カラハ・シャールの港町から奥に入った台地に、六家が一つシャール家の屋敷はある。
先代の頃から長く王家に仕えてきた彼女は、今や名実共に国の重鎮であった。その名声は国家の枠組みを越えて、広く知れ渡っているといっても過言ではない。
常に明るい笑みを絶やさぬ若き女領主は、拝領したこの屋敷で華美とは無縁の生活を送っていた。外国から来た使者たちが気付かず通り過ぎてしまうくらい、地味な館だった。
彼女は、壁を這う蔦や所狭しと植えられた樹木を取り除き、屋根や柱に権威を示す装飾を施すようなことはなかった。
そのままでいい。ありのままがいい。虚勢を張るような真似を、自分の家までしたくはない。
ここは王室ではない。だから飾り立てる必要はない。身の回りの世話をする家来と、最低限必要な家具があればそれで充分事は足りる。
屋敷は彼女にとって、彼女が貴族や官僚たちの目から解放され、ごく当たり前の家庭的な安らぎを得られる唯一の場所だった。
領主ドロッセルは、居間で長椅子に身を預けていた。梢のの鳴る音を子守唄に、永遠に続くような午睡を貪っていた。
こんな穏やかな午後は久方振りだった。今日だって多忙を極めているはずなのに、執事も侍女も話しかけてこない。誰もがひっそりと、まるで物置のように気配を鎮めている。
何もかもが遠かった。昨日までの戦場のような日々でさえ――いや、戦場でもあそこまで心を削ぎ落とす苛烈さは必要あるまい。結婚というものが、こんなにも疲労困憊しなければならないものならば、初めから独身を貫いたほうが何倍もましというものだ。
そんな感想を持ったのは、多分自分だけではあるまい、とドロッセルは鈍い頭で思う。彼女をはじめ、シャール家の人間は一丸となって、まさに心を鬼にして今日のために準備にあたってきた。彼らは決して、異国へ放り出される少女の身を案じては、いけなかったのだ。
永遠に続いてしかるべきまどろみの中、階段を下る足音が心地よく滑り込む。
「今日は何だか、お屋敷がとても静かですね」
まるで屋敷を囲むかのごとく植えられた広葉樹のお陰で、ここは街中の喧騒とはかけ離れているといっていい。
「皆、寂しがっているのよ。あなたとの別れを、エリー」
「ドロッセル様・・・」
金髪の少女は困ったように曖昧な笑いを浮かべた。
こんなやりとりは、もう何回目になるだろう。最初は友達然としていた会話も、今ではだいぶ隔たりのあるものになってしまった。
それまでのやりとりも、姉妹はもちろん、普通の友人としての代物からは程遠かった。それでも確かに、そこにはある種の気さくさがあったのだ。
ドロッセルは身支度を終えたエリーゼを眩しそうに見た。
友人だと思っていた。領主としての自分を、ただ一人の女としてみてくれる友だと、そう思って接してきた。今でもそう接したいという思いは強くある。
けれど。
「エリーゼ・ルタス。私は、このような喜ばしい日を無事に迎えられたこと、一臣下として、養い親として、とても嬉しく、また誇らしく思います」
領主の寿ぎに、金髪の少女は深々と腰を折る。
「ありがとうございます、ドロッセル様。今まで本当にお世話になりました」
きちんと結い上げられた金髪が、目の前で柳のように垂れる。完璧な礼を取る少女を、ドロッセルは血を吐くような思いで見つめていた。
ふいに外が騒がしくなる。複数の足音が乱れ入り、確認を求める人の声が飛び交う。
これ幸いとばかりに、領主は玄関に顔を向けた。
「ああ、そろそろ迎えが来る頃だったわね。・・・エリー?」
いつもならここで、品の良い相槌が来るのだが、今日に限ってそれがなかった。不思議に思って傍らの少女の方に視線を戻すと、エリーゼの顔には明らかな緊張があった。
旅慣れた、言い換えれば戦い慣れた少女が警戒を顕わに、玄関口を睨んでいる。
何かがおかしい。ドロッセルの勘がそう告げている。彼女は咄嗟に、玄関扉を恭しく開け放とうとしている執事を制止する。
「待って、待ちなさい!」
執事は、え、という疑問を顔に貼り付けたまま、扉の向こうに消えた。蹴破られる勢いで開け放たれた扉に弾き飛ばされたのである。
問答無用で雪崩れ込んで来たのは、エレンピオスからの使者には到底見えなかった。たかが少女一人を迎えに来るのに抜刀する必要はないだろうからだ。
連中の視線が、エリーゼの方へ向く。反射的にドロッセルはエリーゼを背に庇った。
「エリーこっちへ! 早く!」
少女の手を引き奥へ駆け出す領主の視野の隅に、闖入者に群がる家臣たちの姿が入った。彼らは、彼女が何も指示しなくとも、自発的に足止めを買って出てくれていた。
ドロッセルの胸が痛む。彼らは非戦闘員だ。抵抗の術すら知らない、一般市民である。間違いなく嬲られるだろうに、それすら恐れず立ち向かってくれた忠誠心に、心から彼女は詫びた。
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うそつきはどろぼうのはじまり 18