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綺麗な翅だと思った。僕は足を止めた。
「……」
揚羽蝶が道の隅で死んでいる。それはただ何と言う感慨も持たない、日常の一かけらのような風景だった。だが、僕は足を止めて、自転車から降りてじっと見詰めていた。
綺麗な翅を持つ蝶だと思った。足を止めた理由はただそれだけだ。ぽつぽつ。降り始めた雨が、冷たい。そう言えば雨が降ると天気予報で言っていた気がする。
すぐ側に止まった自転車が、早く帰ろうと僕を呼んでいるようだった。僕は雨に当たりながら蝶を見る。綺麗な翅を持つ蝶々。まるで死体には思えないほど、その体は瑞々しくきっと触ったら心地
良い感触と弾力があるのだろうと思わせた。
でも僕はそれをしない。
まるで距離が決まっているように、僕はただ立ったままそれを見詰めている。
死にゆく時間を通り過ぎて、ただ骸を晒すそれを、雨の中、無為に、無意味に。
不意に、気付く。蝶々の翅。一枚、足りない事に。だが、それ以外はまるで完璧に生きている蝶々の姿をしていた。
だから僕は満足する。これだけ蝶々の姿を模していたら、もうそれは蝶々なのだ。
死体である事に特に意味は無い。僕にとって。僕は考える。この蝶々をどうするか。
僕はこの蝶々をポケットに入れて持って帰ることもできる。死者は口を開かない。
つまり、全ての権利を持つのは生者だ。
僕は考える。思考まで雨に濡れたみたいだった。
やけにべとつく。僕らしくない。自転車はまだ帰らないのかと催促してくる。僕は決めた。
僕の瞳は蝶々を見る。路上で、完璧な姿で死ぬその姿を。それはとても美しく思えた。一枚翅が欠けている事を何とも思わない程に。
だから、僕は蝶々をそのままにして自転車に乗った。
それからはもう足を止めずに、家に帰って寝た。
夢に、翅の一枚欠けた蝶々は出てこなかった。
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実際にあった帰り道に見た蝶の話です。話という程長くも無いです。その蝶の姿が心に強く残ったので文を打ちました。