ―

絶影さん

やっぱり終わらなかった
次回も美羽様の話

次回は治水の話です

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2012-06-17 20:58:37 投稿 / 全3ページ    総閲覧数:9573   閲覧ユーザー数:6714

 

 

診療所を離れ、市へと向かう黄蓋

周瑜の顔を見たことで、治めたはずの怒りがこみ上げ拳を握りしめていたが、彼女の言葉を思い出したのか

心を落ち着かせて素直に何かを口にすることにした

 

喰うことは、将にとって亡くなった兵達への弔いの意味がある

今生きている自分は、明日生きるはずだった者達が命を賭けて残してくれたものだからだ

だから飯を喰らう。命半ばで死んでいった者達の分まで喰らい、腹を満たす

 

腹を満たし、死した者達の魂を躯に溶けこませていく。己の血肉は、自分だけのモノではない

兵たちの思いが、魂が詰まっているのだと己に言い聞かせ喰らうのだ

 

「兵を任された将の責任は、民を導く王の責任に匹敵する」

 

自ら流れる血の一滴すらも己のものでは無いと、黄蓋は飯を喰らい酒を飲み干す

飲む酒の量も、喰らう飯の量も、尋常な量では無いのは理由がある。それだけ兵を死なせて来たということだ

 

腹を満たした店を出た黄蓋は、三回の鐘が鳴る音で随分と遅くに食事をとっていたのだと気付いた

どうやら、周瑜の所で随分と過ごしてしまったようだ

 

この分ならば、酒を買って帰れば調度良い時間だろうなどと考え、再び市を散策し始めた

呉へ将たちが帰った今、緊急の用事が自分に入る事は早々無いだろうし、帰ったばかりで助けてくれなどと言うはずは無い

もしそんな甘えた事を言うならば叱ってやらねばならない。本当に早急の用が有るならば自分を探しに来るだろう

 

「探すにしても、直ぐに見つかる。流石は舞王の警備隊と言った所か」

 

警備隊の人間に言えば直ぐに見つかるだろう。この町は警備隊が網の目のように張り巡らされて居る

一目見ただけでは判らんが、市井の者達と変わらぬ格好をした警備隊の人間が数名、更に装備を固めた警備隊が三人一組で行動している

市井の者達が怯えぬよう、私服の者達が混ざり装備を固めた者が犯罪者を威嚇する。簡単に犯罪を起こそう等と考える事すら出来ん

 

「解る者には解るだろう、皆と変わらぬ談笑をする者達の中に、気合を漲らせる者が居るのだからな」

 

熟練した者ならば、早々にこの町から立ち去る。市井の者達も、警備隊に協力しているのだろう

随分と慕われてい居るものだと、酒屋から買った酒瓶を揺らし店から出た所で鐘の音が六回響く

 

「地面が濡れておるな、雨が降ったか。酒を選ぶに夢中で解らなかった。こんな事は久方ぶりだ、少しは心が晴れたか?」

 

濡れた地面を踏みしめ、水溜まりが出来無い事に道の整備技術に感心しながら

もうすぐ日暮れになるか、時刻を知れるというのは便利なものだと呟き

吟味した酒を早速屋敷で味わおうと足を屋敷へと向けた

 

昨日、策殿から頂戴した食材が大量に有る

今日は屋敷に策殿も居らっしゃるだろうから、久しぶりに儂が手ずから料理を作って差し上げよう

久方ぶりに腕が鳴る、あれだけの量の食材を調理するのは何時ぶりか

 

腕を組み、酒瓶を揺らしながら様々な調理法を巡らせ屋敷の門へ差し掛かると黄蓋は足を止め舌打ちを一つ

 

眉が釣り上がり、歯の根が噛み締められていくのが自分でも理解る

鎮めたはずの怒りが再び胸の中をどす黒く染め上げていく。目の前で膝を着き、平伏する者の首を切り落とせと拳が握り締められる

 

黄蓋の眼に映ったのは、朝と変わらぬ格好で動かぬままの美羽の姿

雨が振ったせいだろう、ずぶ濡れで髪からは雫がポタポタと落ち続け、それでもその場から動こうとはしない

 

込み上げる怒りは、美羽の姿に少しだけ溜飲を下げるが黄蓋の眉の釣り上がりまで下げることはない

深く溜息を吐き、きつく瞳を絞ると美羽の前まで足を進めて腰に手を当て見下ろす

 

「無駄だと何度言ったら理解る。もう帰れ」

 

怒りを抑え、できる限り優しさを持って口にした言葉。自分の心に自制を聞かせた精一杯の言葉

だが、美羽は無言で首を振りもう一度、頭を水に濡れて泥になった地面に押し付けた

 

「・・・そこまで出来るようになったのならば、儂の心も理解るだろう。諦めろ、儂には無理じゃ」

 

冷たく言い放つ言葉に美羽は、唇をきつく噛み締め、ポタポタと涙を流すが黄蓋からは決して見えぬように隠す

情で許される訳にはいかない、情に訴えてどうする、鼻を啜る音すら聞こえてはいけない気づかれるな

そう、自分に言い聞かせ頭を地面に付け礼を尽くす

 

「・・・」

 

美羽の覚悟を理解したのか、黄蓋は再び腕を組んで眼を伏せた

恐らく、自分が許さぬ限りこの娘は頭を下げ続ける。それほどの覚悟がある。だが、理解出来ないのは

其れほどの覚悟があって、命を差し出す覚悟が全く無いことだ。昨日、自分の所に来た時も武器を向けたが

死ぬことだけは回避しようとしていた。避けずに、矢が放たれれば防ごうとしていた

 

全くもって意味が解らない。舞王の娘で在るとしても、本当の親子では無いから命を捨てられぬか

恨みに誠実に在ることなど出来ぬか、だとしたらなんと温く中途半端

 

「命が惜しいのだろう、貴様が殺したも同然の者達も同じだ」

 

「・・・」

 

「死にたくなくば立ち去れ、今度は撃つ。儂の矢がその細腕二つで止められると思うな」

 

もう終わりにしよう。半端者を許すことなど出来はしない。言っても聞かぬならば、腕に撃ちこみ泣きだした所で帰るだろう

夏侯昭殿に詫びを入れなければならぬか、それも致し方ない。娘の事で怒り狂う事も聞いている、蜀の攻撃を防いだ事は

儂の耳にも届いておる。殺されるかもしれぬが、其れも仕方あるまい。ただ、冥琳だけには重荷にならぬよう

儂が重大な罪を犯した事にしていただく

 

覚悟とはこういう事だ、貴様には出来まい。儂の命に賭けて、呉の地には入らせる事はしない

其れがこの儂の血肉になった報いることの出来ぬ兵達への忠義だ

 

腰に付けた弓を取り出し、矢筒から矢を取り出し引き絞り、一度構えて美羽の動きを見る

此れで逃げ出せばよし、逃げぬならば撃つ

 

だが、美羽は動くこと無く黄蓋の眼前で頭を下げつづける。矢を構えた事も、急所を狙っている事も

黄蓋の躯から溢れる殺気で気がついて居ることだろう。だが、それでも動かない。もしかしたら、夏侯昭の娘であるから

撃たれぬとでも思って居るのだろうか?ならば好都合、この一撃で逃げ帰るだろう

 

「ふっ!」

 

放たれる弓、一瞬で狙いを地に着けた右の掌へと変えて撃ちこみ、串刺しになった掌は地面に縫い付けられた

反応し、防ぐ事すら出来はしない瞬速の弓撃、右手から体全体に響く衝撃、躯をのけぞりそうになる激痛

 

「むっ!?」

 

だが、美羽は思い切り歯を噛み締め、痛みに耐え、躯を押しとどめる。痛みに蹲りそうになる躯を抑え

叫びあげたい激痛を土を握りしめ押し殺す。うめき声すら上げずに、痛みの波が去った時、顔を地面に擦りつけて

泥だらけの顔を黄蓋に向けていた

 

眼は生きる意志に充満ていて、それでいて強固な意志を持つ。真っ直ぐで汚れの無い瞳に、矢を放った黄蓋は呆けていた

顔を地面に擦りつけたのは、涙を隠すため、表情を苦痛から変えるため、そして再び頭を地面に着ける

 

黄蓋には意味が解らなかった。これ程の覚悟が有りながら何故、生きる意志に満ちている?

死を覚悟したところなど微塵も見せぬ癖に、どうして此処までの事が出来るのだ?

 

理解できぬ黄蓋の頭に浮かぶある光景。それは、赤壁で魅せつけられた月と詠の刺繍をされた布を巻き付ける者達

張奐率いる修羅の兵達。小さい体から感じる凄まじいまでの生への執着に黄蓋は舞王の姿を思い出す

 

間違いない、この娘は舞王の娘だ。血よりも濃く、魂で繋がれた父娘だ

 

弓を落とし、言葉をなくした黄蓋。そこへ現れたのは、肩で息をする雪蓮の姿

美羽の掌に突き刺さった矢を見て顔を強張らせ、眼を伏せた雪蓮は、美羽の隣に立つと膝を地に着き頭を下げた

 

「なっ!何をっ!!おやめ下され、王たる者が頭を下げてはなりませぬ」

 

「私はもう王じゃ無いわ」

 

そう言って黄蓋に頭を下げる雪蓮は、隣に居る美羽に視線を向ければ美羽は眼で訴えていた

約束を破るのか?口を出すなと言っただろう?此れでは意味が無くなると

 

「口は出さない、ただ頭を下げに来ただけよ。私の代で、兵達に苦しい思いをさせてきた。その代償にね」

 

雪蓮の言葉に黄蓋は顔を顰めてしまう。雪蓮は、態度で示しているのだ。兵が望む戦いで死なせてやれなかったのも

死の道を選ばせてしまったのも、全てが美羽のせいではない。力が無かった自分にも責任が在る

全てを美羽の責にするのは唯の逃げだ。それが一時とは言え、王だった者が取る態度なのだろうか?

それは違う、王であるならばその時、死なせてしまった生かしてやることが出来なかった者達へ報いるのも役目であろう

 

「頭を下げるのは、貴女の背負った英霊に対して。私は、負けた王として頭を下げ許しをこう責任がある」

 

「だからと言って、此処で策殿が頭を下げては、呉の人間が魏の人間に軽く見られるっ!属国となった儂らは、少しでも

魏の人間に軽く見られる訳にはゆきませぬ」

 

「首輪を着けられた犬だから?」

 

頭を下げたままの雪蓮の言葉に黄蓋は言葉が詰まる。自由を求め戦い続けた黄蓋にとって、死した兵に報いるのは民に自由を与えること

報いる事が出来ぬならば、責めて魏の人間に蔑まれぬよう、誇りを矜持を保ち続け無ければならない

例え負けたとしても、譲れぬ領域がある

 

「あのね、私、この娘に蚕蛾の話をされたわ」

 

「蚕蛾?其れが何か関係があると」

 

「ええ、貴女も呉が蚕蛾のように、口を無くし飛び回る羽を無し自由を失い消え去ってしまうと考えてない?」

 

「その通り、だからこそ軽く見られてはならない。呉が消え去れば、死した兵たちになんと顔向け出来ましょうか

袁術を許さぬのも、兵たちの思いがあるからこそ。軽々と呉の地に足を踏み入れさせて、どう申し開きをすると言うのでしょうか」

 

同じだ、自分と全く同じだ。雪蓮は、眉が下がり唇を震わせる。きっと、口には出さないが冥琳の事を思っていることもある

冥琳が躯を壊した事も、美羽の責任だと思っている。そして、冥琳が背負った兵の命を祭は全部引き受けて居るんだ

だから美羽を許せない。絶対に許したらダメだと思ってる。やっぱり、祭は優しい人。掌を狙ったのも優しさ故

 

「私は、美羽に見せられたわ、自由に飛び回る蜂を」

 

「蜂?先刻から何を」

 

「蜂はね、人間と対等なの。蚕蛾と違って、人と関わりながら誇りを持ち、自由に飛び回る。

もし、自分達の誇りを穢されれば命を賭して人を殺す」

 

呉は、蜂のようになることが兵たちへの報いになると思う。美羽に聞いた、人と蜂の関わりを魏と呉に重ね

黄蓋に問えば、黄蓋は拳を握りしめた。首を繋がれた犬ではなく、魏と対等になれと言っているのだ

その中で、自由を勝ち取れと。自由を求め、戦ってきたならば、其れこそが報いになるはずだ

 

だが、こんな所で何時までも恨みに引きずられて立ち止まって居たら、自由を勝ち取るどころか

対等にもなれず、蚕蛾のように飼いならされて牙を失う。それでも良いのか?其れが報いになるのか?

 

雪蓮の問に、黄蓋は腰に着けた矢筒を地面に叩きつけた。やり場の無い怒り、胸を渦巻く感情が叩きつけられた矢筒に篭る

 

「解っているっ!だが、儂は袁術を許す事などできはしないっ!儂の耳に残る兵たちの声は、生きたいと叫ぶ兵たちの慟哭は

鎮める事など出来無いのだ、この悲しき声を冥琳はもっと重く受け止め今も聴き続けているはずっ!」

 

死した息子も同然の者達、生き残った娘のような冥琳は、未だその声に苦しんでいるはずだ

軍師である以上、自分よりもずっと重く、ずっと大きい声で。だからこそ許すことは出来無い

簡単に許すことで、何か報われると言うのか?何も無いだろう?恨み持つ者に、許せという事がどれほど苦痛か理解できるか?

 

先を見て、魏と対等に、自由を再び、其れを理解することは出来る。だが、それが袁術を許す事とどう関係がある?

関係など無いだろう、結びつきなど見いだせ無い

 

怒り、怨み、悲しみ、憎しみ、あらゆる感情が溢れ、噛み締めた唇から血を流し、思い切り踏みつけ散らばった矢を踏み折る黄蓋

 

この場にいれば、怒りのまま目の前の袁術を殺してしまいそうだ。袁術から学んだと言うのか?先ほどの話を?

策殿は毒されたか?呉の王で在りながら、兵の苦しみを忘れたか?あの時の血の量を、猿叫の様な断末魔の叫びを

貴女は全て忘れろと言うのかっ!?最早言葉は要らぬ、策殿を惑わす悪童め、八つ裂きにしてくれる

 

「お待ち下さい、祭殿」

 

 

 

 

 

 

そう、美羽の首に手を伸ばした時、落ち着いた穏やかな余裕のある声が耳に入り黄蓋の動きが止まった

黄蓋の眼に映る、信じられぬ人物の姿。自分の手を止めたのは、自分の感情の半分を締める娘とも言える人物の姿

松葉杖を突きながら、一歩一歩躯を引きずりながら近づいてくる周瑜の姿に黄蓋は駆け寄り抱きとめていた

 

「何故此処に、もしや策殿がっ!」

 

「あまり、お怒りにならないで下さい。此処へ来たのは自分の意志」

 

頭を下げる雪蓮を睨む黄蓋だが、腕の中で小さく微笑む周瑜に黄蓋は困ってしまう

自分で此処に来たと言われれば、雪蓮を幾ら問い詰めた所で自分の責任だと頑固に言い通すだろうから

 

「夏侯覇殿に、手を上げてはなりませぬ」

 

「夏侯覇などではない、あ奴は袁術」

 

「・・・ふふっ、もう認めていたのですね」

 

言葉を否定する黄蓋に周瑜は苦笑する。黄蓋が美羽の掌に撃ちこんだ矢と、足元に転がる弓を見て心の深層を理解したのだろう

黄蓋の憤りは、あの時のままの袁術では無かったから起こったこと。別人とも言えるその姿に黄蓋は、相手を見失っていたのだ

そこに雪蓮の言葉が入り込み、益々意味が解らなくなっていた。自分のしていることの正しさが、揺らいでしまっていたのだ

 

「死を覚悟することすら出来ぬ者が、夏侯の者であるはずが無い!」

 

「それは、雪蓮と約束をしたからです。命を取らぬ代わりに、己が生をかけて民に仕えると」

 

「民に・・・仕えるじゃと」

 

そう、雪蓮との前で死を覚悟し、約束によって死を決して受け入れぬと覚悟をした美羽

代わりに、人生の全てを民の幸福に捧げると契約をした事を知らされ、黄蓋は周瑜を抱いたままその場に腰を着けてしまう

 

「蜂王と言う名をお聞きした事はありますか?虫を従え、虫を愛し、枯れた大地に翠を芽吹かせ、荒れ狂う河を治める蜂達の王」

 

全てが繋がった。死した者達へ報いる為に、魏と対等になり自由を勝ち取る。その為に、袁術は全てを捧げてくれると言っているのだ

其れが蜂王夏侯覇、元の名を袁術。蜂王の名だけは黄蓋の耳にも聞き及んでいた。魏に入れば、何処にでもありふれたように

市の者が口にする。蜂王様のお作りになった野菜だ、蜂王様が開梱した土地の作物だ、落とした酒瓶にすら蜂王と文字が刻まれている

 

地面に黄金色に広がる蜂蜜酒。魏には蜂王の功績があふれている

 

呆然と、宙を見つめる黄蓋に周瑜は先ほどされたように、黄蓋の頬を撫でて微笑んだ

 

「もう良いのです。私は大丈夫」

 

優しく柔らかな周瑜の言葉に黄蓋は叫ぶように声を上げた。瞳から溢れるモノは、熱く周瑜の頬を濡らし

腕は我が子をきつく抱きしめていた。呉を思い、兵を思い、将を思う、宿将黄蓋の頬を伝う熱き雫は

止まること無く周瑜の頬を濡らし続け、周瑜は黄蓋の思いを頬に受けながら優しく母の躯を抱き返していた

 

「もう良いのか、もう許すというのか、冥琳の双眸を濡らす事はもう無いと言うのか」

 

「はい、兵隊も納得してくれるでしょう。もう、彼らの笑い声しか聞こえません」

 

兵たちの嘆きは、もう止まった。今は、未来を祝福する笑い声だけだと言う周瑜に、黄蓋は、全てを吐き出すように哭いていた

お前達は、もう未来を見ているのか?死した怨みは捨てるのか?ならば見ていて欲しい、お前達が願った未来を

必ずや呉の民に約束しよう。今度こそ、自由を勝ち取って見せると天に向かい叫んでいた

 

黄蓋の姿に安心した雪蓮は、結局口を出してしまった。もしかしたら、力を貸してくれないかも知れない

その時は、自分が美羽に頭を何度も下げて許してもらわなければと隣を見れば、美羽は躯を震わせ肩で息をし

顔を真っ青にしていた。眼の焦点も合っていない、よく考えれば一日半以上動かず、雨も受けたまま、食事など取っていないはず

既に気を失いそれでも頭を下げ続けていたのだ

 

「み、美羽っ!しっかりしてっ!!」

 

「どいてくれ」

 

異変に気がついた雪蓮が矢を抜き取ろうとした時、間に入る蒼天の外套

矢を途中で切り捨て優しく掌を通してぬきとり、気を失った娘を抱き上げる夏侯昭の姿

顔を向けない昭の背からは、悲しみが重く伝わり、雪蓮は手を出せずに背の一文字を見詰めていた

 

「黄蓋殿、誠に勝手ながら我が娘を連れて帰らせて頂きます。ですが、この非礼は私にあります

決してこの娘が自ら屋敷に逃げるのでは無い。どうかお願いです、娘が礼を失したと思わないで下さい」

 

背を向けたまま頭を下げる昭は、振り返ることもなく足を屋敷へと向けた

追いかけようとするが、昭の躯から滲み出す雰囲気に雪蓮の足は止まっていた

怒りでもない、かと言って先ほどの様な悲しみではない。娘に対する溢れんばかりの愛情が雪蓮の足を止めていた

まるで宝物のように、自分の命そのものであるように優しく抱きしめるその姿は正に父の姿そのものだった

 

 

 

 

昭が美羽を抱き上げ立ち去った後、周瑜を屋敷の寝台へ寝かせ、雪蓮に周瑜の様子を見ていて欲しいと頼んだ黄蓋は

すぐさま夏侯家の屋敷へと走った。礼を失した等と思うわけがない、これから願っても手に入れることの出来無い知を

授けてもらうことが出来ると言うのに、兵達の願いを叶えられると言うのに、礼を失したのは自分の方だ

もし、あの娘に大事があれば、今度こそ兵達に報いる術を無くす

 

「失礼、黄公覆と申す。夏侯昭殿は居らっしゃるか、先ほどの無礼な振る舞いを詫びに来た」

 

再び雨が降り出す中、自身が濡れる事も構わず走り、夏侯邸へとついた黄蓋は、雨露を手で振り払い身なりを整えて

門の前で声をかければ、屋敷の中から傘を差した秋蘭が静かに傍に寄り、傘の中へと招き入れる

 

「夫に御用か」

 

「ああ、夏侯覇殿に返礼を、それと詫びを」

 

「承知した。今しがた医師が来て診療中だ、まずは茶でも飲まれて濡れた躯を乾かすのがよかろう」

 

肩で息をする黄蓋を落ち着かせるように、秋蘭はゆっくり屋敷の中へ、居間へと通すと手ぬぐいと暖かい茶を差し出す

特に何かを口にする事無く、秋蘭は穏やかな雰囲気を纏い、表情に何か表すこと無く黄蓋が茶に手を伸ばしやすいように

自分にも用意した茶に口をつけていた。黄蓋は、差し出された手ぬぐいと茶に礼を言い、濡れたままではと借りた手ぬぐいで躯を拭い

顔を少々強張らせていたが、秋蘭の行動にいつの間にか茶に手を伸ばして、心を落ち着かせていた

 

「では、十分に水分を取らせて処方した薬を食後に、何か有りましたらご一報下さい、直ぐに参ります」

 

居間から見える、廊下の奥の部屋の戸が空き、医師らしき女が出てくると居間の黄蓋と秋蘭に頭を下げて屋敷を後にした

黄蓋は、秋蘭に一度視線を送り、頷かれ許可を得ると奥の部屋へと進み、戸の前で声をかけた

 

「失礼、黄公覆と申す。非礼を詫びに参った」

 

静かに、だが中に居るだろう人間に聞こえる程の大きさで名乗ると、ゆっくり戸が開けられ出てきたのは七乃

事情を聞いた七乃は、傷などにかまって居られるものかと医師が止めるのも聞かずに美羽の元へと雨の中

屋敷へと戻ってきていた。昭から全てを聞いた七乃は、美羽に「良く頑張りましたね」と眠る美羽の手を握り続けていた

 

部屋に入れば、敷かれた布団に寝かされ額に濡れ手ぬぐいを乗せられる美羽の姿

傍らには、何も言わずじっと娘の様子を見守る昭の姿

 

「昭殿」

 

「謝るならよして欲しい、娘の行為が無駄になってしまいます」

 

謝罪など受けては、娘は何の為に頭を下げたのか、何のために己の所業の許しを得に行ったのかわからなくなる

受けてしまえば、きっと父に諭され自分は許されたのだ、自分は何もしていないと感じてしまうと昭は黄蓋の謝罪を受け取らない

怒っているわけでもない、ただ娘の行為を無駄にしたくはないと言う昭に黄蓋は、眼を伏せた

 

そして、せめて身体が回復するまで傍で世話を、もう怨みなど無い、寧ろ教えを請いに来たのだと言おうとすると

 

「・・・ぅ」

 

「お嬢様、気が付かれたのですね」

 

眼を覚ました美羽と眼が合い、姿勢を正して礼を取ろうとするが、美羽はもそもそと布団から抜け出し

熱に浮かされ、意識も朦朧とする中で再び黄蓋に頭を下げていた。七乃は、美羽の姿にもう良いと手を伸ばそうとするが

昭の言葉を聞いていた為か、伸ばした手を握りしめ膝に爪を立てて己の心を必死で抑えていた

 

「し、失礼いたしました。途中で倒れ、気を失ってしまうなど妾の不徳のなすところ。

これでは礼を尽くしたとは口が裂けても言えませぬ」

 

「・・・」

 

「それどころか、屋敷まで足を運んでくださる黄蓋様の懐の深さに甚だ感服するばかりでございます。どうかお許しを」

 

謝罪をするどころか、逆に頭を下げられ、礼を尽くされ、黄蓋は今まで心を渦巻いていた負の感情を恥じていた

どうして、どうしてこの娘をもっと良く見なかった、どうして此れほどまでの事が出来る者を、半端者だ等と言えた

感情で曇ったか、この節穴め、これ程の徳を持つ者がどうして逃げ出すなどと、馬鹿なことを

 

礼を取る美羽、傍では無表情で在りながら拳に巻かれた包帯に血が滲み出すほど握られた昭の手に黄蓋は俯いてしまう

 

「一つ、良いか」

 

「はい、なんなりと」

 

「その礼、そしてその徳、書物で学んだのか?」

 

熱で頬を赤くしながら、荒い息を押し留めて静かに平然と息をする美羽に、黄蓋は一つだけ問をする

これだけ聞けば十分だ、其れ以上は要らないと

 

「いいえ、民に仕え、父の背に学び、大地に教えを請いました」

 

はっきりと力強く答える美羽に、黄蓋は大きく溜息を吐く。そして宙を見上げ、この一言で全てが解ったはずであった

何故、もっと早くこのことを聞かなかったと後悔した

 

「子夏曰わく、賢を賢として色に易え、父母に事えて能く其の力を竭し、君に事えて能くその身を致し

朋友と交わるに言いて信あらば、未だ学ばずと曰うと雖ども、吾は必ずこれを学びたりと謂わん」

 

論語の一文を口にし、美羽に対して礼を取り頭を下げる黄蓋。最早、礼は尽くされた、これ以上は自分が非礼になる

その姿に顔を上げて小さく驚く美羽

 

「貴殿は良く学ばれた、書物などよりも重要な道をその身に修して居る。我が名は黄蓋、真名を祭と申す

貴殿の礼、徳、道に感服いたした。どうぞ、私めを貴殿の従事する事業の末席にお加えくだされ、是非学ばせて頂きたい」

 

更には美羽の養蜂場、研究に加え学ばせて欲しいと願い出る。急な申し出に握りしめた膝から手を放しあっけに取られる七乃だが

美羽は祭の申し出に首を振った

 

「真名を預けてくださる事、真に至福に御座います。ですが、妾から教えるなどと恐れ多い、妾は未だ学ぶことが多く

我が知識など稚拙なもの。どうかお願いいたします、妾を兵を家族のように思い、軍師を娘のように気遣う事のできる

優しく誇りある貴方様の弟子として道を学ばせて下さいませ」

 

経験と知識が豊であり、徳も及ばぬ自分の師となって欲しいと逆に願われ、丁寧に頭を垂れて腕を組み上下に二回振り

再拝稽首という最高の礼を取る。赤壁でも見た夏侯昭の礼、気品と教養の見て取れる美しい礼に黄蓋は最早、何も言葉は無かった

 

勝てぬ。年上である儂を立て最高の礼を取り、己の知識に奢ることはない。これが夏侯覇か、いや逃げぬ姿を見ればわかる

夏侯覇で在りながら、袁術であるのだな。これで首を振って断れば、今度は儂が呉の地を踏めぬようになる

兵たちの願いを叶えるものに、非道な行いをした者として

 

「相わかった。では儂も、お主に恥じぬ様な師になれるよう心しよう。儂の蓄えた知識、戦の知ばかりなれど

いずれお主の役に立つ時も来よう。愛する者を守る術が無いことを嘆く事が無いように、儂の全てをお主に伝えよう」

 

黄蓋の言葉に美羽は顔を上げ、初めて笑を見せると再び頭を垂れて力強い声で黄蓋の心に応えた

 

「有難き幸せ、妾の名は二つ、一つは袁術、一つは夏侯覇、真名を美羽と申します。どうか妾の真名をお納め下さい」

 

真っ直ぐ祭を見つめ、一つ目に袁術と名乗る美羽。身体が粟立ち、全身が雷に撃たれたような衝撃が走る

やはり捨てぬ、袁術と言う名を己の業を捨てぬ、どうだ美しい眼では無いか、此れほどの眼をする者が

死した兵の魂に背く事などするはずがない、そうであろう息子達よ

 

「確かに預かった。では師からの命だ、よく休め」

 

「はい、お心遣い感謝いたします」

 

此処に居ては、美羽は休むことは無いだろうと黄蓋は立ち上がり、七乃と昭に頭を下げると部屋から出ていく

その姿を最後まで見送った美羽は、その場に倒れ、直ぐに七乃が美羽を抱き上げて布団へと優しく寝かしつけた

大粒の涙をぼたぼたと流し、美羽の手を握りながら

 

部屋から出て、戸の前で少しだけ腕を組みながら弟子の様子を伺い、大事では無いかを確認してその場を去ろうとした時

部屋から出てくる昭の姿。祭は、昭を見て覚悟を決めていた。どのような仕打ちも受けよう、自分がしたことは

親の許容出来る範囲を超えた。腕の一本くらい失う事も仕方がない、死ぬことは出来ぬ、師になると約束したのだから

 

そう、覚悟を決めて昭の顔を見れば、昭の顔はくしゃくしゃになり涙を流して膝を地に着き

祭の手を両手で握りしめて祈るように頭を下げていた

 

「あ、ありが・・・ありがとうございます。娘を許し、認めて頂いたどころか、師弟の絆を」

 

何度も、何度も頭を下げ、嗚咽を漏らすように感謝の言葉を口にする昭に祭は膝を曲げて手を握り返し

改めて謝罪の言葉を口にした「すまなかった、貴方の娘に酷いことを、許して欲しい」と

 

「あ・・・ありがとうございま、す」

 

もう、何の蟠りも無い。共に自国の未来の為に、幼き国の宝、子供たちの為に力を合わせようではないかと

祭は昭に真名を預け、昭も其れに応えるように己の真名を口にした。此れが我等の契約だと、最後に貴殿の娘を

新たな我が弟子を誇りに思うと言葉を残し、黄蓋は夏侯邸を後にした

 

「しゅ、秋蘭。俺は、俺は、美羽が、すずかとっ」

 

「解っている。お前の娘だ。良く耐えたな、偉いぞ」

 

居間で泣き崩れる夫を抱きしめ、優しく何度も頭を撫でる秋蘭は、呉との未来は明るい

子供たちの笑顔が絶えぬ未来になるはずだと、涙を流す夫の姿に確信に似た予感に笑を零した

 

 

 

 

 

 

 

数日後、夏侯邸には、朝食を取りに来た雪蓮が全快した美羽と食卓を囲んでいた

雪蓮の隣には冥琳まで居て、得意げに話す雪蓮に習って麺麭にジャムを塗って口に運び、喉が乾けば牛乳で喉を潤していた

 

始めは子供のように燥ぎ、食事を進めていた雪蓮に少々呆れ気味に「わかった、わかった」と言って口に運んでいたが

一口目で動きが止まり、美味かったのだろう眼鏡を指先で直してモクモクと麺麭を口に運んでいた

 

「そうそう、治水だけど」

 

「嫌じゃ」

 

「う・・・」

 

顔をそむけ、雪蓮を見ずに麺麭を口に運ぶ美羽は、相変わらず頬を膨らませてもしゃもしゃと咀嚼していた

約束を破った雪蓮には、頬を膨らます様子がいかにも怒っているように見えて、催促することが出来無い

 

確かに約束は破っちゃったけど、ああしなきゃ美羽は殺されてたかもしれないし、祭だって納得しなかったはずよ

 

とぼそぼそと呟くが、美羽に「何じゃ」と言われ「なんでもなーい」とつまらなそうに口を尖らせていた

 

「そもそも、主が約束を破るのが悪い。口出しするなと言ったはずじゃ」

 

「口出ししてないもん、祭に聞かれたから答えただけよ」

 

「師娘様に問われたならば、妾との約定も破って良いと言うのか」

 

「そうだけど、祭が師娘様なら祭に教えを受けた私は貴女の師姉じゃない、多めに見てよ」

 

約束を直ぐ忘れる阿呆な師姉など、妾には居らぬと再び麺麭を口に運んで頬を膨らませていた

阿呆と言われたが、今度は本当に怒ってしまったらしく、雪蓮は「悪かったから許してよ~」と嘆いていた

 

「ふぅ、ならば私の願いは聞き届けていただけますか夏侯覇殿」

 

「うむ、良いぞ」

 

溜息を吐く周瑜は、仕方がないと願い出れば即座に了承する美羽。その様子に面白くなかったのだろう

最初眼を丸くして周瑜と美羽を交互に見た後、また口を尖らせて「ぶ~ぶ~」と言っていた

 

「なんで冥琳だと直ぐに頷くのよー」

 

「周瑜は約束しておらぬし、破っても居らぬ。誰かと違っての」

 

「あ~ん、許してってばー」

 

毒づく美羽に雪蓮は何も言えず、どうしたら許してくれる?と言いながら、美羽の麺麭にジャムを塗って渡していた

次いでに無くなった紅茶を新たに注ぎ、給仕をする雪蓮を見て周瑜は喉の奥でくつくつと笑っていた

よほど気に入ったらしい、これでは何方が子供かわからない、朝食を取りにわざわざこの家に来るのはこういう事かと

周瑜は納得していた

 

「所で話は変わるがの、まだお主と真名を交換しておらなんだ」

 

「私とか?」

 

「師娘様に聞いた、妾の師姉であるとな。であれば、どうか妾の真名を納めて頂きたい」

 

「そうか、そうだな。ふふっ、なんだか不思議なものだ、怨み忌み嫌っていた者と同じ師を仰ぐとはな」

 

感謝します師姉様と言う美羽に、周瑜はこそばゆいと思いながら自らの真名を預け、美羽も同じように真名を預けていた

二人のやり取りに雪蓮は、これは本当に義姉妹になれるかもしれない等とニコニコとしていたが、美羽に何か良からぬ事を

考えておろう阿呆めが、と言われ慌てて首を振っていた

 

「それで、呉には直ぐに来てくれるの?」

 

「うむ、叔母様との別れも済ませたし、土産も渡した。見送りが出来ぬ事が心残りだが、呉の皆が心配じゃ直ぐに立つぞ」

 

「叔母様って馬超達の事?お父様の義兄妹だったのよね」

 

「誰が誰のお父様じゃ、あれは一日だけじゃろう。父様は妾の父様じゃ」

 

変な事を考えていたせいか、昭をお父さま等と口走ってしまい、美羽の視線が痛くなる雪蓮

もう虐めないでよと顎を机に乗せてぼやくが、冥琳に諦めろと言われ肩を落として落ち込んでいた

 

「ならば、旅の用意は此方でしよう」

 

「師姉様のお手を煩わす事は有りませぬ、七乃が既に準備を整えております故」

 

「なんで私と冥琳じゃ言葉使いが違うのよー」

 

「お主の徳と師姉様の徳の違いじゃ。そうそう、呉に入るには他の将の方々にも礼を取らねばと思っております

どうか、皆様と顔を合わせられる機会を作ってはもらえませぬか師姉様」

 

やはりそう来たかと冥琳は頷き、呉の人間には既に祭殿から話が行っている。呉に入る前に、関所で皆に合うことが出来る

と伝えられ、師の手際と心遣いに美羽は拳包礼を取っていた。師のご好意ならば、自分が無理に口を出すことではない

自分の我を通すのも良し悪し、師の顔をつぶす事は出来無いと素直に好意を受け取っていた

 

「ふふっ、素晴らしいな、本当に何方が子供か解らぬぞ雪蓮」

 

「ぶーぶー」

 

そんな事ない、私が美羽より大人、師姉だもん。祭の時の事だって、私なりに考えて行動したの

と膝を抱えてしまう雪蓮に、美羽は咀嚼した麺麭を飲み込んで紅茶で流しこみ

 

「そうじゃな、感謝しておる。妾を思ってしてくれたのだから、有難う雪蓮」

 

「・・・う、うん」

 

突然、満面の柔らかい笑で感謝され、雪蓮は固まり頬を染めていた

そして、ずるいずるいずるいーっ!と何度も心の中で呟いていた

 

此れでは本当に私が子供みたい。冥琳だって私を見て笑っちゃって、何でだろうこの間、彼の前で泣いてからダメみたい

周りに甘えてるような気がする。でも、此れは此れで悪い気はしないのよね。どうしよう、どつぼにハマってるもしかして?

 

「さて、では行くぞ。七乃が城門前に馬車を用意して待っておる」

 

「ふぅ、解ったわ。行きましょうか」

 

「では私も行くとしよう」

 

立ち上がり、手を差し出す美羽の手を取り頷けば、隣に座っていた冥琳も腰を持ち上げた

まだ躯が本調子では無いのでは無いか?無理はするなと心配するが、冥琳は問題無いと余裕の表情

どうやら、医師から正式に許可を貰って来たようで、診断書を美羽に見せて安心させていた

 

「魏の医療は素晴らしい、もう食事も取れるし後は投薬治療だけだ。この薬も、美羽が見つけたのだろう?」

 

「妾の知識が師姉様のお役に立てたようで良かった。大地に感謝いたします」

 

開け放たれた戸から差し込む太陽に祈りを捧げる美羽。祭から教えられた、大地より教えを請うたと言うのは本当なのだなと

感心していると、雪蓮が珍しそうに医師の発行した診断書と言うものに眼を通していた

そこに書かれているのは、冥琳の詳しい病状、対処の方法、万が一の場合の処置や付近の医師への紹介まで

書かれており、これひとつで十分な知識だと驚いていた

 

「驚いただろう?これは願えば竹簡代だけで書いてもらえるようだ、それに書かれていることは医療の知識そのもの

魏は知識の流出に寛大すぎるほど、といっても医療だけなのだろうがな」

 

「そ、そうよね。でも、これが意味するのって」

 

「そうだ、正しい道徳観が民に行き渡っているということだ。蜀が理想とし目指すモノだな」

 

不用意に診断書を他国に渡したり、他人に譲渡しない正しい道徳観を育てつつある魏に雪蓮は数日前の美羽の姿を思い出す

あれが全ての人に行き渡れば、法は法の意味を無くす。魏は法を遵守し、古き知識と新たな知識を混ぜあわせ人に合わせたモノを

創りだそうとしているが、蜀はその逆とも言える。正しい道徳観を植え付け、民による国作りを行おうとしている

 

「わかるか、何方も正しく何方も間違っていない。夏侯昭殿の王である姿は、恐らく劉備」

 

「法がいくら厳しくとも、道徳観がダメなら法の抜け道を通る者が多く出る。だけど、正しい道徳観が備わっていれば

大雑把に言えば法など一つで十分。【悪いことはするな】だけで事足りる」

 

「ああ、雪蓮は反対していたな、民に無用な知識を与えることを」

 

「そうよ、人の心には幾らでも邪な心が芽生え入り込む。いずれ国を脅かす種となるわ」

 

「だが、これから生まれる子供達にしっかりとした教育をするならばどうだ?人は環境で全て変わる、悪しき者にも、正しき者にもだ」

 

口元を緩め、楽しそうな冥琳に雪蓮は自分の経験、そして自分の考えを心のなかで整理し呟くようにして冥琳の瞳を見詰める

 

「可能ね。人を形作っているのは肉体じゃない、魂よ。幾ら人の形をしていても心が獣であれば、それは人ではない」

 

雪蓮の答えに冥琳は満足そうに頷いた、ならば自分達の目指す国の作り方は決まったな

魏のように人に合った法を作り、蜀のように心を育て教育していく。ならば、我が国は永久に続く王国となると

 

「ほれ、何をしておる、はよう呉へ向かうぞ」

 

「わかったわ、行きましょう冥琳。新たな呉を作り上げる為に」

 

「ああ、私も覚悟を決めねばならぬようだ」

 

意味深な言葉を吐く冥琳は、表情を固く眉をひそめて自身を抱きしめるように腕を組む

これから行く呉の柴桑に、まるで死地に向かう兵士のように顔を強張らせて

 

 


 
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